LOGINトランジットで待っている時、娘の学校から電話が入った。 「牧野さん、大変申し訳ないんですが、娘さんの死亡を確認できる書類を学校までご提出いただけませんか。 お父さんのほうがずっと電話に出てくださらなくて……本日中に来ていただければ助かるのですが」 私は航空券の行き先に目を落とし、そのまま振替手続きで東都へ戻る便に変えた。 三年ぶりに、娘が通っていた小学校の門をくぐった。 あいにく、今日は親子参観日だった。 水島英一郎(みずしま えいいちろう)が、一人の小さな女の子と写真撮影コーナーに立ち、ドレスの背中のリボンを丁寧に直してやっている。 祥子(しょうこ)という子だ。私の娘ではない。英一郎の恩師の遺族の子どもだった。 三年前、うちの娘を廃棄された倉庫へ突き飛ばした、まさにその子だった。 周りの保護者たちが、声をひそめて囁き合う。 「水島社長の元奥さんじゃない?よりによって親子参観日に来るなんて」 「未練に決まってる。親権と財産を狙ってるのよ」 ざわつきに気づいた英一郎が顔を上げ、私を見つけた。 とっさに祥子を背中にかばい、不快そうに眉を寄せる。 「牧野絵美(まきの えみ)、子どもも大勢いるんだ。学校で揉め事を起こすな」 祥子を守るその手が、やけに目に障った。 そこへ学校の先生が書類を手に駆け寄り、小声で急かすように言った。 「牧野さん、遥(はるか)ちゃんの死亡診断書のコピーはお持ちでしょうか」 一瞬、あたりが水を打ったように静まり返った。 英一郎の顔色がさっと変わる。鋭い眼差しで私を睨みつけた。 「死亡診断書だって……?」 私は彼のほうを見もせず、落ち着いた手つきで書類を先生に差し出した。 「できるだけ急いでください。 親権を争いに来たんじゃない。娘の学籍の手続きに来ただけ」
View More裁判は四か月続いた。その四か月のあいだに、東都では二度、雪が降った。美佳子が正式に起訴された。学校の安全改修費を着服し、それが火災の原因となった。事件後、鍵を隠して救助を妨害し、精神鑑定書を偽造して事情聴取を逃れようとした証拠も、すでに固まっている。祥子は事件当時、刑事責任年齢に達していなかったため、刑事手続きはとられなかった。だが裁判所は、保護者である美佳子が長年にわたり祥子を危険な行為へと誘導し、放任していたと認定した。民事上の主たる賠償責任を負わせ、親権も剥奪した。祥子は専門の心理ケア施設に送られた。判決が下りた日、裁判所の廊下で、私は祥子の姿を見かけた。ずいぶん痩せて、いつものドレスではなく、ふつうの運動着を着ていた。彼女は私の前に来ると、服の裾をぎゅっと握りしめ、小さな声で言った。「牧野おばさん、ごめん」私は長いこと、彼女を見つめた。十歳の子なら、怖さくらいわかる。八歳の子だって、ドアに鍵をかけられたら、中にいる人が泣くことくらい知っているはずだ。私は彼女を叱らなかったし、許しもしなかった。ただ、こう尋ねた。「遥がドアを叩く音、まだ覚えてる?」祥子の顔から血の気が引いた。それでも、こくりと頷いた。「なら、一生覚えていなさい」彼女は泣き出した。私は背を向けて歩き出した。謝れば許されるとは限らない。なかには、一生背負わなければならないこともあるのだ。あの学校は処分を受け、旧校舎の取り壊し計画も完全に止まった。校長と事務長も責任を問われた。賢治は捜査妨害と救助遅延で実刑判決を受けた。水島教育基金も調査を受け、英一郎はグループの社長職を辞任した。その後は捜査に協力し、巨額の賠償に応じるとともに、独立した学校安全基金を設立して公表した。基金の理事会が私に理事長就任について打診してきた。私はそれを断った。遥を、これ以上水島家と関わらせたくなかった。賠償金が振り込まれた日、私はその一部を、山下隊長の消防公益プロジェクトに寄付した。学校向けの防火訓練と、子どもたちのための自救教育に使われることになっている。残りで、私は西都の小さな海辺の町に墓地を買った。こぢんまりとした霊園で、東側はすぐ海だ。朝になると、白い墓石に陽が差す。写真の
翌朝、美佳子は警察署に連行された。すっぴんで、顔色が悪かった。黒いロングドレスに、手首には留置針のテープが貼られたままだった。そんな姿を見たとき、事前に証拠を目にしていなければ、彼女のほうがよほど被害者に見えたかもしれない。彼女は英一郎を見るなり、弁解よりも先に口を開いた。「英一郎、本当に私を刑務所に入れるつもり?」英一郎は椅子に座ったまま、視線を向けようともしなかった。「自業自得だ」美佳子は力なく笑った。「よく言うわ。この三年、私がこんなことができたのも、全部あなたのせいじゃない」英一郎の体がこわばった。美佳子はこちらに顔を向ける。「絵美さん、気分がいいでしょうね。やっと彼にも、私の正体が知れたんだから」私はなにも言わず、焼け焦げた絵本を机の上に置いた。「見物に来たんじゃない。証拠を届けに来たの」美佳子はその絵本を見て、はっと顔色を変えた。表紙の端は焼け、中のページは水に濡れてまだらに色が変わっている。私は手袋をはめて最後のページを開いた。そこには、半分焼けた紙が一枚挟まれていた。三年前は、ただの落書きだと思っていた。昨晩、赤外線スキャンで復元して初めてわかった。それは遥の、たどたどしい字だった。【祥子が言ってた。美佳子おばさんが、隠れてればパパが迎えに来るって。でも、ドアが開かない。ちょっとこわい……ママ、ごめんね】私は復元した紙を美佳子の前に差し出した。「この子は最後まで、あなたたちを恨んだりしなかった。ただ私に謝ってるだけよ」美佳子はその文字をじっと見つめ、唇を震わせた。英一郎もそれを目にした。手を伸ばしかけるが、触れる直前でやめた。警察の捜査により、さらに多くの資料が明らかになった。三年前、水島グループは学校に安全改修のための特別寄付金を出していた。美佳子は、亡き夫の名義で自らが管理していた教育基金の名目で、このプロジェクトを任されていたのだ。火災の一か月前、旧校舎では電気システムの修理が三度要請されていたが、いずれも手つかずだった。理由欄にはこうある。【改修工事検収待ちにつき、支出保留】署名は美佳子だった。山下隊長が資料を机に叩きつけた。「これは事故じゃない。彼女は安全上の問題も、ドアの鍵の不具合も把握していた。火災
廊下から足音が聞こえてきた。現れたのは美佳子ではなく、祥子だった。祥子はあのドレスを着たまま、ウサギのぬいぐるみを抱えて、ぽつんと入口に立っている。英一郎の姿を認めると、怯えたように後ずさった。ぬいぐるみをそっと床に置き、震える声で言う。「英一郎おじさん……ママがね、また変なこと言ったら、もういらないって」言い終えると、背中を向けて夜の闇に駆けだした。祥子はすぐに警察署の前で警官に追いつかれた。英一郎はガラス扉の向こうから彼女を見つめている。祥子は階段の端にしゃがみこんだまま、黙っていた。英一郎は三年間、祥子をかわいがってきた。恩師への感謝と、美佳子への憐れみのすべてを、この子に注ぎこんできたのだ。なのに今、実の娘である遥を倉庫に閉じ込めたのが、祥子だと知らされた。しかも、それをけしかけたのが、三年ものあいだ守り続けてきた美佳子だという可能性が高い。これまで支えてきたものが、音を立てて崩れていった。その後、祥子は取調室へ連れていかれた。三十分ほどして、美佳子の弁護士が診断書を携えてやって来る。「久保さんは重度のストレス状態にあり、現在は事情聴取に応じられません。また、祥子は当時八歳未満でしたから、刑事責任は問われません」弁護士は私のほうを向いた。「久保さんは、金による補償をご用意するとのことです」三年前、祥子が遥を階段から突き落としたとき、英一郎は「彼女は愛情が足りない」と言った。今回、祥子が遥を倉庫に閉じ込めたときには、弁護士が「彼女は当時八歳未満でした」と言う。いつだって、誰かが彼女たちのために言い訳を並べる。けれど、あの日、遥が何歳だったのか、誰一人として尋ねはしない。英一郎は、弁護士が差しだした和解意向書を手にとった。一枚目に、こう書きつける。【水島グループは、いかなる私的な和解にも関与せず、一切これを認めない】書類を押し戻して言った。「美佳子に伝えろ。俺の名前を勝手に使ってやってきたことを、今夜からひとつ残らず清算させる、とな」弁護士の顔色がわずかに変わった。「水島社長、そこまでなさいますか。久保さんの手元にも古い資料がございますが」「出させろ。足りなければ、俺が補う」英一郎が美佳子をかばわなかったのを、私は初めて見た。やがて、山
新幹線が東都を出ると、窓の外の街並みが少しずつ変わっていった。私の指先は、あの匿名のメッセージに止まったままだった。三年前の事故報告書に、英一郎もサインしてた。その一行が、離れようとしていた私の気持ちを完全に断ち切った。英一郎はただ、えこひいきしているだけだと思っていた。彼はとっくに、死んだのが遥だと知っていながら、あの母娘を三年ものあいだ、のうのうと生かしていたのか。これ以上は考えられなかった。私は母親として、この事実を、どうしても受け入れられなかった。私の子は殺されただけじゃない。真実まで、みんなに葬られた。私は次の駅で降りた。リュックを抱えてベンチに腰を下ろし、ある人物に電話をかける。「牧野さん?」電話の相手は、三年前の火災調査を担当した消防士、山下隊長だった。私はこの数年、何度も彼を訪ねていた。彼は東都から異動になっても、あの火災のことを決して忘れていなかった。子供があまりに幼く、ドアにしっかり鍵がかかっていたからだ。そしてあの日、誰かが事前に現場を、あまりにもきれいに片付けてしまっていたからだ。「山下隊長、再調査をお願いしたいんです」向こうで、少しの沈黙があった。「ついに決めたか」私は遥の写真を見つめながら、言葉を続けた。「昔はお金も証拠もなかった。でも、今は違うんです」山下隊長がため息をつく。「あの腕時計型の電話は、まだあるか」「はい」遥の遺品で、手元に残したのはあの絵本と、半焼けの腕時計型の電話だけだ。あの時、修理の人がかろうじて録音データを、一部取り出してくれた。でも、ずっと聞けなかった。あの録音を聞くたびに、苦しくて全身が震えたから。山下隊長は言った。「腕時計を持って東都警察署へ行け。学校や水島の身内に頼るんじゃないぞ。手元に当時の現場写真がある。必要なら送る」私は電話を切り、折り返しの切符を買った。今ここで去るのは、逃げることであって、区切りをつけることじゃない。遥の骨はバッグの中にある。パパの愛を待てなかった。でも、真実だけは必要だ。午後五時、私は警察署の相談室に入った。警察は話を聞き終えると、表情を一瞬でこわばらせた。変形した腕時計型の電話を机の上に置く。技術係が機器を接続した。十