ログイン地方名門・久世家の御曹司に嫁いだ篠原美緒は、若奥様と呼ばれながら、姑の嫌味、小姑の尻拭い、夫・怜央の無関心に耐えていた。 さらに発覚した夫の浮気。それでも久世家は美緒を責め、彼女の実務能力だけを都合よく利用し続ける。そんな中、投資家・鷹宮奏真だけが美緒の才能を見抜く。 「これは手伝いではありません。経営判断です」――その一言をきっかけに、美緒は離婚と起業を決意する。 久世家を出た元嫁が、自分の名前で会社を興し、愛も人生も選び直す逆転再生ラブストーリー。
もっと見る久世家の朝は、門が開く前から始まる。
まだ空は薄く青く、庭石の縁には夜の湿り気が残っていた。高い塀の向こうから、坂道を上ってくる車の音がかすかに聞こえる。新聞配達のバイクが一度止まり、また遠ざかっていく。その音は門の内側へ届く前に、どこかよその世界のものになった。
美緒は玄関先に立ち、新聞受けから取り出した朝刊を両手でそろえた。
重い門は、まだ閉じている。外から見れば、それは久世家の格式を示すものなのだろう。代々この地方都市で名を知られてきた旧家にふさわしい、堂々とした門構え。高い塀の内側には手入れされた庭が広がり、松の枝は季節に合わせて整えられている。飛び石には落ち葉ひとつ残されておらず、玄関の木戸は朝の光を吸って黒く艶めいていた。
けれど内側にいる美緒には、門の立派さよりも、塀の高さばかりが先に見えた。
外には通勤する人がいて、学生がいて、まだ眠たげな町が動き始めている。だが美緒はそこへ出ていく人間ではない。門の内側で、家の一日が滞りなく進むように整える人間だった。
新聞の端を揃え、義父の分と怜央の分を分ける。経済紙を上に、地元紙を下に。宗一郎は地元紙を先に読むことが多いが、来客のある日は経済紙の一面に目を通してから、地元欄へ移る。だから今日は経済紙を一番上にした。そんな小さな順番も、いつの間にか美緒の中では間違えてはいけないものになっていた。
玄関の花の向きが、ほんの少し傾いている。
美緒は新聞を小脇に抱え、花器の前に膝を折った。白い椿の花弁には、まだ水の気配が残っている。昨日の夕方、庭師が帰ったあとに佳乃子が選んだものだった。美緒は茎の角度をわずかに変え、正面から見たときに花がこちらへ向くように整えた。
この家では、何かが少し曲がっているだけで目立つ。
新聞の端。玄関の花。客用のスリッパ。廊下に差す光の中の小さな埃。
誰かが大きな声で責めるわけではない。けれど、誰かが必ず気づく。気づいたあとで、たしなめるように微笑む。美緒さん、こういうところは、その家の空気が出るのよ。以前、佳乃子がそう言ったときの声を、美緒は今でも覚えている。
だから美緒は、気づかれる前に直す。
廊下へ上がると、磨かれた床板が朝の光を細く映した。音を立てないように歩く。そうしなさいと命じられたことはない。けれどこの家に来てから、美緒は自然と足音を抑えるようになった。広い廊下には先祖の写真が並んでいる。古い額縁の中から、知らない男たちと女たちが、いつも同じ顔でこちらを見ていた。
結婚してこの家に入った日は、これが歴史なのだと思った。
すごい家に嫁いだのだと、少し怖くて、少し誇らしかった。怜央の隣で頭を下げ、佳乃子に案内されながら、ここがこれから自分の家になるのだと考えようとした。けれど何年経っても、廊下の艶や先祖の写真や、来客用に整えられた応接室を見るたびに、美緒は自分がまだ客のような気がした。
いや、客ならもう少し、気を抜けたかもしれない。
美緒はダイニングの隅にある小さな家事机へ新聞を置いた。そこで手帳を開く。白い紙面には、今日の予定が細い字で並んでいた。
佳乃子の茶道仲間へ渡す手土産の確認。義父の午前中の来客予定。怜央のクリーニング受け取り。親族への季節の礼状。久世物産関係者から届いた贈答品の返礼リスト。応接室の花の入れ替え。莉奈が午後に顔を出すかもしれない、という昨日の電話のメモ。
そのどれもが、美緒自身の予定ではなかった。
美緒はペン先で、ひとつずつ確認済みの印をつけていく。ペンは細く、黒いインクが紙にきれいに乗る。昔から、手帳に予定を整理することは嫌いではなかった。むしろ混乱したものを見える形に整えるのは、美緒にとって安心できる作業だった。
けれど今、手帳に並んでいるのは、自分以外の誰かが困らないための予定ばかりだった。
スマホが机の上で小さく震えた。
画面を見ると、母の由紀子からだった。
無理してない? お父さんも気にしていました。時間があるときに連絡ください。
短い文章だった。けれどその一文を読んだだけで、美緒の胸の奥が少し緩んだ。母の声は文字だけでも分かる。遠慮がちで、踏み込みすぎないように気をつけながら、それでも心配せずにはいられない声。
美緒は返信欄を開き、「大丈夫」と打った。
そこまで打って、指が止まる。
いつも同じだった。大丈夫。元気です。怜央さんも忙しそうです。お義母さまにもよくしていただいています。そう書けば、父も母もひとまず安心する。普通の家庭で堅実に暮らしてきた両親にとって、久世家は今でもどこか緊張する相手だった。結婚式の日、父の誠一が慣れないモーニングを着て、何度もネクタイの位置を直していたことを思い出す。母は留袖の袖口を気にしながら、久世家の親族へ何度も頭を下げていた。
一人娘を名家に嫁がせた両親が、どこかで肩身の狭い思いをしていることを、美緒は知っていた。
三十一歳にもなって、父と母に心配をかけるわけにはいかない。
美緒は短く息を吐き、続きを打った。
大丈夫。朝は少し忙しいけれど、落ち着いたら電話します。
送信してから、スマホを伏せた。胸に残った小さな痛みを、手帳のページをめくる動作で押し込める。今日の午後、応接室の花を替えるなら、客間の空気も入れ替えておいた方がいい。義父の来客が誰なのかは聞かされていないが、地元金融機関の誰かなら、床の間の掛け軸も無難なものにした方がいいかもしれない。
美緒は立ち上がり、キッチンへ向かった。
朝食の支度は、通いの家政婦が来る前に大枠を整えておく。名家なのだから使用人に任せればいい、というものでもなかった。佳乃子の中では、嫁が気づいておくべき細部と、家政婦に任せる仕事とは別のものらしい。
湯呑みを棚から出す。佳乃子のものは薄い灰青の磁器。宗一郎のものは少し厚みのある白磁。怜央は朝、コーヒーだけで済ませることが多い。だが今日は午前から会議があると言っていたから、軽く食べられるものも用意した方がいい。
美緒は冷蔵庫を開け、昨夜のうちに下ごしらえしておいた小鉢を確認した。味噌汁の出汁は鍋に取ってある。焼き魚は義父の好みに合わせて塩分を控えめにする。佳乃子は朝から脂の強いものを好まない。
手を動かしながら、美緒の目は自然と次に整えるべきものを探していた。
台拭きの折り目。箸置きの位置。花器の水。来客用の茶葉の残量。玄関からダイニングまでの廊下に落ちていた小さな葉。美緒はそれを見つけるたびに拾い、拭き、直した。
気づいてしまう性分だった。曲がったもの、足りないもの、誰かがあとで困るもの。そういうものを、美緒は見過ごせない。
銀行に勤めていた頃もそうだった。提出された資料の小さな数字のずれ、資金繰り表の空白、取引先の言葉の端に滲む不安。誰かが見落としたものに気づき、それを整理するのが美緒の仕事だった。あの頃は、それが自分の役割だと胸を張れた。地味でも、必要な仕事だと思えていた。
今、その同じ力は、湯呑みの向きや花の角度や、久世家の体面を保つために使われている。
そのことに、はっきりとした不満があるわけではなかった。嫁いだのだから、家のことをするのは当然だ。怜央を支えるのも、佳乃子に教わるのも、久世家に馴染むためには必要なことなのだと、美緒は自分に言い聞かせていた。
それでも、ふとした瞬間に、自分の手が何を整えているのか分からなくなることがある。
家なのか。
仕事なのか。
それとも、自分がここにいてもいい理由なのか。
廊下の奥で、古い振り子時計が低く鳴った。六時半。家の空気が少しずつ、人の気配を含み始める。
美緒は手を拭き、背筋を伸ばした。
佳乃子が現れたのは、それから十分ほど後だった。
朝の光の中でも、佳乃子は隙のない人だった。淡い藤色の上着に、きちんと整えられた髪。化粧は薄いのに顔色は明るく、指先まで手入れが行き届いている。大きな声を出すことはない。足音さえ静かで、けれど家の空気は彼女が廊下に立った瞬間、少しだけ張りつめる。
美緒はすぐに向き直った。
「おはようございます、お義母さま」
佳乃子は柔らかく微笑んだ。
「おはよう、美緒さん。今朝も早いのね」
「はい。お義父さまのお客様がいらっしゃるかもしれないと伺っていましたので」
「そう。助かるわ」
佳乃子の目が、美緒の顔から服へ、そして髪へと静かに移った。
美緒は思わず、背中に力を入れた。今日の服は、ベージュのブラウスに紺のスカートだった。派手ではない。久世家の朝にふさわしいように、控えめで、きちんと見えるものを選んだつもりだった。髪も低い位置でまとめ、後れ毛が出ないようにピンで留めている。
佳乃子は少し首を傾けた。
「美緒さんは、いつも控えめでいいわね」
「ありがとうございます」
褒め言葉として受け取るべきなのだと、美緒はすぐに判断した。けれど佳乃子の視線は、まだ美緒の顔色を測るように留まっている。
「ただ、今日はお父様のお客様もいらっしゃるでしょう。久世家の嫁としては、もう少し顔色が明るく見えるものでもよかったかもしれないわ」
美緒は指先をそっと重ねた。
「申し訳ありません。着替えてまいります」
「責めているわけではないのよ」
佳乃子は、困ったように笑った。
「若い方は地味にすれば上品だと思いがちだけれど、場に合う華というものもあるの。少しずつ覚えていけばいいわ。美緒さんなら、きっと分かると思って」
「はい。気をつけます」
責めているわけではない。
その言葉が添えられるたび、美緒は、責められたと感じる自分の方が間違っているような気持ちになった。佳乃子は声を荒げない。冷たい言葉を直接投げつけるわけでもない。ただ、足りないものを教えてくれる。久世家にふさわしくなるために、親切に指摘してくれている。
そう思えば、胸の痛みは美緒の未熟さだった。
美緒は廊下の姿見へ視線を向けた。
鏡の中の自分は、確かに顔色がよくはなかった。三十一歳。若すぎるわけではない。けれど、佳乃子の前では、いつまでも未熟な嫁として立たされる。派手ではないが、顔立ちは悪くないと怜央は昔言ってくれた。落ち着いていて安心する、とも。
今は、その落ち着きさえ、華の足りなさに見えるのかもしれない。
美緒は一度だけ目を伏せた。
「すぐに、口紅だけ少し明るいものに替えてまいります」
「そうね。その方がいいわ」
佳乃子は満足したように微笑み、ダイニングの席へ向かった。美緒はキッチンへ戻りかけた足を止め、洗面室へ向かう。鏡の前でポーチを開け、普段より少し赤みのある口紅を取り出した。
唇に色を足す。ほんの少しだけ。
それだけで、鏡の中の自分は別の人のように見えた。久世家に合わせて整えられた、自分ではない誰か。
美緒は口紅の蓋を閉め、ポーチをしまった。
朝食が終わる頃、宅配便が届いた。
玄関先で受け取った荷物には、母の字で美緒の名前が書かれていた。見慣れた丸みのある字。宛名の横には、小さく「野菜と少しだけお菓子」と添えられている。
その字を見た瞬間だけ、美緒の胸は少し緩んだ。
箱は重すぎない。台所へ運んで開けると、新聞紙に包まれた野菜と、瓶詰めの梅干し、それから父が好きだった地元の和菓子店の包みが入っていた。高価なものではない。けれど、一つひとつが丁寧に詰められていた。隙間には、母の短い手紙が入っている。
朝晩まだ冷えます。身体に気をつけて。梅干しは今年のものです。怜央さんにもよろしく。
美緒は手紙を指先でなぞった。
そのとき、背後から佳乃子の声がした。
「あら、ご実家から?」
美緒はすぐに振り返った。
「はい。母が、少し野菜を送ってくれたようで」
佳乃子は箱の中をのぞき込むようにした。表情は穏やかだった。けれど美緒は、新聞紙で包まれた野菜や梅干しの瓶が、この台所の中で急に場違いに見えるのを感じた。
「あたたかいご実家ね。お気持ちはありがたいけれど、こういうものは置き場所に困ることもあるのよね」
「あ……申し訳ありません。すぐに整理します」
「いいのよ。責めているわけではないの。ただ、久世の家にはいただきものも多いでしょう。管理する側も大変だと思って」
「はい。母には、次から事前に連絡するよう伝えます」
佳乃子は、手紙へ視線を落とした。
「篠原のお父様とお母様は、本当に美緒さんのことが心配なのね。一人娘さんですものね」
美緒は笑おうとした。
「はい。少し、心配性で」
「でも、もう久世の人間なのだから、ご実家にも少しずつ安心していただかないと」
柔らかな声だった。
ただ、その言葉は箱の中の野菜よりも重く、美緒の手元へ沈んだ。
もう久世の人間。
結婚したのだから、その通りだ。篠原美緒ではなく、久世美緒。怜央の妻であり、久世家の嫁。父と母が心配するのはありがたいけれど、いつまでも実家に気持ちを残しているようではいけない。
そう考えようとするほど、母の手紙の文字が胸に残った。
美緒は梅干しの瓶を取り出し、冷蔵庫へしまった。野菜は新聞紙を外し、使いやすいように分ける。和菓子は義父と佳乃子に出せるかを考え、包みを確認した。久世家で出すには少し素朴すぎるかもしれない。けれど父が好きな店だと思うと、自分だけで食べるのも申し訳なかった。
「お茶請けに、お出ししてもよろしいでしょうか」
美緒が尋ねると、佳乃子は少し考えるような間を置いた。
「そうね。今日はお客様用には別のものを用意しているから、私たちでいただきましょうか」
「ありがとうございます」
なぜ礼を言ったのだろう。
そう思ったのは、言葉が口から出たあとだった。
自分の実家から届いたものを、家の中に置かせてもらう。その許可を得たような気持ちになっていることに、美緒は気づきたくなかった。
怜央が降りてきたのは、七時半を少し過ぎた頃だった。
階段を下りる足音は、佳乃子とは違って少し軽い。スーツは濃紺で、白いシャツに薄いグレーのネクタイを合わせている。髪は整えられ、香水の清潔な匂いがふわりと漂った。外に出れば、誰もが振り返るような御曹司。美緒も初めて会った頃、その華やかさに少し緊張した。
怜央はスマホを見ながらダイニングへ入ってきた。
「おはよ」
「おはようございます。コーヒー、すぐに淹れますね」
「ああ、頼む」
怜央は椅子に腰を下ろし、置かれていた新聞を軽くめくった。美緒はコーヒーを淹れながら、トーストと小さなサラダを用意する。怜央は朝食を取らないことも多いが、出しておけば少しは口にする。食べなければ片づければいい。それもいつものことだった。
「今日、夜いらないから」
怜央が新聞から目を離さずに言った。
「会食ですか?」
「うん。取引先。母さんに言っといて」
「承知しました」
「あと、昨日の資料どこ置いた? ほら、来週の商談のやつ」
美緒はカップを置きながら答えた。
「書斎のデスク右側に、青いファイルでまとめています。名刺リストは一番上に挟みました」
「ああ、助かる」
怜央は軽く言って、コーヒーに手を伸ばした。
その言葉を聞くたび、美緒は少しだけ救われた気持ちになる。助かる。短くて、何気ない言葉。けれど自分がここにいる意味を、少しだけ確かめられる気がした。
ただ、その言葉が美緒自身へ向けられているのか、美緒の働きへ向けられているのか、まだ考えたことはなかった。
「今日の午後、莉奈が来るかもしれないって言ってたな」
怜央が思い出したように言う。
「昨日、お電話がありました。新しい企画のことで、少し相談したいそうです」
「なら、適当に聞いてやって。莉奈、数字のことになるとすぐ混乱するから」
「私で分かる範囲でしたら」
「美緒なら分かるだろ」
怜央は悪気なく笑った。
その笑顔は、外で見せるものより少し緩い。家族に向ける気安さなのだろう。美緒はそう受け取ろうとした。妻として頼られている。家族として必要とされている。だから、忙しくても、疲れていても、できることはしておきたい。
佳乃子が湯呑みを置きながら、穏やかに言った。
「美緒さんがいてくれると、怜央も安心ね」
「そうだな。細かいところ、俺より見てくれるし」
怜央は何でもないことのように頷いた。
美緒は微笑んだ。
「お役に立てているなら、よかったです」
そう言いながら、胸の奥で何かが小さく動いた。
役に立つ。
それは、妻として大切にされることと同じなのだろうか。
答えを探す前に、怜央が立ち上がった。コーヒーは半分残っている。トーストには一口しか手をつけていなかった。
「じゃ、行ってくる」
「お弁当は……」
「今日はいい。昼も外」
「分かりました。お気をつけて」
美緒は玄関まで見送った。怜央の鞄を渡し、車の鍵を確認し、ハンカチを差し出す。怜央はそれを受け取って、軽く笑った。
「ほんと、助かる」
その言葉だけを残して、怜央は門の外へ出ていった。
車のエンジン音が遠ざかる。門が閉まる音が、朝の空気の中で重く響いた。外へ向かった怜央の気配はすぐに消え、残されたのは、整えられた玄関と、履かれなかった客用スリッパの列と、佳乃子の静かな存在だった。
宗一郎も少し遅れて出かけた。会合があると言い、地元紙だけを手に取って車へ乗った。美緒は玄関で頭を下げた。
「いってらっしゃいませ、お義父さま」
宗一郎は短く頷いただけだった。無関心というほど冷たくはない。けれど、美緒の挨拶に立ち止まるほどでもない。その距離感が、この家での美緒の立場をよく表していた。
佳乃子は宗一郎を見送ると、ダイニングへ戻ってきた。
家の中が、一瞬だけ静かになる。
美緒はようやく、自分のためのお茶を淹れた。朝から何度も湯を沸かしていたのに、自分の湯呑みに注ぐのは初めてだった。淡い湯気が上がる。母の送ってくれた梅干しの瓶を冷蔵庫へ入れたせいか、指先にまだ少し、紙と土の匂いが残っていた。
その匂いを嗅いだだけで、実家の台所が浮かんだ。
小さな流し。母の使い込んだまな板。父が朝、新聞を読みながら飲む薄いお茶。久世家のように広くはない。磨き上げられた廊下も、先祖の写真もない。けれど、そこでなら美緒は足音を気にせず歩けた。
湯呑みに手を伸ばしかけたとき、佳乃子が声をかけた。
「美緒さん」
美緒はすぐに手を止めた。
「はい」
「今日の午後、少し応接室を整えておいてくれる? お父様のお客様がいらっしゃるかもしれないから」
「承知しました」
「それから、床の間のお花も見ておいて。今朝の玄関のお花はきれいだったわ」
「ありがとうございます」
褒められたはずなのに、美緒の肩から力は抜けなかった。佳乃子は湯呑みを手にした美緒へ、やわらかく微笑んだ。
「こういうことはね、言われる前にできるようになると、本当の意味で久世家の嫁になれるの」
美緒は、ほんの少しだけ息を止めた。
「はい。気をつけます」
「美緒さんは真面目だから、少しずつ覚えていけばいいわ」
佳乃子はそう言って、静かに廊下の奥へ去っていった。
残されたダイニングで、美緒は冷めかけた湯呑みを見下ろした。ほんの少し前まで、湯気が立っていたはずだった。今は表面が静かになり、白い湯呑みの縁だけが朝の光を受けている。
飲もうと思えば、飲める。
けれど応接室の花を整えなければならない。床の間も確認しなければならない。佳乃子に言われたからではない。言われる前にできるのが、久世家の嫁なのだ。
美緒は湯呑みから手を離した。
椅子を戻し、手帳を持つ。応接室の花は、季節に合うものに替えた方がいい。義父の客が銀行関係者なら、あまり華美ではなく、けれど貧相にも見えないものを選ばなければならない。茶器も確認する。客用の座布団は昨日干したが、もう一度埃を払っておこう。
廊下へ出ると、古い振り子時計が低く鳴った。
まだ午前九時にもなっていない。
それなのに、もう一日分の疲れが胸の奥に沈んでいる。
美緒は足音を立てないように、応接室へ向かった。磨かれた廊下に、自分の姿がぼんやり映る。ベージュのブラウス。少し明るくした口紅。低くまとめた髪。久世家の嫁として、できるだけ正しく整えた自分。
その姿を見ながら、美緒は思った。
もっと頑張らなければ。
そう思うことに、まだ疑いはなかった。けれどその言葉の奥で、別の何かが小さく息を詰めていた。
応接室の襖を開けると、来客のためだけに整えられた空気が、美緒を静かに迎えた。高価な調度品、磨かれた机、床の間の掛け軸、誰も座っていない椅子。すべてが正しい位置にあり、すべてが美しい。
美緒は花器の前に立ち、椿の向きを直した。
外から見れば、きっと立派な家なのだろう。
けれどこの家の内側で、美緒は今日も、息を潜めるように朝を始めていた。
朝のテーブルには、鷹宮が淹れたコーヒーと、美緒が昨夜まで読んでいた事業資料が並んでいた。窓から差し込む光はまだ柔らかく、白いカーテンの端を淡く透かしている。テーブルの上には、リブランシュの案件ファイル、赤い付箋のついた試算表、地方の小さなメーカーから届いた商品パンフレットが広げられていた。生活と仕事が、無理に混ざるのではなく、静かに同じ場所に置かれている。美緒は、その光景を少し不思議な気持ちで眺めた。鷹宮と婚姻届を出してから、もう半年になる。部屋の中には、二人で暮らしている気配が少しずつ増えていた。玄関には美緒のパンプスと鷹宮の革靴が並び、棚の上には鷹宮が選んだ小さな花器が置かれている。リビングの一角には美緒の仕事用バッグがあり、その隣に、鷹宮が休日に読む経済誌が重ねられていた。どれも、静かなものだった。誰かの家に入った、という感じはしない。美緒の生活が、別の誰かの名前に飲み込まれたわけでもない。ただ、自分の生活の隣に、鷹宮の生活が自然に並んでいる。そのことが、今でも時々、美緒の胸をそっと温めた。「今日は午後から面談でしたね」キッチンから、鷹宮の声がした。「はい。商工会からの紹介で、味噌蔵の方が来られます」「資料は?」「昨日の夜に一通り見ました。商品自体は長く続いているようなんですが、価格設定と販路が曖昧で。あと、ECはほとんど整っていません」「リブランシュ向きですね」鷹宮はそう言って、コーヒーの入ったカップを美緒の前に置いた。からかうような調子ではなかった。けれど、そこには美緒の仕事を知っている人の穏やかな確信があった。美緒は小さく笑った。「そうですね。まず、何が残っているのかを見るところからです」鷹宮は、美緒の向かいに座った。彼の左手にも指輪がある。美緒の左手にも、同じように細い指輪が光っていた。けれど、その指輪は、美緒を誰かの所有物にするものではなかった。朝の光の中で、ただ静か
久世物産の月次進捗確認は、予定よりも静かに始まった。会議室に並んだ資料は、以前より少なくなっていた。それは問題が減ったからではない。見るべき項目が絞られ、誰が何を進めるのかが整理され始めたからだった。KUZÉ ma vie縮小実行。在庫処分進捗。EC導線改修。取引先説明状況。決裁フロー見直し。経費処理ルール改定。銀行向け月次報告。森川が画面に実行管理表を映す。空欄だった進捗欄には、少しずつ言葉が入っていた。未着手。進行中。完了。保留。次回対応。その四つの区分だけで、久世物産の空気は以前と違って見えた。検討中という便利な言葉は、表の中から少しずつ減っていた。代わりに、日付と担当者と、次に何をするかが入っている。まだ立ち直ったわけではない。在庫は残っている。取引先への説明も、すべてがうまく進んでいるわけではない。KUZÉ ma vieの縮小に対する社内の戸惑いもある。怜央の権限見直しも、完全に定着したとは言えない。それでも、久世物産はもう、沈んでいく理由を見ないふりする段階を過ぎていた。美緒は、リブランシュの席で資料に目を落としていた。今日は、細かい診断をする日ではない。進み始めたものを、進み続ける形に整える日だった。森川が報告する。「限定ボックス追加生産停止については、制作会社との精算条件が確定しました。既存在庫はギフト用途に限定し、通常商品への使用は行いません」長谷川が頷く。「損失見込みは」「経理で一次試算済みです。月次報告に添付します」次に浜口が、取引先説明の進捗を報告した。「優先対応先のうち、東雲醸造を含む三社へ訪問済みです。条件見直しについては一部厳しい意見もありましたが、今後の商品提案とEC支援の改善を前提に、継続協議となっています」宗一郎は、黙って資料を読んで
法人化に向けた書類を進めた日の夜、美緒は鷹宮と約束した小さなレストランへ向かった。駅前の大通りから一本入った場所にある、静かな店だった。大きな看板はなく、入口のガラス越しに、温かな照明と木目のテーブルが見える。華やかすぎず、かといって気取ってもいない。仕事帰りの人が、少しだけ肩の力を抜いて座れるような場所だった。美緒は店の前で一度立ち止まり、鞄の持ち手を握り直した。中には、法人化関係の控えが入っている。株式会社リブランシュ。代表取締役、篠原美緒。その文字は、紙の上ではすでに形になっていた。けれど、美緒の中ではまだ少し大きすぎた。鞄の中にあるだけで、紙の束がいつもより重く感じられる。店に入ると、奥の席に鷹宮がいた。黒に近いグレーのスーツに、薄いブルーのシャツ。ネクタイは外していたが、姿勢はいつも通り整っていた。美緒に気づくと、彼は立ち上がった。「お疲れさまでした」最初に言ったのは、それだけだった。おめでとうございます、ではなかった。よく頑張りましたね、でもなかった。そのことに、美緒は少しだけ救われた。「ありがとうございます」席に着き、鞄を椅子の横に置く。「まだ、終わったというより、始まってしまった感じです」美緒がそう言うと、鷹宮は静かに頷いた。「会社は、作った日より、その後の方が長いですから」その言葉に、美緒は思わず小さく笑った。「現実的ですね」「そういうものです」鷹宮も、少しだけ口元を緩めた。祝杯というには、まだ早かった。美緒の中にあったのは、達成感よりも、始まってしまったという静かな重さだった。温かいお茶が運ばれてくる。白い湯気が、テーブルの上でゆっくり揺れた。美緒は両手でカップを包み、しばらくその温かさを感じていた。「藤崎さんと浜口さんを迎えること。法人化すること。小野寺製菓の継続支援。久世物産の再建
机の上に並んだ書類の厚みは、開業届を出した頃とはまるで違っていた。あの時、美緒が整えたのは、自分ひとりが立つためのものだった。屋号。開業届。名刺。請求書のテンプレート。小さな事業用口座。最初の案件ファイル。それらは、久世家を出た美緒が、篠原美緒として仕事を始めるための書類だった。今、机の上にあるものは違う。小野寺製菓の継続契約書。久世物産の支援契約書。商工会経由の相談予定表。銀行担当者から届いた紹介候補リスト。新規食品メーカーの初回相談メモ。藤崎との業務委託契約案。浜口との契約案。税理士から届いた法人化資料。真帆の法律事務所から送られてきた法務メモ。ひとつひとつは、仕事が増えた証だった。けれど、重ねて見ると、それは単なる成功の印ではなかった。案件がある。取引先がある。仲間がいる。継続契約がある。銀行や商工会からの期待がある。それらを、いつまでも美緒ひとりの屋号の中に収めておくことはできない。リブランシュという名前は、もう美緒の机の上だけにある小さな看板ではなくなっていた。美緒は、税理士から届いた資料を開いた。法人化の流れ。設立費用。資本金。役員構成。定款。登記。社会保険。税務処理。法人名義の銀行口座。契約主体の変更。文字はどれも事務的だった。だが、その事務的な文字の一つひとつが、これから美緒が引き受けるものを示しているように見えた。会社にする。その言葉は、思っていたより重かった。美緒は、しばらく画面を見つめたあと、真帆へ連絡を入れた。「法人化の件、相談したいです」返信はすぐに来た。「資料を持ってきてください。契約と責任から整理しましょう」
怜央からのメッセージは、短かった。莉奈の資料、今日中に見られる?美緒は、ダイニングのテーブルに広げた企画書を前にして、その文字をしばらく見つめていた。今日中に。莉奈が言った「ちょっと相談」という言葉より、その四文字はずっと重かった。けれど、怜央からの頼みだと思うと、重いと感じる自分の方が間違っているような気がした。窓の外では、庭の木々が夕方の光を受けて暗い影を落とし始めている。昼間には明るく見えた苔の色も、今は深く沈み、飛び石の縁だけがかすかに白く浮いていた。古い振り子時計の音が、廊下の奥から一定の間隔で届く
スマホの画面には、莉奈の名前が表示されていた。お義姉さん、今日おうちにいますよね? ちょっと相談したい資料があって。美緒は、洗い終えた茶器を布巾の上に伏せたまま、その文面を見つめた。ちょっと相談。その言葉は軽かった。少なくとも、断るほど重いものには見えなかった。けれど美緒は知っている。久世家で使われる「ちょっと」は、たいてい、その言葉より少し重い。応接室には、まだ香の匂いが薄く残っていた。先ほどまで来客たちの笑い声が満ちていた部屋は、今は静まり返っている。茶器は洗い終えた。菓子皿も拭いた。座布団も元の位置に戻
応接室の花は、すでに整っていた。けれど美緒は、もう一度だけ花器の向きを確かめた。床の間の掛け軸に対して、枝先がわずかに右へ流れている。ほんの少しのことだった。誰も気づかないかもしれない。けれど、佳乃子は気づく。この家では、気づかれないことよりも、気づかれたときにどう見えるかが大切だった。美緒は花器を両手で持ち、音を立てないように数ミリだけ動かした。陶器の底が畳の上の薄い板に触れる、そのわずかな感触にまで神経が向く。朝から動き続けているせいか、指先が少し冷えていた。応接室は、客を迎えるための部屋というより、久世家が久世家であることを証明するための部屋に見えた。磨かれた座卓。季節に合わ
久世家の朝は、門が開く前から始まる。まだ空は薄く青く、庭石の縁には夜の湿り気が残っていた。高い塀の向こうから、坂道を上ってくる車の音がかすかに聞こえる。新聞配達のバイクが一度止まり、また遠ざかっていく。その音は門の内側へ届く前に、どこかよその世界のものになった。美緒は玄関先に立ち、新聞受けから取り出した朝刊を両手でそろえた。重い門は、まだ閉じている。外から見れば、それは久世家の格式を示すものなのだろう。代々この地方都市で名を知られてきた旧家にふさわしい、堂々とした門構え。高い塀の内側には手入れされた庭が広がり、松の枝は季節に合わせて整えられている。飛び石には落ち葉ひとつ残されておらず、
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