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冬の雪を越え、光り輝く原点へ

冬の雪を越え、光り輝く原点へ

بواسطة:  ライカ مكتمل
لغة: Japanese
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港市の独り娘として育った私、羽生澪花(はにゅう みおか)が、佐々木遥人(ささき はると)のために帝都へ行くと決めたとき、両親は私を勘当した。 「あの身寄りのない男が、お前に何を与えてくれるというんだ!苦労を買って出るなら一生していろ!出て行くなら二度と戻ってくるな!」 五年。遥人が帝都でトップクラスのカウンセラーへと上り詰めていく姿を傍で見守り、彼は約束通り、私に温かな家庭を与えてくれた。 年末年始を控え、私は彼を連れて実家に戻り、両親の許しを請おうとしていた。しかし搭乗の直前、彼は一人のうつ病を患う女性患者のために、再び私を置き去りにした。 彼は私の手を離し、その瞳には張り裂けそうな苦渋が滲んでいた。 「澪花、彼女は当時の俺と同じなんだ……身寄りがなくて、俺が行かなければ本当にビルから飛び降りてしまう!ごめん、今回だけだ。すぐに次の便でお前を追いかけるから……」 遥人は振り返り、迷うことなく出口へと走っていった。 私はその場に立ち尽くし、手元にある港市に帰る二枚の航空券を見つめていた。 結局、彼は救いを求める患者たちの心をことごとく癒しながら、私だけは、何度もその救いの輪から零れ落ちる「置き去りの存在」にしてきたのだ。 私はゆっくりと、彼の分の航空券を引き裂いた。

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الفصل الأول

第1話

港市の独り娘として育った私、羽生澪花(はにゅう みおか)が、佐々木遥人(ささき はると)のために帝都へ行くと決めたとき、両親は私を勘当した。

「あの身寄りのない男が、お前に何を与えてくれるというんだ!苦労を買って出るなら一生していろ!出て行くなら二度と戻ってくるな!」

五年。遥人が帝都でトップクラスのカウンセラーへと上り詰めていく姿を傍で見守り、彼は約束通り、私に温かな家庭を与えてくれた。

年末年始を控え、私は彼を連れて実家に戻り、両親の許しを請おうとしていた。しかし搭乗の直前、彼は一人のうつ病を患う女性患者のために、再び私を置き去りにした。

彼は私の手を離し、その瞳には張り裂けそうな苦渋が滲んでいた。

「澪花、彼女は当時の俺と同じなんだ……身寄りがなくて、俺が行かなければ本当にビルから飛び降りてしまう!ごめん、今回だけだ。すぐに次の便でお前を追いかけるから……」

遥人は振り返り、迷うことなく出口へと走っていった。

私はその場に立ち尽くし、手元にある港市に帰る二枚の航空券を見つめていた。

結局、彼は救いを求める患者たちの心をことごとく癒しながら、私だけは、何度もその救いの輪から零れ落ちる「置き去りの存在」にしてきたのだ。

私はゆっくりと、彼の分の航空券を引き裂いた。

そして一人で保安検査場へと向かい、スマホの電源を切った。

遥人は知らない。一度見失った帰路には、二度と戻れないことがあるのだと。

……

私は一人、港市の実家へと戻った。

ドアを開けた母が、私の背後に誰もいないことを悟った瞬間、その瞳に痛ましいほどの悲しみが溢れた。

父はソファに座り、背筋こそ伸ばしているものの、その背中からは隠しきれない深い疲労の色が滲み出していた。

五年前の両親の言葉が、今さらながら脳裏をよぎった。

今の私は、無様な敗残兵のように戻ってきた。

スマホの電源を入れ直すと、遥人からのメッセージと着信履歴が、画面を埋め尽くしていた。

【澪花、ごめん!待っててくれ!】

【彼女の状態は落ち着いた。すぐにチケットを買う】

【電話に出てくれ。頼む、俺の話を聞いてくれ!】

私は一通も返さなかった。

心はまるで、冬の川に張った氷のように冷たく、硬く閉ざされていた。

三年前、帝都に初めて雪が降った夜のことを思い出す。彼は私の冷え切った足を慈しむように自分の懐へ入れ、温めてくれた。

「澪花、俺はこの一生、決してお前を裏切らない」

今、その誓いは雪と同じように、跡形もなく溶けて消えた。

翌日の夕方、彼がやってきた。

無精髭を伸ばし、目は落ち窪み、執拗なほどにマンションの階下で待ち続けていた。

「澪花……五分でいい、五分だけ時間をくれ……」

彼は掠れた声で言った。

両親は冷徹な態度を崩さず、彼を家に入れることはなかった。

遥人が掲げたスマホの青白い光が、血の気の引いた彼の顔を不気味に照らし出している。

「見てくれ!紹介状だ!浅井さんの担当は、正式に清水さんに引き継いだんだ!連絡先も全部ブロックした、二度と関わらない!」彼は画面をスクロールさせていたが、その指先はひどく震えていた。

「俺が最低だった!頭に血が上っていたんだ。お前を置いていくなんてどうかしていた!澪花、俺にはお前が必要なんだ……」

遥人は、地下室のアパートで暮らしたあの年のことを持ち出した。冬に暖房が壊れ、凍える私を彼がその体温で必死に温めてくれたこと。

一日も早くまともな暮らしをさせて、両親の前で胸を張れるようにと、それだけを支えに死に物狂いで働いてきたのだと言った。

「澪花、俺の努力はすべてお前のため、俺たちの将来のためなんだ……」

突然、胃の底から激しい吐き気がこみ上げ、私は洗面所へ駆け込んで嘔吐した。

鏡に映った顔は、恐ろしいほどに土気色をしていた。

生理が半月ほど遅れている。

この子は、崩れかかった私たちの関係を繋ぎ止める、最後の絆となってしまった。

私はドアを開け、充血した遥人の瞳を見つめた。

そこには、紛れもない後悔と恐怖があった。

心が揺らいでしまった。

この五年の歳月のため、そしてお腹の中の子のために。

私は、自分でも驚くほど疲れ切った声を出した。

「遥人、これが最後よ」

両親の失望の眼差しを背に受けながら、私は彼と共に帝都へ戻った。

飛行機の中で、彼は私の手を、失った宝物を取り戻したかのように強く握りしめていた。

しかし、窓の外に広がる雲海を眺める私の心は、空っぽのままだった。

今回の許しは、私に残された僅かな希望のすべてを賭けた、最後の大博打のようなものだった。

戻ってからの半月、遥人は私の顔色を常に窺うように、ひどく細心の注意を払って過ごしていた。

家事の一切を自ら引き受け、仕事が終われば脇目も振らずに帰宅しては、その日にあったことを何から何まで私に報告するようになった。

育児書まで買い揃えた彼は、夜になるとヘッドボードに背を預け、まだ平らな私の腹部にそっと手を添えては、カウンセラー特有のあの穏やかで心地よい声で、お腹の子に物語を読み聞かせるのだった。

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第1話
港市の独り娘として育った私、羽生澪花(はにゅう みおか)が、佐々木遥人(ささき はると)のために帝都へ行くと決めたとき、両親は私を勘当した。「あの身寄りのない男が、お前に何を与えてくれるというんだ!苦労を買って出るなら一生していろ!出て行くなら二度と戻ってくるな!」五年。遥人が帝都でトップクラスのカウンセラーへと上り詰めていく姿を傍で見守り、彼は約束通り、私に温かな家庭を与えてくれた。年末年始を控え、私は彼を連れて実家に戻り、両親の許しを請おうとしていた。しかし搭乗の直前、彼は一人のうつ病を患う女性患者のために、再び私を置き去りにした。彼は私の手を離し、その瞳には張り裂けそうな苦渋が滲んでいた。「澪花、彼女は当時の俺と同じなんだ……身寄りがなくて、俺が行かなければ本当にビルから飛び降りてしまう!ごめん、今回だけだ。すぐに次の便でお前を追いかけるから……」遥人は振り返り、迷うことなく出口へと走っていった。私はその場に立ち尽くし、手元にある港市に帰る二枚の航空券を見つめていた。結局、彼は救いを求める患者たちの心をことごとく癒しながら、私だけは、何度もその救いの輪から零れ落ちる「置き去りの存在」にしてきたのだ。私はゆっくりと、彼の分の航空券を引き裂いた。そして一人で保安検査場へと向かい、スマホの電源を切った。遥人は知らない。一度見失った帰路には、二度と戻れないことがあるのだと。……私は一人、港市の実家へと戻った。ドアを開けた母が、私の背後に誰もいないことを悟った瞬間、その瞳に痛ましいほどの悲しみが溢れた。父はソファに座り、背筋こそ伸ばしているものの、その背中からは隠しきれない深い疲労の色が滲み出していた。五年前の両親の言葉が、今さらながら脳裏をよぎった。今の私は、無様な敗残兵のように戻ってきた。スマホの電源を入れ直すと、遥人からのメッセージと着信履歴が、画面を埋め尽くしていた。【澪花、ごめん!待っててくれ!】【彼女の状態は落ち着いた。すぐにチケットを買う】【電話に出てくれ。頼む、俺の話を聞いてくれ!】私は一通も返さなかった。心はまるで、冬の川に張った氷のように冷たく、硬く閉ざされていた。三年前、帝都に初めて雪が降った夜のことを思い出す。彼は私の冷え切った足を慈しむように自分の懐
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第2話
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第3話
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入院して三日目、遥人は仕事を休み、片時も私のそばを離れなかった。彼は甲斐甲斐しく私に水を飲ませ、顔を拭い、至れり尽くせりの世話を焼いた。その瞳は赤く充血し、隠しようのない悔恨が滲んでいた。「澪花、すまない。浅井さんという最後の問題を片付けたら、すぐに籍を入れよう。これからは真っ当に、三人で幸せに暮らすんだ。お前と俺、そして赤ちゃん。俺たち三人が、本当の家族なんだから」私の手を握りしめる彼の口調は、どこか現実味のない、浮ついた夢物語のようだった。私はただ目を閉じ、それに応える気力さえ湧かなかった。心は干からびた古井戸のように、何を投げ込まれてもさざ波一つ立たないほど冷え切っている。彼が診察室へ注意事項を聞きに行った隙に、私のスマホの画面が淡い光を放った。知らない番号からのメッセージだった。【澪花さん、当ててみて。もし私が今、屋上に立ったら、遥人さんはあなたのそばにいてくれるかしら、それとも私を助けに来てくれるかしら?ちょっとした賭けをしましょうよ】添付されていたのは、包帯が巻かれた手首の写真。その背景は、紛れもなく精神病院の屋上の一角だった。浅井真奈だ。足元から這い上がるような悪寒に襲われた。これは、剥き出しの挑発であり、宣戦布告に他ならなかった。ほぼ同時に、遥人が書類を手に足早に戻ってきた。その顔色は、見るに堪えないほど引き攣っている。彼は電話をかけながら、切羽詰まった様子で私に告げた。「澪花、すぐに行かなきゃならない!清水さんから連絡があったんだ。浅井さんの情緒が完全に崩壊して、手首を切ったらしい。今、屋上の縁にいて、誰も手が付けられない状態なんだ!」彼が背を向けて駆け出そうとした瞬間、どこにそんな力が残っていたのか、私は彼の腕を強く掴んだ。声は掠れていたが、驚くほどはっきり響いた。「遥人、行かないで」彼は弾かれたように振り返り、驚愕に目を見開いた。私は彼の瞳を真っ向から見据え、一言一句、噛み締めるように告げた。「彼女は演技をしているだけよ。たった今、私に挑発のメッセージを送ってきたわ。自殺を盾に、あなたに選択を迫っているのよ。あなたには、それが分からないの?」私はスマホを掴んだ手を突き出し、その画面を彼の目の前に叩きつけた。彼はスマホに素早く目を走らせると、その顔色が
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遥人が私の失踪に気づいたのは、私が退院してから四日目のことだった。彼は精根尽き果てた様子で病院から帰宅した。その手には、私のために買った栄養食と、体を労わるための薬が握られていた。真奈が起こしたあの騒動は、結局、警察による強制連行という形で幕を閉じた。彼は事情聴取に付き添い、さらに清水先生から真奈の病状について延々と説明を受けていたのだ。身も心もボロボロになりながら、彼の頭にあるのは私への釈明と、もう一度やり直したいという身勝手な懇願だけだった。鍵を回し、ドアを開ける。静まり返った室内は、不気味なほどに整然としていた。私の荷物は跡形もなく消え失せている。リビングのテーブルには、二つのものが取り残されていた。私が指から外した婚約指輪が、ガラスの天板にぽつんと置かれている。そしてその傍らには、流産手術の同意書の控えがあった。遥人はその場に硬直した。手から滑り落ちたミールボックスが床に叩きつけられ、温かい栄養食が惨めに辺りへ飛び散った。頭の中で激しい耳鳴りが響く。彼は縋るように寝室へ駆け込み、クローゼットをこじ開け、バスルームへ飛び込んだ。だが、どこもかしこも空っぽだった。震える指で私の番号を呼び出した。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません……」送ったLINEも、そのメッセージに「既読」がつくことは二度となかった。縋るような思いで私のSNSを開いても、そこには「投稿がありません」という無機質な表示が虚しく並ぶだけだった。彼は半狂乱のまま、港市にある私の実家へと車を飛ばしたが、待っていたのは非情な門前払いだった。私の父はドア越しに、氷のように冷たい声で言い放った。「佐々木さん、帰ってくれ。澪花とお前は、もう何の関係もない」彼は藁にも縋る思いで清水先生を訪ね、病院の同僚を片っ端から当たっては、私の行方を知っていそうな者すべてに縋り付いた。だが、誰もがただ首を横に振るだけだ。そその眼差しには、隠しようのない憐れみと、わずかな蔑みが滲んでいた。最後に彼は、病院のシステムを漁り、私が退院時に残した記録をようやく突き止めた。目的地は南の街。気が遠くなるほど遠い。彼という存在が欠片も届かない、縁もゆかりもない見知らぬ街だった。遥人は長期休暇を取り、南の街へ向かう最短の航
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第6話
今となっては、皮肉なほどに時間はいくらでもあった。私はジュエリーデザインの短期集中講座に申し込み、毎日地下鉄で街を横断してクラスに通った。クラスメイトの中に、鳴海樹生(なるみ いつき)という数歳年下の男がいた。地元出身の彼は、実家が宝石商を営んでいるにもかかわらず、自らデザインを学びに来ているという。彼はよく喋り、よく笑った。その瞳は、夕暮れ時の湾岸に灯る街明かりのように、眩しく輝いていた。「澪花さん、ラインがちょっと硬いかな。もっと力を抜いて、手首のスナップをきかせる感じで」「澪花さん、帰りにラーメンでもどう?穴場の旨い店を知ってるんだ」「澪花さん、いつも一人だけど、退屈じゃない?」私はいつも首を横に振り、丁寧だが拒絶の滲む態度を崩さなかった。誰とも関わりたくなかった。特に関わりを持つのが男であるなら、なおさら。そんなある雨の日だった。講義が終わったのは夜の九時。外はあいにくの土砂降りで、傘を持っていなかった私は校舎の入り口で立ち往生していた。そこへ一台の黒いSUVが滑り込んできて、窓が下がった。顔を覗かせたのは、樹生だった。「乗って。送っていくよ」私が躊躇していると、彼は屈託のない笑みを浮かべ、小さな八重歯を覗かせた。「そんなに警戒しないで。別に取って食おうなんて言わないから。クラスメイト同士の助け合いでしょ?」誘われるように、私は助手席のドアを開けた。車内は暖かく、仄かなシトラスの香りが彼の清々しい気配と混じり合っていた。「住所は?」マンションの名前を告げると、彼は慣れた手つきでハンドルを切り、夜の車列へと合流した。「澪花さんって、いつも何か抱え込んでるみたいだね」信号待ちの最中、彼がふと口を開いた。何気ない口調だったが、そこには誤魔化しようのない真摯な関心が込められていた。「……別に、何でもないわ」咄嗟に否定した私を、彼は静かな眼差しで一瞥しただけで、それ以上は何も聞いてこなかった。「この街の雨って、どうも余計なことまで考えさせちゃうよね。でも、止まない雨はないよ。雨が上がれば、虹だって出るんだから」彼は一度言葉を切り、照れくさそうに笑った。「まあ、実際はなかなかお目にかかれないけどね。でも、空は必ず晴れるよ」ありふれた、使い古された慰めだ。けれどその
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第7話
一度だけ、私が窓の外を眺めて物思いに耽っていたとき、彼は淡々と言った。「澪花さん、過ぎたことはもう、海の底に沈めておきなよ。ずっと後ろを振り返っていたら、首が痛くなっちゃう。前を向いて歩いた方が、景色は綺麗だよ」私は、彼のその絶妙な距離感に救われる思いだった。ある金曜日の夕暮れ。私と樹生はクライアントとの打ち合わせを終えたところだった。初期案が通り、二人とも晴れやかな気分だった。樹生は「お祝いに、ちょっといい焼肉でもどう?」と提案した。車がリノベーションエリアの出口に差し掛かった、その時だった。一人の男が猛然と横から飛び出し、行く手を阻むように立ちはだかった。樹生が鋭く急ブレーキを踏む。慣性で前のめりになった私の胸元を、シートベルトが強く締め付けた。顔を上げ、フロントガラス越しにその姿を捉えた瞬間、全身の血の気が引いた。佐々木遥人。彼は見る影もなくやつれ果て、無精髭を生やし、その眼窩は深く落ち窪んでいた。その瞳は車内の私を蛇のように捕らえて離さない。充血した瞳の奥には、狂気じみた焦燥と、絶望的なまでの縋るような希求が渦巻いていた。彼は窓ガラスにしがみつき、爪を立ててガリガリと音を立てた。「澪花!やっと、やっと見つけた!」全身が凍りつくような感覚に襲われ、私は手のひらに強く爪を立てた。樹生は眉をひそめ、私の方を向いて言った。「……知り合い?」私は深く息を吸い込み、頷いた。「……元彼よ」樹生の瞳にスッと鋭い色が宿り、彼は無言でドアを開けて外へ出た。私もそれに続く。吹き抜ける夕風は、私の身体を微かに震わせた。「そこをどいてくれ。邪魔だ」樹生は私を庇うように立ち塞がり、冷淡に言い放った。遥人は彼を視界に入れることすらせず、その血走った目は私だけを射抜いていた。「澪花、一緒に帰ろう……話をさせてくれ、頼む。一度だけでいい、説明させてほしいんだ……」「私たちの間に、もう話すことなんて何もないわ」自分の声が驚くほど凪いでいることに、私自身が一番驚いていた。「ある!あるんだ!」彼は激昂し、樹生をすり抜けて私の手を掴もうと身を乗り出した。「俺が悪かった!最低だったんだ!お前を置き去りにしたことも、何度も失望させたことも、全部……浅井さんのことはもう清算した。仕事も辞めたんだ、カウンセラーな
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第8話
あの日以来、彼はその話題に触れようとはしなかった。ただ、今まで以上に私を大切にしてくれた。腫れ物に触るような慎重さと、それでいて拒絶を許さないほどの真っ直ぐな優しさで。彼が待っているのは、分かっていた。私の心の傷が癒え、もう一度前を向こうと思える日が来るのを。けれど、あの街頭での醜態を目の当たりにしたことで、私の心の中の何かが完全に吹っ切れていた。私はこれまでの感謝を伝えるために、自分から樹生を食事に誘った。彼は目に見えて恐縮しながらも、食事の間ずっと、その瞳をキラキラと輝かせていた。食後の帰り道、夜風はどこまでも穏やかだった。ふと、彼が足を止めて真剣な眼差しで私を見つめた。「澪花さん。まだ心の準備ができていないのは分かってる。僕は全然、急いでないんだ。ただ、これだけは伝えておきたくて。僕は君が好きだ。君を支えたいし、これからの道を一緒に歩んでいきたい。今すぐ答えを出す必要はないよ。友達から、もっと仲の良い友達へ、そして……君が望むなら、どんな关系にでもなれるように。ゆっくり時間をかけていきたいんだ」そう語る彼の耳の先端は微かに赤らんでいたが、その瞳はどこまでも澄んでいて、揺るぎなかった。自分より年下のこの男を、私は長い沈黙の中で見つめ返した。「樹生。私は……若い女の子みたいに、情熱的な恋はもうできないかもしれない。私の心はね、もう真っ新じゃないの。何度も壊れて、そのたびに繕って……そうやって残った歪な継ぎ目が、今も消えずに刻まれている。そんな心なの」彼は笑った。路灯の下で、あの小さな八重歯が白く光った。「真っ新なものより、物語が刻まれた心の方がずっと美しいよ。僕は、長い時間をかけて磨かれたものに惹かれるんだ。ダイヤもそうだけど……今の君が、一番僕の心にずっしりくるんだ」彼は少し照れくさそうに頭を掻いた。「例えが下手だったかな……僕が言いたいのは、過去なんてどうでもいいってこと。僕は君の『今』と、そして『これから』のすべてを分かち合いたいんだ。時間はたっぷりある。ゆっくり行こうよ」私は彼を見つめ、静かに微笑みを返した。「ええ、分かったわ」そう、ゆっくりでいい。それから二ヶ月が過ぎ、アトリエもようやく軌道に乗り始めた。私は初めての正社員を迎え入れた。ある平日の午後。新しいデザイン案を描
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第9話
かつて深く愛したはずのその顔を眺めても、今の私には、ただの見知らぬ他人のようにしか思えなかった。「謝罪はもういいわ。すべては、終わったことよ」私の言葉に、遥人の瞳に宿っていた微かな光が、一瞬で消え失せた。「あなたとの物語は、あの子と一緒に……」私は視線を窓の外へ向けた。この街の空は、どこまでも澄み渡った青色をしていた。「去年の冬に、置いてきたの」私は静かに立ち上がった。それが「お引き取りを」という合図であることは明白だった。彼は座ったまま、しばらく動かなかった。長い沈黙のあと、彼はようやく重い腰を上げたが、その足取りは危うく、背中はひどく丸まっていた。ドアの前で彼は一度だけ振り返り、私を深く見つめた。その眼差しには、言葉にできないほど多くの感情が混ざり合っていた。けれど、結局彼は何も言わず、ドアを開けて去っていった。階下から車のエンジン音が響き、それが次第に遠ざかり、やがて雑踏の中へと消えていった。清華が歩み寄り、心配そうに私を覗き込んできた。「澪花さん、大丈夫ですか?」私は首を振り、窓辺に歩み寄った。階下では、見慣れた遥人の車がリノベーションエリアを抜け、波のような車流に飲み込まれていく。そして、二度と私の視界に戻ることはなかった。私はデスクに戻り、描きかけのデザイン画を手に取った。インクが滲んだその一箇所が、まるで一滴の涙のようだった。私は真っ新な紙に取り替え、再びペンを握る。今度は、迷いのない、しなやかで凛としたラインが紙の上に走った。それからというもの、共通の友人を通じて、遥人の噂が風の便りに届くことがあった。彼は帝都に戻ったが、二度とカウンセリングの仕事には就かなかったという。家を売った金の一部は、うつ病の支援団体に寄付したらしい。その後の彼は、荒れ果てた生活を送っているらしい。酒に溺れ、軽い抑うつを患い、今は一人で狭い賃貸マンションに身を寄せている。友人はため息混じりに零した。「彼はいつも、自業自得だって言ってるよ。澪花、彼は本当はね……」「もう、すべては終わったことよ」私は再び、穏やかだがそれ以上の追及を許さない口調でそう告げた。友人はそれ以上、何も言わなかった。やがて、遥人の消息もぷっつりと途絶えた。彼は私の世界から完全に姿を消した。まるで、最初か
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