Share

第2話

Penulis: 研ぎ澄ました斧
拓海は軽く息を吐き、うなずくとドアへ向かおうとした。

「ちょっと待って」

瑠奈が突然口を開いた。

拓海は足を止め、振り返って彼女を見た。「どうしたんだ?」

瑠奈は陽葵より一つ年上だが、拓海よりは年下だった。それでも妻の姉である以上、拓海は普段から彼女を「瑠奈さん」と呼んでいる。高瀬家の姉妹はどちらも目を見張るほどの美貌の持ち主で、陽葵によく似た瑠奈もまた、人目を引く美人だった。

しかも今の彼女はシルクのキャミソール姿で、豊かな胸のラインがいやでも目に入った。

だが、胸の奥が重く沈んでいる今の拓海には、そんな細部に目を留める余裕などなかった。

瑠奈は眉をひそめ、冷たい声で尋ねた。「こんな時間にどこへ行くのよ?陽葵は?」

拓海は表情を変えずに答えた。「陽葵なら外で食事してる。今から迎えに行ってくる」

ただ、その表情は、愛する妻を迎えに行く夫のものとは到底思えないほど冷え切っていた。

瑠奈は探るような視線を向けていたが、しばらくして「……そう、なら行ってきなさい」とだけ口にした。

拓海はそのまま家を出た。

駐車場から車を出すと、拓海の表情は一層冷ややかなものへと変わっていった。

胸の奥では、怒りが炎のように燃えていた。

妻が他の男と腕を絡ませて酒を飲んでいたあの光景が、幾度となく脳裏によみがえった。

拓海を苦しめてきた最悪の想像が、今まさに現実になろうとしている。つまり――妻が浮気しているのではないか、ということだ。

そこまで思い至った瞬間、拓海の頬は怒りで引きつり、ハンドルを握る手には力が入り、指の関節が白くなるほどだった。

先ほどのショート動画には、打ち上げの会場となる店名がばっちりと映り込んでいた。

半ば上の空で車を走らせているうちに、気づけば目的地へ着いていた。

碧海グランドホテル。

ここは碧海市でも指折りの高級ホテルだ。普通に宴会を開くだけでも、少なくとも100万円は下らない。

タバコに火をつけ、拓海は重い足取りでエントランスへと足を踏み入れた。

ここまで来た以上、もう迷っている場合ではなかった。どんな最悪な結末が待っていようと、現実と向き合うしかない。

スタッフに尋ねると、個室はすべて二階にあるという。

拓海が階段を上がり、手前にある最初の個室のドアへ近づいた時、中から妻の声が聞こえてきた。

「会社がこれだけの業績を上げられたのは、ここにいる皆さん一人ひとりの功績のおかげよ。日頃のたゆまぬ努力に、心から感謝するわ!」

陽葵の声は甘く愛嬌があり、その響きだけを聞けば、6歳の子を持つ母親だとはとても思えなかった。

「社長こそ、本当にお疲れ様です!」

「私たちも一緒に社長へ乾杯しましょう!」

「社長だけじゃなく、神谷さんにも乾杯ですね。彼がいなければ、こんな豪華な打ち上げはありませんでしたから!」

漏れ聞こえてくる声からして、中はかなり盛り上がっているようだ。

拓海は深く息を吸い込み、そのまま勢いよくドアを押し開けた。

その瞬間、個室の喧騒が嘘のように静まり返った。

部屋にいた全員の視線が、突然現れた男へ一斉に集まった。その表情には驚きが浮かんでいた。

だが、拓海の冷え切った視線は、真っ直ぐ陽葵だけに向けられていた。

彼女は黒のタイトなワンピースに身を包んでいた。露出した白い肩はきめ細かくなめらかで、美しい鎖骨の下にはふくよかな曲線がある。きゅっと締まった細い腰が、丸く上がったヒップラインをいっそう際立たせていた。

その時、彼女はグラスを手にしたまま立ち上がっていたが、入ってきたのが拓海だと分かると、その息を呑むほど美しい顔に明らかな戸惑いを浮かべた。

しかし彼女はやはり会社のトップである。すぐさま表情を取り繕い、わずかな笑みを作って言った。「あなた、私を迎えに来てくれたの?ご飯はもう食べた?よかったら何か少し食べていく?」

今日はずいぶんと酒が進んでいるらしく、ほんのりと赤く染まった頬が、彼女を一段と魅力的に見せていた。

なるほど、社長の旦那さんか。どうりで見覚えがあると思った……

個室にいた社員たちは皆、納得したような顔をした。

ただ、一部の者たちの視線は、陽葵のすぐ隣に座る若い男へと移り、意味深な色を帯びていた。

その若い男はかなりの美男子で、顔立ちだけなら拓海にほんの少し劣る程度だった。彼は陽葵のすぐ隣にぴったり寄り添うように座っており、顔に浮かべていた笑みが一瞬だけ引きつった。

悠冬はすぐにそれを隠し、人懐っこい笑顔を向けてくる。「拓海さんですよね?こっちへどうぞ。僕の席に座ってください!」

そう言いながら、彼は立ち上がろうとした。

しかし、陽葵は何気ない調子でそれを制した。「いいのよ、悠冬、あなたはそのまま座っていて。拓海はどこに座っても同じだから。それに、どうせもうすぐお開きになるし、わざわざ席を替わるのも面倒でしょ」

悠冬はそれを聞くとすんなり腰を下ろし、嬉しそうに笑った。「わかりました。陽葵さん、ありがとうございます!」

そう言い終えると、悠冬は拓海に視線を向けた。その目には、どう見ても明らかな挑発の色が浮かんでいる。

拓海は冷たく笑った。「いいだろう、じゃあ少し付き合おう」

そう言って彼は空いている椅子を引き寄せ、そのまま腰掛けた。箸を取るでもなく、タバコに火をつけて、ただ静かに悠冬を見据える。

その態度のせいで、個室の空気は一気に気まずくなった。

陽葵は不満げに眉をひそめて彼を一瞥すると、すぐに作り笑いを浮かべて言った。「さあ、みんな続けて!遠慮なく食べて飲んでね」

拓海の気分は最悪だった。立ち上る紫煙の向こうで、その視線は静まり返り、それでいて刃物のように鋭く二人を見据えている。

ちょうどその時だった。

「陽葵さん!このアワビ、すごくおいしいですよ。もっと食べてください!」

悠冬が取り箸でアワビを陽葵の皿に取り分けながら、満面の笑みでそう言った。

陽葵は一瞬きょとんとしたが、すぐに嬉しそうに目を細めた。「ありがとう、悠冬!」

そう言うや否や、彼女はそのアワビを口に運び、一口かじってからしみじみと呟いた。

「最近はあなたも本当に大変だったわね。寝る間も惜しんで働いて、会社のために大きなプロジェクトを二つも勝ち取ってくれたんだもの。ねえ、何か欲しいご褒美はある?長めの休みでも取らせてあげようか?」

悠冬は首を横に振り、陽葵の目をじっと見つめながら、優しい声で言った。「休みなんていりませんよ!陽葵さんが僕にこんなに目をかけてくれるんだから、当然もっと頑張って、その期待に応えたいんです!」

それを聞いて、陽葵は上機嫌に笑い声を上げた。「悠冬、やっぱり私の目に狂いはなかったわね!欲しいものがあったら何でも言ってちょうだい。私に任せて!」

悠冬の眼差しが、さらに熱を帯びる。「僕はずっと陽葵さんのそばにいて、陽葵さんが成功していく姿を見ていたいです……」

パチ……パチ……パチ……!

その時、不意に拍手の音が響き渡った。

その場にいた全員の視線が一斉に引き寄せられ、彼らはひどく平然とした顔で拍手している拓海を呆然と見つめた。

陽葵は再び不快そうに眉をひそめる。

拓海は拍手しながら、陽葵と悠冬を交互に見やり、口元に冷たい笑みを浮かべた。「実に見事な姉弟愛じゃないか。そこまで言うなら、いっそのことここで抱き合ってみたらどうだ?」

陽葵の顔色が変わった。彼女はすかさず怒りの声を張り上げた。「拓海、どういうつもり?そんな嫌味ったらしい言い方して、一体何が言いたいのよ!」

拓海は鼻で笑った。「俺が嫌味を言っているだと?なら、ここにいる皆さんに聞いてみようじゃないか。お前たち二人のさっきのやり取りが、どれほど気色悪く見えたかをな」

「……私たちが、気色悪い?」

陽葵は自分の耳を疑った。これが、あの普段は温厚で大人しい夫の口から出た言葉だというのか?どうしてこんな、人が変わったように棘のある言い方をするのだろうか。

拓海は冷ややかに言った。「ふっ、もっとひどいことも言えるぞ。聞きたいか?」

陽葵はカッと目を見開き、その美しい顔に明らかな怒りが浮かび上がった。

ただあなたの誕生日を一緒に過ごさなかっただけじゃない……!

彼女は深呼吸をして怒りを鎮めると、氷のように冷たい声で言い放った。

「これ以上、理不尽に騒ぎ立てるのはやめてちょうだい。文句があるなら、家に帰ってから聞くわ。迎えに来たくなかったなら、さっさと一人で先に帰って。あなたがここにいるだけで、せっかくの打ち上げが台無しになるのよ」

「台無しになる、だと?」

拓海は冷笑を浮かべたまま、ゆっくりと立ち上がった。そして、テーブルの縁を両手で強く掴むと――凄まじい力で一気にひっくり返した。

「だったらもう、本当に台無しにしてやる!」

Lanjutkan membaca buku ini secara gratis
Pindai kode untuk mengunduh Aplikasi

Bab terbaru

  • 弟分を選ぶなら、離婚して後悔するな   第10話

    拓海がうっすらと目を覚ますと、すぐ目の前にきらきらと輝く瞳があった。妻がまるで甘える子猫のように彼の胸元にしがみつき、じっと顔を覗き込んでいる。拓海は顔を背け、彼女の視線を避けながら淡々と言った。「何のつもりだ?鍵はちゃんとかけておいたはずなのに、どうやって入ったんだ」「合鍵を持ってるもん」陽葵は手を伸ばして拓海の頬を両手で挟み、強引にこちらを向かせると、ふふっと笑って言った。「あなた、意地を張るのはもうやめましょう?やり直そう、ね?」拓海は沈黙した。誰よりもやり直したいと願っていたのは、他ならぬ彼自身だった。それに、彼が妻と娘を何よりも深く愛しているのは紛れもない事実であり、そうでなければ、これほど何年も家で主夫として支え続けるはずがないのだ。それは決して、怠けているからではない。自分にどれほどの能力があるかはさておき、少なくとも拓海は自分の性格をよく理解していた。彼は忍耐強く、勤勉で、粘り強く努力できる人間だった。それなのに……どうしてこの家庭は、こんなことになってしまったのだろうか?月明かりの下、陽葵は夫の整った顔立ちを見つめ、その逞しい体つきを感じながら、声のトーンを優しく落とした。「あなた、昨日……誕生日を一緒にお祝いしてあげられなかったことは謝るわ。ごめんなさい。でも、腕を絡ませて飲んだお酒の件は、本当にわざとじゃないのよ」プライドの高い彼女にとって、自ら頭を下げて謝るなど、すでに限界以上の譲歩だった。しかし、拓海の胸のわだかまりはそう簡単に消えはしなかった。わざとだろうがなかろうが、結局のところお前は……あの酒を飲んだのだから。少し考えた後、拓海は静かに答えた。「この件は、そう簡単に水に流せるもんじゃない……これからのことは、時間に委ねよう」もし妻が本当に悠冬と完全に縁を切ることができるのなら、確かに離婚に踏み切るほどではないかもしれない。腕を絡ませて飲んだ酒の件も、時が経てばいずれはわだかまりも消えるだろう、と彼は心の中で考えていた。だが……事態はそう都合よく運ぶだろうか?拓海には分からず、深い迷いの中にいた。ただ一つだけ確かなことは、彼はもうこれまでのように現状に甘んじるつもりはないということだ。男にとって、自分の仕事を持つことこそが、本当の意味での支えになるのだから。

  • 弟分を選ぶなら、離婚して後悔するな   第9話

    瑠奈は小さく頷いた。「まあ、あなたの言い分も一理あるわね。はぁ……それにしても意外だわ。あの拓海が、そこまでのヤキモチ焼きだったなんてね。あはははっ!」「笑い事じゃないわよ」陽葵は不満げに口を尖らせた。「問題は、向こうが完全に私を無視してるってことなのよ。どうすればいいと思う?」「なら、あなたも放っておけばいいじゃない。時間が経てばそのうち収まるわよ」瑠奈は気のない風に言った。「でも、冷戦状態は嫌なのよ。私たち、結婚してからこれまで、まともに口をきかないなんてこと一度もなかったから、落ち着かなくて」瑠奈はお手上げといった様子で両手を広げた。「だったら私にはどうしようもないわね。知っての通り、私は生まれてこの方ずっと独り身なんだから。恋だの愛だのなんて分かるわけないじゃない」「はぁ……」それを聞き、陽葵は再び深いため息をついた。その時、瑠奈が何かを思いついたように顔を上げ、ソファから身を起こすと、意味ありげな笑みを浮かべて言った。「ねえ、よく言うじゃない。『夜の営み一回で解決できない夫婦喧嘩はない。もしダメなら、二回すればいい』ってやつ!」それを聞いて、陽葵はパッと目を輝かせた。「本当!?」よく考えてみれば、ちょうど生理が終わったばかりだし、確かにここ何日もそういうことをしていなかった。陽葵の瞳には、ほんのりと期待の色が浮かんでいた。瑠奈はその様子を見て、呆れたように口元を歪めた。「私が言うまでもなかったわね。そんな顔しちゃって、すっかりその気じゃない!」陽葵はえへへと照れ笑いし、姉を見つめて言った。「ねえ、お姉ちゃんももう29歳なんだし、そろそろ彼氏作る気ないの?」「男なんて面倒なもの、何のために必要なの?」瑠奈は鼻で笑った。「美味しいご飯と楽しいゲームがあれば十分じゃない。だいたい、世の中の大半の男は拓海にすら劣るっていうのに、私がそんな連中を好きになるわけないでしょ?」「コホンッ」陽葵は何かを思い出したのか、わざとらしく咳払いをすると、むくれて言った。「他の男と彼を一緒にしないでよ。私の旦那は特別なんだから!」瑠奈は意地悪くニヤリと笑った。「へえ、あなたの弟分も特別なんじゃないの?」「それとこれとは話が別よ!だから何度も言ってるでしょ、私と悠冬は……本当に何でもないんだから!」陽葵は慌てて弁解し

  • 弟分を選ぶなら、離婚して後悔するな   第8話

    黙って部屋へ戻っていく夫の背中を見つめながら、陽葵の胸に悔しさがこみ上げた。私だって譲歩したのに、これ以上どうしろって言うのよ?だが、拓海の思いは違った。たとえ陽葵が距離を置くと約束したとしても、彼女が悠冬と腕を絡ませて酒を飲んでいた光景が、まるで喉に刺さった小骨のように、吐き出すことも飲み込むこともできず、ただひたすらに彼を苦しめていた。彼はソファに座り、苛立ち紛れにショート動画を次々と流し見していたが、心は一向に落ち着かなかった。本当に離婚するべきか?結婚前の交際期間を含めれば、足掛け8年もの情があるのだ。おまけに、愛娘の乃愛だっている……この瞬間、拓海はどう決断すべきか、本気で分からなくなっていた。陽葵が唇を噛みしめながらリビングに入ってきた。その瞳には悔しさが満ち、いまにも零れ落ちそうな涙が潤んでいる。二人はそれ以上言葉を交わすことなく、リビングには重苦しい沈黙が降りていた。拓海から口を開かない以上、陽葵が自分から折れることなどあり得ない。彼女にしてみれば、先ほどの譲歩ですら既に限界だったのだ。もともと彼女は、人一倍プライドが高い性格なのだから。時間だけが1分1秒と過ぎていく中、やがて乃愛が自分の部屋から出てきて沈黙を破った。「パパ、ママ、宿題終わったよ!」その声に、拓海の顔にようやく笑みが戻った。「よし、30分だけスマホで遊んでいいぞ。そのあとはお風呂に入って寝るんだ」「はーい!」乃愛は嬉しそうに自分専用のスマホを手に取り、ゲームを始めた。陽葵は小さく息を吐くと、娘の部屋へ向かい、宿題のチェックを始めた。夜も更け、拓海が乃愛を寝かしつけてから、ようやく自分でお風呂へと向かった。相変わらず自分を無視して風呂へ行ってしまった夫を見て、陽葵の胸に再び不満と怒りがこみ上げた。これ以上この空気に耐えられなくなった彼女は、家を出て下の階へと向かった。清風館は、ワンフロア二戸のマンションである。陽葵の家は1002号室で、姉の瑠奈は真下の902号室に住んでいた。陽葵が指紋認証で直接ドアのロックを解除して中に入ると、瑠奈がフェイスパックを顔に貼り付けたまま、ソファにもたれてスマホを眺めていた。彼女は極めて露出度の高いルームウェアを着ており、雪のように白い肌が惜しげもなく露わになっていた。

  • 弟分を選ぶなら、離婚して後悔するな   第7話

    拓海は口元に冷ややかな笑みを浮かべて言った。「俺がどこで何をしようと、いちいちお前に報告しなきゃならないのか?」その言葉に、陽葵は即座に激昂した。彼女は勢いよく立ち上がり、声を荒らげた。「何よ、その態度は!?こっちはまともに話してるのに、どうして――」だが突然、その声がピタリと止まり、彼女の顔にハッとしたような驚きが浮かんだ。拓海は嘲るように笑った。「どうした?思い出したか?」陽葵の表情がこわばり、気まずそうに歪んだ。彼女は確かに思い出したのだ。そのセリフは半月前、彼女自身が彼に向けて言い放った言葉と、全く同じだったのだから。半月前のことだ。その日は珍しく週末が休みで、拓海は豪華な手料理を準備していた。夕食を済ませたら、家族三人で郊外へドライブに出かける予定だった。しかし、箸をつける間もなく、陽葵のスマホに悠冬からの着信が入った。「うっかり足を切って怪我をしました」という悠冬の言葉を聞いた途端、陽葵は血相を変え、慌ててバッグをひっつかんで家を飛び出そうとした。当然、拓海は納得できず、「どこへ行くんだ」と問い詰めた。だが、悠冬のことで頭がいっぱいで焦っていた陽葵は、しつこく聞かれることに苛立ち、吐き捨てるようにこう言い放った。「いい加減にしてよ!私がどこで何をしようと、いちいちあなたに報告しなきゃならないの?」その言葉を投げつけると、彼女は乱暴にドアを閉めて出て行ってしまった。取り残された拓海が、家の中でどれほど長い時間、呆然と立ち尽くしていたかも知らずに。――場面は現在に戻る。陽葵の顔に一瞬だけ罪悪感がよぎったが、それでも彼女は食い下がるように言った。「だとしても、前もって一言くらい言うべきでしょ。私、午後には帰ってきてたのに、あなたの姿が見当たらなかったのよ」普段の拓海なら、娘を学校へ送り届けた後はすぐに帰宅し、家事をするか本を読んでいるかのどちらかだった。しかし今日、早めに帰宅した陽葵が見たのは、朝食の食器が洗われないままテーブルに放置されている光景だった。それは、拓海が一日中家に帰っていなかったことを意味していた。拓海は静かに首を横に振ると、テーブルへ歩み寄り、食器を片付けながら淡々と言った。「お前も、少しは自分で家事をするか、あるいは家政婦でも雇うことを覚えた方がいい」陽葵は怪訝そうに眉

  • 弟分を選ぶなら、離婚して後悔するな   第6話

    「拓海にわざわざ説明しに行く必要なんてないわ。向こうから謝りに来るのが筋よ」陽葵は少し考えてから、冷ややかにそう言い放った。「分かりました、陽葵さん。あなたの言う通りにします!」悠冬は真剣な顔で小さく頷いた。陽葵はその整った顔立ち、特にあの瞳に、ほんの一瞬だけ見入ってしまった。しばらくして、悠冬が口を開いた。「じゃあ陽葵さん、他に用がないなら、仕事に戻りますね」ハッと我に返った陽葵は、慌てて視線を落とした。「え、ええ……体のこと、ちゃんと気をつけるのよ。まだ怪我してるんだから、絶対に無理しちゃダメだからね」「心配してくれてありがとうございます、陽葵さん」悠冬は人懐っこくニッと笑い、きびすを返して社長室を後にした。だが、ドアを閉めて廊下に出た後、その笑みにはどこか意味ありげな色が浮かんでいた。……一方その頃。拓海は年季の入った古いアウディを運転し、乃愛をさくら小学校へ送り届けた後、車の中で一人、長いこと沈黙していた。彼はスマホを握りしめ、画面に表示された妻の連絡先をじっと見つめていたが、やがてゆっくりと首を横に振り、発信ボタンを押すことはしなかった。二人の愛情と結婚生活には、どうやら亀裂が入り始めている。しかもその亀裂は……少しずつ大きくなっているようだった。一番最初は、陽葵が「会社に新しいインターン生が入ってきたの」とこぼした時だった。その頃の拓海は全く気に留めていなかった。当時の陽葵は、悠冬のことを見下すような口調で話していたからだ。今どき大学生は大勢いるが、本当に実力のある人間なんて一握りしかいない、と。ところが、しばらくすると彼女はそのインターン生に少しずつ関心を持ち始めた。営業力が高く、会社に大きな利益をもたらしてくれた、と褒めるようになったのだ。わずか1ヶ月で、不満は称賛へと変わった。それ以来、拓海の胸の奥には、嫉妬のようなモヤモヤとした感情が渦巻くようになった。どんな理由があれ、自分の妻が他の男を熱心に褒め称える姿を見て、平気でいられる夫などいるはずがない。ただの優秀な部下、それで終わっていればよかった。しかしその後、妻と悠冬の距離はどんどん縮まっていった。夜、陽葵がスマホを握りしめ、LINEで悠冬と楽しそうにメッセージを送り合っているのを、拓海は何度も目撃したのだ。それ

  • 弟分を選ぶなら、離婚して後悔するな   第5話

    「ねえ、お互いに何か誤解があるんじゃないの?」瑠奈は第三者の視点から見て、拓海が感情に任せて口から出まかせを言うような男ではないと察していた。彼が「離婚」を口にしたからには、すでに本気で覚悟を決めているのかもしれない。そう直感した瑠奈は妹に問いかけた。陽葵は恨み言を並べ立てた。「あの人が勝手に誤解してるだけよ!一人で勝手に被害妄想を膨らませて……全部あの人の問題なんだから!」そう言うと、彼女は今夜起きた出来事を、一から十まで一気に姉に言った。全てを聞き終えた瑠奈は、眉をひそめた。「拓海が言っていたように、その弟分と縁を切ることは考えないの?」「そんな必要、全くないわ」陽葵はフンと鼻を鳴らした。「どうしてあの人に私の人間関係までとやかく指図されなきゃいけないの?私はやましいことなんて何一つないんだから!」「そう?……本当はあなたが、その弟分と縁を切りたくないだけなんじゃないの?」瑠奈はゲストルームのドアをちらりと見やり、声を潜めてそう問いかけた。陽葵はハッと目を見開き、慌てて反論した。「私がそんなわけ――」だが言葉を継ごうとした瞬間、ふと何かが脳裏を過ったのか、彼女の表情に一瞬の躊躇いが走り、そのままピタリと声が止まってしまった。瑠奈はその微細な動揺を、一瞬たりとも見逃さなかった。彼女は心の中でひっそりとため息をついた。この子は、自分でも気づかないうちに……もう心変わりしているのかもしれない。陽葵は少しの沈黙の後、ようやく言葉を絞り出した。「と、とにかく、私と悠冬はやましい関係じゃないの、本当にただの姉弟よ!拓海が勝手に誤解してるだけで、時間が経てば彼も分かってくれるはずだわ。本当は悠冬って、すごくいい子で……」「だから、あなたはその子のことが好きなの?」不意に、瑠奈がそう問いかけた。陽葵は考えるよりも先に、無意識に口走っていた。「私は姉なんだから、弟を好きのは当たり前じゃない?」瑠奈は呆れたように首を横に振った。彼女の心の中ではすでに答えが出ており、これ以上話を続けるだけ時間の無駄だと感じていた。「はいはい、分かったわ。でもね、拓海の言葉は一度ちゃんと考えた方がいいと思うよ」そう言って彼女は立ち上がり、大きなあくびを一つした。「私はもう帰って寝るわ、明日も配信があるしね!」彼

Bab Lainnya
Jelajahi dan baca novel bagus secara gratis
Akses gratis ke berbagai novel bagus di aplikasi GoodNovel. Unduh buku yang kamu suka dan baca di mana saja & kapan saja.
Baca buku gratis di Aplikasi
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status