LOGIN五年間の恋愛で、水戸奈穂(みと なほ)は伊集院北斗(いじゅういん ほくと)に心のすべてを捧げてきた。 だが新婚の夜、北斗がすでに初恋の女性と婚姻届を出していたことを知り、自らの手に握らされた婚姻届のは、念入りに仕組まれた偽物に過ぎずと悟った。 奈穂の心が崩れ落ちた。 仕組まれた交通事故、ダンサーズキャリアの崩壊、代理出産……彼女は振り返らず実家に戻り、政略結婚を受け入れた。 再会した時、北斗は目の前で、冷徹で禁欲的な京市の御曹司が、奈穂をまるで壊れ物のように大切に抱きしめ、細やかな思いやりを注ぐ姿を見た。 北斗の目は瞬く間に赤く染まり、その場で狂ったように跪き、必死に懇願した。 「奈穂、俺が悪かった。お願いだから俺のそばへ戻ってきてくれ」 だが御曹司は険しい面持ちで彼女の前に立ちはだかり、冷然と吐き捨てた。 「消え失せろ。俺の妻の目を汚すな」
View More「社内専用ネットワークでそのまま送れ。暗号化は不要だ」正修の声がオフィスに響く。その語尾は氷のように冷たかった。彼は指先にわずかに力を込め、刷り上がったばかりの株式譲渡契約書の草案を奈穂の前に押し出す。紙の端が重厚なマホガニーのデスクを擦り、鋭い摩擦音を残してデスクの縁で止まった。奈穂は手を伸ばし、書類を押さえた。書類を挟んだクリアファイルはひんやりと冷たい。彼女の視線は太字で記された一行――【未公開株式5%譲渡(案)】――に釘付けになる。これは単なる数枚の書類ではない。九条グループの命綱、その半分にも等しいものだった。彼女はデスクに手をついて立ち上がる。しかしその瞬間、胃の奥から馴染みのある痛みが再び込み上げる。長期間にわたる極度の緊張のせいで、体はすっかり過敏になっていた。奈穂は唇をきつく結び、右手で肋骨の下を強く押さえ込む。指の関節は力が入りすぎて白くなっていた。「このタイミングで未公開株を売れば、取締役会の古狸どもは、あなたが完全に動揺していると思うでしょう」彼女は乾いた声でそう言う。「少しくらい狂って見せなければ、水底に潜んでいる奴らは手を伸ばしてこない」正修はネクタイを乱暴に緩め、襟元の一番上のボタンを手際よく外した。そのまま執務デスクを回り込み、奈穂の隣に立つ。乾いて温かな掌が、彼女の肩に静かに置かれた。薄いブラウス越しにもその温もりは伝わってくる。だが、その熱では、奈穂の鼻先に滲む冷や汗を消すことはできなかった。彼女は脇に置かれていた、すっかり冷めたブラックコーヒーを口に運ぶ。「第三工区の補償説明会は明日でしょ?このタイミングで株を動かせば、九条グループの資金繰りが破綻したって世間に知らせるようなものだわ」「それこそが狙いだ」正修は身を屈め、彼女と視線の高さを合わせる。目の下には濃い疲労の色が滲み、眼球には赤い血管が浮かんでいた。それでも、その瞳だけは異様なまでに冷静だった。「餌はもう撒いた。あとは――あの蛇が寒さに耐えきれず、西ヨーロッパの古城から這い出してくるのを待つだけだ」正修は指先に力を込め、奈穂の白いうなじを軽くつまむ。薄く硬くなった指先が肌をなぞり、その感触に彼女の背筋が一瞬だけ固まった。奈穂は顔をそらし、パソコンの画面に視線を移す。そこには「ブル
「なら、奴をおびき寄せればいい」正修は立ち上がると執務デスクに歩み寄り、株価変動に関する報告書の束を一息に床に払い落とした。真っ白な紙が宙を舞う。まるで物悲しい雪が降るようだった。奈穂は床一面に散らばった書類を見つめる。すると、さっきまで続いていた胃の痙攣が、不思議なほどぴたりと止まった。彼女はゆっくり立ち上がり、乱れた前髪を指先で整えると、正修の隣に歩み寄る。「北斗は、あの人の駒よ。まずは、その駒を潰すことね」彼女の声には、微かな温度すらなかった。「あの人は北斗が暴れ回る様子を楽しんでいるんでしょう?だったら、その狂犬が今度は飼い主に噛みついたらどうなるかしら」正修は静かに顔を向けた。照明に照らされた奈穂の瞳は、冷たく鋭い光を宿している。彼は手を伸ばし、そっと彼女のうなじを摘まむように撫でた。汗はもう乾いていて、残っているのは軟玉のようにひんやりとした肌の感触だけだった。「あの狂犬は……今も獲物に飛びかかる機会を待っている」正修は囁く。その声は、耳元で危険な呪文を唱えるように低く響いた。「だったら俺たちが用意してやればいい――絶対に断れない餌をな」奈穂は窓の外に視線を向けた。灰色の空の下、街ではネオンが一つ、また一つと灯り始める。その華やかな光の裏側で、闇は静かに街の隅々に染み広がり、蠢き、牙を研いでいた。「第三工区の補償説明会は、明日の夜に設定する」正修は振り返り、二郎に命じる。「関係者に通達しろ。明日は俺が自ら出席する。できるだけ大きな場にしろ。マスコミも、呼べるだけ呼べ」「危険すぎます!」二郎が思わず声を上げる。「もし伊集院北斗が現れたら――」「それでいい」正修は冷笑した。「俺は、あいつを動かしたいんだ」奈穂は正修の手をそっと握る。節くれだったその手は、今にも鞘から抜き放たれる剣のように固く張り詰めていた。彼女はふと、自分の左手に視線を落とす。薬指にはプロポーズ指輪。暗いオフィスの中で、ダイヤモンドだけが眩しく鋭い光を放っていた。伊集院北斗。九条正景。その名は、腐臭を放つ底なし沼のようだった。だが、自分はもう決して退かない。たとえこの先に奈落の底が待っていようとも、闇に潜む穢れた者たちを、一人残らず自分の手で引きずり出し、そのまま地獄に叩き落として
奈穂は、胃の中の酸が今にも込み上げてきそうな感覚に襲われた。彼女はバーカウンターに歩み寄ると、震える指で炭酸水のボトルをひねり開け、一気に何口も流し込む。冷たい雫が顎を伝ってカーペットに落ち、小さな黒い染みを広げた。――九条正景。九条家からその名を抹消され、十数年前に姿を消した「長男」。「もし、本当に彼だとしたら……」奈穂はカウンターに手をついた。力を込めすぎた指の関節が白く染まる。「北斗が復讐のために帰国した、それだけの話じゃ済まないわ。九条グループ第三工区の事故も、遺族による抗議も、それにここ数日で一斉に寝返ったメディアも……どれも手際がよすぎる。正確で、冷静で……あまりにも隙がない」正修は歩み寄ると、彼女の手からひしゃげたペットボトルをそっと取り上げ、そのまま肩を支えながらソファへ座らせた。彼は片膝をついて彼女の前にしゃがみ込む。温かな掌がスカート越しに痙攣する胃のあたりに触れ、円を描くようにゆっくりと揉みほぐしていく。奈穂はソファにもたれ、目を閉じた。しかし脳裏に浮かぶのは、蛇のように陰湿な北斗の眼差しだけだった。「伊集院北斗は、俺たちの目を逸らすために前に押し出された狂犬にすぎない」正修の手が一瞬止まる。その声は、ぞっとするほど冷え切っていた。「本当に盤面を動かしている人間は、闇の中に座ったまま、この狂犬に俺たちを振り回させている」――チン。その時、不意にエレベーターの到着音が響いた。扉が開く。二郎が暗号化されたノートパソコンを抱え、息を切らせながら飛び込んできた。ノックをする余裕さえなかった。その顔色は死人のように青白い。「社長……分かりました」二郎はノートパソコンをデスクに置くと、タッチパッドの上を指が目にも留まらぬ速さで走った。「伊集院北斗は帰国後、西郊外の建設途中で放棄されたビル群に潜伏していました。あそこは旧市街の再開発区域で、防犯カメラの死角になっています。ただ、周辺の通信基地局で奇妙な暗号化通信を検出しました。海外宛てです」「解析は?」奈穂は勢いよく体を起こした。胃を締めつけていた痛みさえ、この報告で吹き飛ぶ。「相手の技術レベルが非常に高く……回収できたのは三秒にも満たない音声だけです」二郎は再生ボタンを押した。激しいノイズが流れる。そ
送信完了を告げる電子音が、静まり返った車内に小さく響いた。奈穂は勢いよくハンドルを切る。タイヤが地下駐車場のコンクリートを激しく擦り、耳をつんざくような金属音を響かせた。バックミラーの中では、柱の陰に潜んでいた黒い影が素早く身を引く。まるで陽の光を嫌う巨大な甲虫のようだった。彼女は振り返らない。視線は出口から差し込む一筋の光だけを捉えたまま、アクセルを限界まで踏み込む。車が地下駐車場を飛び出し、真昼の強烈な陽射しに包まれた瞬間――奈穂はようやく、自分のうなじが冷たい汗でびっしょり濡れていることに気づいた。冷や汗が背骨を伝い、ニットワンピースの内側に滑り落ちる。その冷たさに、肌が細かく粟立った。助手席のスマートフォンが激しく震え始める。奈穂は反射的にそれを掴み、こわばった指先で通話ボタンをスライドした。「今どこだ?」正修の声は鉄塊のように重かった。電話の向こうでは、二郎が慌ただしくキーボードを叩く音がかすかに聞こえる。「地下駐車場を出たところよ」奈穂は舌先を噛んだ。口の中に鉄臭い血の味が広がり、込み上げる吐き気を無理やり押さえ込む。「写真は見た?」「ああ」正修は少しの間、黙り込んだ。その沈黙の向こうで、金属製ライターの「カチッ」という乾いた音が鳴った。続いて、蓋を何度も開閉する擦れる音。――彼は焦っている。奈穂はそう悟った。「家に戻るか、会社に来るか。二つに一つだ。移動中は絶対に電話を切るな。横村がもう君のドライブレコーダーにアクセスしている」「会社に行くわ」奈穂は道路標識に視線を向ける。アクセルを踏む右足に力がこもり、手の甲には青筋が浮かび始めていた。「第三工区の件はまだ炎上してる。家でただ待ってるなんてできないもの」……九条グループ本社、六十八階。奈穂が扉を開けると、室内の冷房は強く効いていた。冷気が細かな刃物のように毛穴から肌に入り込んでくる。正修は巨大なマホガニーの執務デスクの後ろに立ち、タブレットの画面を何度も拡大していた。映し出されているのは、あのぼやけたスクリーンショットだった。奈穂は彼の隣に歩み寄る。その途端、胃が再びきりきりと痛み始めた。デスクの上に置かれていた、すっかり冷めた苦いコーヒーを手に取り、一気に飲み干す。
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