LOGIN八十年越しの想いは、まだ終わっていなかった。 高校二年生の向日葵(ひまり)は、曾祖父・玄太郎の七十七回忌の最中、お線香の匂いで意識を失う。 目を覚ますと、頭の中には見知らぬ青年の声が響いていた。 「私は玄太郎だ。毬の夫だ」 戦争で帰らぬ人となった曾祖父・玄太郎。 なぜか若い頃の姿のまま向日葵の中で目覚めた彼は、八十年近く想い続けてきた妻・毬(まり)のことだけを覚えていた。 奇妙な共同生活の中で、向日葵は曾祖母・毬から二人の出会いと別れ、そして長い年月をかけても消えることのなかった想いを知っていく。 これは、戦争によって離れ離れになった夫婦の想いと、恋を知らない少女が誰かを想う気持ちを少しずつ知っていく物語。
View More「お線香あげてきなさい」母に言われ向日葵は静かに頷いた。毬が亡くなって一年。今日は本家で一周忌が行われていた。親戚たちの話し声が居間から聞こえてくる。笑い声も混じっている。きっと毬おばあちゃんは、そんな賑やかな空気を喜んでいるだろう。向日葵は仏間へ入った。祭壇には優しく微笑む毬おばあちゃんの遺影。その隣には白い軍服姿の若い玄太郎の写真。二人は今も並んでいた。向日葵は線香をあげ、小さく手を合わせる。「久しぶり」自然と笑みがこぼれる。あの日から一年。高校三年生になった向日葵は、受験勉強に追われる毎日を送っていた。友達と進路の話をして将来のことを考え時々、恋の話もする。竹中先輩に憧れていた頃もあった。格好いいなと思う人もいた。…でも…。「まだ分かんないんだよね」向日葵は遺影を見ながら呟く。「私、まだ玄ちゃんや毬おばあちゃんみたいになれそうにないよ」好きという気持ち。一緒に時間を重ねること。誰かを想い続けること。その意味を、二人は教えてくれた。玄太郎が教えてくれた、「想いを重ねること」毬おばあちゃんが教えてくれた、「想い続けること」それは向日葵にとって、大切な宝物になっていた。「二人からの贈り物だったんだよね」そう呟いて、向日葵は持ってきた紙袋を開いた。「そうそう」「今日、お土産買ってきたんだ」まず取り出したのはシベリア。「毬おばあちゃん、大好きだったでしょ?」「玄ちゃんも、羊羮好きだったもんね」そして、もう一つ。向日葵は少し悪戯っぽく笑った。「玄ちゃんにはこれ!」照り焼きチーズのチョコバナナホイップ増し増しクレープ。「どう?」そしてすぐに笑いながら言った。「でも毬おばあちゃんは食べちゃ駄目だからね!」「絶対まずいって言うもん!」一人で笑って、一人で話して。…そして…。ふいに笑顔が止まった。静かな仏間には並ぶ二枚の遺影。向日葵の目が少し潤む。「ねえ、毬おばあちゃん」「聞いてよ」「玄ちゃん、本当に酷いんだよ」「修学旅行の時もさ」「和菓子もっと買えってうるさくて」「クレープなんて、あんな変なの選ぶし」話しながら、もう返事はない。「買った時だってさ……」そこで声が止まった。ぽたり。頬を伝った涙が畳へ落ちる。「玄ちゃん……」「毬おばあちゃん……」「もう会えないのかなぁ……」涙が止まらない。仏間の窓から、柔らかな風が入ってくる。土産の包装紙が揺れた。向日葵の耳元で本当に微かに。聞き慣
向日葵は毬の手を握ったまま、静かに俯いている。昔から変わらない優しい温もり。「おばあちゃん……」家族たちも皆、言葉少なくベッドを囲んでいた。そして、向日葵の中には玄太郎が見守っている。向日葵にしか分からない存在。玄太郎は長い間、ただ毬を見つめていた。やがて、呟く。『毬……』その声はあまりにも小さい。『待たせたな』向日葵は顔を上げる。『それと……すまなかった』『ずっと一人にさせてしまった』『今、やっと帰って来られた』玄太郎は静かに毬を見つめ続ける。『伝えたいことを伝えられず』『後悔ばかり抱えて彷徨ってきた』『それでも……ようやくお前の側まで戻って来られた』向日葵は涙を堪えながら玄太郎の声を聴いていたが、「玄ちゃん……」玄太郎はずっと毬だけを見ていた。ふと毬の頭元が揺らぐ。「……え?」思わず目を細める向日葵。そこに居るのは病室のベッドに眠る毬ではない。おさげ髪の若い毬。そして、白い軍服を着た若い玄太郎。向かい合う二人の姿。「玄ちゃん?」若い姿の毬が声を出す。次の瞬間、涙が溢れた。「遅いよ……本当に遅い」声を震わせながら笑う。「玄ちゃん……」「私、八十年近く待ってたんだよ……馬鹿でしょ……」俯いて泣く毬。玄太郎はそんな毬を静かに見つめた。そして優しく答える。『そうは思わない』向日葵は息を呑んだ。何度も聞いた口癖。不器用で、頑固で…。でも玄太郎らしい言葉を。玄太郎は少し困ったように笑っている。「毬、未練がましく彷徨ったおれを……笑ってくれるか?」毬は涙を拭いながら顔を上げる。「笑わないよ」「だって、玄ちゃんだもん…。」玄太郎の前に立つ毬。八十年越しの言葉を伝えた。「…おかえりなさい」玄太郎はゆっくり頷いた。そして。「毬、あの時駅で言えなかった」「聞いてくれるか?」二人の視線が重なる。玄太郎がゆっくり口を開く。その瞬間だった。ピーーーーーー……病室に長い電子音が響いた。「お母さん!」「おばあちゃん!」家族たちの悲鳴、泣き崩れる声。向日葵も毬の手を握ったまま離さない。もう若い毬の姿はない。玄太郎の姿もない。玄太郎の声も聞こえない…。…けれどベッドの上の毬は、今まで見たことがないほど穏やかな顔で微笑んでいた。長い長い旅を終えて、ようやく大切な人と再会できたような顔だった。向日葵は涙を拭った。「……伝えられたんだね」夜の風がカーテンを揺らす。もう玄太郎の声は聞こえない。けれど向日葵
規則正しい電子音が病室に響いていた。一定の間隔で鳴り続けるその音だけが、この部屋で流れる時間を知らせている。窓の外は夕暮れだった。西日が白いカーテンを薄く染めている。向日葵はベッドの横に置かれた椅子へ座ったまま動けなかった。白い布団の中で眠る毬は、いつもよりずっと小さく見えた。一ヶ月前まで元気だったのに。縁側でお茶を飲みながら笑っていたのに。玄ちゃんの話になると止まらなくなって。「玄ちゃんったらね」そう言いながら嬉しそうに笑っていたのに…。今は目を閉じたまま動かない。向日葵はそっと毬の手を握った。細くなった指。しわの刻まれた手。何度も頭を撫でてくれた手だった。温もりはまだ残っている。けれど握り返してはくれなかった。「おばあちゃん……」返事はない。電子音だけが続く。本家から電話が掛かってきたのは三日前だった。毬が倒れた、搬送している。と。それだけだった。詳しい話はほとんど覚えていない。気付けば向日葵は病院へ向かっていた。嫌な予感がしていた。あの日…。電車の中で聞いた玄太郎の言葉が忘れられなかった。『毬の死期が近い』信じたくなかった。けれど今…、目の前にいる毬おばあちゃんを見ていると、その言葉が何度も胸の中で繰り返される。向日葵は唇を噛んだ。「おばあちゃん」声が震える。「起きてよ」返事はない。「まだ話したいこといっぱいあるのに」修学旅行の話も全部終わっていない。またお土産を持って来る約束もしていた。まだ一緒に食べたい和菓子だってある。…なのに…、毬は静かに眠ったままだった。向日葵は俯く。そして胸の奥へ呼び掛けた。「玄ちゃん」返事はない。「玄ちゃん」もう一度呼ぶ。しばらくして。『……向日葵』掠れた声が聞こえた。向日葵は顔を上げた。「おばあちゃん大丈夫だよね」沈黙。「大丈夫って言ってよ」『……』「玄ちゃん」向日葵の目に涙が浮かぶ。「連れて行ったりしないよね」返事はなかった。その沈黙が何より怖い。向日葵は首を横に振る。「嫌だ」涙が零れる。「まだ駄目だよ」「やっと会えたじゃん」「玄ちゃんの帰る場所を見つけたじゃん」握った毬の手に力を込める。「だからまだ駄目」涙が止まらない。「まだ二人とも一緒にいてよ」病室の空気が重くなる。玄太郎は何も言わなかった。ただベッドを見つめていた。向日葵にも分かる、玄太郎も苦しんでいる。毬が大切だから。誰よりも大切だから。だからこそ言葉が出ない。長い沈
本家を出る時、毬は玄関先まで見送りに出てくれた。「またおいでね」「うん」向日葵が靴を履くと、毬は少し悪戯っぽく笑った。「今度も玄ちゃんを連れてきて」向日葵は思わず吹き出す。「だから見えてないでしょ」「どうかしらねぇ」毬は楽しそうだった。その笑顔はいつも通りだった。元気そうで、明るくて、 何も変わっていない。だからこそ向日葵の胸に残る不安の正体が分からなかった。玄太郎はあれから何も話さない。『そういうことか……』そう呟いてから、ずっと沈黙したままだった。「じゃあね」手を振る。「気をつけて帰るんだよ」夕陽の中で手を振る毬を見ながら、向日葵は本家を後にした。電車へ乗り込む。窓際の席へ座ると、列車はゆっくり動き始めた。聞き慣れた揺れが身体に伝わる。踏切を通り過ぎる。カン、カンという警報機の音が遠ざかっていった。向日葵は窓の外を見つめた、流れる景色。沈み始めた夕陽、住宅街の屋根。どれだけ待っても玄太郎は何も言わない。「玄ちゃん」返事はない。「玄ちゃん?」沈黙。胸の奥がざわつく。一つ目の駅を過ぎる。二つ目の駅を過ぎる。そして三つ目の駅を出た頃だった。突然、声が聞こえた。『呼ばれたのではなかった』向日葵は顔を上げた。「え?」玄太郎の声は妙に静かだった。まるで全てを受け入れてしまった人のように。『毬の死期が近い』向日葵の思考が止まる。「何言ってるの?」思わず声が大きくなった。周囲の乗客がちらりとこちらを見る。それでも構わなかった。「毬おばあちゃん元気だったじゃん!」『分かっている』「だったら!」『分かっている』その声は優しかった。優しいからこそ苦しかった。『毬がおれを感じ始めている』窓の外の景色が流れていく。『法事の頃からずっと、おれを感じていた』向日葵は言葉を失った。『迎えに来たんだ』「え?」『おれが』向日葵は首を振った。「嫌だ」『……』「そんなの嫌だ」胸が苦しくなる。「やっと会えたじゃん」「やっと帰る場所を見つけたじゃん」「なのに何でそんな事言うの」玄太郎はしばらく黙っていた。そして静かに語り始める。『知覧で思い出した』向日葵は息を呑んだ。『最後の日を』油の匂い、熱い機体、轟音。それらが突然流れ込んでくる。『おれはあの日、青い空に飛んだ』向日葵の胸に冷たい感覚が広がる。『目的地に迎う途中、たくさんの戦闘機に追われた』『弾が当たり、海へ墜落した』息が出来ない、肺が焼ける。冷たい海