LOGIN私、広中紗穂(ひろなか さほ)の娘・広中葵(ひろなか あおい)には、生まれつき心臓の病があった。 五年ものあいだ待ち続け、私はようやく、葵に適合する心臓を見つけた。 手術室に入る前、心臓外科医である夫・広中優一(ひろなか ゆういち)は目を赤くしながら、私に約束した。 「紗穂、安心してくれ。必ず俺の手で、葵を助けてみせる」 けれど、手術が半ばまで進んだところで、優一は何の説明も残さず、慌ただしく姿を消した。 嫌な予感に突き動かされ、私は足をもつれさせながら手術室へ飛び込んだ。 そこで目にしたのは、胸を開かれたまま、血に染まって横たわる葵の姿だった。 夫の助手の医師は、青ざめた顔で言葉を詰まらせた。 「広中先生が……葵ちゃんはまだ待てる、と。でも相川さんの息子さんは待てないからと、葵ちゃんに移植するはずだった心臓を持って出ていかれました……」 私はその場に崩れ落ち、震える手で何度も優一に電話をかけた。 けれど、葵の命が尽きるその瞬間まで、電話がつながることはなかった。 葵の遺体の処置を待つあいだ、私は優一のかつての教え子・相川律子(あいかわ りつこ)がSNSに上げた投稿を見てしまった。 【誤診だったみたい。大したことなくて本当によかった。せっかくだから、もう必要なくなったこれは、クロへのご褒美にしちゃおう】 動画の中で、律子の犬は、葵のものになるはずだった心臓に噛みつき、夢中で引き裂いていた。 冷たくなった葵を見つめた瞬間、私はようやく悟った。 もう優一を許す理由など、どこにも残っていないのだと。 そして優一がようやく、手術台の上に残した娘のことを思い出したとき。 彼を待っていたのは、がらんとした部屋と、小さな位牌だけだった。
View More会場中から向けられる怒りに、律子の顔から血の気が引いた。彼女は葵の骨壺の前に膝をつき、震えながら何度も頭を下げた。「ごめんなさい、葵ちゃん……私が悪かったの。許して。お願い、恨まないで……」けれど次の瞬間、律子は必死に首を振った。「でも、私は電話しただけなの。来るって決めたのは優一さんよ。心臓を持っていったのも、あなたを置いていったのも、全部あの人なの……!」彼女は泣きながら、今度は拓馬を指さした。「それに、嘘をついたのはこの子よ。葵ちゃんと話したって言ったのは、この子なの。だから、恨むなら私じゃなくて……!」その言葉に、会場中が息をのんだ。この女は、自分が助かるためなら、実の息子まで切り捨てるのだ。優一は血走った目で律子をにらみつけた。「お前……全部お前のせいだ。お前があんな電話をしてこなければ、葵は死ななかった。お前が俺を狂わせたんだ。お前のせいで、俺は娘を失ったんだ!」彼の声は、憎しみに震えていた。「許さない。殺してやる……!」優一は律子へ飛びかかり、我を忘れたように殴りつけた。律子は悲鳴を上げ、必死に抵抗した。けれど、どれだけ暴れても、男の力にはかなわなかった。私はその様子を見つめ、冷たく笑った。「優一、もっと強くやったら?それじゃ、あなたの恨みは晴れないでしょう」優一は一度こちらを振り返った。そして律子へ向き直ると、拳を固く握りしめた。次の瞬間、その拳が律子のこめかみへ叩き込まれた。優一は長年、医師として人の体を見てきた。どこが急所なのか、知らないはずがなかった。やがて、律子は動かなくなった。母親が倒れるのを見た拓馬は、その体にすがりついて泣き叫んだ。優一はゆっくりと振り返った。その体は震えていた。それでも彼は片手を伸ばし、拓馬の首に指をかけた。やがて、その泣き声も途切れた。目の前で母子が息絶えるのを見た瞬間、優一は完全に崩れ落ちた。足元から力が抜け、その場に膝をつく。そして、近くにあった果物ナイフをつかみ、自分へ向けようとした。けれど、優一が手を振り上げた瞬間、私はそのナイフを蹴り落とした。ここまで来て、楽に死ねると思わないで。死ぬことさえ、今のあなたには贅沢すぎる。優一には、罰が下るその日まで、苦しみながら息をして
ほんの三十秒ほどのことだった。助手の医師が麻酔を追加しようとして振り返ったときには、葵の体からあふれ出した血が、すでに手術台を赤く染めていた。その後の映像には、助手の医師がよろめくように手術室を出て、私を呼びに来る姿が映っていた。手術室の記録映像は、三十分にも満たなかった。つまり、娘を溺愛する父親として知られていた広中教授は、娘の命が懸かった手術で、たった三十分ほどしかそばにいなかったということだ。それどころか、かつての教え子の女から一本電話が入っただけで、迷うことなく自分の子を捨てて出ていった。映像が終わったあとも、怒りで体の震えが止まらなかった。けれど、まだやるべきことがある。私は震える手でスマホを下ろした。血の気を失った優一には目もくれず、ゆっくりと会場の記者たちへ向き直る。「皆さんが、優一に呼ばれて、竹中家の醜聞を見物しに来たことは分かっています」私は会場を見渡し、言葉を続けた。「でも、今の映像を見てもなお、この男の味方をするつもりですか? 自分の手で娘を死なせた男をかばって、竹中家を責めるつもりですか?」会場は静まり返っていた。「ここにいる皆さんにも、子どもや、大切な家族がいるはずです。もし自分の夫が、外の女のために我が子をこんな目に遭わせたら、あなたたちは黙っていられますか?」しばらく、誰も口を開かなかった。やがて、会場の片隅から低い声が上がった。「竹中さん……私たちは確かに、広中教授に呼ばれてここへ来ました。でも、良心まで売った覚えはありません」その記者は、静かにカメラを下ろした。「カメラは止めました。今日ここで見たことは、一言も外へ漏らしません。どうか、広中教授に相応の報いを受けさせてください」その言葉をきっかけに、会場のあちこちから同意の声が上がった。一人、また一人とカメラが下ろされていく。つい先ほどまで目を刺すほど眩しかったフラッシュは、いつの間にかすべて消えていた。その光景を見て、私はようやく小さく息を吐いた。そして、抜け殻のように立ち尽くしている優一へ向き直る。迷いはなかった。私は力いっぱい、彼の頬を打った。「このろくでなし。葵に土下座して謝りなさい」優一はもう、言い返すことすらできなかった。葵の遺骨が納められた小さな骨壺を、た
映像の中で、優一は手術台の前に立ち、術野から目を離さないまま処置を続けていた。そこへ、けたたましい着信音が鳴り響く。それでも優一は手を止めず、そばにいた助手の医師に言った。「誰からか確認しろ。紗穂なら出なくていい」助手の医師は着信画面を見て、声を落とした。「広中先生、相川さんからです……」その言葉が終わるより早く、優一は手にしていた器具を置き、振り返って怒鳴った。「なら早く出ろ!何をぐずぐずしている!」助手の医師は一瞬、手術台の上の葵へ目をやった。それからためらうように、通話をつないだ。電話の向こうから聞こえてきた律子の声は、今にも泣き出しそうだった。「優一さん……あの検査結果、本当に誤診だったの?やっぱり不安で……拓馬が今朝起きてから、ずっと苦しいって言っているの。一度だけでいいから、見に来てくれない?」「律子、落ち着け。俺が診断を間違えるはずないだろ。拓馬は大丈夫だ。何ともない」「もう私と拓馬のことなんて、どうでもよくなったの?どうして急にそんな冷たいことを言うの……?」律子の声はさらに震え、涙まじりになっていった。何度も、来てほしいと優一にすがる。優一はほとんど迷わなかった。彼は手術着を脱ぎながら、ため息まじりに言った。「分かった、分かった。まったく、お前にはかなわないな。そこで待っていろ。すぐ行く」手術着を脱ぎ捨てた優一を見て、助手の医師は呆然とした。そして手術台の上の葵を指し、震える声で訴えた。「広中先生、葵ちゃんの手術はまだ始まったばかりです。この移植用の心臓をどれほど待ったか、先生が一番よくご存じのはずです。それに、葵ちゃんの状態はもう限界です。今日この手術を終えられなければ、今月いっぱいもつかどうかも分かりません。こんなところで離れるなんて、正気ですか……!」助手の医師の訴えを聞いても、優一が手術着を脱ぐ手を止めることはなかった。彼は助手の医師にちらりと目をやると、手術台のそばへ歩み寄り、葵の小さな手を握った。「葵、拓馬くんの体の中で悪い病気が暴れているんだ。パパが行って診てあげないと、拓馬くんが危ない。少しだけ、ここで待っていられるか?すぐ戻ってくる。戻ったら、パパが必ず葵も助けるから」弱り切った葵は、痛みに耐えながらも、優一の手をぎゅっと握り返
その言葉で、優一の顔からようやく余裕が消えた。彼は一歩前へ出ると、父の手にある骨壺を見つめ、震える声で言った。「お義父さん、さっきから俺が葵を死なせたと言っていますけど……昨日、紗穂は俺に葵の動画を送ってきたんです。それに、拓馬だって言っていました。おとといの夜、葵お姉ちゃんと話したって」私は優一を見つめたまま、スマホを取り出した。彼とのLINEの画面を開き、目の前に突きつける。「よく見なさい。私が送った動画が、いつ撮ったものなのか」今は梅雨の時期だ。それなのに、動画の中の葵は厚手の冬服を着ていた。あのとき、優一が少しでもちゃんと見ていれば、すぐに気づけたはずだった。もしかすると彼は、この動画をまともに見てもいなかったのかもしれない。優一は画面に映る葵をじっと見つめた。そして次の瞬間、顔から一気に血の気が引いていった。ようやく違和感に気づいたのだろう。彼ははっと振り返ると、律子のそばにいた拓馬の腕をつかんだ。「お前、あの夜、葵お姉ちゃんと話したって言ったよな?あれは嘘だったのか!」優一に怒鳴られた拓馬は、びくっと肩を震わせ、その場で泣き出した。律子がすぐに割って入り、拓馬をかばうように優一の手を押しのけた。「優一さん、子どもにそんな言い方しないで。拓馬が嘘をつくはずないでしょう?それに、その骨壺だって本物かどうか分からないじゃない。あなたを信じ込ませるために、二人で用意したものかもしれないわ」律子の言葉に、優一の表情が揺らいだ。彼は父のもとへ駆け寄ると、骨壺を奪い取り、乱暴に蓋を開けた。「律子の言う通りだ。これが葵の遺骨だなんて、どうやって証明するんだ。お前たちが勝手に用意したものじゃないと、誰が言い切れる!」父の目に、抑えきれない怒りが宿った。父が後ろに控えていたボディガードたちへ手を上げかけた瞬間、私はすぐに前へ出て、父を止めた。今日こそ、優一に自分が何をしたのか、嫌というほど思い知らせてやる。私は優一の手から骨壺を取り戻し、そっと父の手に返した。「優一、今すぐ私と帰って、葵の遺影の前で土下座して謝りなさい。そうすれば、まだ少しは考えてあげる。でも、あの女の言葉を信じて、まだ私に噛みつくつもりなら――竹中がどういう家か、あなたは知っているはずよ。無事に帰れるな
私が言い終えたとき、律子はステージの上で呆然と立ち尽くしていた。優一は血相を変え、客席から駆け上がってくると、私の襟元を乱暴につかんだ。「ふざけるな!葵が死んだなんて、そんなわけないだろ!昨日だって動画を送ってきたじゃないか。葵は生きてる。お前が嘘をついてるだけだ!」無数のフラッシュが、一斉にステージへ向けられた。優一は青ざめた顔で、私の体を激しく揺さぶった。「今すぐ葵に電話しろ!早くしろ!葵に直接聞けば分かるんだ。あの子が俺を責めるわけないだろ!」その直後、頭上からヘリコプターの轟音が響いた。数秒後、父が小さな骨壺を抱えて現れた。そして、それを優一の前へ静かに
「少しは事情を汲んでやれないのか!お前が使うわけでもないんだろ。だったら譲ってやればいいだけの話じゃないか!」そこで、私の中で何かが切れた。私は優一の襟元をつかみ、喉が裂けるほど叫んだ。「葵のために用意した場所だからよ!葵は死んだの!あなたが手術の途中であの子を置いていったせいで、手術台の上で死んだのよ!それでも父親なの!?」それまでざわついていた周囲が、私の言葉に一瞬で静まり返った。優一は呆然とした顔で振り返り、墓石を見た。けれど、その表情が崩れたのはほんのわずかな間だけだった。すぐに彼は顔をしかめ、馬鹿にしたように笑った。「紗穂、お前……そんな嘘までつく
葬儀の場で、優一を知る人たちはみな、娘を溺愛していたはずの彼が姿を見せないことに驚いていた。参列者たちは心配そうに、次々と優一へ電話をかけた。けれど、私には分かっていた。その電話がつながるはずがないことを。案の定、葬儀が終わるまで、優一が姿を見せることはなかった。喉の奥にせり上がる嗚咽をこらえながら、私は出棺の前にもう一度だけ、葵の冷たくなった小さな手を握った。父親でいる資格もないあの男に邪魔されなかったことは、葵にとって、むしろよかったのかもしれない。そのまま納骨を迎えるはずだった。けれど、霊園の職員が血相を変えて駆け寄ってきた。「広中様、大変です。お嬢様
私は広中紗穂(ひろなか さほ)。二時間前、心臓外科医である夫・広中優一(ひろなか ゆういち)は、娘の広中葵(ひろなか あおい)を手術台に残したまま、相川律子(あいかわ りつこ)のもとへ駆けつけた。律子は、夫がいつも私たち母娘より優先してきた女だった。二時間後、私は医師から差し出された死亡診断書を受け取り、震える手で死亡届の欄に名前を書いた。葵は霊安室へ移され、私はそのストレッチャーの横を、ただ黙ってついて歩いた。そのときになって、ようやく優一から電話がかかってきた。通話がつながった瞬間、耳をつんざくような音楽が鼓膜を打った。向こうはひどく騒がしく、優一の声は信じられ
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