「旦那様、奥様がお戻りになりました」二階にいた男はその声を聞き、床まで届く大きな窓から邸の外へ視線を落とした。しなやかな体つきの女が車を降り、玄関の中へ消えていく。望月紗和(もちづき さわ)が階段を上がってくると、力強い腕にぐいと引き寄せられた。振り向いた先にいたのは、御堂怜央(みどう れお)だった。こういう時、怜央はたいてい何も言わない。紗和は、熱を帯びた腕の中に閉じ込められた。灼けるような体温に、身体の輪郭まで溶けてしまいそうだった。しばらくして、肌に残る熱が少しずつ引いていく。紗和は、乱れた掛け布団に残る情事の跡を見つめたあと、黙って身を起こした。ピルのシートから一錠を押し出し、そのまま飲み込む。背後から、男の低い声がした。「自分の子どもが欲しかったんじゃないのか。俺は別に、お前に産ませないと言っているわけじゃない」紗和は錠剤を飲み下し、静かに言った。「忘れたの?あなたの大事な幼なじみが、私からお腹の子を奪ったあの日、私は言ったはずよ。あなたが彼女を許す示談書に署名するなら、私はもう二度と、あなたの子どもなんて産まないって」紗和の目元が、じわりと赤く染まった。苦しい記憶が、一気に胸の奥からあふれ出す。5年前、紗和は怜央と結婚した。これからの人生は、この男に守られ、愛されながら幸せに続いていくのだと、本気で信じていた。けれど妊娠七か月の時、家を訪ねてきた花宮莉乃(はなみや りの)に、何度も腹を蹴られた。そのせいで紗和は流産し、お腹の子を失った。それでも、紗和を何より深く傷つけたのは、夫である怜央が、莉乃を許してやれと求めてきたことだった。あの時、怜央が口にした、感情も本心も読み取れない言葉を、紗和は一生忘れられない。「莉乃もわざとやったわけじゃない。子どもはまた作れる。だが莉乃を刑務所に行かせるわけにはいかない」莉乃、だなんて。ずいぶん親しげに呼ぶのね。その女は、私のお腹の子を奪った張本人なのに。紗和は三日間、泣き続けた。そして、こう言った。「私は一生許せない。私の子どもを奪った人間を許す書類になんて、署名できない。あの女が憎くてたまらないの」けれど最後には、紗和が怜央の前でどれほど取り乱しても、呪いのような誓いを口にしても、怜央は彼女の代わりに示談書に署名した。
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