ANMELDEN魔法が産業・軍事・生活のすべてを支配する王国ヴァルデリア。この世界では、生まれながらの魔法適性が社会的地位を決める絶対的な秩序が存在した。 現代日本で生きた女性エンジニア・篠原あかりは、二十八歳で不慮の事故により命を落とし、気づけばヴァルデリア王国の侯爵家の赤ん坊に転生していた。エリナ・アッシュフォードとして生を受けた彼女は、前世の記憶と知識を持ったまま、貴族社会の頂点に近い場所でその生涯を再び歩み始める——はずだった。 生後一年も経たないうちに、運命は動いた。
Mehr anzeigen死んだ、と思った瞬間、私はもう別の場所にいた。
記憶がある。二十八年分の、ごちゃごちゃとした人生の記憶が。終電を乗り過ごした夜のこと。締め切り前に飲んだ缶コーヒーの味。論文を書き上げた朝の、妙に澄んだ空気。そして——雨の夜、横断歩道。ブレーキ音。
それで終わりだと思っていた。 なのに。「……あら、目が覚めたの? よかった。ほら、お母様よ」
視界が白くぼやける。焦点が合わない。声がどこか遠くて、でも温かくて、私は反射的に泣いた。
泣いた——?
自分でも驚いた。泣くつもりなんてなかった。ただ、体が勝手に動いた。肺が空気を吸い込んで、声帯が震えて、涙が出た。まるで機械みたいに、本能だけで動く体。
ああ、そうか。赤ちゃんって、こういうものか。
妙に冷静な分析をしながら、私——前世の名前は篠原あかり、享年二十八歳——は、この状況を整理しようとした。
だが体が言うことを聞かない。首が重い。手も足も、思うように動かない。視界は相変わらずぼんやりしている。生まれたばかりの体というのは、ソフトウェアに対してハードウェアが致命的に追いついていない状態だ。落ち着け。パニックになっても何も変わらない。まず情報収集。
エンジニアの習性で、私は状況を箇条書きにして整理した。
一、私は死んだ。 二、今、別の体に生まれている。 三、この体は人間の赤ちゃんだ。 四、抱きかかえているこの人が「母」らしい。 五、言語は……なぜか理解できる。
その五番目が一番不思議だった。「お母様」という単語は日本語じゃない。でも意味がわかる。まるで最初からその言語を知っていたかのように、耳に入ってくる音が意味に変換される。
転生、ってやつか。
ライトノベルで読んだことがある。まさか自分がそれになるとは思っていなかったけれど。数日かけて、私は周囲の情報を集めた。
できることといえば、寝ることと泣くことと、授乳されることくらいだ。それでも目と耳はちゃんと動く。天井を見上げながら、聞こえてくる声を拾い続けた。わかってきたこと。
ここは「アッシュフォード侯爵邸」らしい。石造りの、広い屋敷。窓から見える空は、どこか透き通った薄紫色で——地球の青空とは微妙に違う。
私を産んだ母の名前はセレーナ。声が穏やかで、抱き方が丁寧で、私を見る目がいつも少し泣きそうに細まっている。前世で感じたことのない種類の温もりだった。
父親は数回しか顔を見せなかった。背が高く、口数が少なく、でも私を抱いた時だけ表情が崩れた。 「エリナ」と、低い声で呼ばれた。それが私の名前らしかった。エリナ・アッシュフォード。
悪くない名前だ。
前世の「篠原あかり」も嫌いじゃなかったけど、エリナという響きには何か凛とした強さがあって、私は密かに気に入った。生後二ヶ月を過ぎた頃、私はこの世界の輪郭をだいぶ掴んできた。
まず、魔法が存在する。
これは最初に確信した。使用人の一人が薪に触れずに火を灯すところを見た時、私の中の「科学者」が一瞬混乱したが、すぐに切り替えた。ルールが違う世界に来たのだ。新しいルールを覚えればいい。
次に、階級社会だということ。
「侯爵様」「奥様」という言葉の重さ、使用人たちの立ち振る舞い、屋敷の広さ——全部が、この世界の格差の大きさを物語っていた。
そして、魔法の強さが社会的地位と直結しているらしいこと。
使用人たちの会話の端々から聞こえてくる「適性」「階位」という言葉。それがいかに重要視されているか、声のトーンだけでわかった。
つまり私が生まれたのは、この世界のかなり上の層だ。
侯爵家の令嬢。魔法が使える貴族社会。
悪いスタートじゃない——そう思っていた。
その頃は、まだ。
転機は、私が生後十一ヶ月になった冬の夜に訪れた。
屋敷が、突然騒がしくなった。
深夜に馬の蹄の音。複数の男たちの怒鳴り声。母が私を強く抱きしめて、寝室の隅で息を殺している。彼女の腕が震えていた。あんなに温かかった手が、その夜だけは冷たかった。
「セレーナ様、旦那様が——」
使用人の声が廊下から聞こえた。その先が、嗚咽に変わった。
私は泣かなかった。泣き方を忘れたみたいに、ただじっと目を開けていた。
何かが起きた。悪いことが。
赤ちゃんの体でも、空気の変わり方はわかった。
父が戻ってきたのは翌朝だった。いつもの背筋の伸びた姿勢が、どこか折れていた。母が何かを問いかけて、父は長い沈黙の後で一言だけ言った。
「……すまない」
それきりだった。
アッシュフォード家の没落は、私が満一歳になる前に完了した。
横領の証拠。捏造だと後になってわかる証拠。でもその時は誰も信じなかった。いや——信じようとしなかった、というのが正確かもしれない。
屋敷は没収された。財産は凍結された。父は爵位を剥奪され、裁判を待つ身になった。
母は私を抱いて屋敷を出た。小さな荷物一つ持って。振り返らずに。
私は母の肩越しに、遠ざかっていく石造りの屋敷を見ていた。
怒りは、ある。
でも今は使えない。この体じゃ、まだ何もできない。
だから覚えておく。何があったかを。誰がやったかを。そして——いつか、必ず。
冬の風が頬を刺した。母の腕の力が強くなった。
エリナ・アッシュフォード、生後十一ヶ月。
これが、私の「第二の人生」の本当の始まりだった。
消毒液が完成したのは、ダリウスが去ってから十日後のことだった。 材料は蒸留した酢と、特定の樹皮を煮出した液を合わせたものだ。酢の蒸留は最初の難関だった。この世界にも酢は存在するが、濃度が低く、薬として使えるレベルには程遠い。陶器の蒸留器を自作するのに三日かかり、蒸留の条件を探るのにさらに五日かかった。 完成品を小瓶に入れて光に透かした。無色に近い、わずかに黄みがかった液体。匂いは鋭い。 合格。 エリナは小瓶に木の栓をして、棚に並べた。傷口に直接使える消毒液、石鹸では届かない深い部分の洗浄に使えるもの。クラウスの時のような感染症例が、これで一段階早く対処できるようになる。 それから少し間を置いて、別のことを考えた。 レインに見せると言った。 でも場所がわからない。あの少年がいつまたルシェムに来るかも、来るかどうかも、わからない。 エリナは栓をもう一度確認して、棚から目を離した。 来たら見せる。それだけだ。 レインが来たのは、その翌日だった。 またしても、雨だった。 今度は朝から降っていた。霧のような細かい雨が、町全体を灰色に包んでいた。エリナは薬草の仕分け作業を台所でしていて、戸口を叩く音を聞いた。 マリオかナンシーだろうと思いながら開けた。 違った。 旅装束の少年が立っていた。前回より少し汚れている。靴底の麻紐は、新しいものに替わっていた。「……修理したんだ」 エリナが言った。自分でも、開口一番それを言うとは思っていなかった。 レインが一瞬だけ目を細めた。「した」「よかった。入って」 台所に通した。狭い部屋だ。棚に薬草が並び、壁に分類図が貼られ、隅に帳簿が積んである。貴族の屋敷の応接間とは正反対の空間だ。 レインは部屋を一度見回してから、何も言わずに椅子に座った。この人は余計なことを言わない、とエリナは再確認した。狭い部屋だとか、貧しいとか、そういうことを顔に出さない。ただ、目だけが部屋の中をきちんと観察していた。
噂というのは、水のように低いところへ流れる。 そしてある程度溜まると、今度は高いところへ逆流する。 ルシェムで石鹸と薬草薬が広まり始めてから二ヶ月。エリナの名前は市場の主婦たちの口から隣町へ、隣町から街道沿いの宿場へ、宿場から行商人の荷馬車へと乗り移って、気づけば王都の商人ギルドの耳にまで届いていた。 エリナはそれを、グレンから聞いた。「王都から来た男が、お前のことを聞いてたぞ」 朝の市場で声をかけてきたグレンの表情が、いつもより硬かった。エリナは手を止めた。「どんな男?」「商人とは言ってたが、目つきが商人じゃなかった。聞き方が妙に細かくてな。お前が何を作ってるか、誰と一緒にやってるか、家族はいるか——そういうことを」 エリナの頭の中で、何かが静かに警戒音を鳴らした。「その男、今もいる?」「昨日の夕方に馬車で帰ったよ。でもな——」 グレンが声を落とした。 「馬車に紋章がついてた。見覚えのある紋章だ。クロヴェルの家紋だった」 エリナは表情を変えなかった。 意識して、変えなかった。 家に戻って、台所に座った。 母はまだ仕事に出ていた。部屋には誰もいない。 エリナは膝の上で手を組んで、静かに考えた。 クロヴェル家がこちらの動きを把握した。これは想定より早い。エリナはまだ七歳で、商売の規模もルシェム周辺に留まっている。脅威と判断するには小さすぎるはずだ。 では、なぜ今、動いた。 可能性は二つ。一つは、アッシュフォードという名前に反応した。もう一つは、魔法なしで衛生状態を改善しているという報告が何らかの形でクロヴェルの耳に入り、その背景を調べた。 どちらにせよ、結論は同じだ。 見られている。 前世のエンジニアとしての習性が、リスク評価を自動的に始めた。現状の脅威レベル、取れる対策、最悪のシナリオ。 最悪のシナリオ——クロヴェル家が母の存在を使って圧力をかけてくる
レインが去ってから三日後、エリナは本格的に薬草の研究を始めた。 といっても、材料も道具も最低限しかない。市場で買える薬草の種類は限られているし、専門的な文献など存在しない。この世界の医療は、治癒魔法師と口伝の民間療法が二本柱で、体系化された知識はほぼ皆無だ。 だからこそ、やる価値がある。 エリナはまず、市場で手に入るすべての薬草を少量ずつ買い揃えた。一種類ずつ匂いを嗅いで、触って、舌先で少しだけ舐めて、前世の記憶と照合する。完全に一致するものばかりではない。この世界固有の植物も多い。でも形状や成分の傾向から、効能を推定できるものは多かった。 木の板に炭で書いた分類表が、台所の壁を少しずつ埋めていった。 問題は、知識を実証する相手がいないことだった。 実験するには、実際に怪我をしている人間が必要だ。でも「怪我人を探す」というのは、自分では動けない。 助けが来たのは、意外な方向からだった。 ある朝、長屋の大家——初老の女性でナンシーという——がエリナの部屋の前に立っていた。普段は家賃の話しかしない人だ。「エリナちゃん、ちょっといいかい」 声がいつもと違った。硬い。「隣の部屋のクラウスが、三日前から熱を出して寝込んでる。治癒魔法師は呼べないし、薬屋の薬を飲ませても下がらない。あなた、石鹸で病気を治したって話が出てるけど……何か知らないか?」 エリナは即座に立ち上がった。「見せてもらえますか」 クラウスは三十代の男で、荷運びの仕事をしている。隣の部屋に入った瞬間、エリナは状態を見た。 顔が赤い。汗をかいている。でも手足は冷えている。布団を顎まで引き上げていても、ときどき震える。 悪寒と発汗が交互に来ている。発熱のパターンは感染症。喉と鼻の症状がなければ、傷口からの感染が疑わしい。「足を見せてもらえますか」 クラウスが弱々しく布団をめくった。左足の甲に、包帯が巻かれている。「いつ怪我をしたの?」「四日前&h
レインと初めて会った日、雨が降っていた。 春の終わり、夕暮れ前の雨だ。急に空が暗くなって、大粒の雨が石畳を叩き始めた。市場の商人たちが慌てて荷物を布で覆い、客たちが軒下に逃げ込む。エリナは豆のペーストの補充分を届けた帰り道で、雨に降られた。 傘はない。この世界に傘という概念はあるが、庶民が持つものではない。雨具といえば蠟を塗った麻布を頭から被る程度だ。 次は撥水加工の研究をすべきか。 頭が半分そっちへ飛びながら、エリナは近くの軒下へ走り込んだ。 先客がいた。 最初は、背中しか見えなかった。 柱に寄りかかって、雨を眺めている少年。年は自分と同じか、少し上くらいだろうか。薄汚れた旅装束に、使い込まれたブーツ。荷物は小さな革鞄一つ。 髪は濡れていた。雨宿りを始めてからまだ間もないらしい。 エリナは少年から適切な距離を取って、壁際に立った。雨が屋根を叩く音が続く。 しばらく沈黙があった。 先に口を開いたのは、エリナだった。別に話しかけたかったわけではない。ただ、気になることがあった。「右の靴底、剥がれかけてる」 少年が振り返った。 目が合った瞬間、エリナは少し面食らった。綺麗な顔をしている——そういう感想ではなく、目の鋭さが異常だと感じた。年齢に似合わない、すべてを計算するような眼差し。でもその奥に、何か燃えているものがある。「……気づいてた」 少年が短く答えた。声は低めで、感情の起伏が薄い。「直さないの?」「修理屋に出す金がない」「応急処置なら今できる。靴を貸して」 少年が眉をわずかに動かした。警戒ではなく、意外そうな顔だ。「なんで」「このまま放っておくと完全に剥がれる。雨の日に靴底がない状態で歩くのは効率が悪い」 エリナは籠から細い麻紐を取り出した。配達の荷物を固定するために常に持ち歩いているものだ。 少年は数秒エリナを見てから、無言で右足を差し出した。 エリナは剥がれかけ