ANMELDEN近々、正社員登用試験も控えている。
この小さな命を守るためなら、デッキブラシを握り続けることも慣れない専門用語を覚えることも、少しも苦ではない。
全てが順調。あとは実加自身の努力にかかっていた。ならばやり遂げるだけだ。
(母ちゃん、今日も気合い入れてくるからな。いい子で待ってろよ)
理玖の背中をポンポンと叩き、実加は立ち上がった。
◇
「それでは実加さん、僕はここで」
「おう。今日の仕事もお互い頑張ろうな」
出勤した実加は、翔吾と別れて従業員専用エリアのロッカールームへ入った。
壁際に並ぶスチールロッカーからは、芳香剤のフローラルな香りと、誰かが置き忘れた湿ったタオルの匂いが混ざり合って漂っている。「さて、着替えねえと」
実加が自分のロッカーを開けて、制服のブラウスに手を伸ばした時だった。
ジジッ、ジジッ。
バッグの中のスマートフ
「どういたしまして。こちらとしても、現場の生きたデータを取得できたのは有益でした」 翔吾はパソコンを閉じ、眼鏡のレンズを拭いた。 実際、実加の言う内容は彼にとって新鮮だった。データ上で把握していたはずの業務も、現場の人間の生の声には遠く及ばない。それを再実感した。 実加と理玖に改めてお茶でも出そうと思い、翔吾は立ち上がりかけて。「よし。じゃあ、今日のお礼にウチが飯作ってやるよ」 実加の唐突な提案に、翔吾の動きがピタリと止まる。「……夕食ですか。手間のコストを考えれば、外食で済ませた方が効率的です」「何言ってんだ。自炊した方が安上がりだろ。ウチも理玖のために、少しでも貯金しておきたいしな」 実加は立ち上がり、パーカーの裾を引っ張った。「ここに来る途中、近所にスーパーがあったな。買い出し行こうぜ」「しかし……」「いいから行くぞ! ほら理玖、お外行くよー」「おそと!」 おもちゃの車を握りしめたまま、理玖が立ち上がる。 午後いっぱいを室内で過ごしていたのだろう、出かけるのが実に嬉しそうだ。 実加のペースに完全に巻き込まれ、翔吾はコートを羽織るしかなかった。◇ 3人はスーパーに入ると、通路を歩いた。 夕方の店内は、夕食の買い出しに来た客で混み合っていた。特売のポップが貼り出されて、軽快なBGMが流れている。「お、今日の豚挽き肉、安いじゃん。ハンバーグにするか。理玖も好きだし」 実加がパック入りの挽き肉を手に取り、カートに放り込む。「合い挽き肉よりも豚肉の比率が高いですね。脂質が多いため、焼く際の温度管理に注意が必要です」 翔吾がパッケージのラベルを見ながら補足する。「はいはい、わかってるよ。玉ねぎと……ニンジンのすりおろしも入れとくか。栄養バランス大事だろ?」
「なんつーか、匂いとか、前の客がどういう風に過ごしたかの気配だよ。タバコ吸ってたなとか、香水の匂いが強いなとか。それによって、換気の時間を変えるし、消臭スプレーの量も調整する」 実加の言葉を聞きながら、翔吾はタイピングの速度を上げた。『入室時の環境アセスメント:嗅覚による残存臭気の確認。タバコ・香水等の種類に応じ、換気時間および消臭剤の散布量を決定』「次は水回りです。効率よく汚れを落とす手順は?」 翔吾の質問に、実加はぱしんと手を叩いて得意げに笑った。「風呂場はな、最初に熱いシャワーを全体にかけて汚れを浮かせるんだよ。その後で洗剤を吹き付ける。冷たい水だと皮脂の汚れが固まっちまうからな。これ、小夜子師匠の直伝な」「なるほど。温度による汚れの溶解ですね。さすがは義姉さんです」『浴室清掃プロセス:初期工程として温水散布を実施。皮脂汚れの軟化を促進後、洗浄剤を塗布』 実加の言葉は感覚的で大雑把だが、その中には現場で培われた技術が詰まっている。 翔吾はそれを1つひとつ拾い上げて、誰が読んでも理解できる論理的な文章へと変換していった。「ベッドメイクはどうだ? シーツの端を引っ張る時は、腰を入れるとシワが伸びやすいぜ。腕の力だけでやると後で筋肉痛になるからな」「身体構造を考慮した作業姿勢の標準化ですね。腰を支点とした体重移動を推奨、と」 パソコンの画面に、みるみると文字が埋まっていく。 実加は画面を覗き込み、感心したように声を漏らした。「お前、マジですげえな。ウチの適当な言葉が、なんか立派な教科書みたいになってる」「実加さんの持っている情報が優れているからです。暗黙知が明確な形式知へと変換されれば、組織全体の生産性は飛躍的に向上します」「暗黙知? また難しい言葉を」 実加は苦笑したが、その表情には翔吾への信頼が浮かんでいた。 翔吾もまた、実加の視点の細やかさに驚かされていた。 お客様が残したゴミの種類から、次回の滞在時に備えるべきアメニティを予測する技術。 部屋の温度設
「はい。30食分ストックしています」 翔吾は表情を変えずに頷いた。「お前、社員寮の厨房でローストビーフとか完璧に作ってたじゃんか! あんだけ料理できるくせに、なんで自分の家だとこうなんだよ」 実加の呆れた声に、翔吾は冷凍うどんを3つ取り出しながら平然と答える。「あの時は祝賀の席という目的がありましたから、最適な調理法を選択しました。ですが日常の食事は別です。冷凍うどんは茹で時間が短く、炭水化物を効率よく摂取できます。単価も安いですし、学生の食事としては最も合理的です」「で、昼は毎日うどんなわけ? はあ……。食の楽しみってモンがないのかね、こいつは」 実加は肩を落とし、呆れたように首を振った。「昼だけではありませんよ。その日に摂取した栄養バランスによっては、夜もうどんにする時もあります」「あっそ」 翔吾は手際よくうどんを茹でて、粉末の出汁を湯に溶かす。 数分後には、3つのどんぶりがローテーブルに並べられた。ネギと卵を落としただけの、極めてシンプルなうどんだ。「まあ、いただきます」 実加は割り箸を割り、うどんをすすった。「ちゅるちゅる! おいしいね」 理玖も子供用の短いフォークで、不器用にうどんを口に運んでいる。「理玖、やけどするなよ。ほら、冷ましてやったぞ」 実加が小分け用の器にうどんを取り分けて、理玖に食べさせてやっている。 翔吾は黙々とうどんを腹に収めた。 会話は少ない。だが麺をすする音と理玖の楽しげな声が、この無機質な空間に初めて生活の音をもたらしている。 翔吾はどんぶりの底を見つめながら、心の奥がわずかに温かくなるのを感じた。◇ 昼食後、ローテーブルの上の食器を片付けると、本格的な作業が始まった。 理玖はフローリングの上に座り込み、実加が持参した車のおもちゃで大人しく遊んでいる。 翔吾はノートパソコンを開くと、実加の言葉を
「理屈はわかりますが、成人男性の単身世帯に上がり込むなど、不用心かつ危機管理能力に欠けます。社会通念上、推奨される行動ではありません」 翔吾は早口で反論を試みる。 実加は大きなため息をつくと、パーカーのポケットに手を突っ込んだ。「はあ? ウチとメガネの仲だろ。何を今更。それに理玖もいるんだから、変なことなんて起きねえよ」「…………」(変なこと、という言葉のチョイスがすでに危機感の欠如を示しているんですけど!) 翔吾が反論の言葉を探していると、理玖が実加の腕の中でバタバタと暴れ始めた。「しょーごのおうち! いく!」「ほら、理玖もこう言ってんじゃん。案内しろよ」 理玖の無邪気な声と、実加の押し切るような態度。 この2人に挟まれては、翔吾の論理武装など機能しない。 翔吾は諦めてパソコンをカバンにしまい、小さく肩をすくめた。「わかりました。ただし、部屋には何のお構いする準備もありませんからね」「おう。期待してないから平気だぜ」 実加はニカッと笑い、理玖を床に降ろした。 翔吾はフードコートの喧騒を背に、自身のアパートへと歩き出した。◇ 翔吾のアパートは、ショッピングモールから徒歩10分ほどの場所にあった。 築年数は浅く、オートロック完備の機能的なマンションだ。 玄関のドアを開け、2人を中に招き入れる。「お邪魔しまーす」 靴を脱いで上がってきた実加は、部屋の中を見回して目を丸くした。「うわ……。なんだここ。モデルルームかよ。息が詰まる」 ワンルームの室内には、生活感というものが一切存在しない。 白い壁紙には何も飾られていない。家具は、PC作業用のデスクとキャスター付きの椅子、シンプルなベッド、本棚のみだ。 本棚には情報工学や経営学の分厚い専門書が、背表紙の高さを
せせらぎ亭への社員旅行が終わって後、週末の昼前。 ホテル・サンクチュアリの近隣に建つ大型ショッピングモールのフードコートは、家族連れやカップルでごった返していた。 翔吾は実加との勉強会の約束を果たすため、待ち合わせ場所をここに指定したのだ。 周囲の人々は楽しそうにおしゃべりをして、子供たちは元気な声を上げている。 少し離れた臨時ステージでは、子供向けのキャラクターショーが行われて、子供たちが歓声を上げていた。 フライドポテトの油の匂いと、ハンバーガーを包む紙の匂い。 プラスチックのトレイがテーブルに置かれる乾いた音が、常にざわめきの空間を満たしている。 翔吾は4人掛けのテーブルを確保して、ノートパソコンを開いていた。 画面には、スプレッドシートで構築したマニュアル作成用のフォーマットが表示されている。 キーボードを叩いて体裁を整えながら、画面右下の時計を確認した。(実加さんたち、そろそろ到着する時刻だが) 周囲の騒がしさは、集中力を著しく削ぐノイズだ。 とはいえ幼児連れで気兼ねなく会話ができる場所となると、選択肢は限定される。「おう、メガネ! 待たせたな」 聞き慣れた声が降ってきた。 顔を上げると、片手で理玖を抱いた実加が立っていた。 休日の彼女はホテルの制服ではなく、ゆったりとしたパーカーにデニムという軽快な出で立ちだ。「しょーご!」 理玖が実加の腕の中で身を乗り出し、小さい手を伸ばしてくる。 翔吾はパソコンの画面を半分閉じ、立ち上がって会釈した。「お待ちしていました。座席は確保してあります。昼のピークタイムになるとさらに混雑しますから、早めに打ち合わせを始めましょう」 翔吾が向かいの席を手で示すと、実加は周囲をぐるりと見渡した。眉間に深いシワが寄っている。「いや、ちょっと待て。こんなうるさいとこで、マニュアルとかいう難しい話すんのか?」「幼児同伴で入店可能なカフェも検討しましたが、土日はどこも満席です。ここなら理玖く
かつての翔吾は、他人の成長や感情の揺れ動きに一切の関心を持っていなかった。 しかし今は、実加が前へ進もうとする姿を見るだけで、自分ももっと上を目指したいという強い動機付けが生まれる。 それに何よりも、彼女に頼られると純粋に嬉しい。(彼女の熱が、僕のシステムを常にアップデートさせている) 翔吾はハンドルを切る。 タイヤがアスファルトを掴む感覚が、手からダイレクトに伝わってくる。 夕日が山の稜線に沈みかけ、空は深い群青色へと変わりつつあった。 ヘッドライトのスイッチをひねると、前方の道路が白く照らし出される。「暗くなってきたな。理玖、起きねえかな」 実加が後ろを振り向く。「無理に起こす必要はありません。到着まであと15分ほどです。そのまま寝かせておきましょう」「そうだな。お前も運転、最後まで気ぃ抜けよ」「言われるまでもありません。安全運転は最後まで継続します」 軽妙なやり取りを交わしながら、車は静かな山道を走り抜けていく。 翔吾にとって、この運転席は今や緊張の場ではなく、安らぎの空間となっていた。 荷台から漂う土の匂い、実加のシャンプーの香り、理玖の寝息。 そのすべてが、翔吾の記憶のストレージに大切に保存されていく。 やがて、木々の合間からせせらぎ亭の明かりが見えてきた。 温かなオレンジ色の光が、旅の終わりを告げている。「着いたな。運転ご苦労さん。さあ、温泉と美味い飯が待ってるぜ」 実加が大きく伸びをした。 翔吾はウインカーを出し、旅館の駐車場へと車を滑り込ませる。 今度は一発で、枠のちょうど真ん中に車を停めることができた。「完璧な駐車です」 翔吾が宣言すると、実加は「はいはい、お見事」と笑った。 エンジンを切り、シートベルトを外す。 ドアを開けると、山の冷たい空気が車内に流れ込んできた。 翔吾は外へ出て、大きく深呼吸をする。 冷たい空気が肺を満たし、頭







