LOGIN夫の南条怜司(なんじょう れいじ)が、ある夢を見た。 夢の中で彼は、会員制ラウンジで働く女性スタッフのために藤崎千夏(ふじさき ちなつ)を裏切り、彼女を傷つけることを次々にしてしまうのだという。 それを聞いた瞬間、千夏の胸は理由もなく、ちくりと痛んだ。 けれどそれは本当に一瞬のことで、すぐに平静を取り戻した彼女は、笑って怜司をからかった。 「それで?」 「それで?」 怜司は千夏を腕の中に閉じ込め、恨めしげに彼女の耳を噛んだ。 「それで君は、俺が気づかないうちに離婚協議書にサインさせて、気づいたときにはもう、どこにもいなくなっていたんだ!」 怜司は、口では「そんなことは絶対に起こるはずのない悪夢だ」と言いながらも、自分の手元に回ってくる書類を一枚残らず細かく確認するようになった。とりわけ、千夏から渡されたものは念入りだった。 友人たちと集まるのが何より好きだったあの会員制ラウンジにも、二度と足を運ばなくなった。女性スタッフには徹底して距離を置いた。 真夜中に突然飛び起きることもあった。千夏が無事に眠っている顔を見て、ようやく安心してまた眠りにつくのだ。 怜司はひどい分離不安に陥り、一時期は心理カウンセラーの力を借りなければならないほどだった。 千夏は呆れるやらおかしいやらだったが、怜司に少しでも安心してもらうため、自分も以前より彼を好きで、彼に頼っているように振る舞った。 やがて、あの夢のことは二人の記憶から薄れていった。 怜司が援助している、あの女子学生が現れるまでは。
View More手術室の外で、千夏は病院の長椅子に座っていた。その目は、どこか虚ろだった。かつて愛し、確かに憎んだ男が、彼女を庇って刃を受けた。今、その生死はまだ分からない。千夏は、ひどい無力感に襲われていた。愛も憎しみも、恨みも情も、すべて遠い昔のことのように感じられる。今はただ、怜司に無事でいてほしかった。茫然としていると、誰かに両手を包まれた。手のひらから伝わる温もりが、ゆっくりと体の奥へ染み込んでいく。そのとき初めて、千夏は自分の体がひどく冷えていたことに気づいた。「怖がらなくていい」誠也は濡らしたハンカチで、千夏の手についた血をそっと拭いながら、優しく言った。「何が起きても、俺たちで一緒に向き合えばいい。千夏、俺はずっと君のそばにいる」殺されかけた恐怖と、怜司が目の前で倒れた光景が、その瞬間になってようやく千夏の中へ押し寄せてきた。彼女は誠也の胸に身を預け、子供のように声を上げて泣いた。「誠也さん、怖い……もし彼が、私のせいで死んだらどうしよう……」誠也は、あと少しで手術室に運ばれていたのが腕の中の彼女だったかもしれないと思うと、胸が締めつけられ、息もできなくなりそうだった。彼は何度も、彼女の額に口づけた。「ごめん。俺が君を守りきれなかった」その言葉で、千夏はほんの少しだけ悲しみから引き戻された。「どうしてあなたのせいになるの?それに、危ないって分かっていたのに、どうして飛び込んできたの?私は、あなたに私のせいで怪我なんてしてほしくないのに……」二人が互いを慰め合っていると、ようやく手術室のランプが消えた。中から出てきた医師は、二人の不安げな視線を受け止め、静かに口を開いた。「命は取り留めました。ただ、まだ予断を許さない状態です。しばらくICUで経過を見ます」よかった。千夏は心からそう思った。張り詰めていた胸が、ようやく少しだけ緩んだ。彼女は怜司のために、付き添いの看護師を二人手配した。三日後、怜司はICUからVIP病室へ移された。意識が戻ったと聞き、千夏は花束を持って見舞いに訪れた。怜司は千夏を見ると、自分が痛みのあまり幻でも見ているのかと疑った。掠れた声で、ぽつりと呟く。「千夏……本当に君なのか?」千夏は小さく息をつき、静かに彼の名を呼んだ。
怜司がそう言い終えた直後、バックミラー越しに、数台の車が一定の距離を保ったままついてきているのが見えた。千夏は見覚えのあるナンバーに気づき、張り詰めていた心が少しだけ緩んだ。こんな短い間に、誠也がこれほど安心できる存在になるとは思ってもみなかった。「……ふっ」怜司は冷たく笑い、さらに速度を上げた。走り続けるうちに、千夏にも分かっていた。今の怜司には、何を言っても届かない。だから千夏は、それ以上一言も口をきかなかった。車はやがて、私設のヘリポートに停まった。千夏は怜司に手首を掴まれたまま、一機のヘリコプターの前まで連れていかれた。「千夏、もうすぐ家に着く。俺たちはもう二度と離れない」千夏には、ただ絶望することしかできなかった。「南条、千夏を放せ!」そのとき、誠也が部下を連れて駆けつけた。彼は千夏の身を案じ、無理に車間を詰めて追うことができなかった。安全な距離を保つしかなかったのだ。それでも、間に合った。千夏は反射的に、誠也のほうへ歩き出そうとした。怜司の目に宿る冷たさが、いっそう深くなる。千夏の手首を掴む力も、さらに強くなった。誠也は、痛みに顔をしかめる千夏を見て、結局その場で足を止めた。「南条、千夏が痛がっている」怜司は、千夏の手首が赤くなっているのを見て、はっとしたように力を緩めた。「ごめん、千夏。わざとじゃない……」その隙に、千夏はすぐさま怜司の手を振りほどき、誠也のほうへ走った。だがその瞬間、警備員に紛れていた茉莉が、ナイフを握って千夏へ突進してきた。「千夏、全部あんたのせいよ!死んで!」刃の光が目に入り、千夏は息を呑んだ。「千夏!」「千夏!」二人の男の声が、同時に響いた。危機一髪の瞬間、千夏は誠也が我を忘れて自分へ駆け寄ってくる姿を見た。「誠也さん、来ないで!」千夏は恐怖に目を閉じた。その直後、鈍い音が耳に届く。むせ返るような血の匂いが、鼻を突いた。けれど、想像していた痛みはやってこなかった。地面に、血が一滴、また一滴と落ちていく。それはすぐに赤い染みとなって広がり、目を背けたくなるほどだった。怜司は胸元を押さえ、苦痛に体を折るようにして地面に倒れていた。顔からは、すでに血の気が引いている。茉莉が部下たち
ウェディングドレスショップで、千夏は世界的に名の知られたデザイナー、アリナが手がけたドレスを身にまとっていた。アリナに依頼を通すのは、簡単なことではない。千夏が怜司と結婚したときでさえ、結局、叶わなかったほどだ。千夏は鏡の前で何度も角度を変え、久しぶりに少女のような笑みを浮かべていた。「私、このデザイナーが本当に好きなの。前にA大学へ講演に来たこともあったんだけど、覚えてる?」誠也は目を細めて、千夏を見つめた。声には、自然と甘さが滲んでいる。「たしか、アリナ先生のサイン入り写真も持っていただろう」「見たことあったの?」「ああ。あの頃から、君がアリナ先生を好きなことは覚えていた」千夏の胸の奥を、何か柔らかいものがそっと撫でていった。小さな波紋が、静かに広がっていく。偶然だと思っていた。けれど実際には、誠也はずっと前から、千夏がアリナを好きだと知っていたのだ。そのうえで、わざわざ彼女のために依頼を通してくれた。ただ、誠也が口にしなかったことがある。かつて千夏が怜司と結婚したとき、誠也もまた、アリナに彼女のウェディングドレスを頼もうとしていた。せめて、彼女の結婚を心から祝えるものを贈りたかった。けれどそのとき、アリナは体調を崩していて、依頼を受けられる状態ではなかった。千夏は右から左から、何度も鏡を見た。見れば見るほど気に入り、長いこと試着したあと、ようやく試着室へ戻ってドレスを脱いだ。だが自分の服に着替えて外へ出ようとした瞬間、背後から口元を塞がれた。千夏が目を覚ましたとき、自分が猛スピードで走る高級車の中にいることに気づいた。両手両足は、柔らかなリボンで縛られている。運転席にいた怜司は、千夏が目を覚ましたのを見ると、ひどく嬉しそうな顔をした。まるで子供をあやすように、優しく言う。「起きた?怖がらなくていい。もうすぐ着く」その親しげな口調は、まるで二人がまだ愛し合っているかのようだった。けれど千夏には、彼が本当におかしくなってしまったようにしか見えなかった。「怜司!」千夏は胸の中の恐怖を必死に抑えようとした。それでも、声はわずかに震えた。「何をするつもり?」怜司は、彼女の緊張しきった様子を見て、胸に無力感と悔しさが押し寄せるのを感じた。「千夏、
「調べろ。茉莉が俺に隠れて何をしていたのか、全部だ」怜司は海都へ戻らなかった。千夏の会社の近くにマンションを買い、毎日、彼女が出勤し、退勤する姿を見ていた。そうしている間だけ、胸に空いた穴が少しだけ塞がる気がした。千夏との関係がここまで壊れたことについて、自分に非があることは分かっていた。けれど、その間で火に油を注いだ人間を許すつもりもなかった。ほどなくして、茉莉が彼のそばに来てからしてきたことが、すべて報告書として差し出された。茉莉は怜司の指示を勝手にねじ曲げ、ボディーガードに小春を痛い目に遭わせる際、千夏まで巻き込ませていた。監視カメラの映像の中で、千夏は必死に腹を庇いながら、降りかかる暴力を一人で受け止めていた。あのときにはもう、千夏の中に子供がいたのだ。怜司の心臓が、どくりと嫌な音を立てた。本当にそこを刺されたような痛みが走る。おそらく、千夏が完全に心を閉ざしたのも、あの瞬間だったのだろう。それまでは、自分が傷ついてでも子供を守ろうとしていた。それなのにその直後、千夏は病院へ行き、二人の子供を失った。茉莉は、千夏が中絶手術を受けたばかりだと知っていながら、怜司を利用して蟹を食べさせた。千夏が痛みに耐えきれず倒れたときも、わざと怜司に芝居だと思わせた。けれど今の怜司には、茉莉を憎む気力すら残っていなかった。茉莉が故意に千夏を苦しめたのだとしても、彼女に千夏を傷つけるだけの立場と機会を与えたのは、自分自身だった。千夏は南条夫人でなくとも、藤崎家で大切に育てられた娘だった。地方から出てきたばかりの、後ろ盾も力もない茉莉のような女が、千夏をそこまで追い詰められたのは、すべて怜司のせいだった。茉莉にその立場を与えたのは、彼だった。茉莉にその機会を与えたのも、彼だった。あの夢は、すでに彼に警告していた。それなのに怜司は傲慢だった。自分だけは分かっているつもりでいた。茉莉は、夢に出てきたあの性根の悪い女性スタッフとは違う。すべては自分の手の中にある。そう思い込んでいた。本当に憎むべき相手は、茉莉ではなかった。自分自身だった。「それなのにあなたは、分かっていながら同じ道を選んだ。立ち止まることも、変わろうとすることもなかった。あなたは最初から、そういう人だ