Masuk食事が終わると、飛鳥は星歌を連れてすぐに帰ろうとした。しかしその時、車椅子を操作しながら夏蓮が病室から出てきた。「星歌さん、少し待ってちょうだい」星歌は足を止め、氷のように冷ややかな目で夏蓮を振り返った。その視線に夏蓮は内心でたじろいだが、今はどうしようもなかった。母親の陽子がわざわざ宗大を向かわせるということは、おそらく海外のビジネスで深刻なトラブルが起きているのだろう。でなければ、あのプライドの塊のような母が、星歌などに頭を下げるはずがない。もしここで星歌を取り逃がせば、後から来た宗大が彼女を見つけられなくなるかもしれない。だから、なんとしても星歌をここに引き留めておかなければならないのだ。星歌は面倒そうに夏蓮を見下ろした。「何?」「少し、あなたと話ができないかしら?」夏蓮は必死に時間稼ぎを試みた。星歌は伏せていた睫毛をわずかに持ち上げ、背筋が凍るほど冷酷な眼差しで夏蓮を射抜いた。「お前たちが話すことなど何もない」飛鳥も不快そうに顔をしかめると、冷たく言い放った。そして、星歌の腕を引いてそのまま歩き出そうとする。この半年間、夏蓮は重度の鬱病患者を見事に演じ切ってきた。亡き兄の妻として、冴島家にいる間も常に『良き義姉』の仮面を被っていた。だが、飛鳥にとって他人が善人であろうと悪人であろうと、正直どうでもいいことだった。ただでさえ、星歌と夏蓮の関係は最悪だ。そんな状況で「話がしたい」などと持ちかけて、いったい何を吹き込むつもりか分かったものではない。今の星歌は、ただでさえ手が付けられないほどのご機嫌斜めなのだ。これ以上、この女たちに自分と星歌の関係を引っ掻き回されるわけにはいかなかった。飛鳥が星歌の腕を引いて背を向けたその瞬間。背後から、夏蓮の悲痛な声が響いた。「母は、私を不憫に思うあまり行き過ぎただけなんです。もし母があなたに何か失礼なことをしたのなら、どうか、今回だけは大目に見ていただけませんか……?」星歌と飛鳥の足がピタリと止まる。飛鳥の顔色はさらに暗く沈んだ。昨日、墨霞邸で何が起きたか、彼は嫌というほど思い知らされている。あれが単なる「行き過ぎた失礼」で済む問題だろうか。彼の全身から、凍てつくような殺気が漏れ出した。だが、飛鳥が口を開くより
そして今、家をめちゃくちゃにぶち壊されてなお、彼は決してこの女を手放そうとしないのだ。「飛鳥、あなたという子は……っ」都子が息子を叱責しようとしたその時だった。「やはり大したことはなさそうだな。帰るぞ」飛鳥が母親の言葉を冷酷に遮った。ちょうどその時、アシスタントの一真が病室に現れた。彼の手には、手配させていたランチボックスが提げられている。そのまま星歌を強引に連れ帰るつもりだった飛鳥だが、食事が届いたのを見て足を止めた。「わざわざ届けさせたんだ。少しお腹に入れてから帰ろうか」飛鳥は星歌に視線を落とすと、家族に向けていた氷のような冷たさが嘘のように、ひどく甘く温和な声でそう囁いた。星歌は本当に空腹だった。病院特有の消毒液の匂いは鼻についたが、今はそれ以上に胃が空っぽで限界だった。時計の針はもうすぐ午後一時を指そうとしている。彼女が黙り込んでいるのを見て、飛鳥は「とりあえず少し食べろ」と促し、そのまま病室の外にあるベンチへと星歌の手を引いて座らせた。一真が、すかさず温かいランチボックスを差し出す。一真は本当に気が利く男だ。食事はちゃんと「余分に」一人前用意されていた。だが、あくまで余分は「一人前」だけである。病室に置いていかれたその食事が誰の分かなど、考えるまでもない。倒れた都子の分だ。つまり、亜季と夏蓮の分は鼻から用意されていなかった。「まずはこのスープから飲め」「こっちのおかずは唐辛子が入っていないから大丈夫だ。ご飯の炊き加減も悪くないだろう」病室の扉の向こうからは、飛鳥の声が絶え間なく漏れ聞こえてくる。その声色には、先ほどまでの冷酷さが嘘のような、星歌に対する甘やかしと溺愛がこれでもかと滲み出ていた。それを聞かされる都子は、怒りで頭が割れそうだった。見かねた夏蓮が、無理に聞き分けの良い嫁の笑みを浮かべて口を開く。「お義母さん、少し召し上がりますか?」「あなたが食べなさい。私は食欲がないわ」強がりではなく、都子は本当に喉が通りそうになかった。外で息子が憎き嫁の機嫌をとっている様子を見せつけられ、怒りだけで腹がいっぱいだったのだ。もちろん、夏蓮にも食欲などあるはずがない。この数日、星歌があれほど冴島家をめちゃくちゃにしたというのに、飛鳥はまだあんなにも優しく
飛鳥が病院に到着したと聞きつけ、院長までもが慌てて駆けつけてきた。それから間もなくして、都子が処置室からストレッチャーで運ばれてきた。幸い大事には至らず、激しい怒りで頭に血が上り、一時的に気を失っただけだという。処置室から出てきた時点で、都子はすでに意識を取り戻していた。しかし、その目に星歌の姿が映った瞬間、彼女の感情は再び爆発した。「なぜその女がここにいるの!?誰が連れてきたのよ!」都子はヒステリックに叫んだ。「出て行け!私の目の前から今すぐ消え失せなさい!顔も見たくないわ!」今、都子がこの世で最も顔を見たくない人間、それが星歌だった。亜季がそれに便乗し、星歌を激しく睨みつけた。「聞こえたでしょ!?お母様が出て行けって言ってるわ!」「……まるでお見舞いに来てあげたとでも勘違いしてるみたいね。馬鹿馬鹿しい」星歌は鼻で笑い、侮蔑に満ちた言葉を投げ捨てると、そのまま踵を返して歩き出そうとした。だがその瞬間、飛鳥が彼女の手首を強く掴んで引き留めた。星歌は氷のように冷たい視線を飛鳥に向けた。「聞こえなかった?あなたのお母様が、私の顔など見たくないから出て行けって言ってるの。邪魔者はさっさと消えろってこと。意味、分かるわよね?」先ほども宣言した通り、星歌に彼らの機嫌をとって我慢してやる義理など微塵もない。そのふてぶてしい態度に、亜季は再び怒りを爆発させそうになった。「あんたね……!」しかし、最後まで言い切る前に飛鳥の冷酷な眼光に射すくめられ、慌てて口をつぐんだ。亜季は心の中でギリギリと歯ぎしりをした。過去に私たちが何をしようと、今はお母さんが病床にいるのよ!?少しは我慢するのが筋じゃない!目上の人間に対して、なんて態度なの……!見かねた夏蓮が、またしても口を挟んできた。「星歌さん……お義母さんは処置室から出てきたばかりなのよ。少しは口を慎んだらどうかしら?」「一番口数が多いのはあなたでしょうが」星歌は冷酷に言い放った。「この数年間、冴島家で散々あることないこと吹き込んで、好き勝手言ってきたくせに。今ここで一番口を閉じるべきなのは、他でもないあなたよ」「……っ」夏蓮は言葉に詰まり、涙ぐんだ目で縋るように飛鳥を見つめた。しかし、飛鳥は彼女を一瞥だにしなかった
しかし今は違う。飛鳥が無理やりこの茶番に巻き込もうとするなら、自分も容赦はしないという明確な意思表示だった。都子が今、絶対に強いストレスを受けてはならない状態であろうと知ったことではない。星歌には、彼らに一ミリたりとも譲歩してやる気などなかった。その言葉を聞いて、亜季は完全に頭に血が上った。「兄様、聞いたでしょ!?私がわざと難癖をつけてるわけじゃないわよ!この女をここに置いておいたら、本当にお母さんが殺されちゃう!」飛鳥は無言で星歌に視線を落とした。星歌は亜季に一瞥もくれず、優雅に爪の先を弄っている。そのあまりにも自由で冷酷な振る舞いは、先ほどの言葉が『決して冗談ではない』という事実を、無言のうちに物語っていた。女たちの言い争いに、飛鳥は頭が割れるような苛立ちを覚えた。その時、ずっと黙っていた夏蓮がここぞとばかりに口を開いた。「星歌さん……お義母さんは今、本当に危険な状態なのよ。私たち目下の者が、ここは少し引くべきじゃないかしら」腹の底では星歌を呪い殺したいほど憎んでいるくせに、表面上は聞き分けのいい『良き義姉』を完璧に演じている。飛鳥の目の前で星歌の冷たさを際立たせ、自分がいかに冴島家の女主人にふさわしい器であるかをアピールするための浅ましい計算だ。その白々しい演技に、星歌は鼻で笑った。「都子さんはあなたのことなら何でも甘やかしてくれるんだから、そりゃあ『引く』のも簡単でしょうね」「なっ……」「私に我慢しろって?だったらあなたこそ、川に飛び込んだりビルから飛び降りようとしたりして、『星歌に責めさせないで』なんて全員を脅迫するのをやめたらどうなの?」この数日、夏蓮は実に派手に立ち回った。川への投身騒ぎに、飛び降り未遂、あげくには鬱病のふりまでして見せたのだ。彼女が『発作』を起こすたびに、周りは「夏蓮を刺激するな」と星歌を責め立てた。痛いところを突かれ、夏蓮の顔が引きつる。「何よ?あなたが私のデザインを盗んで搾取したから、私が公の場で正当な裁きを求めた。それが間違ってる?あなたこそ、その時に『我慢』すればよかったじゃない。それとも何、私が一生あなたに踏みつけられて、泣き寝入りするべきだったとでも?」「わ、私は、そんな……」「そんなことない?じゃあ、飛鳥が私に贈ったはずの品々
車内。再び夏蓮から着信が入る。ディスプレイに表示されたその名前が、星歌の目にはひどく不快に映った。都子の容態に関わることだからか、飛鳥はためらうことなく電話に出た。「翼さん……いつ着くの?私、どうしたらいいか分からなくて、怖くて……ッ」スピーカー越しに響く夏蓮の声は、絶望に打ちひしがれたように泣きじゃくっていた。事情を知らない者が聞けば、実の母親が救命救急室に運ばれたのだと勘違いするほどの取り乱しようだ。あれだけ泣き叫んで見せるなら、都子が長年彼女を甘やかしてきた甲斐があったというものね。星歌は冷ややかな目を窓の外に向け、心の中で皮肉った。「あと三十分で着く!」飛鳥の声は低く、そして硬かった。彼はアクセルをさらに踏み込み、車を限界近い速度で走らせていた。猛スピードで流れる景色と急な加減速のせいで、星歌は次第に気分が悪くなってきた。そういえば、まだ昼食をとっていない。最近は身体が弱っているのか、少しでも食いっぱぐれるとすぐに体調に響いてしまうのだ。「お願い、早く……早く来て……」泣き崩れる夏蓮と短い言葉を交わし、飛鳥は通話を切った。彼は薄い唇をきつく結び、その深淵のような瞳には氷のような冷気が宿っていた。今の彼が何を考えているのか、その横顔からは一切読み取れない。その後、車内には重く息苦しい沈黙が降りた。互いに一言も口を開かないまま、車は病院の駐車場へと滑り込んだ。エンジンを切るなり、飛鳥は運転席から降り、助手席のドアを開けた。そして、有無を言わさずに星歌の手首をきつく掴み、エレベーターホールへと強引に歩き出した。「離して」星歌は苛立ちとともにその手を振り払おうとした。「星歌、こうさせたのは君だ」飛鳥の低い声には、切羽詰まったような執着が張り付いていた。本当なら、こんな風に彼女を荒っぽく振り回したくはなかった。だが、彼女があまりにも自分の元から離れようとするからだ。今日だって、「離婚に同意する」という嘘をつかなければ、彼女をおびき出すことすらできなかったではないか。今ここで少しでも彼女の拘束を緩めれば、一瞬でどこかへ消えてしまうのではないか。二度と探し出せなくなるのではないか。それに、あの啓介が常に彼女を狙い、隙を窺っているという焦燥感……今の飛鳥は、狂
星歌も決して小柄な方ではないが、彼の広い胸にすっぽりと収まると、ひどく小さく見えた。「星歌……やり直そう、頼むから。これまでのことは全部俺が悪かったから……な?」静寂に包まれた山荘の庭で、飛鳥は極上の甘い声で優しく囁いた。以前はいつもそうだった。星歌がどれほど激しく怒っていても、彼がこうして優しく抱きしめて機嫌を取れば、彼女は必ず最後には態度を軟化させてくれたのだ。しかし、今回ばかりは違った。「やり直す?……一ミリも無理ね」星歌は冷え切った声で、冷酷に彼を突き放した。「……っ」一ミリも無理、だと……?そこまで頑なになるほど、彼女はこれまでの扱いに絶望していたというのか。「……無理でも、やり直すんだ。夏蓮さんの件なら、もう俺がすべて片を付けた。これでいいだろう?」それはつまり、「もう二度と夏蓮さんのために君を置いて出て行ったりはしない」という彼なりの不器用な誓いだった。しかし――その言葉を言い終えた直後、まるで計ったかのようなタイミングで、飛鳥のスマートフォンが震え出した。飛鳥がポケットからスマホを取り出して画面を見ると、そこには『夏蓮』の文字が映し出されていた。彼の顔色が一瞬で強張り、無言のまま通話切断のボタンを強く押した。星歌は冷ややかな目を向けた。「……本当に出なくていいの?彼女、まだ自分で開いた傷口が塞がってないんでしょう?これ以上放置して、また大騒ぎさせてもいいの?」「……」「このまま何度も傷口を開き続けたら、今度こそ本当に命を落としかねないわよ?」星歌は心底呆れ果てていた。夏蓮の「かまってちゃん」ぶりは、ある意味で本当に執念深い。だが、あの女も誤算だっただろう。彼女が必死に飛鳥の心を奪おうと狂言を繰り返している裏で、星歌の方は、彼女の社会的な名声を跡形もなく叩き潰すべく、着々と手を打っていたのだから。結果として、夏蓮は星歌から夫を奪うことに失敗した。対して星歌の「夏蓮潰し」は、完璧以上の成果を上げている。今や夏蓮本人だけでなく、彼女が長年己の威光の盾としてきた母親・陽子の名声すらも、完全に地に墜ち、再起不能なまでにズタズタに引き裂かれていたのだった。夏蓮からの着信を切った直後、今度は亜季の番号がスマートフォンの画面を光らせた。飛鳥は画面の表示を見つめ、露骨な苛立
忘れ物を取りに戻った江里子は、病室に足を踏み入れた瞬間、目の前の異様な光景に息を呑んだ。咄嗟に星歌の元へ駆け寄ろうとしたが、飛鳥が放った冷徹な視線に射すくめられ、足が止まる。「星歌……!」江里子の声も届かないほど、病室は一触即発の熱気に包まれていた。飛鳥の髪は乱れ、眉間には怒りのあまり青筋が浮き出ている。「星歌!」彼が掴んでいる星歌の手首には、骨が砕けそうなほど強い力が込められていた。「離しなさいよ!」江里子の叫びを無視し、星歌は飛鳥の凍てついた瞳を真っ向から見据えた。「どうしたの?夏蓮さんのために私を殴りたいわけ?」その挑発的な一言に、飛鳥の手の力がさらに
ところが、その一歩を踏み出した直後、足元に重い衝撃が走った。視線を落とすと、そこには先ほどまで泣きじゃくっていた夏蓮が、車椅子から崩れ落ちるように床に倒れ伏していた。彼女は意識を失っている。「夏蓮様!……ああ、血が、血がこんなに……!」周囲の者たちが悲鳴を上げた。星歌へと向かおうとした飛鳥の足が、まるで見えない鉛を流し込まれたかのように、その場に縫い付けられる。駆けつけた医師たちによってストレッチャーに乗せられたとき、星歌の意識は、僅かに、澱のように浮き上がった。霞む視界の端に映ったのは、必死な形相で夏蓮を抱き上げる飛鳥の姿だった。――ああ、やっぱり。その光景を
心血を注ぎ、数ヶ月の夜を捧げた『龍稲峡』のデザイン。それが無惨に奪われていたことを思い出し、星歌の眼差しには、より深い嘲弄が混じり始めた。沈黙が二人の間を支配する。およそ三十秒ほど経っただろうか。飛鳥が、絞り出すような声で再び口を開いた。「……どういう意味だ?」「彼女を、何の罪で訴えるつもりだ」『裁判所』という言葉を聞いた瞬間、飛鳥の心臓が大きく跳ねた。星歌を見つめる彼の瞳からも、一切の温度が消え失せていた。「分からない?」星歌は蔑むように彼を見上げた。「飛鳥。龍稲峡のプロジェクトで私のデザインが落選したって知らせ……それを真っ先に私に伝えてくれたのは、あんただったわよ
飛鳥の怒りは、もはや沸点に達していた。荒々しくスマートフォンを掴み取り、直通の番号を叩く。コール音が数回鳴ったところで、相手が恐縮したように出た。「はい、お電話ありがとうございます」「江里子と星歌がどこにいるか、今すぐ調べろ」秘書の葛城一真(かつらぎ かずま)が、一瞬虚を突かれたように沈黙した。「……承知いたしました」「早くしろ!」飛鳥の怒声が響く。この大雨の中、あいつは一体何を考えている。自分たちの思い出が詰まった品々をすべて焼き払うなど、これまでのわがままとは次元が違う。どれほど激しい口論になっても、今日のような真似をしたことは一度もなかった。苛立ちの奥底で







