LOGINゴールデンウィーク、私――水野紗季(みずの さき)が乗っていた観光船が、海難事故に遭った。 船室に閉じ込められ、今にも溺れそうになっていた私を置き去りにして、恋人の神谷直人(かみや なおと)は救命ボートに乗り込んだ。 そして、ずぶ濡れになったかつての想い人――榊原玲奈(さかきばら れな)を、風邪をひかせてはいけないと病院まで送り届けた。 救助され、病院で意識を取り戻したあと、私は玲奈が投稿したSNSを目にした。 【結局、あなたがいちばん忘れられない、いちばん守りたいのは、ずっと私】 事情を知る人たちは、コメント欄で好き勝手なことを書き込み、私を笑いものにしていた。 けれど私は乾いた笑みを浮かべ、祝福のコメントを残した。 【素敵な恋ね。今度こそ、もうすれ違わないといいわね】
View Moreこうして拓海と付き合うことになり、二人の距離はさらに縮まっていった。そして今度こそ、私の選択は間違っていなかったのだと、拓海は行動で示してくれた。付き合う前に交わした約束も、きちんと守ってくれた。拓海と一緒にいると、無理をする必要がなく、心から穏やかでいられた。研究の面では、私よりも経験豊富な拓海から多くのことを学んだ。日常生活で私が悩みや困難にぶつかったときも、拓海はいつもそばにいて励まし、乗り越えられるよう力を貸してくれた。そうして穏やかな毎日を重ねるうちに、瞬く間に五年が過ぎた。D市で進めていた研究プロジェクトも、無事に完了した。プロジェクトの成功を祝って、指導役の研究者たちが祝賀会を開いてくれた。その席では、指導者や同僚たちから、私たちの結婚式はいつなのかと、しきりに冷やかされた。実はそのことについては、少し前に拓海と話し合っていた。プロジェクトが終わったらA市へ戻り、お互いの両親に挨拶をして、正式に結婚の話を進めようと決めていたのだ。それから数日後、私と拓海はA市行きの飛行機に乗った。両家への挨拶、婚約、婚姻届の提出、結婚写真の撮影、そして改めてのプロポーズ。すべてが滞りなく、順調に進んでいった。直人のことは、もうすっかり過去のものになっていた。あの午後までは――その日は週末だった。自宅が停電し、復旧するのは夜になるという。しかも、季節は六月。蒸し暑い中、冷房も使えないまま家にいるのは、とても耐えられそうになかった。仕方なく、私は自宅近くのカフェへ仕事をしに行った。ついでに拓海へ連絡し、仕事が終わったら迎えに来てほしいと伝えておいた。しばらく作業をしていると、一人の男性が私の前で足を止めた。そして、ためらいがちに声をかけてきた。「紗季?」顔を上げた私は、思わず目を見開いた。そこに立っていたのは、直人だった。本当に私だと分かると、直人は向かいの席に腰を下ろした。「久しぶりだな。元気に……してたか?」「うん。もうすぐ結婚するの」「そうか。それは……本当におめでとう」そんな答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。直人の瞳に宿っていた光が、ふっと消えた。私は逆に尋ねた。「あなたは?この五年の間に、玲奈と結婚したの?」
軽くメイクを済ませると、私はバッグを手に取り、拓海と一緒に寮を出た。道中、拓海は直人のことで私が落ち込んでいるのではないかと気遣い、しきりに話題を振っては笑わせようとしてくれた。正直、拓海の気持ちに気づいていないわけではなかった。ただ、私は直人との関係を終えたばかりだ。すぐに次の恋へ踏み出す気にはなれなかったし、今の私には、そこまで気持ちを切り替える余裕もなかった。それでも、研究室で拓海と一緒に働く時間はとても心地よかった。拓海は直人とは違う。仕事でも日常の些細なことでも、常に先のことまで考え、失敗や行き違いが起きないよう細やかに気を配ってくれた。責任感が強く、何事にも真面目で丁寧な拓海といると、不思議なほど安心できた。それに比べ、直人と付き合っていた頃の私は、いつも彼のために何もかも先回りして考えていた。それでも直人は、自分の機嫌が悪ければ私に当たり、最後には私のほうが折れて、彼をなだめなければならなかった。当時は心から直人を愛していたから、それすら苦にはならず、むしろ喜んで尽くしていた。けれど、今振り返れば、あの頃の私はどうしようもないほど愚かだったと思う。そうして日々は過ぎていった。今の私の生活は、研究を中心に回っていた。時間があるときは拓海と話をしたり、D市で評判の店へ食事に行ったり、休日に少し遠出をしたりして、穏やかな毎日を送っていた。やがて私は、直人のことをほとんど思い出さなくなった。連絡先をすべてブロックして削除して以来、直人が私に接触してくることもなかった。それは私にとって、願ってもないことだった。直人は完全に私の生活から消えた。あの日までは――その日の午後、研究室での仕事を終えた私は、拓海と一緒に寮へ戻っていた。ところが、寮の入口まであと少しというところで、直人の姿が目に入った。隣には、玲奈もいた。私の気配に気づいたのか、直人はすぐにこちらを振り向いた。私を見つけた瞬間、その顔には隠しきれない喜びが浮かんだ。けれど、こちらへ歩み寄ろうとした直人は、私の隣に立つ拓海の存在にも気づいた。途端に表情を険しくし、足早に駆け寄ってきた。「こいつは誰だ!まさか、こいつのために俺と別れたのか!」そんな直人の必死な様子を見て、そばにいた玲奈も黙ってはいら
それから私は、直人の連絡先をすべてブロックし、そのまま削除した。一連の操作を迷いなく終えると、胸につかえていたものが一気に消えた。もう、あんな男に振り回されるのはごめんだった。私は布団を引き寄せ、そのまま眠りについた。案の定、翌朝早くから、立て続けに鳴るスマホの着信音で目を覚ました。最初のうちは眠気に勝てず、半分寝ぼけたまま着信を切っていた。けれど、一度切っても、すぐにまた別の電話がかかってくる。そのうちすっかり目が覚め、いったい誰がこんな朝早くから安眠を邪魔しているのかと、苛立ちながらスマホを手に取った。画面を開くと、友人たちからの着信とメッセージで埋め尽くされていた。【紗季、大丈夫?ニュースに出てること、本当なの?】【紗季、もう腹が立って仕方ない!記事を見た?直人、あなたに隠れて浮気してたなんて最低!完全に見損なった!】【あんな男にこだわる必要ないよ。紗季、泣かないでね】……考えるまでもなかった。直人と玲奈が一緒にいるところを芸能記者に撮られ、ネットで報じられたのだろう。案の定、SNSを開くと、急上昇ワードの一位に大きく表示されていた。【若手天才ピアニスト・神谷直人、謎の女性とホテルで一夜】記事を開くと、直人と玲奈が一緒にホテルへ入っていくところを撮影した写真が掲載されていた。もはや言い逃れのできない証拠だった。さらに、一部のメディアは玲奈の経歴まで調べ上げていた。【大学時代から忘れられなかった憧れの女性】【天才ピアニスト、長年の想いがついに成就か】そんな見出しが並び、大勢の人が好き勝手に騒いでいた。【たしかに芸能界にも入ろうとしてたんだっけ?アイドルやるなら、せめて恋愛禁止は守ってほしいよね。がっかり】【恋人ができたの?もうファンやめる】……私が直人と付き合っていた頃は、直人の将来に影響が出ないよう、二人で徹底して交際を隠していた。そのおかげで、これまで一度も決定的な写真を撮られたことはなかった。それなのに、玲奈が帰国してわずか数日で、こんな騒ぎになっている。なんとも皮肉な話だ。そんなことを考えていると、親友の森川千夏(もりかわ ちなつ)から電話がかかってきた。千夏は以前から、玲奈のことを知っていた。「ねえ、本当に大丈夫?」「平
「航空宇宙分野の研究プロジェクトに参加することになったの。しばらくA市を離れる。研究期間によっては、数年は戻らないかもしれない」それを聞いた途端、直人は露骨に不満をあらわにした。「A市を離れるって?そんな大事なこと、どうして俺に相談もせず決めたんだ!」あまりの身勝手さに、呆れて言葉も出なかった。「じゃあ、あなたは?玲奈に付き添って、二人きりで何日も過ごしていたとき、私に相談した?直人、人にあれこれ言う前に、まず自分のしたことを振り返ったら?」私の決意が固いと悟ったのか、直人はすぐに声を和らげた。「紗季、まだ俺に怒ってるんだろ?分かった、もう全部話すよ。今回のリサイタルで、お前との交際を公表するつもりだったんだ。俺は本気で、この先もずっとお前と一緒にいたいと思ってる。だから戻ってきてくれないか?俺のそばに――」「戻らない。私は研究に参加して、自分の夢を追うから」直人が言い終える前にきっぱりと遮り、そのまま電話を切った。通話を終えると、胸の奥にさまざまな思いが込み上げてきた。直人は将来を期待されている若手ピアニストだった。容姿にも恵まれ、今後は演奏活動の幅を広げることも考えている。今はまさに、知名度が上がり始めた大切な時期だった。そんなときに恋人の存在を公表すれば、活動に影響が出るかもしれない。私も直人の将来を思い、人目を避ける関係を受け入れてきた。それでもいつか、私たちの関係を堂々と公にし、周囲から祝福される日が来ればいいと、何度も夢見たことがある。けれど、もう昔とは違う。今の私には、そんな日を待ち望む気持ちは残っていなかった。「大丈夫?」一部始終をそばで見ていた拓海が、遠慮がちに声をかけてきた。その声で我に返り、私は答えた。「大丈夫」「つらいなら、肩くらい貸すよ」「ふふ、本当に大丈夫。そこまで落ち込んでないから」拓海の言葉に思わず笑みがこぼれ、さっきまで沈んでいた気分も少し軽くなった。けれど、その夜ベッドに入ると、どうしても余計なことを考えてしまった。直人と過ごした日々が次々とよみがえり、やはり心のどこかに、割り切れない思いが残っていた。何度も寝返りを打っていると、突然スマホが鳴った。画面を見ると、直人からだった。出るつもりはなかったが、一度切れた直後、す