夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった

夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった

By:  迷い魚Updated just now
Language: Japanese
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五年前、望月紗和(もちづき さわ)は妊娠七か月だった。 けれど、夫・御堂怜央(みどう れお)の特別な女である花宮莉乃(はなみや りの)に腹を蹴られ、お腹の子を失った。 さらに紗和を深く傷つけたのは、怜央の一言だった。 「莉乃もわざとやったわけじゃない。彼女を刑務所に行かせるわけにはいかない」 彼は紗和の意思を無視し、勝手に示談書に署名した。 それから五年。 海外留学から戻ってきた莉乃を前に、紗和が養子として育ててきた御堂晴翔(みどう はると)は、無邪気な顔で言い放った。 「ママ、きらい。いつも莉乃ママをいじめるんだもん」 その瞬間、紗和はようやく思い知った。 この家には、最初から自分の居場所などなかったのだと。 もう誰にも踏みにじられない。紗和は奪われたものを一つずつ取り戻し、8年ものあいだ捧げ続けた愛を、未練ごと断ち切った。 怜央と莉乃が破滅へ向かっていくのを見届けながら、紗和は密かに自分を守り続けてくれていた大物と籍を入れる。 やがて莉乃の本性が暴かれ、すべてを失った怜央は、紗和の前に膝をついた。 「紗和、全部俺が悪かった。お前を大切にしなかった。頼む、許してくれ。俺のところへ戻ってきてくれ」 けれど紗和は、静かに微笑むだけだった。 少しふくらみ始めたお腹に、そっと手を添えた。そこには、彼女を心から愛する人との新しい命が宿っていた。 そして彼女を愛する人は、いつだって彼女のそばにいた。 一度も、欠けることなく。

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Chapter 1

第1話

「旦那様、奥様がお戻りになりました」

二階にいた男はその声を聞き、床まで届く大きな窓から邸の外へ視線を落とした。しなやかな体つきの女が車を降り、玄関の中へ消えていく。

望月紗和(もちづき さわ)が階段を上がってくると、力強い腕にぐいと引き寄せられた。振り向いた先にいたのは、御堂怜央(みどう れお)だった。

こういう時、怜央はたいてい何も言わない。

紗和は、熱を帯びた腕の中に閉じ込められた。

灼けるような体温に、身体の輪郭まで溶けてしまいそうだった。

しばらくして、肌に残る熱が少しずつ引いていく。

紗和は、乱れた掛け布団に残る情事の跡を見つめたあと、黙って身を起こした。ピルのシートから一錠を押し出し、そのまま飲み込む。

背後から、男の低い声がした。

「自分の子どもが欲しかったんじゃないのか。俺は別に、お前に産ませないと言っているわけじゃない」

紗和は錠剤を飲み下し、静かに言った。

「忘れたの?あなたの大事な幼なじみが、私からお腹の子を奪ったあの日、私は言ったはずよ。あなたが彼女を許す示談書に署名するなら、私はもう二度と、あなたの子どもなんて産まないって」

紗和の目元が、じわりと赤く染まった。

苦しい記憶が、一気に胸の奥からあふれ出す。

5年前、紗和は怜央と結婚した。これからの人生は、この男に守られ、愛されながら幸せに続いていくのだと、本気で信じていた。

けれど妊娠七か月の時、家を訪ねてきた花宮莉乃(はなみや りの)に、何度も腹を蹴られた。そのせいで紗和は流産し、お腹の子を失った。

それでも、紗和を何より深く傷つけたのは、夫である怜央が、莉乃を許してやれと求めてきたことだった。

あの時、怜央が口にした、感情も本心も読み取れない言葉を、紗和は一生忘れられない。

「莉乃もわざとやったわけじゃない。子どもはまた作れる。だが莉乃を刑務所に行かせるわけにはいかない」

莉乃、だなんて。

ずいぶん親しげに呼ぶのね。

その女は、私のお腹の子を奪った張本人なのに。

紗和は三日間、泣き続けた。そして、こう言った。

「私は一生許せない。私の子どもを奪った人間を許す書類になんて、署名できない。あの女が憎くてたまらないの」

けれど最後には、紗和が怜央の前でどれほど取り乱しても、呪いのような誓いを口にしても、怜央は彼女の代わりに示談書に署名した。

怜央の声が、不意に耳元で響いた。

「もう過ぎたことだろう。養子も迎えたじゃないか。今さら蒸し返してどうする。自分を苦しめるだけだ」

まるで大したことではないとでも言うように、あまりにも軽い声だった。

怜央の手が、なだめるように紗和の頬へ触れる。

「子どもが欲しくないなら、それでいい。好きにしろ」

そう言うと、怜央はベッドを降り、バスルームへ向かった。

本当なら、紗和は真っ先に子どもの様子を見に行きたかった。けれど怜央に引き止められてしまったため、急いで身支度を整え、子ども部屋へ向かった。

途中でシッターに会った。

「晴翔は?」

紗和が尋ねると、シッターは答えた。

「お休みになっています」

子ども部屋に入ると、たしかに晴翔は寝間着を着ていた。けれど、眠ってはいなかった。

小さな机の前にきちんと座り、スマホを両手で持って、真剣な顔で誰かとビデオ通話をしている。

紗和が入ってきたことにも気づいていない。

「晴翔?」

御堂晴翔(みどう はると)はその声を聞くなり、すぐに小さな手を伸ばして通話を切った。けれど、振り向こうとはしなかった。

紗和は歩み寄り、晴翔を抱き上げた。頬に口づけた途端、晴翔はわっと泣き出した。

「ママ、いや。偽物のママなんか、いや」

紗和はその場で固まった。言いようのない悲しみが、胸の奥に広がっていく。

この子が自分の実子ではないことは、紗和も分かっていた。けれど、ずっと本当の子どものように育ててきた。晴翔にも、その生い立ちを一度も話したことはない。

それなのに、たった半月家を空けただけで、どうして急に自分を偽物だと言うのだろう。どうして、こんなにも拒むのだろう。

紗和は抱きしめていた腕の力を緩めた。

「ママね、ずっと晴翔に会えなかったから、会いたかったの」

けれど、どれほど言葉を尽くしても、晴翔は泣き続けた。紗和が部屋を出ていって、ようやく落ち着いた。

紗和は晴翔のスマホを持って部屋を出た。まだ五歳の子どもに、スマホを自由に使わせるのはよくない。

画面を確認すると、晴翔がビデオ通話をしていた相手は、「莉乃おばさん」と登録されたアカウントだった。

胸が、ぎゅっと詰まる。

けれど紗和はすぐに、幼稚園に新しく来た先生かもしれない、あの女のはずがないと思い直した。

子ども部屋のドアを閉めたあと、ふと何かを思い出し、シッターに尋ねる。

「最近、晴翔の幼稚園に新しい女の先生が来た?」

シッターは首を横に振った。

寝室へ戻ると、紗和の心はさらに重く沈んでいった。

自分が最も嫌い、最も憎んでいる人間の名前が、なぜ形を変えて晴翔のスマホに現れたのか。

この「莉乃おばさん」とは、いったい誰なのか。

紗和ははっとして、スマホを手に取った。

それは怜央のスマホだった。画面の中央に、未読メッセージが一件表示されている。

【莉乃:怜央くんと一緒に晴翔のそばにいられて、私、本当に幸せ】

紗和の喉が、きゅっと締めつけられた。

指先に力が入り、関節が白くなる。

彼女はそのメッセージを開いた。

怜央と莉乃のメッセージ画面には、数えきれないほどのやり取りが並んでいた。

それも、ほとんど毎日。

5年前、莉乃が紗和と怜央の子どもを奪ったことで、怜央も少しは莉乃を嫌うようになったはずだと、紗和は思っていた。

まさか、それどころか、以前にも増して親密に連絡を取り合っていたなんて。

さらに紗和を打ちのめしたのは、莉乃が会話の中で晴翔のことを呼ぶ時の、あまりにも親しげな口ぶりだった。

まるで晴翔が、莉乃と怜央の隠し子であるかのように。

涙が、ぽたぽたと雨のように落ちた。

固く握りしめた手の下で、スマホの画面へこぼれていく。

全身が震えていた。

怒り、屈辱、痛み。すべてが押し寄せる波のように、胸の中へなだれ込んでくる。

つまり5年前、紗和がわが子を失ったのは、莉乃がこの隠し子を家に迎え入れるために、怜央と示し合わせて仕組んだことだったのか。

そして当時の紗和は、子どもを失って心身ともに弱りきっていたから、この子を心のよりどころとして受け入れてしまった。

すべては、彼らに都合よく操られていただけだったのか。

証拠を録画しようとした、その時だった。

バスルームの水音が、ぴたりと止まった。

怜央がバスルームから出てきた。

紗和はすでに彼のスマホを元の場所へ戻していた。けれど髪は乱れ、顔は涙に濡れ、悲しみと怒りで全身が震えていた。

怜央は伏し目がちに彼女を一瞥した。もう一度抱こうとしていた欲は、一瞬で消え失せた。

「私たちの子の命日がいつか、覚えてる?」

紗和が尋ねた。

怜央は冷ややかに言った。

「お前は今、普通じゃない。少し一人で落ち着け。話は明日にしよう」

そう言い終えると、彼はスマホとベッドに置いてあった寝間着を手に取り、寝室を出ていった。

結婚して何年も経つというのに、身体を重ねる時を除けば、怜央はずっと紗和に冷たかった。見せる優しさは形だけで、いつもどこか距離があり、彼女を煩わしそうにしていた。

失ったわが子の命日さえ、彼は言えない。

それなのに莉乃には、どれほど面倒でも付き合い、何を聞かれても答えた。いつも寛大で、辛抱強かった。

本当なら、もう慣れているはずだった。

けれどその時、紗和は突然、これ以上はもう無理だと思った。

離婚しなければ。

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第1話
「旦那様、奥様がお戻りになりました」二階にいた男はその声を聞き、床まで届く大きな窓から邸の外へ視線を落とした。しなやかな体つきの女が車を降り、玄関の中へ消えていく。望月紗和(もちづき さわ)が階段を上がってくると、力強い腕にぐいと引き寄せられた。振り向いた先にいたのは、御堂怜央(みどう れお)だった。こういう時、怜央はたいてい何も言わない。紗和は、熱を帯びた腕の中に閉じ込められた。灼けるような体温に、身体の輪郭まで溶けてしまいそうだった。しばらくして、肌に残る熱が少しずつ引いていく。紗和は、乱れた掛け布団に残る情事の跡を見つめたあと、黙って身を起こした。ピルのシートから一錠を押し出し、そのまま飲み込む。背後から、男の低い声がした。「自分の子どもが欲しかったんじゃないのか。俺は別に、お前に産ませないと言っているわけじゃない」紗和は錠剤を飲み下し、静かに言った。「忘れたの?あなたの大事な幼なじみが、私からお腹の子を奪ったあの日、私は言ったはずよ。あなたが彼女を許す示談書に署名するなら、私はもう二度と、あなたの子どもなんて産まないって」紗和の目元が、じわりと赤く染まった。苦しい記憶が、一気に胸の奥からあふれ出す。5年前、紗和は怜央と結婚した。これからの人生は、この男に守られ、愛されながら幸せに続いていくのだと、本気で信じていた。けれど妊娠七か月の時、家を訪ねてきた花宮莉乃(はなみや りの)に、何度も腹を蹴られた。そのせいで紗和は流産し、お腹の子を失った。それでも、紗和を何より深く傷つけたのは、夫である怜央が、莉乃を許してやれと求めてきたことだった。あの時、怜央が口にした、感情も本心も読み取れない言葉を、紗和は一生忘れられない。「莉乃もわざとやったわけじゃない。子どもはまた作れる。だが莉乃を刑務所に行かせるわけにはいかない」莉乃、だなんて。ずいぶん親しげに呼ぶのね。その女は、私のお腹の子を奪った張本人なのに。紗和は三日間、泣き続けた。そして、こう言った。「私は一生許せない。私の子どもを奪った人間を許す書類になんて、署名できない。あの女が憎くてたまらないの」けれど最後には、紗和が怜央の前でどれほど取り乱しても、呪いのような誓いを口にしても、怜央は彼女の代わりに示談書に署名した。
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第2話
紗和はベッドの上で、一晩中うつろに座り込んでいた。胸の中は空っぽで、ただ茫然としていた。自分の人生が、ひどく悪い冗談のように思えた。紗和は小さく笑った。結婚して5年。彼女はもう、8年も怜央を愛していた。大学時代、紗和は怜央にひと目で恋をした。けれど同時に、自分が彼にふさわしくないことも痛いほど分かっていた。御堂家は、この地域で名実ともに頂点に立つ名家だった。一方の紗和は、両親を亡くした孤児にすぎなかった。それでも紗和は必死に努力し、夢を追うように彼を追いかけた。そしてついに、彼の目に留まった。大学時代、紗和はプログラミングの才能を発揮し、自作した小さなゲームが学内で大きな話題になった。卒業前から、大手企業が破格の条件で権利を買い取りたいと申し出てきたほどだった。本来なら、それは紗和にとって人生で初めて手にする大金になるはずだった。けれど彼女は最終的に、その権利を無償で怜央のために使うことを選んだ。当時、怜央はすでに御堂ホールディングス傘下の御堂ゲームスに配属されていた。兄弟たちの中でいち早く実績を上げ、後継者の座を手に入れるためでなければ、彼が紗和を妻に迎えることなどなかっただろう。それでも、妻にしたからといって、怜央が紗和を愛することはなかった。昔の紗和は、努力し続ければ、いつかきっと彼に大切にされる日が来ると、愚かにも信じていた。けれど現実は、その思いを何度も何度も容赦なく打ち砕いた。もう、目を覚ますべきだった。怜央と離婚する。紗和はシャワーを浴びに行こうとした。けれど長く座り込んでいたせいで脚がこわばり、危うく転びかけた。結局、ベッドへ倒れ込むようにして、そのまま意識を失うように眠ってしまった。再び目を覚ました時には、すでに夕方五時を過ぎていた。その日、紗和は一日中家にいた。けれど屋敷の中は妙に静かで、誰も彼女を邪魔しに来なかった。まるで夫も子どもも、彼女など最初からいないものとして扱っているかのようだった。誰も、紗和を必要としていない。彼女は電話を手に取った。「彩葉、離婚届と協議書を用意して」桐谷彩葉(きりたに いろは)は、紗和の一番の親友であり、離婚案件に強い弁護士でもあった。「あなたの希望どおりに作ってあるわ。送るから確認する?」「ありがとう、彩葉
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第3話
紗和の胸が、激しく痛んだ。莉乃が晴翔を「息子」と呼んでいるのを見ても、まだ自分をごまかすことはできた。彩葉から、三人が親子のように過ごしていたと聞いても、莉乃が自分のすべてを奪いたがっているだけだと、そう言い聞かせることはできた。けれど、彼が自分の口で認めた。紗和は震えながら身を起こし、涙を止められなかった。「怜央、どうして私にこんなことをするの?莉乃が私の子どもを奪ったって知っていながら、どうしてあの女との子どもを作ったの?」だが怜央は、傲慢で軽蔑を含んだ声で言った。「その件はもう蒸し返すなと警告したはずだ。もう終わったことだ。それに、莉乃はわざとやったわけじゃない」「わざとじゃない?そんなわけないでしょう。あれは、わざとだった。私があなたの妻なのに、どうしてあの女の言うことだけ信じて、私のことは一度も信じてくれなかったの?」紗和は感情を抑えきれず、声まで震えていた。この結婚で、彼女はあまりにも多くの苦しみを味わってきた。子どもを失った痛みを、夫が示談書に署名した絶望を、たった一人で耐え抜いた。ようやく少し立ち直りかけたところで、また重い一撃を受けたのだ。怜央と莉乃は、彼女が正気を失うまで追い詰めたいのだろうか。「いいわ。あのことを持ち出さないとしても、あなたと彼女の子を家に連れてきたのはどういうつもり?私を馬鹿だと思っているの?怜央、私は馬鹿じゃない!」紗和は声を枯らすほど、取り乱して訴えた。怜央はただ冷ややかに紗和を一瞥した。「あの時はお前の気持ちを考えて、その子を養子に迎えただけだ。子どもに罪はない。あの子はお前の子にもなれる。お前が産みたくないなら、あの子を大事に育てればいい」紗和の心は、完全に砕け散った。これは計算だった。陰謀だった。それが彼の口にかかると、どうして彼女の気持ちを思いやったことになるのだろう。「怜央、あなた、自分が何を言っているのか本当に分かってるの?」いつも耐えてばかりだった紗和も、とうとう怒りを抑えられなくなった。彼女の理解が間違っていないなら、怜央はこう言っているのだ。自分が愛人との間に隠し子をもうけたことには何の非もなく、むしろ彼女にその子を大切にしろと。そんなこと、受け入れられるはずがなかった。一度でも受け入れてしまえば、その子どもは堂々
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第4話
「どうしたの?」紗和は二階へ上がった。食卓には怜央と晴翔のほかに、もう一人の女が座っていた。その女は、莉乃だった。紗和はそこでようやく、佐伯の表情の意味を理解した。佐伯は怜央に雇われている家政婦だったが、紗和とは長年一緒に過ごしてきたため、互いに情があった。紗和は幼い頃に両親を亡くし、祖母に育てられた。だから佐伯のように母と同じくらいの年頃の年長者には、ずっと敬意を払ってきた。佐伯もまた、紗和によくしてくれていた。とくに流産したあとの日々、佐伯は毎日のように彼女の身体を気遣い、身体にいいものをあれこれ作ってくれた。佐伯も、紗和が流産する原因を作ったのが莉乃だとよく知っている。だから紗和が突然戻ってきて、心配そうな顔をしたのだ。けれど紗和の表情は、ひどく淡々としていた。その時、莉乃の隣に座っていた晴翔は、莉乃の服の裾を握りしめていた。紗和が現れたのを見ても、本当はママと呼びたくなかった。でも莉乃ママが、パパの前ではこの女のことを今までどおりママと呼ばなきゃいけないと言っていた。呼ばなければ、この偽物のママが悲しむから、と。パパもそう言っていた。晴翔は仕方なく、不満げに口を開いた。「ママ。どうして来たの?僕とパパが莉乃おばさんと遊ぶのを、邪魔したりしないよね?」紗和の胸がずきりと痛んだ。これが、彼女が何年も心を尽くして育て、世話をしてきた子どもなのか。彼女が帰ってきても少しも喜ぶ様子を見せず、それどころか隣にいる、彼女を傷つけた女の服の裾をしっかり握っている。莉乃の目には、あからさまな嘲りと得意げな色が浮かんでいた。それでも彼女は晴翔をなだめるように言った。「大丈夫よ、晴翔。怖がらないで。あなたの紗和ママは、そんな心の狭い人じゃないもの。晴翔が私と遊ぶのが好きだって分かっているんだから、きっと止めたりしないわよね、紗和さん?」その言葉を聞いた瞬間、紗和の胸の痛みは、鈍い刃物で肉を削がれるような痛みに変わった。明らかに、愛人である莉乃が彼女の留守中にこの家へ入り込んできたのだ。堂々と彼女に成り代わり、女主人の席に座って、彼女の夫と子どもと一緒に夕食をとっている。それなのに、紗和が少しでも不快な顔を見せれば、心が狭いだの、子どものことを考えていないだのと言われるのだろう。悪い
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第5話
「もう食べられない。あなたたちで食べて」そう言って、紗和は立ち上がった。すると、甘く媚びた声が聞こえた。「紗和さん、私が何か気に障ることをしてしまったの?誤解しないで。私、海外から戻ったばかりで、すぐに身を寄せる場所が見つからなくて、それで怜央くんに迷惑をかけているだけなの。あなたが嫌なら、私は今日にでも……」「その必要はない」怜央が先に口を挟んで、彼女をなだめた。「莉乃、気にするな。相手にしなくていい」紗和には分かった。怜央が言いたいのは、彼女が不機嫌であろうと気にする必要はない、彼女の気持ちなど気にかける価値もない、ということだった。彼らにとって、彼女はただの部外者なのだ。本当の家族は、彼らのほうだった。この結婚は、もう終わらせるべきだ。紗和は寝室へ戻った。キャリーケースはすでに開けられていた。佐伯は彼女が疲れているのを気遣い、自分から中の荷物を整理してくれていたらしい。その時、紗和が入ってきたことに気づいた。佐伯は手にしていた封筒を置いた。中身を見てしまったのは明らかだった。彼女は震える手で書類を結び直し、こらえきれずに尋ねた。「奥様、旦那様と離婚なさるおつもりなんですか?そんな、いけませんよ!」「どうしていけないの?」紗和は、自分で思っていたよりもずっと淡々としていた。「佐伯さん、あなたも思わない?彼と莉乃のほうが、本当の夫婦みたいだって……そうよね。もともと二人は一組だったんだもの。幼なじみで、名家の御曹司と令嬢。そこへ私が突然入り込んで、御堂家の奥様という立場を奪った。だから二人は堂々と一緒になれなかった。でも実際には、二人はとっくに隠れてつながっていたのよ。子どもまで作って……はは、ははははは……」紗和の笑顔はどんどん歪んでいき、最後には顔じゅう涙だらけになっていた。本当に、哀れで滑稽だった。佐伯はそのことを知らず、ひどく驚いた。「奥様、旦那様と花宮さんにもうお子様がいるとおっしゃるんですか?どこに?」「遠いようで、すぐ目の前にいるわ。晴翔が二人の子どもよ」「そ……そんなことがあるはず……」佐伯の顔色が変わった。「晴翔は、奥様と旦那様が迎えた養子ではなかったんですか?どうしてそんな……」紗和は答えた。「このことは、怜央が自分の口で認めたの」そ
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第6話
紗和は電話に出た。「もしもし、望月様でいらっしゃいますか。こちらは中央総合病院です。お祖母様の望月雪江(もちづき ゆきえ)様の容体が本日急変し、先ほど救命処置を行いましたが、現在、危篤状態です。今、お祖母様はどうしてもあなたとご主人に会いたいとおっしゃっています。できるだけ早くお越しいただけますか。そうでないと、もう間に合わなくなってしまいます」「え?」紗和ははっとして身を起こした。すぐには現実を受け入れられなかった。「そんなはずない!そんなの嘘ですよね」電話口の医師も痛ましそうだった。彼女が受け入れられないのだと分かったうえで、続けた。「望月様、お伝えしていることは事実です。どうか、ご主人と一緒にすぐお越しください。これ以上遅くなると……本当に間に合いません」紗和はどれほど受け入れられなくても、受け入れるしかなかった。泣き崩れるように言った。「おばあちゃんがいなくなる……私、おばあちゃんまで失うの……」祖母は彼女にとって唯一の肉親だった。彼女を育ててくれた人であり、彼女がこの世で最も気にかけている存在だった。紗和はすぐに出ていこうとした。涙はこらえきれず、次々と頬を伝って落ちていく。だが、医師が祖母は最後に自分と怜央に会いたがっていると言っていたことを思い出した。紗和はかすれた声で、怜央の手をつかんだ。「一緒に来てくれない?おばあちゃんに、最後に会ってあげて」流産して以来、祖母は紗和と夫の間に深い亀裂があることをずっと分かっていた。結婚した当初、祖母は紗和が心から喜んでいるのを見ていた。だからこそ、孫娘が幸せになれるならと、祖母も喜んで結婚を認めてくれたのだ。その後、紗和が妊娠すると、祖母は栄養のあるものを何度も届けてくれた。だがすべては、莉乃によって壊された。子どもを産めなかったあと、祖母はひどく彼女を痛ましく思っていた。けれど離婚すれば、彼女がさらに頼る人を失ってしまうのではないかと心配し、できることならもう一度子どもを授かる機会があることを願っていた。だから紗和は、自分を誰より大切にしてくれる祖母に結婚生活を心配させたくなくて、本当に怜央に一緒に行ってほしかった。怜央は彼女を見つめたまま、何も言わなかった。次の瞬間、男はその手を引き抜いた。紗和の胸が、不意に空洞になったように
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第7話
祖母の言葉がまだ終わらないうちに、機械の警告音が突然鳴り響いた。紗和ははっと立ち上がり、すぐに看護師を呼んで処置を求めた。祖母は手術室へ運び込まれた。けれど、再び運び出されてきた時、そこに見えたのは一枚の白い布だけだった。痩せ細った祖母の身体を、白い布が覆っていた。紗和は目の前がぐらりと揺れ、足から力が抜け、その場に座り込んだ。おばあちゃんは、本当にこのまま逝ってしまった。紗和にはもう泣く力さえ残っておらず、ただ少しずつ祖母のほうへ這っていくことしかできなかった。「おばあちゃん……おばあちゃん……お願い、私を置いていかないで……私を一人にしないで……」彼女は病床まで這い上がり、祖母の亡骸を抱き締めて、身を裂かれるように泣いた。そばにいた医師が慰めるように言った。「どうか、あまりお気を落とさないでください」だが紗和には、そんなことはできなかった。祖母の身体を抱いたまま、泣き崩れ続けた。ふいに耳元で声が聞こえた。「御堂社長、いらっしゃいましたか」怜央の声も続いた。「お祖母様は安らかに逝けたのか?苦しみはなかったんだろうな?」「はい、苦しまずに逝かれました」「そうか。では、妻をもう少しここにいさせてやってくれ」その口ぶりだけを聞けば、彼はどれほど立派な孫婿に聞こえることだろう。案の定、紗和が病院に残って祖母の遺品を整理している時も、看護師たちが怜央を褒めそやしているのが耳に入った。「亡くなったおばあさんって、このあたりの一番の資産家、御堂怜央の奥さんのお祖母さんなんでしょう?」「だからあんな上等な病室に入っていたのね。御堂社長って本当に太っ腹。入院してから今まで、たぶん数千万円もかかってるわよ。何もかも最高級だったし」「あれだけ気前がよくて孝行で、そのうえあんなに格好いいなんて。彼と結婚した女の人は幸せすぎるでしょ。でも、外には公表していないみたいね」「奥さんの家柄がよくないから、御堂家が公表したくないんじゃない?」「なるほどね。きっと女のほうが何か手を使ってのし上がったんでしょうね。そうでもなきゃ、あんな家庭の人があそこまでの富豪と知り合えるわけないもの。そういえば、どんな顔だった?見た?」「ひどかったわ。おばさんみたいだった」……紗和の耳には、彼女への陰口と
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第8話
紗和は子どもに手を上げていなかった。おおよそ想像はつく。莉乃が晴翔をそそのかし、嘘をつかせたのだろう。彼女はベッド脇のテーブルの上を指さした。そこには、ようやく継ぎ合わせた祖母の写真が置かれていた。「この大切な写真を、あの子が破ったの」怜央はしばらく写真を見つめていた。もし、祖母はもう埋葬されたのだから、こんな写真をまた飾るのはあまりよくないと言えば、紗和はきっとまた怒る。下手をすれば、騒ぎになるかもしれない。だから彼は、言わないことを選んだ。ただ淡々と言う。「そんなに大切なら、ちゃんとしまっておくべきだった。晴翔のしつけが行き届いていないのは確かだが、それはお前にも責任がある」怜央には、幼い頃の傷があった。そのせいで、家族というものにひどく冷淡だった。それは紗和の家族に対してだけではない。自分の家族に対しても同じだった。父の御堂海斗(みどう かいと)は、富豪の世界でも名の知れた遊び人だった。映像まで残っている若いホステスだけでも、200人を超えていた。怜央は幼い頃、海斗が結婚を裏切る姿を目の当たりにした。母はそのせいで双極性障害を患い、突然彼に冷たくなったり、まるでそこにいないかのように無視したりすることがあった。その後、怜央の母は完全に心を病み、今も入院治療を受けている。幼い頃から家族の温もりをほとんど知らずに育った彼には、紗和が言った「最後に会いたい」という願いに、どれほどの意味があるのか想像することすらできなかった。晴翔のしつけにしても、以前はずっと紗和が一人で担っていた。紗和も分かっていた。以前の自分は、この子を愛しすぎていた。そして夫にも従いすぎていたのだ。けれど、託す相手を間違えたと分かった以上、彼女は手放すことができる。いや、手放さなければならない。祖母の言葉が、まだ耳に残っていた。「紗和、諦めて、前へ進みなさい」もう、手放すべきだった。紗和は継ぎ合わせた写真の破片を、丁寧に透明なフィルムで包み、キャリーケースのいちばん奥にしまった。そこは、彼女にとって最も大切なものを入れておく場所だった。写真をしまい終え、彼女が顔を上げると、怜央が目の前に立っていた。薄い唇から、低い声がこぼれる。「俺たち、もうずいぶんしていない」彼は手を伸ばし、紗和
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第9話
ウォークインクローゼットの中央に飾られているウェディングドレスが、ふと目に入った。豪華なものではなかった。新郎側の親族がわずかに出席しただけの式で、一度だけ身にまとったドレスだった。それでも、かつての紗和にとっては、何より大切な宝物だった。だから彼女はわざわざ壁一面を空け、透明なガラスケースを用意し、高級なマネキンにそのドレスを着せて飾っていた。それを見るたびに、自分の人生でいちばん輝いていた瞬間を思い出せる気がしていた。ウェディングドレスを着たあの日、紗和は胸がいっぱいになるほどの喜びで、怜央のプロポーズを受け入れた。彼と年を取るまで添い遂げる未来を、本気で夢見ていた。けれど今、残っているのは、全身に刻まれた傷と、胸の奥に積もり積もったやりきれなさだけだった。紗和はショーケースを開け、名残を惜しむように、白い刺繍のドレスをそっと撫でた。一点の曇りもない、真っ白なドレス。けれど紗和は、もうそれを捨てると決めていた。この結婚は、もう汚れてしまったのだから。翌朝。紗和が寝室を出ると、怜央はすでに出かけていた。食卓では、莉乃が晴翔と一緒に朝食を取っている。紗和は莉乃に目を向けた。莉乃はキャミソール一枚同然の格好で、首元には赤いキスマークがひとつ残っていた。服装こそどこか乱れて見えたが、顔色は白く艶やかで、化粧もきちんと整っている。髪の一本すら乱れていない。若く艶めいたその顔は、白く柔らかく、どこか無邪気にさえ見えた。むき出しの腕にも、耳にも、首にも、ジュエリーが惜しげもなく飾られていて、たしかに人目を引く妖艶さがあった。明るく人を惑わせる目の奥には、得意げな色と、紗和への軽蔑が宿っている。まるで、こう告げているかのようだった。あなたには、怜央を私と奪い合う資格すらないのだ、と。紗和は視線を戻し、食卓についた。朝食を取ろうとしたが、彼女の分は何ひとつ用意されていなかった。莉乃はその様子を見ると、自分がひと口だけ飲んで脇に置いていた薬膳スープを、紗和の前へ押しやった。「紗和さん、私、今朝はそんなに食べるつもりじゃなかったの。でも怜央くんが、私は身体が弱いからちゃんと栄養を取らないとって言って、キッチンに特別な薬膳スープを作らせてくれたのよ。あなたの分も用意してもらお
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第10話
莉乃が少し具合を悪くしただけで、怜央は一晩中そばを離れず、甲斐甲斐しく世話をする。では、自分には?紗和は小さく首を横に振った。病気の時どころか、流産した時でさえ、怜央がそんなふうにしてくれたことは一度もなかった。以前の紗和は、怜央は誰に対しても冷淡で、人の世話などできない人なのだと思っていた。けれど今なら分かる。本当は、彼にも人を気遣うことはできる。してくれなかったのは、ただ紗和が大切に思われていなかったからだ。紗和はさらにパンを数口かじり、どうにか空腹を紛らわせた。冷たく乾いたパンは、まるで味のない塊を噛んでいるようで、飲み込むたびに喉の奥がひどく苦くなった。晴翔は紗和の向かい側、莉乃の隣に座っていた。彼は機嫌を取るように、真珠のブレスレットを取り出した。「莉乃おばさん、これあげる」立ち去ろうとしていた紗和の動きが、思わず止まった。その真珠のブレスレットを、紗和は知っていた。晴翔が長い時間をかけて、自分の手で作っていたものだった。使われているのは、紗和が晴翔を連れて海外へ休暇に行った時、現地で選んだ天然真珠だった。白、黄金色、紫、黒。さまざまな色が組み合わされ、とても美しかった。晴翔が「いちばん大好きなママに、心を込めて作ってあげる」と言った時、紗和はそれが自分へのプレゼントなのだと思っていた。だからあの時、胸を弾ませながら、子どもでも扱いやすい制作道具を買った。晴翔が完成させて、自分に贈ってくれる日を、ずっと楽しみに待っていたのだ。今、晴翔はその真珠のブレスレットをついに完成させた。そして紗和の目の前で、莉乃に贈った。紗和の心は、不意に砕けた。離婚届と協議書には、すでに晴翔の親権を放棄すると記してある。晴翔はもともと怜央と莉乃の子であり、紗和とは何の関係もない。それでも、紗和はこの子を何年も育ててきた。まだ情が残っていた。けれど晴翔は、何度も何度も紗和を見下し、傷つけた。紗和は、莉乃がその真珠のブレスレットを受け取り、嬉しそうに自分の手首につけるのを見ていた。そこにはすでに、高級ブランドのブレスレットがいくつも飾られている。莉乃にとって、その真珠のブレスレットは必要なものではなかった。紗和には想像できた。きっと莉乃は、見えないところ
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