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壊れた絵巻、消えゆく愛

壊れた絵巻、消えゆく愛

By:  今回Completed
Language: Japanese
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ドレス試着の日、彼氏の入江真宙(いりえ まひろ)は一緒に来ると約束していたのに、いくら待っても姿を見せなかった。 ウェディングドレスの裾は長く、私・大崎百華(おおさき ももか)はひとり鏡の前に立って、何度も体をかがめては裾を整えた。 3度目に裾を踏んだとき、ようやく真宙からメッセージが届いた。 【梨愛がさっき帰国したんだ。まだ気候に慣れてないみたいだから、迎えに行ってくる。先に試着しといて】 次の瞬間、SNSのタイムラインが更新された。 上杉梨愛(うえすぎ りえ)が、写真を投稿していた。 片膝をついた真宙が、梨愛の細い足首をそっと包み、ヒールのストラップを留めている――そんな写真だった。 一言だけ、キャプションが添えられていた。 【やっぱりこの人、絶対に自分でかがませてくれないんだから】 投稿を開いた瞬間、真宙の「いいね」がついているのが目に入った。 空気を読んだのか、スタッフがそっと声をかけてくれた。 「大崎様、入江様は大崎様のことをとても心配していらっしゃいます。『こっそりダイエットして体を壊すといけないから、ウエストは直さないように』と、わざわざご配慮くださって」 私は笑った。 心配してくれていること自体に、嘘はない。ただ、彼が別の誰かを優先することを、その優しさはちっとも止められなかった。 うつむいて、白いドレスを見つめる。 ふと気づいてしまった。 身の丈に合っていないのは、ドレスじゃない。 きっとずっと前から――この結婚そのものだ。

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Chapter 1

第1話

ドレス試着の日、彼氏の入江真宙(いりえ まひろ)は一緒に来ると約束していたのに、いくら待っても姿を見せなかった。

ウェディングドレスの裾は長く、私・大崎百華(おおさき ももか)はひとり鏡の前に立って、何度も体をかがめては裾を整えた。

3度目に裾を踏んだとき、ようやく真宙からメッセージが届いた。

【梨愛がさっき帰国したんだ。まだ気候に慣れてないみたいだから、迎えに行ってくる。先に試着しといて】

次の瞬間、SNSのタイムラインが更新された。

上杉梨愛(うえすぎ りえ)が、写真を投稿していた。

片膝をついた真宙が、梨愛の細い足首をそっと包み、ヒールのストラップを留めている――そんな写真だった。

一言だけ、キャプションが添えられていた。

【やっぱりこの人、絶対に自分でかがませてくれないんだから】

投稿を開いた瞬間、真宙の「いいね」がついているのが目に入った。

空気を読んだのか、スタッフがそっと声をかけてくれた。

「大崎様、入江様は大崎様のことをとても心配していらっしゃいます。『こっそりダイエットして体を壊すといけないから、ウエストは直さないように』と、わざわざご配慮くださって」

私は笑った。

心配してくれていること自体に、嘘はない。ただ、彼が別の誰かを優先することを、その優しさはちっとも止められなかった。

うつむいて、白いドレスを見つめる。

ふと気づいてしまった。

身の丈に合っていないのは、ドレスじゃない。

きっとずっと前から――この結婚そのものだ。

……

翌朝早く、玄関の電子錠が解除される音が響いた。

すぐに掛け布団がめくられ、ひんやりとした手が後ろから私の腰に回され、強く抱きしめられた。

「寝たふりなんてしなくていいから。入った瞬間にわかった」

真宙が低く笑いながら、顎を私の首筋に押し当ててくる。

「何年一緒にいると思ってるんだ。俺がいないと、お前ってろくに眠れないだろ」

何気ない口ぶりのその言葉が耳に届いた瞬間、目の奥がじわりと熱くなった。

彼は全部わかっているくせに。それでも私を1人残して、一晩中帰ってこなかった。

さわやかなシャワージェルの香りが鼻をくすぐった。けれど少し嗅いでみると、その奥に混じる女性用香水の残り香に気づいた。

甘く、濃く、まとわりつくような匂い。

梨愛がいつも使っているブランドだ。私が好む、冷ややかなウッディ系の香りとは、全く性質の異なるものだった。

胸の奥がざわついた。何を言っても、もう意味がない気がした。

腰に回された手をほどいて、布団をはねのけ、裸足のままバスルームへ向かった。

顔に冷たい水をパシャリと浴びせると、雫が顎の先から落ちた。

鏡を見上げる。青白い顔。目の下には、一睡もできなかった夜を物語る深い隈が、くっきりと残っていた。

足音が追いかけてくる。真宙がバスルームに入り、また両腕を私の腰に回した。

鏡に映る真宙は、生き生きとしていた。目元にまで、どこか満ち足りたような色を宿していた。

「まだ怒ってんのか?昨日、俺が一緒に行けなかっただけで?」

真宙はため息をついた。

「あのウェディングドレス、もう何回も一緒に試着に行ったじゃないか。1回くらい抜けたっていいだろ。

梨愛は帰国したばかりで、荷物も多かったし、昔からの友人として迎えに行くのは当然だろ。

普段あんなに分かってくれるのに、なんでこういうときだけ拗ねるんだ。こんなことでだんまりを決め込むつもり?」

「何でもない」

私は真宙の手を払いのけ、タオルをハンガーに戻して、部屋へ向かった。

「本当に?」

真宙は軽い足取りでついてきた。

「じゃあ昨日のドレス、決めてきた?請求書送ってくれれば、俺がサインしに行くから」

ベッドサイドのチェストの引き出しを開けて、赤い判が押された予約書を取り出した。

真宙の脇を通り抜け、まっすぐ書斎のシュレッダーへ向かう。

紙をシュレッダーの投入口に押し込んだ。

けたたましい細断音とともに、何度も何度もウエストの直しを頼んだあの予約書が、細長い紙くずになって屑籠に落ちた。

真宙がほんの少し固まってから、振り返り、私の手首をつかんだ。

「何してる!」

その顔色が変わっていた。怒りを押し殺した低い声が響く。

「いったい何をそんなに拗ねてるんだ。ドレスまで捨てるつもりか?」

手首を、骨が軋むほど強く握られた。青筋の浮いた真宙の手を見つめていると、反論する気力さえ消えていった。

「拗ねてなんかいない」

私は真宙の目を見て、ゆっくりと手を引いた。

「あの店、何度直してもウエストが合わなかったから。キャンセルしたの、それだけ」

肩を押しのけ、玄関で靴を履く。

ドアが閉まる直前、リビングから、真宙が秘書に電話をかける声が聞こえてきた。

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松坂 美枝
松坂 美枝
クズしかいない中、お疲れ様と言いたい イケメン弁護士がイケメンだったわ しかしクズ男はしぶとかった…(笑)
2026-07-17 09:11:54
6
0
ノンスケ
ノンスケ
まぁ見事にクズばかりの出てくる話。彼の母親もイカれてるし。なんだろう。本当に人の気持ちを踏み躙ることにかけては天下一品だわ。
2026-07-17 21:21:12
3
0
10 Chapters
第1話
ドレス試着の日、彼氏の入江真宙(いりえ まひろ)は一緒に来ると約束していたのに、いくら待っても姿を見せなかった。 ウェディングドレスの裾は長く、私・大崎百華(おおさき ももか)はひとり鏡の前に立って、何度も体をかがめては裾を整えた。 3度目に裾を踏んだとき、ようやく真宙からメッセージが届いた。 【梨愛がさっき帰国したんだ。まだ気候に慣れてないみたいだから、迎えに行ってくる。先に試着しといて】 次の瞬間、SNSのタイムラインが更新された。 上杉梨愛(うえすぎ りえ)が、写真を投稿していた。 片膝をついた真宙が、梨愛の細い足首をそっと包み、ヒールのストラップを留めている――そんな写真だった。 一言だけ、キャプションが添えられていた。 【やっぱりこの人、絶対に自分でかがませてくれないんだから】 投稿を開いた瞬間、真宙の「いいね」がついているのが目に入った。 空気を読んだのか、スタッフがそっと声をかけてくれた。 「大崎様、入江様は大崎様のことをとても心配していらっしゃいます。『こっそりダイエットして体を壊すといけないから、ウエストは直さないように』と、わざわざご配慮くださって」 私は笑った。 心配してくれていること自体に、嘘はない。ただ、彼が別の誰かを優先することを、その優しさはちっとも止められなかった。 うつむいて、白いドレスを見つめる。 ふと気づいてしまった。 身の丈に合っていないのは、ドレスじゃない。 きっとずっと前から――この結婚そのものだ。……翌朝早く、玄関の電子錠が解除される音が響いた。すぐに掛け布団がめくられ、ひんやりとした手が後ろから私の腰に回され、強く抱きしめられた。「寝たふりなんてしなくていいから。入った瞬間にわかった」真宙が低く笑いながら、顎を私の首筋に押し当ててくる。「何年一緒にいると思ってるんだ。俺がいないと、お前ってろくに眠れないだろ」何気ない口ぶりのその言葉が耳に届いた瞬間、目の奥がじわりと熱くなった。彼は全部わかっているくせに。それでも私を1人残して、一晩中帰ってこなかった。さわやかなシャワージェルの香りが鼻をくすぐった。けれど少し嗅いでみると、その奥に混じる女性用香水の残り香に気づいた。甘く、濃く、まとわりつくような匂い。梨愛がい
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第2話
「昨日、ウェディングドレスの店で何があったか今すぐ調べろ!また誰が彼女の機嫌を損ねたんだ?せっかく平穏に暮らせているっていうのに、毎日こんなことで騒ぎ立ててさ。あの店のオーナーに伝えろ、『元のサイズでもう1着作り直して、すぐ届けるように』ってな!」廊下はしんと静まり返っていた。エレベーターの前にたたずんでいると、換気口から吹き込む冷たい風に、胸の奥まで凍らされていくようだった。彼はわかっていない――私が気にしているのは、ドレスのことなんかじゃない。真宙のあのあからさまな特別扱いが、ただ、つらかった。スマホを取り出して、メモアプリを開く。「式の進行」という項目を探して、左にスワイプした。そして、削除をタップした。……仕事を終えてから、リノベーションしたばかりの新居へ向かった。置いてきた原稿を取りに行くためだ。エレベーターを降りた瞬間、玄関の前に置かれた女性用のサンダルが目に入った。昨日、SNSに上がっていた、あのサンダルだった。じっと見つめてから、ドアを開けた。リビングは静かだった。梨愛がオーバーサイズのTシャツを着て、私たちが3ヶ月かけて選んだミルクホワイトのソファに腰かけていた。私の姿を見るなり、梨愛は慌てて立ち上がり、反射的に真宙を呼んだ。「真宙!」書斎のドアが開き、真宙が出てきた。玄関に立つ私を見て、一瞬驚きの色が顔をよぎった。が、すぐに表情を取り繕った。「あの……」少し、近づいてくる。「梨愛が1人でホテルに泊まるのが怖いって言うし、俺の実家にいるのも気まずいだろうから、ここに数日泊めることにした。部屋が見つかったらすぐ出ていってもらうから」梨愛は上目遣いで私を見つめた。声には、こらえきれないような、いじらしい響きがにじんでいた。「百華さん、私が悪いのはわかってます。でも、両親をホテルの火事で亡くしてしまって……もし嫌なら、今すぐシェアハウスでも探します」そう言いながら、スマホへ手を伸ばした。「梨愛!」真宙が引き止め、眉を寄せながら梨愛を見た。「そんなことしなくていい。百華は気にしないから」私は静かに真宙を見ていた。こんなに長く愛してきた人を、ただただ見つめていた。真宙は私の前に立ち、当たり前のような顔で私たちの新居を別の女に明け渡し、私に異議を
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第3話
部屋の中から、くぐもった怒鳴り声と、梨愛の言い訳と、途切れ途切れのすすり泣きが聞こえてきた。でも、もうどうでもよかった。……その夜、家に帰ってから、スケッチブックを広げて修復を始めようとした。ちょうど筆を持ち上げたとき、スマホの画面が光った。以前注文しておいたプチギフトの専門店からの、デザインの最終確認の連絡だった。開いてみると、私たちをモデルにしたイラストのキャラクターが2人、並んでいた。線は柔らかく、色は温かく、描いてもらった当時は胸いっぱいの幸せがあった。今はただ、失望だけが残っていた。少し間を置いてから、キーボードにメッセージを打ち込んだ。【ありがとうございます。キャンセルでお願いします】送信した直後、以前やり取りしていた編集長から電話がかかってきた。「大崎さん、大変申し訳ないのですが、先日結ばせていただいた出版契約を、こちらから解除させていただくことになりました。詳細はお伝えできないのですが、ほかによりふさわしい作家が見つかりましたので。大変失礼いたしました」電話が切れた。ツーツーという音だけが続く。スマホを握る指先が、冷たくなっていた。理由はわからないのに、ふと、ある推測が頭をよぎった。真宙の番号を探して、そのまま発信した。「出版社との契約、あなたが裏で手を回したの?」電話の向こうで、数秒の沈黙があった。この沈黙に、私は慣れすぎていた。言葉を選ぶとき、私を傷つけるような残酷な事実を口にする前、真宙は必ずこうして押し黙る。「梨愛は今、お前より厳しい状況にいる。向こうでひどいDVを受けていたんだ。やっと離婚して帰ってきた。ここで生活を再建するための足がかりが必要なんだ。昔、俺と両親は梨愛のお父さんたちに助け出されたんだ。両親は彼女の面倒をきちんと見ると約束した。だから、俺の立場も少しは分かってほしい」目を伏せた。にじんだ色のスケッチブックを見つめていたら、涙が予告もなくこぼれた。このスケッチブックは、母が逝く前に描きかけていたものだ。どうしても出版したいと、私は母に約束した。3年をかけて、1筆1筆、母の未完の絵を補い続けた。色は試行錯誤しながら自分で探し出し、物語は母のノートをもとに一から組み立てた。あの病室で、私は母に誓った。真宙と幸せになると。そして絵本を世に出す
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第4話
新しいバージョンの絵本のサンプルデータを整理してメールに添付し、投稿フォームに必要事項を入力して、送信ボタンを押した。……仕事を終える直前、真宙の母、入江裕子(いりえ ゆうこ)から電話がかかってきた。実家に夕食を食べに来るようにと言われ、ついでに結婚式の式次第を確認したいとのことだった。スマホを握ったまま、画面に表示された名前を見つめ、結婚を取りやめることをどう切り出すか考えた。入江家に着き、リビングのドアを開けた瞬間、笑い声が耳に届いた。梨愛が裕子の隣にぴったりと寄り添い、ふたりで腕を組みながら楽しそうに笑っている。玄関に立つ私は、ひとり浮いた存在だった。裕子は梨愛の手の甲をポンポンと叩き、残念そうに言った。「梨愛ちゃんが留学さえしていなければ、今頃は真宙と結婚していたのにねえ。器の小さい女を嫁にしなくてすんだのに」足を止めず、そのまま靴を脱いだ。胸の奥がむかついた。私には両親がいない。けれど、ふたりが遺してくれた財産は決して少なくなかった。それでも、この家の人々から見れば、私はどこまでも格下の存在らしかった。「母さん、もういいですよ」真宙が眉をひそめて制した。「俺は本気で百華のことが好きなんです。梨愛と比べるのはやめてください」そう言いながら私に視線を向け、なだめるように近づいてきて、私の手を取ろうとする。その手をさりげなくかわし、ソファの方へと歩いた。裕子は私に気づくと笑顔を引っ込め、素っ気なく言った。「来たなら座れば」裕子のもう片方の手は、まだ梨愛の手を握っていて、私はまるで部外者だった。ソファに近づいた次の瞬間、視線が止まった。梨愛の首元に、ダイヤモンドのネックレスが光っていた。あれは間違いなく、母の形見だった。私の視線に気づいた梨愛が、手を伸ばしてそっとネックレスに触れる。得意げな色が、一瞬だけその顔に浮かんだ。「ふふ、入江のおばさまにいただいたんですよ。よく似合うって言ってくださって。どう思います?」私はネックレスを見つめたまま、冷えた声で言った。「母の形見がいつから、入江家のものになったんですか」裕子の顔色が変わる。立ち上がり、私を指差した。「このネックレスは、あなたのお母さんが私に貸してくれたものよ。彼女の半分でも器が大きければ、そんなみ
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第5話
タクシーが古い街並みが残るエリアの入口で停まったとき、細かい雨が降っていた。スーツケースを引きながらスマホのナビ通りに5分ほど歩くと、古びた小さなビルの前で足が止まった。2階に、木製の看板がかかっていた。【初心を忘れず】深く息を吸い、スーツケースを持ったまま階段を上る。木の踏み板が1段1段、ギシギシと鳴った。2階は仕切りのないワンフロアで、デスクがいくつか並び、壁にはさまざまなスタイルのイラストが所狭しと飾られていた。古い本と、コーヒーの香り。静かな空間だった。部屋の隅にいた男性が立ち上がり、こちらへ歩いてくる。背が高く、シンプルな白いシャツと落ち着いた色のズボン、金縁の眼鏡をかけた、穏やかな印象の人だった。私の顔を見て一瞬きょとんとし、それから、何かに気づいたような笑みを浮かべた。「武内雅哉(たけうち まさや)です」眼鏡を押し上げ、笑顔が温かくなる。「武内教授の息子です。覚えていませんか?子どものころ、向かいに住んでいて、よくご飯をご馳走になっていたんです。ここは、僕のアトリエです」脇に寄って中へ通しながら、スーツケースを受け取り、壁に立てかけてくれた。「投稿を受け取ったとき、原稿を見て、どこかで見たことがあると思って。本名を確認して、君だとわかりました」出されたカップを両手で包む。指先に、じんわりと力が入った。「そういえば、あの頃、君のお母さんが……」雅哉が少しだけ間を置いた。「うちに、とても良くしてくれました。母が逝った冬、父はほとんど立ち直れなくて。大崎さんのお母さんが毎日ご飯を持ってきてくれて、話し相手になってくれて、僕を美大まで通わせてくれた。ずっと恩に感じていました」立ち上がり、奥の部屋の金庫からファイルを取り出して、私に差し出す。「用意した出版契約書です。目を通してください」開くと、条項はどれも詳細で明確で、ほとんどが私に有利な内容だった。印税率はあり得ないほど高く、宣伝費は全額アトリエの負担になっていた。「これは……」「そんなに恐縮しなくていいですよ」雅哉は穏やかだが、揺るがない目で私を見た。「大崎さんのお母さんが僕を助けてくれたとき、見返りなんて何も求めなかった。これが、僕にできる唯一の恩返しです。君への、そして、お母さんへの」鼻の奥がつんとした
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第6話
真宙の言葉を受け取らず、ペン立てから1本ペンを抜き、最後の署名欄を開いて自分の名前を書いた。真宙にもう一言も言わせる間もなく、ズボンのポケットの中で、スマホが激しく震え始めた。画面に映し出された名前は、梨愛だった。「あっ、梨愛が……その、ちょっと状況が良くなくて、見に行かないといけない。片づいたらすぐ戻るから、ちゃんと話そう、いいか?」「私はどこにも帰らないし、何も話すことはない。あなたは、あなたの行くべきところへ行って」真宙は口を開いたまま、その場に立ち尽くしていた。何か言おうとして結局何も言えず、深く私を見つめてから、よろめくような足取りでアトリエを出ていった。……雅哉に、できる限り早く契約書に押印して手続きを進めてほしいと頼んだ。それからホテルを探してチェックインし、ルームキーを受け取る。部屋は広くはなかったけれど、清潔だった。窓の外には、雨に濡れた石畳の道が見えた。ドアを閉め、背中を預けたまま、ようやく、床にゆっくりと崩れ落ちた。ずっと張り続けていた力が、ひゅっと抜けた気がした。しばらく、その場から動けなかった。窓の外がすっかり暗くなってから、ようやく立ち上がり、スーツケースを開けた。明日、雅哉にバックアップとして渡す原稿の最終データを整理しておくためだった。手を伸ばすと、先にスケッチボードに触れた。その裏の収納ポケットに、何か硬いものが当たる。動きが止まった。ゆっくりとスケッチボードを裏返し、そっとポケットを開ける。そこには元々、白紙の画用紙が数枚入っていたはずだった。画用紙はまだあった。ただその間に、細かく引き裂かれた紙片が、1束挟まれていた。母が、世に出さなかった幻の手稿だった。ずっとアトリエの棚の一番奥に施錠して保管してきた。真宙でさえ、正確な場所を知らなかったはずなのに。それが、粉々になっていた。そのとき、スマホが光った。知らない番号からのメッセージだった。【今日中に入江家に帰らなければ、次は紙切れじゃ済まない。棚の中の大切なもの、ちゃんと預かっておいてあげるからね】差出人の名前はなかった。でも、その悪意は言葉の端から端まで、はっきりと伝わってきた。梨愛だ。スマホを握りしめたまま固まっていると、突然、部屋のチャイムが鳴った。眉をひそめてドアに近づき、
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第7話
窓の外の雨は、いつまでも止みそうにない。最終原稿の入ったUSBメモリを手に、アトリエのドアの前に立った。ドアには「泥棒」「返せ」といった中傷の張り紙がびっしりと貼られ、壁には見るに堪えない罵詈雑言が書き殴られていた。梨愛が、刺青だらけの男たちを四、五人ほど連れて、街角から現れた。「バッグからUSBを奪いなさい。逃がさいでよ」男たちは鉄パイプを手に、まっすぐ突っ込んできて私を取り囲んだ。ざらついた大きな手がバッグのストラップを掴み、引きちぎらんばかりに引っ張った。私はバッグを死に物狂いで抱え込んだ。半年をかけた渾身の作だ。一筆一筆、自分で描き上げた原稿のデータがすべて詰まっている。真宙が勢いよく飛び出してきて、私を一気に腕の中へと引き込んだ。鈍い衝撃音が響いた。背中を鉄パイプで強く殴られ、彼はくぐもったうめき声とともに片膝をついた。「真宙さん!」梨愛が駆け寄り、私を突き飛ばして真宙に縋りついた。地面に膝をつき、真宙の腕を抱きしめて泣き叫んだ。「ごめんなさい、借金取りに追われて、もう限界で……助けて、今回だけにするから。もう絶対に迷惑かけない!」真宙は顔から血の気が引いていたが、それでもポケットから小切手帳を取り出した。金額を書き込み、リーダー格の男に差し出した。「これを受け取ったら、さっさと消えろ」数台のパトカーが、けたたましいサイレンを響かせながら路肩に滑り込んだ。警官たちが飛び出してきて、男たちと梨愛を次々とパトカーのボンネットへ押しつけた。警官が手錠を取り出し、梨愛の手首にかけた。真宙は立ち上がり、私のジャケットに貼りついた破れた張り紙の端を取ろうと手を伸ばした。「梨愛への恩義は、今日ですべて返した。これからの俺には、お前しかいない。一緒に帰ろう。結婚式は予定通りやる」私は一歩後ずさり、その手をかわした。「私たちの婚約は、これで完全に終わりよ。新居のデザインと私物については、弁護士を通じて正当な評価額での損害賠償を請求する。あなたと私の間には、もう何もない」真宙の目が赤くなった。その瞳に、あからさまな恐怖の色が広がっていく。彼は慌てた手つきでポケットからベルベットのケースを取り出し、婚約指輪を差し出した。大勢の目の前で、膝の力が抜けたように、アスファルトの上へ両膝
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第8話
裕子の顔が青ざめた。さっきまでふんぞり返っていた態度は、もう見る影もない。真宙の肩を掴み、爪をスーツに食い込ませる。「真宙!今すぐ入江家の力を使ってメディアを抑えて。うちをこんなことで終わらせるわけにはいかない!」真宙は、ゆっくりと彼女の手を払いのけた。「母さん。入江家はもう、とっくに腐りきってたんです。抑えられるものじゃないです。これは当然の報いですよ」真宙が振り返り、私を見る。その目には、言葉にできないほどの痛ましさがにじんでいた。「百華。俺の名義にある入江グループの株式を全部、本日付けで無償譲渡する。せめてもの償いとして受け取ってくれ……今まで、俺は目が曇っていた。お前を裏切った。全部、俺がお前に作った借りだ」「気でも狂ったの!」裕子が怒り狂って叫んだ。もう完全に理性を失っている。彼女は振り返ると、路肩の花壇から、抱えきれないほど大きな陶器の植木鉢を掴み上げた。「死んでしまいなさい!全部、あんたみたいな泥棒猫のせいよ」鬼のような形相で、重い植木鉢を、私の後頭部めがけて振り下ろした。かわす間などなかった。大きな影が飛び込んできて、私に体ごと覆い被さるように抱え込む。植木鉢が真宙の後頭部で砕け散り、泥と、鋭い陶器の破片が辺りに飛び散った。生暖かい血が、私の頬に跳ねた。真宙はひと声も上げないまま、力を失い、どさりと私の足元に倒れ込んだ。救急車が駆けつけ、救急隊員たちが血まみれの真宙を担架に乗せる。私はバッグからティッシュを取り出して頬の血を拭い、一度も彼を振り返らなかった。「行きましょう」ホテルの廊下に戻った瞬間、鼻を突くガソリンの臭いが漂ってきた。部屋のドアを押し開けると、濃い黒煙が一気に流れ込んできて、目が焼けるように痛んだ。梨愛が、部屋の中央に立っていた。警察署で気絶したふりをして逃げ出してきたらしく、顔は土気色に変わっていた。片手に、防風ライターを掲げていた。非常口のドアは内側から固く施錠され、床一面に、刺すような臭いのガソリンが撒かれている。「やっと帰ってきたね。ハハハハッ!」梨愛が狂ったように笑った。「絵本の一発逆転を狙ったって無駄よ。私が手に入れられないものは、あなたにも渡さない。今日はここで、あなたの大切な原稿と一緒に燃えてしまいましょう!」
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第9話
私は一歩足を引いた。バッグから婚約解消の合意書を取り出し、容赦なく、真宙の胸の上へと叩きつける。「今すぐ拇印を押して」真宙の顔から、微かな笑顔が消えた。信じられないという顔で書類を見つめ、みるみるうちにその目が赤く染まっていく。「サインするわけないぞ!百華、何を言ってるんだ。俺が何かしたか?行かないでくれ。お前しかいないんだ。そんな残酷なことをしないでくれ!」真宙は勢いよく体を起こし、自分の手の甲から点滴の針を引き抜いた。鮮血がすぐに溢れ出し、真っ白なシーツに落ちる。私はその手首を掴んで動きを止め、冷めた目で真宙を見下ろした。「その同情を誘う芝居、本当に見苦しい。記憶喪失のふりなんて、もう見え透いてるから。安っぽい演技はやめて」目も合わせないまま真宙の手を押さえつけ、朱肉をつけ、そのまま書類に拇印を押させた。私は一度も振り返らずに病室を出た。病院の正面玄関ホールへ出た途端、外で待ち構えていたカメラマンと記者たちが数十人、どっと押し寄せてきた。何本ものマイクが、顔の前に突き付けられた。「大崎さん!梨愛さんが留置所から声明を出しました。入江さんの子を妊娠していたのに、あなたが無理やり中絶させたというのは事実ですか!」「嫉妬に狂っての犯行ですか。お答えください!」「お母様に多大な借金があると聞きます。入江家に嫁いで借金を帳消しにしようとしていたんですか!」容赦のない質問が次々と浴びせられる。裏取りすらしていないデマを撒き散らすメディアだった。そこへ、雅哉が黒服のボディーガードたちを引き連れて人混みを割って入ってきた。自分のジャケットを私の肩にかけ、私の前に立ちはだかった。ボディーガードたちが、群がる記者を力づくで押し返した。そして彼は、海外の医療機関が発行したカルテのコピーを、最前列にいた記者の顔めがけて叩きつけた。「ちゃんと読め。上杉梨愛は、長年の薬物依存と荒れた生活が原因で、5年前に『妊娠は難しい』と診断されてる。留置所で職員を買収して虚偽の情報を流したことは、先ほど県警本部の確認が取れた。今、ネット上でデマを拡散したアカウントには、全件、発信者情報開示請求と内容証明を送っているところだ」わずか十数分で、ネットの世論が完全にひっくり返った。梨愛と入江家への批判が爆発的に溢れ返り、さっきまで
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第10話
裕子もまた、傷害教唆と詐欺の容疑で、昨夜のうちに逮捕状が執行されていた。そこで、担当の刑事から電話が入った。「大崎さん。入江裕子が取調室で泣き崩れていまして……一度だけでいいから百華に会って謝りたい、どうか告訴を取り下げてほしい。そう伝えてくれと」「会いません。あとは法に従って進めてください」それだけ告げて、私は通話を切った。その日の夜8時、私の絵本が、全世界のプラットフォームで一斉に配信を開始した。アトリエのモニターの前で、雅哉が声を弾ませて教えてくれた。配信からわずか1時間で、この業界における初日売上の世界記録を更新したのだと。「大崎百華」という名前が、初めてはっきりと世に刻まれた瞬間だった。アトリエの2階の窓際に立ち、夜の街を叩きつける豪雨を眺めていた。そのとき、真下から、タイヤが水を跳ね上げる耳障りなブレーキ音が響いた。タクシーが路肩に停まり、助手席のドアが開く。真宙が車椅子に座ったまま、運転手に手を貸してもらって路上へと下ろされた。病院の薄っぺらい患者服をそのまま着て、彼の頭には分厚い包帯が巻かれている。無理やり点滴を抜いてきたらしく、手の甲の包帯から、じわじわと赤黒い血がにじんでいた。集中治療室から一命をとりとめたばかりの体で、この土砂降りの中を、ひとりで追いかけてきたのだ。車椅子からずり落ちた真宙は、残っていたわずかな気力だけで車椅子を押しのけ、豪雨のアスファルトの上を這うようにして、アトリエの入り口へと向かってくる。泥と、自分の血が、全身にぐっしょりと絡みついていた。私は傘を広げ、ゆっくりと階段を下りて、エントランスのドアを開けた。真宙は私の足元にすがりつき、血まみれの両手を、祈るように頭上へと掲げた。冷たい雨が青ざめた頬を叩く中、必死に顔を上げて私を見る。その瞳にあったのは、純粋で、絶望的な哀願だった。「百華……俺の命をやるから。だから、もう一度だけ、振り向いてくれ……」喉が潰れているのか、声はひどくかすれて、空気の漏れる音にしか聞こえなかった。「俺が間違っていた。本当に、全部わかったんだ。お前がいないと……俺にはもう、何もないんだよ」私は傘を差したまま、ただ冷めた目で、足元にすがる男を見下ろした。かつてはあれほど愛おしかったはずの輪郭が、今はただ、道端の汚れたゴミにし
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