LOGIN「あの、国立特級芸術アカデミーへ応募したいんですが……」 松浦直美(まつうら なおみ)は応募締切ぎりぎりのその日、募集窓口へ駆け込み、志望届を差し出した。 職員は顔を上げて彼女を見る。「国立特級芸術アカデミーは、選考に受かるとそのまま合宿形式の訓練に入ります。その間は外部との連絡も取れません。それでも参加しますか?」 「はい。お願いします」 直美は高まる胸の鼓動を抑え、まっすぐな瞳で答えた。 「わかりました。では10日後の選考試験にお越しください」 受験票を手にした瞬間、ようやく直美の心は落ち着いた。 やっとここを離れられる。そして、ずっと胸の奥で思い描いてきた舞台へ、ようやく踏み出せるのだ。
View More直美の夢がいよいよ叶おうとしていた。光り輝くダンサーになること。それこそが、直美の生きる目的だった。当時、瑞樹の元を去ったのは、感情的な理由もあった。しかし、それはこの人生において最も正しい決断だったと、今では思える。しかし、雅宏は少し気がかりな様子だった。「松浦さん。ただでさえ怪我を抱えているのに、ソロ公演に向けてそんなに練習を増やしちゃって……本当に君の体が心配だよ」目の前の雅宏を見つめながら、直美の心に言い知れぬ感動がこみ上げた。「奥山監督。そんなに心配しなくて大丈夫ですよ。ダンサーに傷はつきものですから。これは私たちの勲章なんです」公演があるたびに、雅宏はいつも側にいて自分を見守ってくれた。すると、雅宏が寂しそうに言った。「松浦さん、俺は第一線を退こうと思ってるんだ。だから、もう君を守ってあげられなくなる」突然の知らせに、直美の胸は締め付けられた。長年、お互いの気持ちを口にすることこそなかったが、心の中では誰よりも大切な存在だった。「じゃあ、これからは会えなくなっちゃうんですか?」予期せぬ別れの予感に、直美はひどく動揺した。国立特級芸術アカデミーでの日々。雅宏が側で守ってくれていなければ、自分はここまでこられなかったと思う……この人と離れ離れになる日が来るなんて、考えてもみなかった。雅宏の目も赤く染まった。彼はついに感情を抑えきれずに、思いを口にする。「松浦さん、君が好きだ」その言葉は、雅宏自身の胸に重くのしかかる。かつて総合プロデューサーという立場で、自分の思いを口に出すことはできなかった。しかし、もうすぐここから離れる。もうプロデューサーではない。だから、ただの一人の人間として伝えたかったのだ。この人生に後悔を残したくない。もし拒絶されたとしても、それは受け入れるつもりだった。これほどストレートな告白を、直美はこれまで聞いたことがなかった。以前、瑞樹と付き合っていた時は、自分が愛を語りかけるばかりで、彼からはこんな言葉を聞いたことがなかったからだ。心臓が激しく波打ち、頬は火がついたように熱くなる。直美は少し立ち尽くした後、恥ずかしそうに口を開いた。「私も……あなたをただのプロデューサーだとは思っていません、よ?」「本当か?」その言葉が、雅宏の頭の中でま
瑞樹の髪はまるで枯れ草のようにボサボサで、あごには伸び放題の無精髭が生えている。しばらく身なりも整えていないようで、すっかり浮浪者のような姿になっていた。「直美」瑞樹がおどおどとした様子で直美の名前を呼ぶ。再び顔を合わせたときには、もうすっかり様変わりしていて、二人がともに過ごした日々は、まるで前世の出来事のように遠く感じられた。直美は瑞樹を見つめ、無理やり笑顔を浮かべた。「瑞樹、久しぶり」目の前の直美は妖精のように輝いて見えるのに、今の瑞樹は乞食同然だった。かつての凛々しく輝いていた面影は、どこにもない。瑞樹は、まさかまた直美に会えるとは思ってもみなかった。しかし、彼女が公演のためにここに来ると聞き、瑞樹の諦めていた心に小さな火が灯ったのだった。今の自分には直美に会う資格などないと分かっていても、どうしても直接謝りたかった。「直美、本当に悪かった。今までのことは俺が悪かったんだ。だから、ずっと謝りたくて」瑞樹はうろたえながら服を整えると、ポケットから宝石のブレスレットを取り出した。「直美、これは本来、結婚する時に君に贈ろうと思っていたんだ。でも……もう汚されてしまった。だから、もう君には贈れない……」瑞樹は思い切りブレスレットを地面に叩きつけ、それは無惨にも砕け散った。そのまま瑞樹は夜闇に消えていった。直美は目に驚きを浮かべながら、呆然とその場に立ち尽くしていた。地面に広がる破片は、二人の恋と同じ結末を暗示しているようだった。割れたものはもう戻らないし、修復しても跡は残るのだ。直美は気持ちを落ち着かせると、楽屋の中へと戻った。かつての記憶はただの夢だったと思うことにする。もう二度と瑞樹に会うこともないのだから。それからしばらくして、直美は友人から瑞樹のその後を聞かされた。瑞樹は妻子への暴力が原因で病院を懲戒免職になったそうだ。職を失った瑞樹は浮浪者となり、毎日酒と博打に明け暮れ、家庭に一銭も入れなくなったという。だから、結香は慎也を抱えながら、必死に家計を支えていた。いくつものバイトを掛け持ちし、ようやく食いつないでいる状況だったらしい。それでも瑞樹は満足せず、結香に暴言を吐き、稼ぎが足りないから酒が飲めないと殴る蹴るの暴行を加えた。結香が少しでも口答えをすれば、待っているのは
怪我が完全に回復した直美は、訓練を再開した。それに、公演の成功を聞き、心から羨ましく思った。神奈は前回の公演で手に入れた賞品や贈り物を、すべて直美に渡した。直美は戸惑った。「これはあなたがもらったものでしょ?どうして私なんかに?」神奈が気まずそうに答える。「あの怪我がなければ、主役で踊っていたのは松浦さんだから。これは本来、あなたが受け取るべきものなの」「山崎さん。実際に舞台で輝いていたのはあなただよ。私のために自分の栄誉を捨てるなんてしないで」神奈はわずかに目を伏せて言った。「松浦さん、もしかしてまだ怒ってる?」直美はため息をついて微笑む。「わかったわ。受け取るから、心配しないで」それ以来、直美と神奈は国立特級芸術アカデミーの2大スターとなり、互いに切磋琢磨して共に成長した。その光景を見て、雅宏は胸をなでおろした。張り詰めていた国立特級芸術アカデミーの空気は、ようやく和らぎつつあった。しかし、直美に対する雅宏の想いは日増しに募っていた。近づきたいが、噂になるのが怖い。女性の評判は大切だし、総合プロデューサーがダンサーに手を出したとなれば、それは大きなスキャンダルだ。悩んだ末、雅宏は想いを秘め、陰から直美を見守ることを選んだ。あっという間に3年が過ぎ、国立特級芸術アカデミーの合宿訓練が終わる時期になると、立て続けに各地での公演のスケジュールが組まれた。国立特級芸術アカデミーの最終訓練は、全国各地での慰問公演だった。どの公演も大成功を収めた。直美と神奈は国立特級芸術アカデミーの顔となっていて、出演する公演はどこも満員御礼だった。そして今回の会場は、かつて直美が勤めていた病院のホールに決まった。不安を胸に抱えながら彼女はここへ戻ってきた。胸の内には、言葉にしきれないほどの思いが渦巻いている。しかし3年も経った今、すっかり変わってしまっていた。あの頃の愛も恨みも、全てが綺麗さっぱり無くなっている。かつての同僚たちが、直美の出演を聞きつけて続々と駆けつけてきてくれた。「松浦さん、すごいね!すっかり大スターじゃない!」「スターだった人と前は同僚だったなんて、今でも信じられないよ」「なんか感慨深いよ。あの時、松浦さんと宮本先生は美男美女のカップルで有名だったのに、今じゃ全
瑞樹は真っ青な顔で答える。「はっきりさせるも何も、白石さんと結婚するのは無理です。そもそも、恋愛感情すらないので。もし、白石さんが、金銭的な責任を要求するのであれば応えることはできますが、結婚だけは本当にできないんです」結香は鼻で笑った。「気持ちがないなら、なんで私と寝たの?それに、なんでこの大切な家宝を私にくれたの?」そう言って、結香は腕を上げ、手首に嵌めたブレスレットを見せつける。瑞樹は目を見開いた。「どうしてそのブレスレットを……」「あなたがくれたんじゃないの。宮本家の大事なお嫁さんにしか渡さない宝物なんでしょ?それを私にくれたってことは、妻に迎えたいって意味じゃないの?」結香の言葉はあまりにも露骨だったため、周囲は息をのんだ。どうやら瑞樹は、面倒くさい相手に絡まれてしまったようだ。「俺は君にそれを贈っていない。どうせ、盗んだんだろ?それはいくらなんでもやりすぎだぞ」結香は泣き出す。「そう、しらを切るのね。分かったわ。ならここで死んでやるから。もう生きてる意味なんてないもの……」そう言って、窓から飛び降りようとする結香を、周りの者たちが慌てて止めた。事態はもう、収拾がつかないところまできていた。和彦は瑞樹を自分の事務室に呼び出し、形だけでも結香との結婚を認めるよう言った。さもなければ、瑞樹の仕事はなくなるだろう、と。「院長先生。白石さんにしたことは人助けの一環で、恋愛感情なんてないんです。俺には婚約者がいることもご存じですよね?俺は直美を待っているんです」和彦が激しくデスクを叩く。「もう遅い!松浦さんがいる間、君は彼女にどう接していたんだ?今さら戻ったところで、許してもらえると思うのか?自業自得だよ。この結婚は認めろ。もし白石さんが死ぬようなことになれば、君は終わりだ。医者を続けたくないなら、退職届を出せ」瑞樹は愕然とした。医師であることは自分の誇りであり、明日香との約束でもあった。だから辞めるわけにはいかない。しかし、結香が騒ぎ続ければ、医師としてのキャリアは断たれてしまう。瑞樹に選択肢はなく、ただ頷くしかなかった。結香と慌ただしく籍を入れたあと、瑞樹は彼女の家に移り住んだ。背骨を抜かれたように、瑞樹からはかつての覇気が消え失せていた。一方結香は、晴れて瑞樹の妻となれたこ
瑞樹の言葉を聞いて、直美は固まった。そんなことはありえない。先ほどナースカートを部屋に入れた時、薬剤を確認したばかりだが、そこにはペニシリンなど入っていなかった。「瑞樹、言いがかりをつけるのにも証拠が必要でしょ?適当なことを言わないで。私がいつ白石さんにペニシリンなんて渡したの?」直美の堪忍袋の緒が、今にも切れそうになる。そして、結香のために何度も自分を悪者にする瑞樹に、もううんざりだった。直美は戻って再び薬を確認した。すると、本当にペニシリンが数粒混ざっているではないか……「松浦さん、私が何をしたって言うの?どうして私にこんなことを?宮本先生がいなかったら、どうなって
同僚たちは、直美が退職すると知って残念がった。「松浦さん、こんなに仕事ができて、もうすぐ看護師長にもなれるはずだったのに……どうして辞めちゃうの?」「理由なんて決まってるでしょ?あんな宮本先生と白石さんの仲睦まじげな様子を見せられたら、落ち込むのも無理はないわ」「男のせいで辞めなきゃいけないなんて。この病院には他にも素敵な独身の先生がたくさんいるのに!宮本先生がなんだっていうの?」直美は苦笑いを浮かべる。「実は、国立特級芸術アカデミーに受かったの。だから、3日後にここを離れなくちゃいけなくて……」周りの看護師たちが羨ましそうに直美を見つめた。「おめでとう!さすが松浦さん
直美はもう一度、はっきりと告げた。「退職届を出しに来ました」和彦は耳を疑った。「松浦さん、何かあったのかい?とりあえず、よく話し合おう。だから、そんな急に辞めるなんて言わないでくれ」ここの病院で看護師を務められるというのは、看護師の中でもかなりのエリートだった。しかも直美は今や中核を担う存在で、じきに看護師長への昇進も決まっており、前途は洋々のはずなのだ。それなのに、なぜ辞めようなどと考えるのか?瑞樹が冷ややかな視線を直美に向ける。「今さら大人しくしたって、今回の件はなかったことにはならないからな。今回の君の不始末は、さすがの俺でも庇いきれない」大層なことを口にする瑞樹を前
「ゴミを片付けてるだけだけど、何か問題でもある?」直美は表情一つ変えずに答える。瑞樹の顔色は、怒りからみるみるうちに赤くなっていった。「いい加減にしろ!白石さんたちを呼んだのは俺だ。二人の家は雨漏りがすごくて住めたもんじゃないんだよ。数日住まわせるだけなのに、君はどうしてこんなことを?可哀想な親子二人を見捨てろというのか?」数日住まわせる?結香は全ての家財道具を持ち込んでいるというのに。どう見てもここで暮らす気だった。申請手続きの時、瑞樹は面倒がって何一つ協力してくれなかったくせに。申請が決まった途端、こんなことをするなんて。本当に笑わせてくれる。「瑞樹。この家
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