Semua Bab 狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない: Bab 1 - Bab 10

39 Bab

第2話 終わった恋

会社へ向かう電車に揺られながらも、美咲の頭から朝のニュースは離れなかった。(……関係ない)そう何度も心の中で繰り返す。けれど、人は本当に関係のないことを何度も自分に言い聞かせたりはしない。岡本蒼太。一年前まで付き合っていた恋人。そして、一年前に終わった恋。美咲にとって、彼は過去の人間だった。だから、死んだと聞いたところで悲しむ理由などない。そう思っている。そう思いたい。ふと、スマートフォンを見つめる。もちろん、彼とのメッセージはもう残っていない。別れた日にすべて削除した。写真も、連絡先も、残しておく理由がなかった。残したくもなかった。岡本蒼太の浮気相手は会社の上司だった。役職も年齢も彼より上。最初は仕事の相談なのだと思った。「ただの業務連絡だよ」彼は笑ってそう言った。完全に信じていたわけではない。けれど、そのときの美咲には疑うだけの証拠もなかった。今思えば、違和感はいくつもあった。仕事とは関係のない時間に届く通知。【いま何をしてる?】【今日は真っすぐ帰ったの?】そんな内容がスマートフォンの画面に何度も表示される。業務連絡だけでは説明できない距離感だった。でも。岡本蒼太は隠さなかった。美咲の隣で平然とスマートフォンを開き、その場で返信する。画面を伏せることもない。悪いことをしているという雰囲気がなかった。だから、「ただの上司」だと信じた。違う。悪いことをしているという自覚すらなかったのだ。(堂々と浮気する人だった)思い返すだけで胸の奥が熱くなる。怒りなのか。呆れなのか。自分でもよく分からない。あの日。美咲は彼に問いかけた。  『ホテルに入って、何をしてたの?』馬鹿みたいな質問。でも。少しでも否定してほしかった。苦しい言い訳でもよかった。一瞬でも迷ってくれたら、違う未来があったかもしれない。けれど。  『彼女と寝た』岡本蒼太の答えに迷いはなかった。寝た。たった二文字。その短い言葉で、二人の時間は終わった。気づけば美咲は拳を握っていた。勢いのまま彼の頬を殴る。その乾いた音だけが部屋に響いた。鍛えていると言っていた体はびくともしない。痛かったのは、自分の拳のほうだった。それでも後悔はしていない。何もしなかったら、一生悔やんでいたと思う。 岡本蒼太は頬
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第3話 眠れない夜

(……最悪)駅の改札を抜けようとした瞬間、美咲は立ち止まった。バッグの中へ手を入れる。指先が何度探っても、目的の感触は見つからない。「……ない」思わず小さく呟く。玄関の光景が脳裏によみがえった。鍵の隣。腕時計と並んで置かれた定期券。(忘れた……)朝からついていない。切符を買えば済む話だ。仕事に遅れるわけでもない。それなのに、胸の奥へ小さなため息が積もっていく。今日だけは、何をしてもうまくいかない。そんな気がした。切符を買い、改札を抜ける。いつもと少し違うだけの通勤ルート。たったそれだけなのに、自分だけが日常から少し外れてしまったような感覚になる。(朝のニュースのせいね)そう結論づける。そうでも思わなければ、この重たい気持ちの理由を説明できなかった。.仕事が始まっても集中できなかった。入力ミスはない。電話対応もいつも通り。同僚との会話も問題ない。それでも、頭のどこかに薄い霧がかかったようだった。昼休み。温かいコーヒーを飲んでも、胸の重さは消えない。岡本蒼太。その名前だけが、何度も意識へ浮かんでは沈んでいく。(もう終わった人なのに)自分でも嫌になる。考えたくない。忘れたい。そう思えば思うほど、記憶は勝手によみがえってくる。  『頼れよ』彼はよくそう言っていた。一人で何でも抱え込む美咲を見ては、困ったように笑っていた。その顔を思い出した瞬間、美咲は首を振る。違う。思い出すべきなのは最後の姿だ。裏切られたこと。終わった恋。そこだけ覚えていればいい。そうしなければ、気持ちの整理がつかない。.ようやく終業時間になった。パソコンの電源を落とす。画面が暗くなると同時に、大きく息を吐いた。「疲れた……」思っていた以上に消耗していた。今日は何もしていない。いや、何もできなかった。ただ一日を終わらせるだけで精一杯だった。会社を出る。夕暮れから夜へ変わり始めた街には、仕事帰りの人が溢れていた。駅へ向かう人。待ち合わせをする人。笑いながら歩く恋人たち。いつもと同じ景色。なのに今日は、人混みがひどく窮屈に感じる。誰かと肩が触れるたび、小さく謝りながら歩く。(こんなに人、多かったかしら)ふと昔を思い出した。岡本蒼太と付き合っていた頃。人混みでは、いつも自然と美咲を歩
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第4話 雨の匂い

美咲は地下へ続く階段の前で立ち止まった。細い階段の先には、小さな看板が一つ。場末の酒場のような仄暗さはない。柔らかな灯りが、静かに足元を照らしている。(今なら、まだ帰れる)そう思いながらも、美咲の足は動かなかった。このまま帰宅しても眠れないだろうから。テレビをつけても。スマートフォンを見ていても。きっと朝のニュースを思い出してしまう。それならば今日は、少しだけ違うことをしてみよう。美咲は意を決して階段を下りた。.重厚な木の扉に手を掛ける。深く息を吸い、小さく吐き出してから押し開けた。店内は思っていた以上に静かだった。照明は落ち着いた琥珀色。壁には年代物の酒瓶が整然と並び、静かなジャズが空間をゆっくりと満たしている。カウンター席が数席。奥には小さなテーブル席。客は数人いるものの、それぞれが自分だけの時間を楽しんでいるようで、店内には不思議な静けさが漂っていた。(場違いだったかも……)一瞬だけ後悔が胸をよぎる。普段の美咲なら、まず入らない店だ。居酒屋ならまだしも、一人でバーなど来たことがない。そもそも酒は強くない。飲めばすぐ眠くなる。今日は眠るために来たとはいえ、この店は少し。(大人すぎた……)「いらっしゃいませ」穏やかな声に顔を上げる。バーテンダーが柔らかく微笑んでいた。その笑顔に少しだけ肩の力が抜ける。「どうぞ」促されるまま、美咲はカウンター席へ腰を下ろした。革張りの椅子は思っていたより座り心地がよく、それだけで少し安心する。「ご注文はお決まりですか?」そう聞かれ、美咲は固まった。(しまった)メニューを開く。横文字ばかりだった。ビール。ウイスキー。ジン。ラム。リキュール。聞き覚えはあるが、何かは分からない単語が並んでいる。(チューハイって、どれ……?)思わず心の中で頭を抱える。コンビニで缶チューハイを買うくらいしかしない自分には、このメニューの解読から難易度が高すぎた。どれを頼めばいいのか分からない。しかし、聞くのも恥ずかしい。だからといって、黙ったままも不自然だ。(早まった……)勢いだけで入る場所ではなかった。しかし、今さら立ち去ることもできない。美咲は意を決して口を開いた。「えっと……」その瞬間だった。「迷ってるなら」低く落ち着いた声が、すぐ隣
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第5話 夜に現れた男

その男は美咲より少し年上に見えた。黒いロングコートの下には、白いニットとジーンズ。飾り気のない服装なのに、不思議と目を引く。背筋は自然な雰囲気で伸び、肩の力は抜けている。どこかこの店の空気に溶け込んでいて、初めて来た美咲とは対照的だった。.「え……」突然話しかけられ、美咲は戸惑う。男は美咲のそんな反応を面白がるでもなかったが、小さく笑った。その笑顔を見た瞬間だった。胸の奥が、かすかに揺れる。(……なんだろう)初めて会うはずなのに。どこかで会ったことがあるような。そんなはずはないのに、懐かしさだけが心に残った。「スプモーニ」男は迷うことなくバーテンダーへ注文する。美咲はその言葉を頭の中で繰り返した。(スプ……?)もちろんどんな酒か分からない。居酒屋の喧騒。コンビニの冷蔵庫に並ぶ缶のラベル。美咲の見聞きした覚えのない酒の名前だ「どう?」男は柔らかく微笑む。(どう、と聞かれても……)酒もバーでの作法も分からない美咲には、正しい言葉の返し方も分からない。「初心者でも飲みやすいよ。アルコールも強くない」押しつけるような言い方ではなかった。肩から力が抜ける。「これが正解」ではなく、「困ってるなら」という距離感。その自然さに、美咲の警戒心が少しだけ緩む。それでも、一人の男性が勧める酒をそのまま頼んでいいものか迷い、バーテンダーへ視線を向けた。助けを求めるように。バーテンダーは穏やかに頷く。「カンパリをグレープフルーツジュースとトニックウォーターで割ったカクテルです。苦味はありますが、比較的飲みやすいですよ」「そうなんですね……」少し安心する。カシスオレンジも勧められたが、以前飲んだときはあまり好みではなかったことを思い出した。知らないものに挑戦するのも悪くない。そう思えたのは、隣の男の穏やかな空気のおかげかもしれない。「じゃあ……同じので」結局、美咲はそう答えた。男は少しだけ目を細める。「正解だったらいいけど」「違ったら、そのときは勉強代です」そう返すと、男は声を立てずに笑った。「前向きだな」「そうでもないです」「いや、そういう考え方は好きだ」自然と言葉が続く。初対面なのに、不思議と沈黙が苦にならない。.バーテンダーが二つのグラスを並べる。氷が触れ合い、小さく澄んだ音を立て
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第6話 知らない横顔

グレープフルーツジュースが注がれ、紅い酒は淡い桜色へと姿を変えた。氷が静かに揺れ、グラスの中で小さな音を立てる。(きれい……)思わず見入ってしまう。隣の男も同じグラスを見つめていた。整った横顔。黒い髪。店の照明を受けても鋭さを失わない眼差し。それでいて、どこか穏やかだった。(こういう場所に慣れている人なんだろうな)自然とそう思う。店の空気にも、バーテンダーとの距離感にも、何一つ気負いがない。自分とは正反対だ。視線を向けていたことに気づかれたのか、不意に男がこちらを見た。目が合う。その瞬間、ふっと男の口元が緩んだ。.「どうぞ」バーテンダーが二人の前へグラスを置く。美咲はハッとして、前を向く。視界の隅に男を据えたまま。男はすぐには手を伸ばかなかった。まるで、「先にどうぞ」と言われているようだった。美咲は遠慮がちにグラスを持ち上げる。薄いガラス越しに冷たさが伝わる。そっと口をつけた。爽やかな甘みが広がり、そのあとからほんの少しだけ苦味が追いかけてくる。「……おいしい」思わず本音がこぼれた。男は嬉しそうに笑う。「よかった」一言だけなのに、不思議と胸の奥が温かくなった。まるで自分が褒められたような笑顔だった。(久しぶり……)誰かと話して、こんなふうに自然に笑ったのは。朝から張りつめていた心が、少しだけほどける。男は自分のグラスを軽く持ち上げた。「俺は木崎司狼」その名前は、不思議と耳に残った。司狼。その響きは、目の前の男に驚くほどしっくりきた。「あなたは?」「花邑……美咲、です」「美咲さん」自分の名前が呼ばれる。たったそれだけなのに、心臓が一つ大きく跳ねた。「いい名前だな」まっすぐに言われ、美咲は思わず視線を逸らす。照れくさい。こんなふうに名前を褒められたのは、いつ以来だろう。――美咲って名前、似合っている。思い出したのは岡本蒼太の声。岡本蒼太が死んだ日なのに。その事実が胸の奥にあったものにぶつかる。誰かにときめいてしまったような高揚感。そんな自分への戸惑い。美咲は小さくグラスを見つめた。司狼はその変化を見逃さなかった。「何かあった?」問いかける声は静かだった。無理に聞き出そうとする響きではない。「……別に」
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第7話 近すぎる距離

バーのカウンターで、初対面の男性と酒を飲んでいる。それだけでも、美咲にとっては十分すぎるほど非日常だった。仕事帰りにバーへ入り、隣に座っていた男と話し始める。ほんの一時間前の自分に話したら、きっと信じないだろう。手元には司狼から受け取った名刺がある。『木崎司狼』その下に並ぶ「小説家」の文字をもう一度見つめる。(小説家……)だから人を観察するのだろうか。そう考えれば、先ほどの言葉も納得できる。――姿勢がきれいだ。そんなところを褒められたのは初めてだった。自然と口元が緩む。「緊張が抜けた」不意に司狼が呟いた。「え?」顔を上げた瞬間だった。近い。思っていたよりずっと近くに司狼の顔があった。「……っ」反射的に身体が引く。椅子が小さく軋んだ。(しまった)あからさまだった。これでは警戒していると宣言したようなものだ。慌てて表情を取り繕い、司狼を見る。怒っているだろうか。気まずそうにしているだろうか。そう思った美咲は、司狼を見て拍子抜けした。司狼は笑っていた。嬉しそうに。そして、どこか安心したように。(……え?)予想とまったく違う反応だった。距離を取られたのに、どうしてそんな顔をするのだろう。意味が分からない。「どうした?」「……いえ」美咲は慌てて視線を逸らした。グラスの中で氷がゆっくり回る。その音だけが妙に耳へ残った。(この人……)何を考えているのか分からない。普通なら避けられたと傷つく場面ではないのだろうか。それともよくある反応で、慣れているのか。(いや……)どちらとも違う気がした。まるで、美咲のその反応を期待していたような。そんな違和感だけが残る。(考えすぎ、よね)美咲は自分へ言い聞かせる。司狼は整った顔立ちをしている。女性に声を掛けることにも慣れているだろう。ナンパ。そう考えるのが一番自然だった。それなのに、その「自然」が司狼には当てはまらない気がする。言葉は軽い。笑顔も優しい。なのに、視線だけはどこまでも真っ直ぐだった。(この目……)見透かされている。そんな感覚になる。「何?」司狼が小さく笑う。見つめていたことに気づかれていた。「……こういうお店、よく来るんですか?」慌てて話題を変える。司狼は首を横へ振った。「あまり来ない」「そうなん
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第8話 ほどけない違和感

司狼の、自分を試すような態度が胸に引っかかる。嫌な記憶と重なる。岡本蒼太も、時々そんな顔をしていた。悪気はない。けれど、自分が相手を傷つけていることにも気づいていない。その「分かっていない」という表情が、どうしても重なってしまう。(違う)目の前にいるのは司狼だ。蒼太じゃない。分かっている。分かっているのに、心が勝手に反応してしまう。死んだ人の影にまで振り回されている。そんな自分が情けなかった。カラン。美咲は逃げるようにグラスを持ち上げた。スプモーニを一気に喉へ流し込む。甘さのあとから苦味が追いかけてくる。「ちょっと」司狼の声が聞こえた。けれど、美咲は止まらなかった。空になったグラスを静かに置く。「……不愉快なので、帰ります」自分でも驚くほど冷たい声だった。司狼が息を呑む気配がした。美咲は鞄へ手を伸ばす。メニューを思い出した。(グラス一杯で千円はしなかった)それなら、二千円もあれば足りるだろう。そう考えながら財布を探そうとした、そのときだった。「待っ――」司狼が何かを言いかける。一瞬だけ、不自然な間があった。まるで別の呼び方を飲み込んだような。けれど考える暇はなかった。司狼がひょいと鞄を持ち上げたからだ。「えっ!?」あまりにも自然だった。無理やり奪われたわけではない。けれど、美咲が手を伸ばくより早く、鞄は司狼の腕の中へ収まっていた。「悪かった!」勢いよく頭が下がる。驚くほど深く頭を下げられた。周囲の客が驚いた顔でこちらを見る。「あ、あの……頭を上げてください」美咲のほうが焦ってしまう。司狼はゆっくり顔を上げた。先ほどまでの余裕はどこにもない。「本当に悪かった」真っ直ぐな声だった。「人と話すのが得意じゃないんだ。だから……本で読んだことを、そのまま試そうとしてしまった」苦笑する。「いや、試すって言い方は違うな。挑戦、かな」自分でも言葉を探しながら話している。その姿が妙に不器用で、美咲は怒るタイミングを失った。(この人……)さっきまでとは別人みたいだった。余裕があって、人を見透かしているようだった男が、今は言葉に詰まりながら必死に謝っている。演技には見えない。だから困る。「職業病……なんですよね」思わずそんな言葉が口をついた。「え?」「人を観察するの
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第9話 見えないもの

「美咲さん」司狼が穏やかな声で名前を呼んだ。「悪いけど、席を替わってもらっていいか?」「え?」突然の申し出だった。司狼の視線は美咲ではなく、その向こうの空席へ向いている。理由は分からない。けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。「いいですよ」美咲はグラスを持って席を立つ。ちょうどエアコンの風が少し強いと感じ始めていたところだった。(結果的には、よかったかも)新しい席へ腰を下ろした、そのときだった。階段のほうから、人の気配がした。次の瞬間、店のベルが鳴る。男性二人組が店へ入ってくる。声が大きい。笑い方も遠慮がない。静かな店内では少しだけ浮いて見えた。「お二人ですね」バーテンダーが自然に司狼の隣の席を勧める。二人はそこへ腰を下ろした。「タイミングよかったですね」バーテンダーが笑う。「ええ」美咲も小さく頷いた。もし席を替わっていなければ、あの二人は自分のすぐ隣だった。そう思うと、少しだけ肩の力が抜ける。グラスを持ち上げ、ジンウーロンを一口飲む。「それにしても」バーテンダーが感心したように笑った。「お客さん、耳がいいですね」「そうですか?」司狼はきょとんとする。「さっきから、扉が開く前に扉を見ているでしょう?」その言葉に、美咲も司狼を見る。そういえば。何度か同じことがあった。ベルが鳴る前に扉へ目を向けていた。「階段の音ですよ」司狼はあっさり答える。「タイル張りだからよく響くんです」「男性か女性かも分かっているようですが」探るような言葉に、司狼は小さく笑う。「ある程度は。革靴とヒールで音が違うので」「そんなの分かるんですか?」「慣れれば」司狼は笑う。「美咲さんは、こういう店に慣れていない」「どうして?」「歩き方」思わず目を丸くする。「滑らないようにというのもあるだろうけど、ゆっくりと、慎重だった」そんなことまで覚えているのだろうか。「さすが、小説家さんですね」半分冗談で言うと、司狼は苦笑した。「ありがとう」そのときだった。司狼が扉を見る。「男だな」数秒後。カラン。ベルが鳴り、サラリーマン風の男性が店へ入ってきた。「……本当だ」美咲は小さく呟く。司狼は何事もなかったようにグラスを傾けている。「どうした?」「いえ」説明できない。ただ少しだけ、この
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第10話 匂いの記憶

司狼の「匂い」という言葉が、美咲の胸に小さく引っかかった。「匂いで覚えてるって……あるんですか?」「ある」司狼は迷わず頷く。「家の匂いとか」そう言われ、美咲は少し考えた。真っ先に思い浮かんだのは実家だった。夏になると、少し湿った畳の匂いがする。古い木の柱。窓から吹き込む風。夕方になると聞こえてくる蝉の声まで、一緒によみがえる。「……ありますね」「だろ?」司狼は静かに笑う。「匂いって、記憶を連れてくるんだ」グラスの氷が小さく鳴る。その音を聞きながら、美咲は頷いた。「恋人も同じ」司狼が続ける。「香水でもいい。シャンプーでもいい。煙草でも、コーヒーでも」その言葉が、美咲の胸へ静かに落ちる。(煙草……)岡本蒼太は煙草を吸っていた。コーヒーも好きだった。近づくと、煙草の焼けた匂いと、少し苦いコーヒーの香りがした。嫌いではなかった。むしろ、その匂いを嗅ぐと安心していた。「……思い出した?」司狼の声に、美咲は顔を上げた。「え?」「昔の恋人」図星だった。「どうして……」「顔」司狼は笑う。「すごく分かりやすい」美咲は思わず頬へ手を当てた。そんなに表情へ出ていたのだろうか。「恋愛の話、多いですね」少しだけ照れ隠しで言う。司狼は肩をすくめた。「今、恋愛小説を書いてる」「恋愛小説?」意外だった。もっと人間の闇や事件を書く人だと思っていた。司狼は苦笑する。「恋愛って、人を一番変えるから」「そうですか?」「匂い一つで泣く人もいる」少しだけ遠くを見る。「声一つで笑う人もいる」その横顔を見ながら、美咲は思う。(この人も、恋をしたことがあるんだ)そう考えると、少しだけ胸がざわついた。「だから書いてて面白い」司狼は笑う。「人は自分でも気づかないうちに、本音が出る」「例えば?」「さっきの美咲さん」「え?」「ポテトサラダを見てた、食いたいなって顔で」思わず吹き出す。「まだ言います?」「当たってただろう?」「当たりましたけど」二人で笑う。少しだけ空気が柔らかくなる。そのときだった。司狼の笑みがふっと消えた。何かに気づいたように、美咲のほうを見る。いや。正確には。美咲の髪が揺れた、その瞬間を見ていた。「……どうしました?」問いかけると、司狼はゆっくりとグラスを置い
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