LOGIN五年前、望月紗和(もちづき さわ)は妊娠七か月だった。 けれど、夫・御堂怜央(みどう れお)の特別な女である花宮莉乃(はなみや りの)に腹を蹴られ、お腹の子を失った。 さらに紗和を深く傷つけたのは、怜央の一言だった。 「莉乃もわざとやったわけじゃない。彼女を刑務所に行かせるわけにはいかない」 彼は紗和の意思を無視し、勝手に示談書に署名した。 それから五年。 海外留学から戻ってきた莉乃を前に、紗和が養子として育ててきた御堂晴翔(みどう はると)は、無邪気な顔で言い放った。 「ママ、きらい。いつも莉乃ママをいじめるんだもん」 その瞬間、紗和はようやく思い知った。 この家には、最初から自分の居場所などなかったのだと。 もう誰にも踏みにじられない。紗和は奪われたものを一つずつ取り戻し、8年ものあいだ捧げ続けた愛を、未練ごと断ち切った。 怜央と莉乃が破滅へ向かっていくのを見届けながら、紗和は密かに自分を守り続けてくれていた大物と籍を入れる。 やがて莉乃の本性が暴かれ、すべてを失った怜央は、紗和の前に膝をついた。 「紗和、全部俺が悪かった。お前を大切にしなかった。頼む、許してくれ。俺のところへ戻ってきてくれ」 けれど紗和は、静かに微笑むだけだった。 少しふくらみ始めたお腹に、そっと手を添えた。そこには、彼女を心から愛する人との新しい命が宿っていた。 そして彼女を愛する人は、いつだって彼女のそばにいた。 一度も、欠けることなく。
View More莉乃が少し具合を悪くしただけで、怜央は一晩中そばを離れず、甲斐甲斐しく世話をする。では、自分には?紗和は小さく首を横に振った。病気の時どころか、流産した時でさえ、怜央がそんなふうにしてくれたことは一度もなかった。以前の紗和は、怜央は誰に対しても冷淡で、人の世話などできない人なのだと思っていた。けれど今なら分かる。本当は、彼にも人を気遣うことはできる。してくれなかったのは、ただ紗和が大切に思われていなかったからだ。紗和はさらにパンを数口かじり、どうにか空腹を紛らわせた。冷たく乾いたパンは、まるで味のない塊を噛んでいるようで、飲み込むたびに喉の奥がひどく苦くなった。晴翔は紗和の向かい側、莉乃の隣に座っていた。彼は機嫌を取るように、真珠のブレスレットを取り出した。「莉乃おばさん、これあげる」立ち去ろうとしていた紗和の動きが、思わず止まった。その真珠のブレスレットを、紗和は知っていた。晴翔が長い時間をかけて、自分の手で作っていたものだった。使われているのは、紗和が晴翔を連れて海外へ休暇に行った時、現地で選んだ天然真珠だった。白、黄金色、紫、黒。さまざまな色が組み合わされ、とても美しかった。晴翔が「いちばん大好きなママに、心を込めて作ってあげる」と言った時、紗和はそれが自分へのプレゼントなのだと思っていた。だからあの時、胸を弾ませながら、子どもでも扱いやすい制作道具を買った。晴翔が完成させて、自分に贈ってくれる日を、ずっと楽しみに待っていたのだ。今、晴翔はその真珠のブレスレットをついに完成させた。そして紗和の目の前で、莉乃に贈った。紗和の心は、不意に砕けた。離婚届と協議書には、すでに晴翔の親権を放棄すると記してある。晴翔はもともと怜央と莉乃の子であり、紗和とは何の関係もない。それでも、紗和はこの子を何年も育ててきた。まだ情が残っていた。けれど晴翔は、何度も何度も紗和を見下し、傷つけた。紗和は、莉乃がその真珠のブレスレットを受け取り、嬉しそうに自分の手首につけるのを見ていた。そこにはすでに、高級ブランドのブレスレットがいくつも飾られている。莉乃にとって、その真珠のブレスレットは必要なものではなかった。紗和には想像できた。きっと莉乃は、見えないところ
ウォークインクローゼットの中央に飾られているウェディングドレスが、ふと目に入った。豪華なものではなかった。新郎側の親族がわずかに出席しただけの式で、一度だけ身にまとったドレスだった。それでも、かつての紗和にとっては、何より大切な宝物だった。だから彼女はわざわざ壁一面を空け、透明なガラスケースを用意し、高級なマネキンにそのドレスを着せて飾っていた。それを見るたびに、自分の人生でいちばん輝いていた瞬間を思い出せる気がしていた。ウェディングドレスを着たあの日、紗和は胸がいっぱいになるほどの喜びで、怜央のプロポーズを受け入れた。彼と年を取るまで添い遂げる未来を、本気で夢見ていた。けれど今、残っているのは、全身に刻まれた傷と、胸の奥に積もり積もったやりきれなさだけだった。紗和はショーケースを開け、名残を惜しむように、白い刺繍のドレスをそっと撫でた。一点の曇りもない、真っ白なドレス。けれど紗和は、もうそれを捨てると決めていた。この結婚は、もう汚れてしまったのだから。翌朝。紗和が寝室を出ると、怜央はすでに出かけていた。食卓では、莉乃が晴翔と一緒に朝食を取っている。紗和は莉乃に目を向けた。莉乃はキャミソール一枚同然の格好で、首元には赤いキスマークがひとつ残っていた。服装こそどこか乱れて見えたが、顔色は白く艶やかで、化粧もきちんと整っている。髪の一本すら乱れていない。若く艶めいたその顔は、白く柔らかく、どこか無邪気にさえ見えた。むき出しの腕にも、耳にも、首にも、ジュエリーが惜しげもなく飾られていて、たしかに人目を引く妖艶さがあった。明るく人を惑わせる目の奥には、得意げな色と、紗和への軽蔑が宿っている。まるで、こう告げているかのようだった。あなたには、怜央を私と奪い合う資格すらないのだ、と。紗和は視線を戻し、食卓についた。朝食を取ろうとしたが、彼女の分は何ひとつ用意されていなかった。莉乃はその様子を見ると、自分がひと口だけ飲んで脇に置いていた薬膳スープを、紗和の前へ押しやった。「紗和さん、私、今朝はそんなに食べるつもりじゃなかったの。でも怜央くんが、私は身体が弱いからちゃんと栄養を取らないとって言って、キッチンに特別な薬膳スープを作らせてくれたのよ。あなたの分も用意してもらお
紗和は子どもに手を上げていなかった。おおよそ想像はつく。莉乃が晴翔をそそのかし、嘘をつかせたのだろう。彼女はベッド脇のテーブルの上を指さした。そこには、ようやく継ぎ合わせた祖母の写真が置かれていた。「この大切な写真を、あの子が破ったの」怜央はしばらく写真を見つめていた。もし、祖母はもう埋葬されたのだから、こんな写真をまた飾るのはあまりよくないと言えば、紗和はきっとまた怒る。下手をすれば、騒ぎになるかもしれない。だから彼は、言わないことを選んだ。ただ淡々と言う。「そんなに大切なら、ちゃんとしまっておくべきだった。晴翔のしつけが行き届いていないのは確かだが、それはお前にも責任がある」怜央には、幼い頃の傷があった。そのせいで、家族というものにひどく冷淡だった。それは紗和の家族に対してだけではない。自分の家族に対しても同じだった。父の御堂海斗(みどう かいと)は、富豪の世界でも名の知れた遊び人だった。映像まで残っている若いホステスだけでも、200人を超えていた。怜央は幼い頃、海斗が結婚を裏切る姿を目の当たりにした。母はそのせいで双極性障害を患い、突然彼に冷たくなったり、まるでそこにいないかのように無視したりすることがあった。その後、怜央の母は完全に心を病み、今も入院治療を受けている。幼い頃から家族の温もりをほとんど知らずに育った彼には、紗和が言った「最後に会いたい」という願いに、どれほどの意味があるのか想像することすらできなかった。晴翔のしつけにしても、以前はずっと紗和が一人で担っていた。紗和も分かっていた。以前の自分は、この子を愛しすぎていた。そして夫にも従いすぎていたのだ。けれど、託す相手を間違えたと分かった以上、彼女は手放すことができる。いや、手放さなければならない。祖母の言葉が、まだ耳に残っていた。「紗和、諦めて、前へ進みなさい」もう、手放すべきだった。紗和は継ぎ合わせた写真の破片を、丁寧に透明なフィルムで包み、キャリーケースのいちばん奥にしまった。そこは、彼女にとって最も大切なものを入れておく場所だった。写真をしまい終え、彼女が顔を上げると、怜央が目の前に立っていた。薄い唇から、低い声がこぼれる。「俺たち、もうずいぶんしていない」彼は手を伸ばし、紗和
祖母の言葉がまだ終わらないうちに、機械の警告音が突然鳴り響いた。紗和ははっと立ち上がり、すぐに看護師を呼んで処置を求めた。祖母は手術室へ運び込まれた。けれど、再び運び出されてきた時、そこに見えたのは一枚の白い布だけだった。痩せ細った祖母の身体を、白い布が覆っていた。紗和は目の前がぐらりと揺れ、足から力が抜け、その場に座り込んだ。おばあちゃんは、本当にこのまま逝ってしまった。紗和にはもう泣く力さえ残っておらず、ただ少しずつ祖母のほうへ這っていくことしかできなかった。「おばあちゃん……おばあちゃん……お願い、私を置いていかないで……私を一人にしないで……」彼女は病床まで這い上がり、祖母の亡骸を抱き締めて、身を裂かれるように泣いた。そばにいた医師が慰めるように言った。「どうか、あまりお気を落とさないでください」だが紗和には、そんなことはできなかった。祖母の身体を抱いたまま、泣き崩れ続けた。ふいに耳元で声が聞こえた。「御堂社長、いらっしゃいましたか」怜央の声も続いた。「お祖母様は安らかに逝けたのか?苦しみはなかったんだろうな?」「はい、苦しまずに逝かれました」「そうか。では、妻をもう少しここにいさせてやってくれ」その口ぶりだけを聞けば、彼はどれほど立派な孫婿に聞こえることだろう。案の定、紗和が病院に残って祖母の遺品を整理している時も、看護師たちが怜央を褒めそやしているのが耳に入った。「亡くなったおばあさんって、このあたりの一番の資産家、御堂怜央の奥さんのお祖母さんなんでしょう?」「だからあんな上等な病室に入っていたのね。御堂社長って本当に太っ腹。入院してから今まで、たぶん数千万円もかかってるわよ。何もかも最高級だったし」「あれだけ気前がよくて孝行で、そのうえあんなに格好いいなんて。彼と結婚した女の人は幸せすぎるでしょ。でも、外には公表していないみたいね」「奥さんの家柄がよくないから、御堂家が公表したくないんじゃない?」「なるほどね。きっと女のほうが何か手を使ってのし上がったんでしょうね。そうでもなきゃ、あんな家庭の人があそこまでの富豪と知り合えるわけないもの。そういえば、どんな顔だった?見た?」「ひどかったわ。おばさんみたいだった」……紗和の耳には、彼女への陰口と