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歪んだ枝は剪定を。では子供は?

歪んだ枝は剪定を。では子供は?

By:  糖衣ドロップCompleted
Language: Japanese
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母はよくこう口にしていた。「子供は若枝と同じ。ちゃんと剪定してやらないと、すぐに歪んで育ってしまう」と。 高橋雫(たかはし しずく)――つまり私は、その「剪定」の末に、幹だけを残してすべてを切り落とされた木だった。 5歳の頃から、嬉しい時に笑うことは許されなかった。「調子に乗るな」と叱られるからだ。 誰かにいじめられても、泣いてはいけない。「火のない所に煙は立たない。お前にも隙があったからだ」と責められるからだ。 テストで98点を出しても、両親が口にするのは決まって「あとの2点はどうして落としたの?また気が緩んでるんじゃない?」という詰問だけ。 親戚が私を「いい子ね」と褒めてくれても、両親は皆の前で平然とこう遮る。「外で猫を被ってるだけですよ。家じゃだらしなくてゴロゴロしてばかりなんだから、騙されないでくださいね」 いつしか私は、自分の感情をすべて心の底に押し殺し、両親が満足する「完璧な作品」として生きる術を身につけた。 19歳になった年の瀬。伯母の裕子(ゆうこ)が、こっそりと10万円が入ったお祝いの封筒を握らせてくれた。 「もう大人なんだから、自分でお金を管理するお勉強をしなさい」 私は人生で初めて、そのお金を両親に没収されず、自分の手元に隠し持った。 しかしその日の夜。父はマイナスドライバーを手に、私の目の前で机の引き出しの鍵をこじ開けたのだ。 父は中から封筒を引っ張り出すと、「やっぱりな」と勝ち誇ったような目を向けた。「どうも様子がおかしいと思ったんだよ。お前、すっかり性根が腐っちまったな」 母はその10万円を全額電子ギフトに換え、親族のグループLINEにばら撒いた。 【雫が恩知らずにも、目上の方からのお金を隠し持っていました。こんな汚いお金、我が家の家風にはそぐいません。雫の謝罪代わりに、皆様で分けてください】 画面を埋め尽くす「ありがとう」のスタンプと、「相変わらず教育熱心ね」という親戚たちからの称賛のメッセージ。 私はそのスマートフォンを見つめながら、ふっと笑い声を漏らした。 ――それが、私がこの家で見せた最後の笑顔になるとも知らずに。

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Chapter 1

第1話

母はよくこう口にしていた。「子供は若枝と同じ。ちゃんと剪定してやらないと、すぐに歪んで育ってしまう」と。

高橋雫(たかはし しずく)――つまり私は、その「剪定」の末に、幹だけを残してすべてを切り落とされた木だった。

5歳の頃から、嬉しい時に笑うことは許されなかった。「調子に乗るな」と叱られるからだ。

誰かにいじめられても、泣いてはいけない。「火のない所に煙は立たない。お前にも隙があったからだ」と責められるからだ。

テストで98点を出しても、両親が口にするのは決まって「あとの2点はどうして落としたの?また気が緩んでるんじゃない?」という詰問だけ。

親戚が私を「いい子ね」と褒めてくれても、両親は皆の前で平然とこう遮る。「外で猫を被ってるだけですよ。家じゃだらしなくてゴロゴロしてばかりなんだから、騙されないでくださいね」

いつしか私は、自分の感情をすべて心の底に押し殺し、両親が満足する「完璧な作品」として生きる術を身につけた。

19歳になった年の瀬。伯母の裕子(ゆうこ)が、こっそりと10万円が入ったお祝いの封筒を握らせてくれた。

「もう大人なんだから、自分でお金を管理するお勉強をしなさい」

私は人生で初めて、そのお金を両親に没収されず、自分の手元に隠し持った。

しかしその日の夜。父はマイナスドライバーを手に、私の目の前で机の引き出しの鍵をこじ開けたのだ。

父は中から封筒を引っ張り出すと、「やっぱりな」と勝ち誇ったような目を向けた。「どうも様子がおかしいと思ったんだよ。お前、すっかり性根が腐っちまったな」

母はその10万円を全額電子ギフトに換え、親族のグループLINEにばら撒いた。

【雫が恩知らずにも、目上の方からのお金を隠し持っていました。こんな汚いお金、我が家の家風にはそぐいません。雫の謝罪代わりに、皆様で分けてください】

画面を埋め尽くす「ありがとう」のスタンプと、「相変わらず教育熱心ね」という親戚たちからの称賛のメッセージ。

私はそのスマートフォンを見つめながら、ふっと笑い声を漏らした。

――それが、私がこの家で見せた最後の笑顔になるとも知らずに。

「笑った?どの面下げて笑ってんだ!」

父の平手が風を切る音を立てて振り下ろされた。

すぐには痛みを感じなかった。ただ、鼓膜の奥で甲高い耳鳴りが響いていた。

私はローテーブルに置かれたスマートフォンをじっと睨みつけていた。

親族のグループLINEでは、メッセージが次々と更新されていく。

叔母の恵美(えみ):【やっぱりお宅はしつけが厳しいわね。確かに子供に大金を持たせちゃダメよ。金を持つとろくなことにならないから】

もう一人の叔母、智子(ともこ):【あら、2千円分ゲット!ありがとうね! でも雫ちゃんってば、大人しそうに見えて結構腹黒いのね】

従兄の巧(たくみ):【小百合叔母さんサンキュー!早速ゲームに課金してくる!】

画面を埋め尽くす歓声と笑い声。

親戚たちはギフトを奪い合って喜び、大いに盛り上がっていた。

「見たでしょ? 雫、その目でよく見なさい!」

母はスマホを私の顔の前に突きつけた。

「みんなあんたを笑い者にしているわ! いっちょ前にへそくりなんて隠して! この10万円は裕子さんがくれたものだと思ってるの? あんたの性根を試しただけよ!」

母は唾を飛ばしながら、まくしたてるように早口で言った。

「私たちが気づかなかったら、このお金で薬にでも手を出すつもりだったんじゃないの?それとも、怪しい連中とつるんでろくでもないことに使うつもりだった!?」

私は部屋の隅にうずくまっていた。頬が火のように熱く腫れ上がり、顔の半分はすでに感覚を失っている。

「お母さん……」

口を開くと、紙やすりを飲み込んだように掠れた声が出た。

「裕子伯母さんは、大学の生活費にって……私、もう家からお金をもらわなくて済むようにって、思って……」

「嘘をつけ!」

父が丸椅子を蹴り飛ばし、腰から外したベルトを空中でバシンと鋭く鳴らした。

「お前みたいな性根の腐った奴が、大学なんか行ってどうする!」

父は激しく胸を上下させている。

「親にまで隠し事をするような奴は、いずれ犯罪にでも手を染めるんじゃないか? そのうち親の寝首でも掻きに来る気だろう!」

私は無意識に肩をすくめ、頭を庇った。

「あなた、顔は叩かないで」

母が冷酷な声で言った。

彼女は一歩後ろに下がり、父の邪魔にならないようにスペースを空ける。

「明日は元日のお年始回りがあるんだから。顔に傷を作って親戚に聞かれたら、私の顔に泥を塗ることになるわ」

「分かってる」

父は短く答え、ベルトを高く振り上げると、容赦なく私の背中めがけて打ち下ろした。

1発。

2発。

金属のバックルが背中に叩きつけられ、ひどく鈍い音を立てる。

私は一言も発しなかった。

ただ目を見開き、天井のシャンデリアをじっと見つめていた。

青白く寒々しい光は、まるで取調室のサーチライトのように、この家のどこにも逃げ場がないことを照らし出していた。

父は叩き疲れ、ベルトをソファに放り投げると、私の鼻先を指差して怒鳴った。

「自分が悪いと分かったか?」

ゆっくりと顔を上げる。脂汗でテカった父の顔には、鬱憤を晴らした後のような歪んだ快感が浮かんでいた。

「……はい」私は機械的に口を開いた。

「何がどう悪かった?」

「お金を隠し持ったこと、自分だけの秘密を持ったこと……」

少し間を置き、私は消え入るような声で付け加えた。

「生きていて……ごめんなさい」

母は満足のいく模範解答を聞き届けたかのように、私の脚を爪先で小突いた。

「反省文を書きなさい。文字数は2000文字以上。お金の出どころと、なぜ隠そうとしたのかを書いて、親族のグループLINEに謝罪文として送りなさい。少しでも反省の色が見えなかったら、今夜の夕飯は抜きだからね」

スマートフォンを握りしめる。画面の光が、内出血で青ざめた私の手の甲を照らしていた。

その時、グループLINEにポンッと新しいメッセージが跳ねた。

裕子伯母さん:【健司(けんじ)、小百合さん。あなたたち、一体何をしているの? そのお金は私が雫にあげたものよ】

次の瞬間。

画面に一行のシステムメッセージが表示された。

【さゆりがYuukoをグループから削除しました。】

母は鼻で笑い、スマホをポケットにしまった。

「裕子さんも本当に空気の読めない人ね。甘やかすのが子供をダメにするって分かってないのよ。自分だけいい顔しちゃって。これからはあの人とは距離を置くわよ。雫にまで悪影響が出たら困るからね」

リビングに死のような静寂が戻った。

両親はダイニングへ移り、夕食を食べ始めた。食器の触れ合う音と、すき焼きの甘辛い匂いが漂ってくる。

私は冷たいフローリングに正座したまま、伯母が退会させられた冷酷な通知画面を見つめていた。

私の中で、何かが砕け散る音がした。

画面の上で指が長いこと宙を彷徨う。やがて、私は一行の文章を打ち込んだ。

【お父さん、お母さん。お金はもう要りません。私の命も、もう要りません】

送信ボタンの上に指を乗せる。

ダイニングからは両親の談笑する声が聞こえてくる。

「このすき焼きのお肉、柔らかくて美味しいわね」

「明日の親戚回りのお年賀、ちゃんと用意してあるだろうな?」

その楽しげな声を聞いて、ふと思った。

どうして?

どうして私だけが苦しんで、この人たちは平然と笑っているの?

たとえ私がここで死んだとしても、この人たちはこれからも変わらず、平然と生きていくのだろう。

そんなの、絶対に許せない。

私は入力した遺書を、バックスペースですべて消し去った。

代わりに、グループLINEに新しいメッセージを打ち込んだ。

【お父さんとお母さんの言う通りです。私が間違っていました。このお金は皆様で美味しいお茶菓子でも買ってください。良いお年を】

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第1話
母はよくこう口にしていた。「子供は若枝と同じ。ちゃんと剪定してやらないと、すぐに歪んで育ってしまう」と。高橋雫(たかはし しずく)――つまり私は、その「剪定」の末に、幹だけを残してすべてを切り落とされた木だった。5歳の頃から、嬉しい時に笑うことは許されなかった。「調子に乗るな」と叱られるからだ。誰かにいじめられても、泣いてはいけない。「火のない所に煙は立たない。お前にも隙があったからだ」と責められるからだ。テストで98点を出しても、両親が口にするのは決まって「あとの2点はどうして落としたの?また気が緩んでるんじゃない?」という詰問だけ。親戚が私を「いい子ね」と褒めてくれても、両親は皆の前で平然とこう遮る。「外で猫を被ってるだけですよ。家じゃだらしなくてゴロゴロしてばかりなんだから、騙されないでくださいね」いつしか私は、自分の感情をすべて心の底に押し殺し、両親が満足する「完璧な作品」として生きる術を身につけた。19歳になった年の瀬。伯母の裕子(ゆうこ)が、こっそりと10万円が入ったお祝いの封筒を握らせてくれた。「もう大人なんだから、自分でお金を管理するお勉強をしなさい」私は人生で初めて、そのお金を両親に没収されず、自分の手元に隠し持った。しかしその日の夜。父はマイナスドライバーを手に、私の目の前で机の引き出しの鍵をこじ開けたのだ。父は中から封筒を引っ張り出すと、「やっぱりな」と勝ち誇ったような目を向けた。「どうも様子がおかしいと思ったんだよ。お前、すっかり性根が腐っちまったな」母はその10万円を全額電子ギフトに換え、親族のグループLINEにばら撒いた。【雫が恩知らずにも、目上の方からのお金を隠し持っていました。こんな汚いお金、我が家の家風にはそぐいません。雫の謝罪代わりに、皆様で分けてください】画面を埋め尽くす「ありがとう」のスタンプと、「相変わらず教育熱心ね」という親戚たちからの称賛のメッセージ。私はそのスマートフォンを見つめながら、ふっと笑い声を漏らした。――それが、私がこの家で見せた最後の笑顔になるとも知らずに。「笑った?どの面下げて笑ってんだ!」父の平手が風を切る音を立てて振り下ろされた。すぐには痛みを感じなかった。ただ、鼓膜の奥で甲高い耳鳴りが響いていた。私はローテーブルに置かれ
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第2話
反省文とメッセージを送信した瞬間、母の顔色を窺って息を潜めていた親戚たちが、堰を切ったようにLINEを動かし始めた。眩しいほどの「いいね」スタンプと、「本当にいい子ね」「偉いわ」という白々しい称賛の言葉たち。それはまるで、私の自尊心を何度も往復ビンタするかのようだった。母はスマホを手に持ち、自分の戦利品でも眺めるように目を細めていた。「ほら、みんな許してくれたじゃない。雫、お母さんはあんたのためを思って言ってるのよ。今は私たちを恨んでるかもしれないけど、大人になれば分かるわ。社会に出たら、親みたいに厳しく礼儀を教えてくれる人なんていないんだから」「もういい、立て」父はソファにふんぞり返り、マイナスドライバーを弄りながら言った。「飯を食え。悪いことをしたとはいえ、メシくらいは食わせてやる」私はこわばった体を起こし、ふらつく足取りでダイニングテーブルへ向かった。テーブルの上に残されていたのは、ご飯がよそわれた茶碗一つと、その上に無造作に乗せられた「すき焼きの残りカス」だった。正確に言えば、冷えて白く固まりかけた牛脂と、誰も手を出さないぶよぶよの脂身ばかりだ。「食べなさい」母が冷酷に言い放つ。「残したら許さないわよ」私はその脂身の山を見て、胃袋が痙攣するのを感じた。昔から脂身がダメで、口に入れると反射的に吐き戻してしまうのだ。だが、避けて食べることは許されない。5歳の時、脂身を避けて皿の端によけた私を見て、父は私の頭を押さえつけ、吐き出した肉を無理やり飲み込ませた。その時父はこう言った。「好き嫌いなんてのは甘えだ。腹を空かせたことがない証拠だ。俺の家では、そんなふざけた真似は絶対に許さん」私は茶碗を手に取り、箸でぶよぶよの脂身をつまみ上げると、目を閉じて口に放り込んだ。込み上げてくる吐き気を必死に飲み込み、噛まずに丸呑みする。「ガツガツ食うな、餓鬼みたいに」父の嫌悪感に満ちた声が飛んでくる。「汚い食い方しやがって。外に連れて行くのも恥ずかしい」私は最後の脂身を喉の奥に押し込み、胃液が逆流しそうになるのをこらえて言った。「……ごちそうさまでした」「よし、食べ終わったなら明日の親戚の集まりに出すいなり寿司を詰めなさい」すかさず母が命じてきた。「今夜中に100個、全部仕上げる
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第3話
元日の朝7時。「雫! 出てきて果物を切りなさい!」母の金切り声がドアを突き抜けてきた。私は英単語帳を閉じた。単語帳は単なるポーズだ。両親が一番喜ぶ、「向上心のある娘」を演じるための道具にすぎない。「今、行きます」リビングには年始の挨拶に来た近所の人たちが数人座っており、ローテーブルの上にはみかんの皮や落花生の殻が散乱していた。近所に住む鈴木和美(すずき かずみ)が愛想よく笑った。「あら、雫ちゃん。一年見ない間にすっかり大きくなって、本当に綺麗なお嬢さんになったわね」「綺麗だなんて、とんでもない。ただの朴念仁ですよ」母は笑いながら果物の皿を受け取ると、一番見栄えのいいリンゴを和美に差し出した。「この子は本当にどんくさくて。ガリ勉なだけで、何の取り柄もないんですよ」和美は気まずそうに取り成した。「口数が少ないのは、落ち着いている証拠よ」「落ち着いてるだと? ただ暗いだけですよ!」上座に座った父は、足を組みながら吐き捨てた。「見てやってくださいよ、親を親とも思ってないあの目を。昨日の夜も、こっそり金を隠し持ってたからぶん殴ってやったんです。今頃、腹の底じゃ俺を恨んでるでしょうよ。こういう恩知らずな子供は、いくら育てても親に噛みつく野良犬と同じですよ」和美の顔の笑顔が引きつった。彼女は同情するように私をチラリと見た。「健司さん、娘さんももう大きいんだから、少しは顔を立ててあげないと……」「顔を立てる? こいつにそんな価値があると思いますか?」父は鼻で笑い、軽蔑の眼差しを私に向けた。「おい、和美さんにお茶を淹れろ。ケチケチしないでなみなみと注ぐんだぞ」私は急須を持ち上げた。右手の甲はまだ内出血で赤黒く腫れ上がっており、指がこわばって言うことを聞かない。手が小刻みに震え、熱いお茶がテーブルにこぼれてしまった。「この役立たずが!」父が勢いよく立ち上がり、私の後頭部を力任せに張り飛ばした。ゴツッ、と鈍い音が響く。ローテーブルの角に額をぶつけ、目の前が真っ暗になった。手からすっぽ抜けた急須が転がり、熱湯が手の甲にバシャリと容赦なくかかる。ジンジンと麻痺するような激痛が走った。私は身動き一つせず、悲鳴も上げなかった。ただ黙ってうつむき、台拭きを取ってお茶の染みを拭
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第4話
私は狂ったように部屋を飛び出した。「私の荷物、どこにやったの!?」それは19年間の人生で、初めて両親に向かって張り上げた声だった。両親はソファに深く腰掛け、テレビの正月のお笑い特番を見て腹を抱えて笑っていた。私の怒鳴り声を聞いて半秒ほど呆気に取られた後、二人はスッと顔を曇らせた。「何、大声出してんのよ」母が眉をひそめた。「引き出しの中に入ってた日記帳! それから手紙! どこにやったの!?」私はローテーブルの前に駆け寄り、全身をワナワナと震わせた。父はゆっくりとみかんの皮を剥きながら、目線すら上げずに答えた。「ああ、あの紙クズか。母さんに捨てさせた」「捨てた……?」頭の中で、ピンと張っていた何かの糸がプツンと切れる音がした。「どこに捨てたの!?」母は悪びれる様子もなく、あっさりと答えた。「マンションの下のゴミ捨て場よ。そんなのいちいち覚えてるもんですか。あの日記、ネガティブなことばっかり書いてあって気味が悪いったらありゃしない。息が詰まるだの、消えてしまいたいだの、正月早々縁起でもない。裕子さんの手紙も最悪ね。あんたをそそのかして、親に反抗させようとしてるんだから」「あれだけが、私の生きる支えだったのに……」ぼう然と呟いた瞬間、せき止めていた涙が一気に溢れ出した。あの日記帳は、孤独で押し潰されそうな無数の夜に、私が唯一本音をこぼせる場所だった。あの手紙は、私が今日まで生きてこられた、最後の温もりだったのに。「生きる支えだと?」父が突然激昂し、手にしていたみかんの皮を私の顔めがけて投げつけた。「お前を生かしてやってるのは俺たちだろうが! たかが薄汚いノート数冊で、親の俺にたてつく気か! いいご身分だな!」父は立ち上がり、部屋の隅に置いてあった木製の折りたたみ椅子を掴み上げた。「あなた! 頭は叩かないで!」母の叫び声が聞こえた。私は避けなかった。この光景は、あまりにも見慣れすぎていた。6歳の時。近所の人からもらった飴玉を一つ食べただけで、「卑しい真似をするな」と鼻血が出るまで殴られた。10歳の時。テストで学年2位になった時、「なぜ1位じゃないんだ」と雪の降るベランダで一晩中正座させられた。15歳の時。同級生にいじめられてやり返したら、「お前にも隙があるか
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第5話
「きゃあああああっ!」耳をつんざくような悲鳴が、正月二日の静まり返った朝の空気を切り裂いた。母の声だった。私の魂は宙に浮き、その光景を冷ややかな目で見下ろしていた。母の腕には、真新しいシーツが抱えられていた。今日から泊まりに来る従弟の翔太のために用意したものだ。昨日、母はこう言っていた。「雫のベッドシーツは薄汚れてるからね。翔太が嫌がるといけないから替えさせないと」今、その真新しいシーツは床に落とされ、バスタブから溢れ出した真っ赤な血水を瞬く間に吸い込んでいた。母は洗面所の入り口にへたり込み、顔面を蒼白にしていた。「あな……あなた! あなたっ!!」「早く来て! 雫……雫が……!」ドスドスと、重く急ぎ足の足音が近づいてくる。「朝っぱらから大声出すな! 縁起でもねえ!」父が毒づきながら走ってきた。その手には歯ブラシが握られ、口の周りには歯磨き粉の白い泡がついたままだ。だが、浴室の惨状を目の当たりにした瞬間、父の手から歯ブラシがポロリとこぼれ落ちた。「こ……このクソガキ……」父の最初の反応は、悲しみでも動揺でもなく、信じられないことに「激怒」だった。父の額には青筋が浮かび上がり、顔はどす黒い赤色に染まっていく。「死んだふりなんかしてんじゃねえ! ああ!?正月早々、何てことしやがる! 誰に対する当てつけだ!」父は洗面所に飛び込み、血の海に足を踏み入れた。彼はまだ、私が芝居をしているのだと思っていた。自分の絶対的な権威に対する、新たなる挑発だと。「起きろ!いい加減にしろ!」彼はいつもと同じように手を伸ばし、私の胸倉を掴んでお湯から引きずり上げ、ビンタをして目を覚まさせようとした。「この疫病神が! もうすぐ明男さんたちが来るってのに、バスタブをこんなに汚しやがって。俺への嫌がらせのつもりか!」しかし、彼の指が、お湯から覗いていた私の首筋に触れた瞬間。時間が静止した。父は感電したように、ビクッと手を引っ込めた。全身がその場で凍りつく。その氷のような肌の感触だけは、絶対に演技などでは出せないものだった。「し……雫?」父の声が微かに震えた。彼は再び恐る恐る手を伸ばし、私の頬を震える手で軽く叩いた。「芝居はよせ……もう叩かないから、起きなさい……お父さんを
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第6話
救急車が来た。パトカーも来た。正月二日の朝のマンションに、赤色灯の光とけたたましいサイレンの音が響き渡り、新年の穏やかな空気に浸っていた住人たちを次々と叩き起こした。玄関前の共用廊下には近所の人たちが群がり、首を伸ばして部屋の様子を窺っていた。「一体どうしたの? 高橋さんの家で何かあったの?」「あの大人しい娘さんが、自分で命を絶ったらしいわよ……」「やだ、正月早々なんてこと……」救急隊員たちが、ストレッチャーを運び出してきた。その上には真っ白な布が被せられている。しかし母は、その布で顔を覆われることを死に物狂いで拒絶した。「死んでないわ! どうか助けてください! この子はただ寝てるだけなんです! 気が強くて、私たちへの当てつけでこんなことしてるだけなんです!」母は髪を振り乱し、隊員の制服の袖を掴んでヒステリックに叫んだ。普段は身なりに気を遣い、「うちは教育熱心で立派な家庭だ」と自負していた彼女が、今は正気を失った狂人のようだった。「奥様、お気を確かに持ってください。すでに死後硬直が始まっており、死後少なくとも三時間は経過しています」隊員は冷徹な事実を告げ、母の手を静かに振り払った。父は玄関の上がり框にへたり込み、焦点の合わないうつろな目をしていた。室内では、警察官たちが鑑識作業を行っている。「ご家族の方ですね? こちらは現場に残されていたものです」若い警察官が透明な証拠品保管袋を手に持ち、複雑な眼差しで両親を見下ろした。その袋の中には、血のついたあの便箋と、中身の空っぽな封筒が収められていた。父は震える手を伸ばし、袋越しにそれを受け取った。【お父さん、お母さん、私、ようやくあなたたちの望む通りの娘になれました。ずっと言うことを聞いて、ずっと静かで、一生この家から離れない娘に】そこに書かれた一文字一文字が、父の頬に容赦なく往復ビンタを食らわせているかのようだった。「なんて酷い……」野次馬の中から、ヒソヒソと囁き合う声が聞こえてきた。「健司さん、普段は立派な父親ぶってたのに、娘をあそこまで追い詰めてたなんて」「昨日の朝も、お金のことで殴ったって自慢げに話してたわよ」「信じられない。あれじゃ、親に殺されたようなものじゃない」その刺々しい囁き声は、無数の針となって
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第7話
取調室の照明は、青白く無機質だった。それは生前、私がこの家で無数に受けてきた「家族会議」という名の尋問とひどく似ていた。ただ一つ違うのは、今回パイプ椅子に座らされているのは、彼らの方だということだ。「虐待なんてとんでもない! 俺はあいつのためを思ってやったんだ!」父は机をバンバンと叩き、刑事の追及を大声でねじ伏せようとしていた。「厳しくしつけるのは親の務めだろうが! 愛の鞭だ! 俺が叩いてやらなかったら、あいつがまともな大学に行けたとでも思うのか!」刑事は黙って、束になった写真を父の目の前に叩きつけた。それは、私の遺体を撮影した検視報告書の写真だった。背中、脚、腕。全身を隙間なく埋め尽くすような内出血の青アザ、煙草の火を押し付けられた火傷の痕、ベルトのバックルでえぐられた傷跡。目を背けたくなるような惨状だった。「これが、娘さんのためを思ってやった結果ですか」刑事の声には、隠しきれない怒りが滲んでいた。「検視の結果、ご遺体の左肩には粉砕骨折が見られました。死の数時間前に加えられたものです。これも、娘さんのためですか?」父はその写真を見て、唇を微かに震わせたまま、ついに押し黙った。隣の取調室では、母が泣いていた。だがそれは後悔の涙ではなく、自分が被害者だと言わんばかりの同情を引くための涙だった。「刑事さん、あなたたちには分からないんです。あの子は本当に腹黒くて、これは私たちへの復讐なんですよ! わざと元日に死んで、親の顔に泥を塗ろうとしたんです! 本当に性根の腐った子なんですよ!」母はハンカチで涙を拭うふりをしながら、まだ私の罪状を数え上げていた。「目上の人からお金を隠して、嘘をついて、挙句の果てには家出しようとしたんですから……私は親として、責任を果たしただけなんです!」その時、取調室のドアがバンッと激しく開け放たれた。一人の女性が飛び込んできた。裕子伯母さんだ。髪は乱れ、目は泣き腫らして真っ赤になっていた。その手には、私に渡すはずだったお土産の紙袋が握られていた。裕子伯母さんは母の顔を見るなり、狂ったように飛びかかった。パァンッ!耳を打つような甲高い音が響き、母の頬に渾身の平手が炸裂した。その一撃には、裕子伯母さんが何十年も溜め込んできた怒りと恨みが込められていた
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第8話
両親の顔写真、勤務先、果ては個人の携帯番号までもが晒し上げられた。母は地元の中学校の教頭で、日頃からSNSで「正しい子育て論」を偉そうに語るのが趣味だった。今、彼女のコメント欄は大炎上していた。「人殺し! お前が教師を名乗るな!」「顔からして性格の悪さが滲み出てるわ。娘さんが可哀想」「子供を盆栽みたいに剪定した結果がこれ? 木が枯れて満足か?」「こんな奴が教育者とか世も末。即刻クビにしろ!」父は市役所の課長職で、日頃から権力を笠に着て威張り散らすのが大好きだった。今、彼の職場の入り口には「人殺し」と書かれた不気味な怪文書が何枚も貼り付けられ、抗議の電話が一日中鳴り響いていた。数日後、両親は一旦釈放され、自宅へ戻ってきた。虐待罪の立件にはさらなる裏付け捜査が必要で、勾留期限が切れたためだ。しかし、彼らが戻った家は、すでに「家」ではなかった。玄関のドアには赤いペンキで『人殺し』『死んで詫びろ』と書き殴られ、鍵穴には接着剤が詰められていた。彼らはドブネズミのように、家の中に隠れて一歩も外に出られなくなった。昼間からカーテンを分厚く閉め切り、電気をつけることすら怯えている。スマホは絶え間なく鳴り続け、見知らぬ番号からの無言電話や、罵詈雑言のメッセージが殺到していた。「狂ってる! ネットの連中もマスコミも、どいつもこいつも異常だ!」父はスマホを床に叩きつけ、血走った目でリビングをウロウロと歩き回った。「俺はあいつの親だぞ! 親が子供をしつけて何が悪い! なのに赤の他人がしゃしゃり出てきやがって! 今の世の中はどうなってるんだ、法律ってもんがないのか!」父はまだ、そんな虚勢を張っていた。怒りを撒き散らすことで、心の奥底にある巨大な恐怖から目を背けようとしているのだ。母はソファの隅で膝を抱えて丸くなり、ボサボサに乱れた髪の隙間から怯えた目を覗かせていた。「あなた……教育委員会から電話があったわ……無期限の停職処分にするから、自宅謹慎しろって……」「俺のところもだ……役所から、当面出勤するなと言われた……」父はドサッとソファに崩れ落ち、両手で頭を抱え込んだ。「終わりだ……俺たちの人生、全部終わりだ……」私は天井から、その無様な姿を見下ろしていた。終わり?いいえ、まだ終わっ
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第9話
彼らは郊外の古い一軒家に戻った。長年誰も住んでいなかったため、家の中は埃とカビの臭いが充満していた。電気もガスも止められたままで、氷室のように底冷えがする。「全部……全部あのクソガキのせいよ……!」母は埃まみれのソファに腰を下ろし、ついに感情を爆発させた。「あの子は私たちの人生をぶち壊すために生まれてきた疫病神よ! 死んでまで私たちを苦しめて! 私たちをこんな目に遭わせて、あの子は地獄で満足してるって言うの!?」母はテーブルの上にあった湯呑みを手に取り、床に力任せに叩き割った。「私が苦労して19年も育ててやったのに! ご飯を食べさせて、服を着せてやったのに! その恩返しがこれなの!?」今に至るまで、母はまだ私を恨んでいた。彼女の心には、一片の後悔もなかった。ただ、自分の平穏な生活を、立派な名声や世間体を台無しにされたことだけを恨んでいた。父は傍らに座り、煙草を根元まで吸い込んでは、次から次へと新しい火を点けていた。紫煙の中で、その表情は陰鬱に沈んでいる。「……なぁ、小百合」不意に、父がしゃがれた声で口を開いた。「もしあの日……あの10万円を取り上げなかったら……あいつは死なずに済んだのか?」母はハッと息を呑んだ。事件以来、彼らが初めて「問題の核心」に触れた瞬間だった。だが次の瞬間、母はそれを激しく否定した。「あり得ないわ! お金なんか関係ない! あの子は根っから腐ってたのよ! 自分勝手で、精神が弱くて、少しの試練にも耐えられなかっただけよ!」母は金切り声を上げた。まるで大声で怒鳴ることで、自分の心の奥底から湧き上がる疑念と罪悪感を掻き消そうとするかのように。私は部屋の隅から、その滑稽な姿を見下ろしていた。本当に哀れな人たち。自分が間違っていたと認めることは、死ぬよりも苦しいことなの?いいよ。それなら私が、あなたたちに認めさせてあげる。今夜は初七日。死者の魂が、現世の家に戻ってくると言われる夜だ。郊外の古い家は配線が傷んでいるのか、裸電球の光がチカチカと不気味に明滅していた。隙間風がガタガタと窓ガラスを揺らし、人の泣き声のような気味の悪い音を立てている。両親はソファに縮こまり、二枚の毛布を被ってもまだ寒さにガタガタと震えていた。「ねえ、あなた……
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第10話
あの大火事の後、二人は完全にすべてを失った。仕事をクビになり、家は焼け落ち、わずかな貯金も大家への損害賠償や延焼の慰謝料などで綺麗に底をついた。二人がようやく流れ着いたのは、日当たりも悪くカビ臭い、家賃3万円の四畳半のボロアパートだった。さらに恐ろしいことに、彼らの精神は完全に崩壊し始めていた。母はいつも何かに怯え、ブツブツと独り言を呟くようになった。常に私がそばにいると思い込んでいるのだ。道を歩いていて赤いパーカーを着た女の子を見かけると、いきなり駆け寄って「雫!」と抱きつく。そして不審者として突き飛ばされ、「気狂い」と罵られ、時には殴られることもあった。彼女は街中でゴミを漁るようになった。拾い集めた空き缶やダンボール箱を、狭いアパートの部屋にきっちりと整頓して並べていく。並べながら、うわ言のように繰り返すのだ。「これは雫の本。こっちは雫のおもちゃ。捨てちゃダメ、捨てたら雫が怒るから……」彼女は、かつて自分が心の底から見下し、馬鹿にしていた「底辺の人間」そのものに成り果てていた。一方の父は、重度のアルコール依存症になった。毎日浴びるように安い酒を飲み、路上で泥酔しては管を巻いている。すれ違う見知らぬ人の胸倉を掴んでは、「俺はあいつのためを思ってやったんだ! 俺が間違っていたとでも言うのか! 俺のどこが悪かったんだ!」と喚き散らした。誰も彼を相手にしない。誰もが疫病神でも見るように、彼を避けて通った。ある日、酔っ払った父が地元の中学校の近くを通りかかった。ちょうど下校の時間帯だった。リュックを背負って歩く生徒たちを見ていた父は、突然一人の女子生徒に駆け寄り、そのリュックの肩紐を乱暴に掴んだ。「胸を張れ! 前を向いて歩け! 猫背にするんじゃない、みっともない!」父は怒鳴り上げ、手を振り上げてその生徒を殴ろうとした。しかし次の瞬間、駆けつけてきた見回りの男性教員と警備員に取り押さえられ、地面にねじ伏せられた。「このイカレ野郎! 生徒に何をする気だ!」激しく抵抗したせいで、父は大人たちから容赦なく殴りつけられ、制裁を受けた。泥まみれの地面に組み敷かれ、口の端から血を流しながらもがいていた父は、ふと視線を上げた。怯えて泣きじゃくる女子生徒が、自分を見下ろしている。その瞳に
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