ログインもう恋なんてしない」と決めた矢先、危険な男に出会った。 恋人の裏切りで傷ついた花邑美咲は、新しい恋を諦めていた。 そんな彼女の前に現れたのは木崎司狼と名乗る男。 どこか強引で、距離が近くて、何を考えているのか分からない男。 「美咲」 出会って間もないのに、真っ直ぐ好意を向けてくる彼に美咲は戸惑う。 けれど――。 彼と過ごす時間は、不思議なくらい心地よかった。 しかし、美咲は知らない。 木崎司狼には絶対に明かせない過去があり、彼女の元恋人とも決して無関係ではないことを。 愛するために嘘をつく男ともう誰も信じられない女。 二人の恋は秘密から始まる。
もっと見る『昨夜未明、都内のマンションで男性が死亡しているのが見つかりました。死亡したのは、会社員の岡本蒼太さん――』
その名前が耳に入った瞬間、美咲の手が止まった。
朝のニュースは、いつもただの背景音だった。
時間を確認するために流しているだけで、内容を真剣に聞いているわけではない。
今日もそのはずだった。
なのに。
その名前だけが、針のように意識へ刺さった。
「……え?」
反射的に顔を上げる。
テレビ画面には、見覚えのある顔写真が映し出されていた。
【死亡した岡本蒼太さん】
同姓同名かもしれない。
そんな淡い期待は、あっけなく砕けた。
岡本蒼太。
一年前に別れた、元恋人だった。
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『死因は転落とみられ、警察は事故と自殺の両面で捜査を進めています』
アナウンサーの声は驚くほど淡々としていた。
誰かの死が朝のニュースで流れることは珍しくない。
けれど、その誰かが自分の知っている人間だった。
その瞬間、世界の温度が一段下がったように感じた。
転落。
事故。
自殺。
聞き慣れているはずの言葉が、妙に現実味を持たないまま、美咲の胸の奥に沈んでいく。
コーヒーメーカーの低い音が、やけに大きく響いていた。
ゴボゴボと湯が落ちる音。
テレビの声。
自分の浅い呼吸。
そのすべてが混ざり合って、頭の内側をじっとりと濡らしていく。
耐えきれず、美咲はリモコンを手に取った。
テレビを消す。
画面が暗くなった途端、部屋の中に静寂が落ちた。
「……別に、関係ないし」
声に出した言葉は、思ったよりも頼りなかった。
岡本蒼太とはもう終わっている。
一年前に別れた。
連絡も取っていない。
会いたいと思ったこともない。
今さら彼がどうなろうと、自分の日常に関係などない。
そう思う。
そう思いたい。
美咲はいつも通りの動作をなぞるように、コーヒーメーカーの前へ立った。
マグカップを手に取り、サーバーを持ち上げる。
その瞬間だった。
「……あ」
まだ抽出は終わっていなかった。
黒い液体がサーバーのない場所へ落ちる。
熱された保温プレートの上で、コーヒーが小さく弾けた。
ジュッと焦げる音。
苦味と焦げ臭さが混ざった匂いが鼻の奥を刺す。
美咲は慌ててサーバーを戻したが、プレートの上には黒い染みが広がっていた。
「……最悪」
呟いてから胸の奥がざわつく。
たかがコーヒーだ。
拭けばいい。
何も大したことではない。
それなのに、指先が少し震えていた。
岡本蒼太が死んだ。
その事実を悲しいと思っているのか、驚いているだけなのか、それとも怒っているのか、美咲には分からなかった。
彼は美咲を裏切った男だ。
あの人のために泣く理由なんてない。
そう思えば思うほど、胸の奥に別のものが引っかかった。
事故か、自殺か。
ニュースの言葉が頭の中で何度も繰り返される。
岡本蒼太は自殺するような人だっただろうか。
美咲は答えを出す前に首を振った。
「関係ない」
もう一度、今度は少し強めに言う。
言葉にしなければ、自分の中の何かが勝手に膨らんでしまいそうだった。
時計を見る。
家を出る時間が近い。
美咲は焦げたプレートを拭き、冷めかけたコーヒーを一口だけ飲んだ。
味はよく分からなかった。
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いつも通りに鞄を持つ。
いつも通りに靴を履く。
いつも通りに玄関を出る。
けれど、鍵を閉める音だけが妙に大きく響いた。
マンションの廊下を歩きながら、美咲は無意識に手すりの向こうを見下ろしていた。
八階。
地面までの距離が、やけに生々しく目に映る。
転落死。
その言葉がまた脳裏に浮かんだ。
岡本蒼太の部屋を最後に訪れたのは一年前だ。
間取りも、家具の配置も、カーテンの色も、ほとんど忘れかけていたはずだった。
なのに今朝、その記憶だけが妙にはっきりと蘇る。
そして、その日から三日後。
美咲は彼が別の女性と腕を組み、ラブホテルへ入っていく姿を見た。
胸の奥で古い痛みが鈍く疼いた。
悲しみではない。
たぶん、未練でもない。
ただ、自分の人生に一度深く入り込んだ人間が突然この世から消えた。
その事実がうまく飲み込めないだけだ。
美咲は足を止めなかった。
止まれば考えてしまう。
考えれば、何かを認めてしまいそうだった。
エレベーターの前に立ち、下行きのボタンを押す。
そのとき。
どこからか冷たい風が吹いた。
廊下の端から、かすかに雨の匂いがした。
今朝は晴れているはずなのに。
美咲は思わず振り返る。
誰もいない。
ただ静かな廊下が続いているだけだった。
「……気のせいよね」
そう呟いて、前を向く。
エレベーターの扉が開いた。
美咲はその中へ足を踏み入れる。
岡本蒼太の死は自分には関係ない。
そう言い聞かせながら。
けれどその朝から、美咲の日常はほんの少しずつ別のものへ変わり始めていた。
【美咲視点】.駅へ向かう途中、美咲はバッグの中へそっと手を入れた。小さな箱の感触が指先へ伝わる。銀色のしおり。司狼に似合うと思って買ったものの、衝動買いである感じは否めない。(渡せる日なんて来るのかな)会う約束はしていない。連絡先は知っている。でも、プレゼントがあるから渡したいというメールを送るほどの勇気はない。考えれば考えるほど、自分が何をしているのか分からなくなる。恋人でもない。ただ何度か偶然会って、その流れでほんの一時を過ごした。それだけ。それなのに、プレゼントを選んでしまった。誕生日とか、何の名目もなく。思い付きで。(重いかな……)そう思ってしまうと、急に恥ずかしくなった。「やっぱり早まったかな」小さくため息をつきながら改札へ向かう。そのときだった。「美咲?」聞き慣れた声に足が止まる。ゆっくり振り向くと、少し離れた場所で司狼が片手を上げていた。「木崎さん……」思わず目を丸くする。(また会った)偶然。そう思うには出来すぎている。だが、それ以外に適切な説明が思いつかない。司狼はいつも通り自然な笑顔で歩いてきた。「奇遇だな」「……本当に奇遇なんですか?」思わず疑いの目を向ける。「当たり前だろ」「絶対違います」「それなら、どうやって?」ストーキング。そんな言葉が浮かんだがすぐに消す。理由がない。それに。(もし本当なら、もっとこそこそしているわよね)「偶然、なんですね」「そうだ」「何とか納得す
【美咲視点】.夜、部屋へ戻った美咲はバッグから『透明な烙印』を取り出した。読み終えたから棚に片付けようとしたが、思い直してテーブルの上に置く。化粧を落として、シャワーを浴びて、リビングに戻る。化粧水を肌に充てながら、気づけばまた表紙を眺めていた。邪魔だからだと、自分の天邪鬼が囁く。でも、数分後には手に取ってしまっていた。触れてしまえば誤魔化せない。天邪鬼は沈黙する。(でも……)読み返したいわけではない。ただ、気になる。まるで司狼のようだと思ったところで、口元が緩む。「……変な人」思わず声に出して、そして笑ってしまう。初対面では軽薄な人だと思った。女性を口説き慣れていて、距離感がおかしくて、何を考えているのか分からない人。それなのに話していると安心するから不思議。からかわれているはずなのに嫌ではない。泣いているときは困った顔をする。美咲が恥ずかしいと感じたときは、笑い飛ばしてくれる。(もしくは遠慮なくからかう)思い出すと、笑ってしまう。そんな不思議な人だった。(もっと知りたい)そう思った瞬間、心の奥から『なんで?』という声がした。美咲の笑みが消える。岡本蒼太。その名前が頭に浮かぶ。(まただ……)一年前に忘れようと決めたはずだった。木崎司狼という新しい出会いができたのだから、忘れてしまったほうがいい。これが恋になるかは分からない。でも、少しだけ前を向きたいと思った。(多分、これも恋の始まりなんだと思う)そう思うのに。司狼のことを考えるたび、蒼太のことまで思い出してしまう。「最低……」誰に対してなのか分からないまま呟いた。司狼に失礼だと思っているわけではない。(だって、まだそんな義務のある関係ではない)でも、新しい出会いに過去の恋愛を重ねている。そんな自分が嫌だった。◇◇◇翌日。仕事へ向かう足取りは思っていたより軽かった。「花邑さん」「はい?」呼ばれて振り向くと、同じ部署の女性社員が笑っていた。「最近、雰囲気変わったね」「そうですか?」「うん。なんか柔らかくなったというか、笑うこと増えたよね」美咲は目を丸くする。そんなつもりはなかった。「いいことでもあった?」そう聞かれ、美咲は少しだけ考えた。「……本、ですね」「本?」「面白い本を読んで、その影響かもしれ
【美咲視点】 .店の扉を開けた瞬間、美咲は小さく息を呑んだ。外から見た印象とはまるで違う。柔らかな照明に照らされた店内は、木の温もりに満ちていた。飾りすぎない内装。静かに流れる音楽。厨房から漂う香ばしい匂い。肩肘張るような高級店ではない。けれど、大切な人とゆっくり食事をしたくなる。そんな空気があった。「こちらへどうぞ」案内された席へ腰を下ろす。周囲を見ると、恋人同士らしい男女もいれば、年配の夫婦もいる。誰も大声では話さない。自然と声の大きさまで落ち着いてしまうような店だった。(……デート向けだ)そう思った瞬間。向かいに座る司狼を意識してしまう。「どうした?」「……何でもありません」慌ててメニューへ視線を落とした。料理はどれも美味しそうだった。パスタ。魚料理。肉料理。どれも魅力的で迷う。結局、美咲は季節限定メニューを選んだ。「おすすめじゃないんだ?」司狼が不思議そうに聞く。「おすすめも気になりますけど」美咲は少し笑う。「季節限定って、その季節しか食べられないじゃないですか」「なるほど」司狼は納得したように頷いた。「俺はおすすめにする」「迷わないんですね」「初めての店では、まずおすすめを食べる」「どうしてですか?」「その店が、一番自信があるものだから」美咲は少しだけ驚いた。そんな考え方をしたことはなかった。料理が運ばれてきた。思わず見惚れる。「……綺麗」色合いも。盛り付けも。どれも丁寧だった。崩してしまうのが惜しくて、しばらく見つめてしまう。視線を感じた。顔を上げる。司狼がこちらを見ていた。「何ですか?」「慎重だなと思って」「え?」「まず眺める」「……」「それから、何から食べようか考える」美咲は少し笑う。「食べ物なんだから当たり前です」「俺は好きなものを先に食べる」(木崎さんらしい)「人生もそんな感じなんだろうな」司狼の言葉にフォークを持つ手が止まった。「美咲って」司狼はワインではなく水を口に含みながら言う。「人を信用するまで時間がかかるだろ」図星だった。「……そうかもしれません」「いや」司狼は首を振る。「かかる、じゃないな」少し考えて。「信用したいけど、できない」静かな声だった。美咲は返事ができなかった。「綺麗とか」
【美咲視点】.カフェラテを飲み終えた頃には、さっきまで泣いていたことが嘘のように落ち着いていた。司狼も空になったカップを見つめながら、小さく息を吐く。「そろそろ出るか」「はい」美咲は頷き、本をバッグへしまった。立ち上がろうとした、そのときだった。「美咲」不意に名前を呼ばれる。「はい?」振り返る。思っていたよりも近くに司狼の顔があった。「……っ」心臓が大きく跳ねる。近い。そう思った瞬間だった。美咲は反射的に目を閉じていた。(……あっ)すぐに我に返る。(違う違う違う!)何をしているのだろう。まるで。まるでキスを待っているみたいじゃないか。そんなつもりはない。ないはずなのに、身体が勝手に動いた。恥ずかしさで頭の中が真っ白になる。「ふっ」笑われた。美咲は勢いよく目を開く。司狼は肩を揺らして笑っていた。「期待しているところ悪いけど」「期待してません!」思わず睨む。司狼はどこか楽しそうだった。「会ってまだ三回目だ」落ち着いた声で続ける。「しかも、予定して会ったことはない」「……」「それで、いきなりキスは早いだろ」「だから違います!」顔が熱い。完全に誤解されている。いや。誤解されても仕方のない反応をしたのは自分だ。(もう嫌……)恥ずかしすぎる。「安心しろ」司狼は笑う。「キスはもっと仲良くなってからしよう」「しません!」「そうか?」全然信じてもらえていない。美咲は頬を膨らませた。すると司狼が少しだけ身を乗り出した。「え?」今度こそ、本当に近い。思わず身体が固まる。司狼は美咲の顎へそっと指先を添えた。びくり、と肩が震える。(え……)動けない。司狼の視線が美咲の顔をゆっくりと見つめる。右。左。少しだけ角度を変えて。それだけだった。「よし」満足そうに頷く。「……?」美咲は瞬きを繰り返した。何が「よし」なのか分からない。(もっとこう……照れたりとか、雰囲気があると思ってたのに)サッカーでゴールを決めたみたいな満足顔をされても困る。「ジャンル間違い……」混乱したまま、心の声が口から漏れた。「え?」司狼が首を傾げる。「イタリアンは好みじゃない?」「……え?」今度は美咲が固まる。「イタリアン?」「ああ」司狼は当然のように頷いた。「
死んだ男の影にまで揶揄われているような感覚が、美咲の胸の奥でじわりと広がった。自分の内側にあるはずの記憶が、いま目の前にいる男と勝手に重なり、勝手に意味を持とうとする。その不快さは、外から与えられたものではなく、自分の中から湧き上がっていると分かっているからこそ、余計に逃げ場がなかった。 カランッ 美咲は逃げるようにグラスへ手を伸ばし、そのまま一気に中身を煽った。氷がぶつかる音が鋭く響き、淡いピンクの液体が喉を滑り落ちていく。グレープフルーツの苦味が舌に広がる。その奥に、さっきまでは感じなかった別の苦味が混じる。アルコールのものなのか、それとも自分の感情なのか、判別がつかなかった。
グレープフルーツジュースが注がれ、グラスの中の色は淡いピンクへと変わる。(女の子受け、しそうだな)無意識にそう思いながら、隣の男をちらりと見た。整った顔立ち。シンプルな服装でも隠しきれない体の線。場慣れしている空気。こういう場所に違和感なく溶け込める人間。(慣れていそうな男)そう判断した瞬間、男の視線がこちらに向いた。見られていたことに気づいていたかのようなタイミングで、わずかに口元が緩む。「どうぞ」差し出されたグラスが、二人の前に並ぶ。男はすぐには手を伸ばさない。そのためらいが、先に飲んでもいいという合図のように思えて、美咲はおそるおそる手を伸ばした。薄いグラスの縁が、指先
美咲は重い木の扉に手をかけ、わずかに躊躇してから押し開けた。軋むほどではないが、確かな重みを伴って開くその感触が、日常から一歩外に踏み出す合図のように思える。駅前の雑居ビルの地下一階、上から覗き込んだときに見えた柔らかな灯りと、どこか閉じた空気に惹かれて、ほとんど衝動的にここを選んだ。小さなバー。普段の自分なら、まず入らない場所だ。そもそも美咲は、外で一人で酒を飲むこと自体がほとんどない。飲めばすぐに眠くなるし、わざわざ外でそれをする理由もなかった。だが、今日だけは違った。眠りたかった。何も考えずに、ただ意識を手放したかった。その一心で階段を下り、扉を押したのが数分前のことだ
岡本蒼太の浮気相手の女性は、彼の会社の上司だった。役職も年齢も岡本蒼太より上で、仕事の延長線上にある関係だと説明されれば、表向きは納得できなくもない。実際、美咲も最初はそう思おうとした。岡本蒼太が「ただの業務連絡だよ」と軽く笑って言ったとき、その言葉を完全に信じたわけではないにせよ、否定する決定的な証拠もなかったからだ。(ただの業務連絡だと言っていたけれど、あれをただの業務連絡だと信じるほど私は馬鹿じゃないわ)胸の奥で燻る違和感は、時間が経つにつれて形を持ち始めていた。確かに業務連絡もあったのだろう。納期や会議、資料の確認。そういったやり取りは実在していた。だが、それだけでは説明