LOGINドレス試着の日、彼氏の入江真宙(いりえ まひろ)は一緒に来ると約束していたのに、いくら待っても姿を見せなかった。 ウェディングドレスの裾は長く、私・大崎百華(おおさき ももか)はひとり鏡の前に立って、何度も体をかがめては裾を整えた。 3度目に裾を踏んだとき、ようやく真宙からメッセージが届いた。 【梨愛がさっき帰国したんだ。まだ気候に慣れてないみたいだから、迎えに行ってくる。先に試着しといて】 次の瞬間、SNSのタイムラインが更新された。 上杉梨愛(うえすぎ りえ)が、写真を投稿していた。 片膝をついた真宙が、梨愛の細い足首をそっと包み、ヒールのストラップを留めている――そんな写真だった。 一言だけ、キャプションが添えられていた。 【やっぱりこの人、絶対に自分でかがませてくれないんだから】 投稿を開いた瞬間、真宙の「いいね」がついているのが目に入った。 空気を読んだのか、スタッフがそっと声をかけてくれた。 「大崎様、入江様は大崎様のことをとても心配していらっしゃいます。『こっそりダイエットして体を壊すといけないから、ウエストは直さないように』と、わざわざご配慮くださって」 私は笑った。 心配してくれていること自体に、嘘はない。ただ、彼が別の誰かを優先することを、その優しさはちっとも止められなかった。 うつむいて、白いドレスを見つめる。 ふと気づいてしまった。 身の丈に合っていないのは、ドレスじゃない。 きっとずっと前から――この結婚そのものだ。
View More裕子もまた、傷害教唆と詐欺の容疑で、昨夜のうちに逮捕状が執行されていた。そこで、担当の刑事から電話が入った。「大崎さん。入江裕子が取調室で泣き崩れていまして……一度だけでいいから百華に会って謝りたい、どうか告訴を取り下げてほしい。そう伝えてくれと」「会いません。あとは法に従って進めてください」それだけ告げて、私は通話を切った。その日の夜8時、私の絵本が、全世界のプラットフォームで一斉に配信を開始した。アトリエのモニターの前で、雅哉が声を弾ませて教えてくれた。配信からわずか1時間で、この業界における初日売上の世界記録を更新したのだと。「大崎百華」という名前が、初めてはっきりと世に刻まれた瞬間だった。アトリエの2階の窓際に立ち、夜の街を叩きつける豪雨を眺めていた。そのとき、真下から、タイヤが水を跳ね上げる耳障りなブレーキ音が響いた。タクシーが路肩に停まり、助手席のドアが開く。真宙が車椅子に座ったまま、運転手に手を貸してもらって路上へと下ろされた。病院の薄っぺらい患者服をそのまま着て、彼の頭には分厚い包帯が巻かれている。無理やり点滴を抜いてきたらしく、手の甲の包帯から、じわじわと赤黒い血がにじんでいた。集中治療室から一命をとりとめたばかりの体で、この土砂降りの中を、ひとりで追いかけてきたのだ。車椅子からずり落ちた真宙は、残っていたわずかな気力だけで車椅子を押しのけ、豪雨のアスファルトの上を這うようにして、アトリエの入り口へと向かってくる。泥と、自分の血が、全身にぐっしょりと絡みついていた。私は傘を広げ、ゆっくりと階段を下りて、エントランスのドアを開けた。真宙は私の足元にすがりつき、血まみれの両手を、祈るように頭上へと掲げた。冷たい雨が青ざめた頬を叩く中、必死に顔を上げて私を見る。その瞳にあったのは、純粋で、絶望的な哀願だった。「百華……俺の命をやるから。だから、もう一度だけ、振り向いてくれ……」喉が潰れているのか、声はひどくかすれて、空気の漏れる音にしか聞こえなかった。「俺が間違っていた。本当に、全部わかったんだ。お前がいないと……俺にはもう、何もないんだよ」私は傘を差したまま、ただ冷めた目で、足元にすがる男を見下ろした。かつてはあれほど愛おしかったはずの輪郭が、今はただ、道端の汚れたゴミにし
私は一歩足を引いた。バッグから婚約解消の合意書を取り出し、容赦なく、真宙の胸の上へと叩きつける。「今すぐ拇印を押して」真宙の顔から、微かな笑顔が消えた。信じられないという顔で書類を見つめ、みるみるうちにその目が赤く染まっていく。「サインするわけないぞ!百華、何を言ってるんだ。俺が何かしたか?行かないでくれ。お前しかいないんだ。そんな残酷なことをしないでくれ!」真宙は勢いよく体を起こし、自分の手の甲から点滴の針を引き抜いた。鮮血がすぐに溢れ出し、真っ白なシーツに落ちる。私はその手首を掴んで動きを止め、冷めた目で真宙を見下ろした。「その同情を誘う芝居、本当に見苦しい。記憶喪失のふりなんて、もう見え透いてるから。安っぽい演技はやめて」目も合わせないまま真宙の手を押さえつけ、朱肉をつけ、そのまま書類に拇印を押させた。私は一度も振り返らずに病室を出た。病院の正面玄関ホールへ出た途端、外で待ち構えていたカメラマンと記者たちが数十人、どっと押し寄せてきた。何本ものマイクが、顔の前に突き付けられた。「大崎さん!梨愛さんが留置所から声明を出しました。入江さんの子を妊娠していたのに、あなたが無理やり中絶させたというのは事実ですか!」「嫉妬に狂っての犯行ですか。お答えください!」「お母様に多大な借金があると聞きます。入江家に嫁いで借金を帳消しにしようとしていたんですか!」容赦のない質問が次々と浴びせられる。裏取りすらしていないデマを撒き散らすメディアだった。そこへ、雅哉が黒服のボディーガードたちを引き連れて人混みを割って入ってきた。自分のジャケットを私の肩にかけ、私の前に立ちはだかった。ボディーガードたちが、群がる記者を力づくで押し返した。そして彼は、海外の医療機関が発行したカルテのコピーを、最前列にいた記者の顔めがけて叩きつけた。「ちゃんと読め。上杉梨愛は、長年の薬物依存と荒れた生活が原因で、5年前に『妊娠は難しい』と診断されてる。留置所で職員を買収して虚偽の情報を流したことは、先ほど県警本部の確認が取れた。今、ネット上でデマを拡散したアカウントには、全件、発信者情報開示請求と内容証明を送っているところだ」わずか十数分で、ネットの世論が完全にひっくり返った。梨愛と入江家への批判が爆発的に溢れ返り、さっきまで
裕子の顔が青ざめた。さっきまでふんぞり返っていた態度は、もう見る影もない。真宙の肩を掴み、爪をスーツに食い込ませる。「真宙!今すぐ入江家の力を使ってメディアを抑えて。うちをこんなことで終わらせるわけにはいかない!」真宙は、ゆっくりと彼女の手を払いのけた。「母さん。入江家はもう、とっくに腐りきってたんです。抑えられるものじゃないです。これは当然の報いですよ」真宙が振り返り、私を見る。その目には、言葉にできないほどの痛ましさがにじんでいた。「百華。俺の名義にある入江グループの株式を全部、本日付けで無償譲渡する。せめてもの償いとして受け取ってくれ……今まで、俺は目が曇っていた。お前を裏切った。全部、俺がお前に作った借りだ」「気でも狂ったの!」裕子が怒り狂って叫んだ。もう完全に理性を失っている。彼女は振り返ると、路肩の花壇から、抱えきれないほど大きな陶器の植木鉢を掴み上げた。「死んでしまいなさい!全部、あんたみたいな泥棒猫のせいよ」鬼のような形相で、重い植木鉢を、私の後頭部めがけて振り下ろした。かわす間などなかった。大きな影が飛び込んできて、私に体ごと覆い被さるように抱え込む。植木鉢が真宙の後頭部で砕け散り、泥と、鋭い陶器の破片が辺りに飛び散った。生暖かい血が、私の頬に跳ねた。真宙はひと声も上げないまま、力を失い、どさりと私の足元に倒れ込んだ。救急車が駆けつけ、救急隊員たちが血まみれの真宙を担架に乗せる。私はバッグからティッシュを取り出して頬の血を拭い、一度も彼を振り返らなかった。「行きましょう」ホテルの廊下に戻った瞬間、鼻を突くガソリンの臭いが漂ってきた。部屋のドアを押し開けると、濃い黒煙が一気に流れ込んできて、目が焼けるように痛んだ。梨愛が、部屋の中央に立っていた。警察署で気絶したふりをして逃げ出してきたらしく、顔は土気色に変わっていた。片手に、防風ライターを掲げていた。非常口のドアは内側から固く施錠され、床一面に、刺すような臭いのガソリンが撒かれている。「やっと帰ってきたね。ハハハハッ!」梨愛が狂ったように笑った。「絵本の一発逆転を狙ったって無駄よ。私が手に入れられないものは、あなたにも渡さない。今日はここで、あなたの大切な原稿と一緒に燃えてしまいましょう!」
窓の外の雨は、いつまでも止みそうにない。最終原稿の入ったUSBメモリを手に、アトリエのドアの前に立った。ドアには「泥棒」「返せ」といった中傷の張り紙がびっしりと貼られ、壁には見るに堪えない罵詈雑言が書き殴られていた。梨愛が、刺青だらけの男たちを四、五人ほど連れて、街角から現れた。「バッグからUSBを奪いなさい。逃がさいでよ」男たちは鉄パイプを手に、まっすぐ突っ込んできて私を取り囲んだ。ざらついた大きな手がバッグのストラップを掴み、引きちぎらんばかりに引っ張った。私はバッグを死に物狂いで抱え込んだ。半年をかけた渾身の作だ。一筆一筆、自分で描き上げた原稿のデータがすべて詰まっている。真宙が勢いよく飛び出してきて、私を一気に腕の中へと引き込んだ。鈍い衝撃音が響いた。背中を鉄パイプで強く殴られ、彼はくぐもったうめき声とともに片膝をついた。「真宙さん!」梨愛が駆け寄り、私を突き飛ばして真宙に縋りついた。地面に膝をつき、真宙の腕を抱きしめて泣き叫んだ。「ごめんなさい、借金取りに追われて、もう限界で……助けて、今回だけにするから。もう絶対に迷惑かけない!」真宙は顔から血の気が引いていたが、それでもポケットから小切手帳を取り出した。金額を書き込み、リーダー格の男に差し出した。「これを受け取ったら、さっさと消えろ」数台のパトカーが、けたたましいサイレンを響かせながら路肩に滑り込んだ。警官たちが飛び出してきて、男たちと梨愛を次々とパトカーのボンネットへ押しつけた。警官が手錠を取り出し、梨愛の手首にかけた。真宙は立ち上がり、私のジャケットに貼りついた破れた張り紙の端を取ろうと手を伸ばした。「梨愛への恩義は、今日ですべて返した。これからの俺には、お前しかいない。一緒に帰ろう。結婚式は予定通りやる」私は一歩後ずさり、その手をかわした。「私たちの婚約は、これで完全に終わりよ。新居のデザインと私物については、弁護士を通じて正当な評価額での損害賠償を請求する。あなたと私の間には、もう何もない」真宙の目が赤くなった。その瞳に、あからさまな恐怖の色が広がっていく。彼は慌てた手つきでポケットからベルベットのケースを取り出し、婚約指輪を差し出した。大勢の目の前で、膝の力が抜けたように、アスファルトの上へ両膝
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