All Chapters of 狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない: Chapter 21 - Chapter 30

39 Chapters

第21話 手放せない

【司狼視点】.司狼は、美咲の性格を理解していた。慎重。真面目。空気を読んで、常に一歩引いている。誰かを傷つけるくらいなら、自分が少し我慢する人間。だからこそ、告白する場所は決まっていた。そのタイミングも。昼休み。いつものカフェ。周囲には同僚たち――逃げ場の少ない場所だった。◇◇◇「花邑さん」司狼が声を掛ける。美咲が振り返った。その瞬間、周囲の会話が少しだけ静かになる。何だという好奇心が漂う。「もしよかったら」司狼は笑った。岡本蒼太として。美咲が好きになる笑顔で。「友だちからでもいいので、お付き合いしてもらえませんか」沈黙。ほんの数秒。それだけだった。けれど司狼には何分にも感じられた。.「えっ?」「告白?」「すごい!」周囲が一気に騒がしくなる。美咲の同僚たちは面白がりながらも、美咲を見る。その視線は悪意ではない。むしろ祝福に近い。だからこそ、美咲は断りにくい。(悪いな)心の中だけで謝る。卑怯だとは思う。でも、他の男に先を越されるほうが嫌だった。.美咲は困ったように笑った。隣の同僚を見る。助けを求めるような視線。だが返ってきたのは。「いいじゃない」そんな答えだった。美咲の逃げ道はなくなった。「……友だちから、なら」その一言で司狼の世界は色を変えた。「ありがとうございます」たったそれだけ返す。本当は抱きしめたい。笑いたい。叫びたい。けれど、そんなことをすれば岡本蒼太ではなくなる。理性で本能を押さえ込んだ。. その日から。二人は恋人ではなく「友だち以上恋人未満」のような時間を過ごすことになる。昼休みに昼食を食べ。休日に出掛け。仕事帰りに食事をする。司狼は決して急がなかった。手を繋ぐことも。肩を抱くことも。無理にはしない。(怖がらせたくない)その気持ちは本物だった。美咲が笑う。その笑顔を見るだけで十分だった。.だが。欲は少しずつ育っていく。もっと会いたい。もっと知りたい。もっと長く一緒にいたい。美咲が休日に友人と出掛けると聞けば。(今日は会えないのか)そう思う。残業になると聞けば。(ちゃんと夕飯を食べるだろうか)そんなことまで考える。自分でも笑ってしまう。これまでの恋人たちに欠片も抱かなかった感情。これが番だ
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第22話 重なる男たち

【美咲視点】.夜風が頬を撫でる。司狼と別れたあと、美咲は駅から自宅までの道を一人で歩いていた。街はまだ明るい。仕事帰りの人たちが行き交い、飲食店からは賑やかな笑い声が漏れてくる。いつもと変わらない夜だった。なのに、美咲の胸だけが落ち着かなかった。(考えない)司狼のことは考えない。そう決めた。彼はただ偶然出会い、その場の流れで一緒に酒を飲んだ相手。少し強引で、距離感がおかしくて、でも不思議と嫌ではない男性。(……“また”、か)目を閉じると浮かぶのは司狼ではなかった。優しく笑うところは同じだけれど、別の男性だった。忘れようとするほど、思い出してしまう。岡本蒼太。 『またな』別れるたび、必ず最後に言っていた。その言葉が好きだった。「また会える」という約束だから。それを、何でもない一言にしてくれる人だった。柔らかな声。少しだけ自信があって。でも、美咲の返事を待つときだけ、どこか不安そうな顔になる。その表情を見るたびに、美咲は少しだけ意地悪をしたくなった。 『また会える?』そう聞かれると、わざと少し考える素振りを見せる。すると蒼太は、叱られる前の大型犬みたいに肩を落とすのだ。 『……うん』その一言を返すだけで。彼は驚くほど嬉しそうに笑った。その笑顔を見るのが好きだった。自分の返事一つで、こんなにも嬉しそうにしてくれる人がいる。それが、少しくすぐったくて。少し誇らしかった。.岡本蒼太との出会いはふわりとしている。昼休みによく会う人。顔見知り。何となく気になる人。そんな程度だったはずなのに。気づけば、一緒にいる時間が当たり前になっていた。「また会いましたね」「本当ですね」そんな他愛ない会話だけで、昼休みが少しだけ楽しみになる。岡本蒼太は、不思議な人だった。無理に会話を続けようとはしない。沈黙になっても慌てない。美咲がコーヒーを飲めば、自分も一口飲む。窓の外を見れば、一緒に景色を見る。会話よりも、その空気を共有している時間のほうが長かった。それなのに、不思議と気まずくならない。歩く速さも同じだった。食事を終えるタイミングも。何かを見て笑う瞬間も。合わせようとしているわけではない。ただ、自然に重なる。(あんな人は初めてだった)歴代の恋人たちは違った。優しい人もいた
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第23話 境界の内側

【美咲視点】.母は、美咲がまだ幼い頃に家を出ていった。ある日を境に、突然いなくなった。最初の頃は、仕事で遠くへ行っているのだと思っていた。父も詳しいことは話さなかった。「大人にはいろいろ事情があるんだ」そう言って笑うだけだった。だから幼い美咲は、その言葉を信じた。いつか帰ってくる。そう思っていた。けれど、その「いつか」は来なかった。成長するにつれて周囲の言葉が少しずつ耳に入るようになる。親戚同士の会話。近所の噂。大人が子どもには聞こえないと思って交わす声。「奥さん、男を作ったらしい」「旦那さんは苦労したね」断片だった言葉は、年齢を重ねるごとに意味を持ち始めた。母は浮気をしていた。そして父と離婚し、その相手のもとへ行った。それが真実だった。けれど、美咲は父に確認したことは一度もない。聞けば父を傷つける。そんな気がしたからだ。父は一度も母を悪く言わなかった。「お母さんにも事情があったんだろう」それだけだった。責めることも。恨むことも。娘に憎しみを植えつけることもしなかった。だから美咲も、母を責めることができなかった。責める代わりに胸の奥へ押し込めた。分からないままにしておこう。そう決めた。.何も知らないように振る舞う。それにぎこちなさを覚えたのは思春期になった頃。この頃には自分も周りも恋愛を意識し始めた。恋愛とは。誰かを好きになること。誰かを信じること。そして。裏切られる可能性があるもの。そんなイメージが、美咲の中には最初からあった。理屈では分かっている。恋愛をしている人すべてが裏切るわけではない。父と母が、たまたまそうだっただけ。それでも、幼い頃に植え付けられた印象は簡単には消えなかった。だから、美咲は恋愛に慎重だった。傷つくことのほうが怖かった。それでも恋人は作った。作らないほうが不自然だと思ったから。普通。周りと同じ。美咲は周りから違う目で見られることが嫌だった。妻そして母親に捨てられた父子。同情はレッテルとなり、美咲はそれが嫌だった。だから周りと同じように振る舞った。周りのみんなは恋をしていた。男の子に恋をして。付き合って。別れて。また新しい恋をする。それが普通だった。だから自分もその流れに乗った。誰が好きかと言われれば
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第24話 この人だから

【美咲視点】.岡本蒼太は不思議な人だった。告白したあと、彼が好意を隠すことはなかった。視線が合えば優しく笑う。会話をしているときは、まるで美咲しか見えていないような目をする。その熱は分かった。女として見られていることも分かった。だから最初は少しだけ身構えていた。(きっと、そのうち……)今まで付き合ってきた男性と同じように。少しずつ距離を縮めて。手を繋いで。キスをして。その先を求めてくる。恋人なら当然の流れ。美咲も、そういうものだと思っていた。けれど。一週間。二週間。一か月。時間が過ぎても、蒼太は何も変わらなかった。手を繋ぎたいとも言わない。肩を抱くこともない。もちろん、キスを求めることもなかった。「……不思議な人」思わず一人で呟いてしまうほどだった。.休日、二人で買い物に行ってカフェへ入る。窓際の席に座り、コーヒーを飲みながら他愛ない話をする。仕事のこと。最近読んだ本のこと。街で見かけた面白い出来事。どれも特別な話ではない。それなのに時間はあっという間に過ぎていく。時計を見る。「もうこんな時間」「本当だ」蒼太も笑う。「そろそろ帰る?」「そうだな」それだけだった。引き止めない。もう少し一緒にいようとも言わない。帰り道。駅まで並んで歩く。沈黙が続いても気まずくない。それが美咲には新鮮だった。これまで付き合った人は違った。沈黙になると慌てて話題を探す。興味ない話でも頑張って合わせる。付き合いがある程度進むと、手を繋ごうとする。身体を寄せてくる。恋人らしいことをしなければいけない。そんな空気を感じながら受け入れていた。でも蒼太は違う。恋人らしさを押しつけてこない。それなのに。好きだという気持ちは、ちゃんと伝わってくる。目が合えば分かる。声を聞けば分かる。隣に座れば分かる。言葉よりも、態度が教えてくれる。(どうして何も言わないんだろう)何度も思った。本当は、もっと近づきたい。そんなふうに見えることがあったから。でも、それを確かめる勇気はなかった。確かめてしまえば。今の心地いい距離が壊れてしまう気がしたから。だから、美咲も何も聞かなかった。.そんな時間が積み重なるにつれ、少しずつ変わっていくものがあった。会う日は自然と鏡を見る回数が増
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第25話 後悔

【美咲視点】.「何かあった」そう言ってきたのは父だった。美咲は一人暮らしを始めても、父のところには定期的に顔を出していた。その父が、美咲の変化を美咲自身に教えてくれた。「何か、って?」「最近、楽しそうだからな」父は何気なく言っている。だが、味噌汁を口に運ぼうとしていた美咲の手が止まった。「そう?」「ああ」父は笑う。「表情が柔らかくなった」そんなことを言われるとは思っていなかった。「仕事か?」父はそう言っておきながら、すぐに首を横に振った。「いや、仕事じゃないな」父は笑う。「誰か、だな」図星だった。思わず目を逸らす。「……分かる?」「父親だからな」照れくさそうに笑う父を見て、美咲もつられて笑った。隠していたわけではない。でも、自分から話す勇気もなかった。「付き合ってる人、いるのか?」少しだけ迷ってから、美咲は頷いた。「……うん」「そうか」父は驚かなかった。嬉しそうに微笑むだけだった。「どんな奴だ?」「優しい人」自然と答えていた。格好いいとか。仕事ができるとか。そんな言葉は浮かばなかった。最初に出てきたのは、その一言だった。優しい。本当に、それだけだった。「大事にしてくれるか?」「うん」「お前の気持ちにも、無理はさせていないな?」「……うん」答えるたびに、岡本蒼太の顔が浮かぶ。何かを強要されたことは一度もない。急かされたこともない。会いたくなったら、会えばいい。そんなふうに美咲が思える空気を、彼はいつも作ってくれていた。父は安心したように息を吐いた。「それなら良かった」少しの沈黙。父は箸を置き、美咲を真っ直ぐ見た。「俺のせいで」その言葉に、美咲の胸が少しだけ締めつけられる。「恋愛、怖くなったんじゃないかって思ってた」「お父さん……」「悪かったな」その一言だけだった。言い訳もしない。母を責めもしない。ただ、自分を責めていた。「俺の失敗に、お前を巻き込んだ」美咲は首を振った。「違うよ」そう言いたかった。でも。完全には否定できなかった。父も、それを分かっているのだろう。だから、それ以上は何も言わなかった。代わりに、穏やかに笑う。「でもな」父は照れくさそうに頭を掻いた。「人生一度きりだから、やって後悔するのもありだ」「……急に軽
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第26話 心を捧げて

【美咲視点】.返信はたった一言だった。【了解】それだけ。絵文字もない。スタンプもない。短すぎる返事に、美咲は思わず笑ってしまった。「本当に来るんだ……」自分から誘ったのに、今さらそんなことを思った。.週末までの数日は、落ち着かなかった。仕事中も、ふとした拍子に思い出す。鏡を見る回数が増えた。部屋を片づける時間も増えた。ソファの位置を少しだけ動かしてみたり、冷蔵庫の中身を確認したり。一人で暮らしているときには気にならなかったことばかりが、妙に気になった。そして迎えた金曜日。インターホンが鳴る。胸が大きく跳ねた。ドアを開けると、岡本蒼太が立っていた。「こんばんは」「……うん」少しだけぎこちない返事になってしまう。蒼太も少し緊張しているようだった。玄関へ入るなり、部屋を見回すこともなく靴を揃える。「お邪魔します」その姿が妙に蒼太らしくて、美咲は少しだけ肩の力が抜けた。「狭いけど」「落ち着く部屋だよ」そう言って笑う。部屋を褒められたというより、自分の選んだ空間を受け入れてもらえたようで嬉しかった。夕食を食べながら、いつもと変わらない話をした。仕事のこと。テレビで見たニュース。駅前に新しくできた店。会話は自然だった。それなのに、お互いどこか落ち着かない。きっと今日が特別だと分かっているからだ。食器を片づけ終えたあと、小さな沈黙が訪れる。美咲は深く息を吸った。「蒼太」「うん?」呼びかける。蒼太がこちらを見る。その目は、いつもと同じように優しかった。だから。美咲は一歩だけ近づいた。「好きよ」そう言って、そっと彼の胸へ飛び込む。驚いたように息を呑む気配がした。けれど、抱き締め返してはこない。腕は宙で止まったままだった。まるで、触れていいのか迷っているように。美咲は思わず笑う。「抱き締めてくれないの?」「……いいのか?」真剣な顔だった。その問いが、おかしくて。でも嬉しかった。「うん」小さく頷くと、ようやく蒼太の腕がゆっくり背中へ回る。強すぎない。弱すぎない。壊れ物を抱えるような抱擁だった。温かい。安心する。自然と目を閉じた。少しだけ顔を上げる。視線が重なる。近い。でも怖くない。美咲は背伸びをして、そっと唇を重ねた。短いキス。離れると、蒼太
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第27話 任務と恋愛

【司狼視点】 .スマートフォンが短く鳴った。静まり返った室内に、通知音だけが乾いて響く。司狼は画面に目を落とした。【連絡くれ】表示されていたのは、それだけだった。ほんの一瞬。別の名前が頭をよぎる。美咲。だが、すぐにあり得ないと分かる。今の自分の連絡先を、美咲が知っているはずがない。期待すること自体が、的外れだった。「……馬鹿か」自分に向けて呟き、司狼は立ち上がった。書斎へ移動する。無機質に整えられた部屋の中で、机の一番下の引き出しを開けた。そこには用途ごとに分けられた複数のスマートフォンが並んでいる。司狼はその中から一台を取り出した。指紋認証で起動させる。淡く光る画面を見下ろしながら、ふと自分の親指に視線を落とした。「指紋も変えたほうが……」独り言が零れる。完全に別のものに変えることはできない。だが、深く傷をつければ歪ませることは可能だ。一瞬考える。だが、すぐに首を横に振った。「いや、必要ない。“岡本蒼太”の指紋を、美咲は知らない」そう結論づけ、迷いなく発信ボタンを押す。三コールで相手が出た。「俺だ」短く告げる。電話の向こうで、一瞬の沈黙。それから、深いため息が返ってきた。『その聞き慣れない声で“俺だ”って言われても困るんだけど。俺がオレオレ詐欺に引っかかったらどうしてくれる?』赤影の軽口に、司狼は淡々と返す。「知らない。それに、声を変えてから一ヶ月だ。いい加減、覚えろ」『喉頭形成術を受けたのが一ヶ月前なだけで、まともに声が出るようになったのは二週間前だろうが。二週間で慣れるか。しかもなんだ、その声。ロクデナシな悪い男みたいだ』「あんたの声も似たようなものだろう」『元保護者で元上司にその態度はなんだ』いつものやり取りだった。だが、司狼に雑談を続ける気はなかった。「用件は?」『冷たいねえ。八課のみんな出払ってて、俺ひとりなんだよ。寂しいんだって』「くだらない。それなら切る」『おいおい』「せっかくの一日が台無しになる」その言葉に、赤影が「ああ」と納得したように声を漏らした。『今夜だったか。番ちゃんには会えた?』「会えた」短く答える。それだけで、胸の奥に熱が灯る。美咲。声に出さなくても、名前を思うだけで呼吸が変わる。さっき別れたばかりなのに。もう会いたい。もう声
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第28話 愛し方

【司狼視点】.『お前、番ちゃんとのときもそんな認識だったのか?』その言葉に、司狼は露骨に眉をひそめた。「なぜ美咲との行為と同列に語る」『やってることは同じだろ』「違う」即答だった。煙草を持つ指に、わずかに力が入る。「美咲に触れることは義務ではない」『じゃあ何だよ』答えは驚くほど自然に口をついて出た。「欲しいからだ」赤影が黙る。司狼は構わず続けた。「美咲に触れたい。抱き締めたい。笑わせたい。守りたい。傍にいてほしい。俺だけを見ていてほしい」言葉にすればするほど足りない。どれだけ並べても、本当の気持ちは表せない。「美咲とのセックスは」煙草の煙を細く吐き出す。「美咲に俺を受け入れてほしくてする」それだけだった。司狼にとって、美咲と身体を重ねることは性欲の処理ではない。美咲が自分を拒絶しないという証明。それ以上の、受け入れるという意味を持っていた。.『なら、他の女とは? それなりに遊んでいただろう』「遊んでいたわけではないが、あのときは必要だからしていた」迷いはない。「性欲が溜まれば思考も身体も鈍る。任務に支障が出る。処理は合理的だ」『立花由香利のときは?』「交渉だ。情報を得る代わりに性欲を満たすように要求されたからだ」司狼は少し考え、「それが問題か?」と付け加えた。電話の向こうで、赤影が小さく息を呑む。どうやら問題だったらしい。しかし、分からない。司狼にとって、それは食事と変わらない。空腹なら食べる。眠ければ眠る。性欲が邪魔なら処理する。交渉となるともっと簡単だ。ものを買うのと同じ。欲しいものがある。だから対価を払う。ただ、それだけ。そこに感情はない。だが。美咲だけは違う。彼女に触れるたび、鼓動が速くなる。抱き締めたい。けれど壊したくない。欲しい。でも怖がらせたくない。矛盾する感情が胸の中でぶつかり合い、理性を揺さぶる。あんなものを、他の女との行為と同じだと言われること自体が不快だった。.『司狼』赤影の声が少しだけ真面目になる。『お前にとって違うのは分かった。でも、それが誰にでも通じるとは限らない』赤影は言葉を区切った。『それは、流石に分かった』司狼は煙を吐いた。言葉としては理解できる。だが、感覚として理解できない。「なぜだ」『そこからか』
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第29話 恋愛は二人でするもの

【司狼視点】.【岡本蒼太】として潜入した拝島コーポレーションでの任務は、美咲と出会ったことを除けば、これまでの潜入と大差なかった。別課が掴み損ねた情報を拾い集める。証拠不十分で逮捕できない相手へ近づき、決定的な証拠を引き出す。それが司狼の役割だった。今回の標的――立花由香利もまた、状況証拠だけなら十分に黒だった。足りないのは、法廷で通用する決定打だけ。だから司狼は転職という形で拝島コーポレーションへ入り込んだ。能力を見せる。使いやすい部下になる。立花の信頼を得る。それは難しい任務ではなかった。ただ一つ誤算があった。美咲だった。彼女だけは、最初から計画の外にいた。.週末になると、美咲が部屋へ来る。仕事帰りに食事をする。休日を一緒に過ごす。最初は息抜きだった。気づけば、それが日常になっていた。そんなある日。立花由香利のお気に入りだった部下が退職した。空いた席へ『岡本蒼太』が収まる。当然だった。そのために近づいたのだから。立花からの連絡は昼夜を問わず届くようになった。業務連絡。相談。雑談。そして、私的な誘い。【今、何してる?】そんなメッセージにも司狼は返信した。必要だから。任務だから。それ以上でも、それ以下でもなかった。◇◇◇「はぁ?」赤影に呼び出されて八課に行くと、元同僚で雪女を先祖に持つ六花が待ち受けていた。面倒なことになりそうだと思った。そして案の定、面倒なことになっている。当時のことを話せと言ったのは六花。それなのに、頭を抱えて唸っている。「何が問題だ?」「全て。番ちゃんと一緒にいるときに他の女に返信なんて、あり得ない。なんで離席しないの?」「なぜ離れる?」司狼は本気で意味が分からなかった。「返信は十秒もあれば終わる」「そういう問題じゃない!」六花が机を叩く。「番ちゃんから見たらどう思うのよ!」「……?」司狼は首を傾げる。「仕事の連絡だぞ?」「あんたにとってはね!」六花は頭を押さえた。横で見ていた赤影が苦笑する。「六花、落ち着け」「落ち着けるわけないでしょ!」六花は深く息を吸った。「司狼。あなたにとって番ちゃんは何?」「生きる理由だ」即答だった。一秒も迷わない。「じゃあ、立花由香利は?」「任務」「……他の女は?」「他人」また即答
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第30話 死を悼む

【司狼視点】.司狼が案内された部屋に入ると、隣の取調室が一方向ミラー越しに見えた。蛍光灯の白い光が、机と椅子を無機質に照らしている。その向こう側に、立花由香利が座っていた。髪は乱れ、顔色は悪い。以前のような自信に溢れた姿はどこにもなかった。司狼の隣に立つ赤影が低く言った。「岡本蒼太が死んだと伝えたら崩れた」司狼は黙ってミラーの向こうを見る。崩れた。確かに、そう見えた。刑事が静かに促す。「岡本蒼太との関係を、もう一度話してください」立花由香利はしばらく口を開かなかった。だが、やがて掠れた声で言う。「……分かっていました」「何をですか」「私がしていたことが、違法だということです」立花由香利は指先を組み替える。爪が机をかすかに叩いた。「でも、必要だったんです。組織のために。会社のために。私の立場を守るために」言い訳のようで、言い訳になっていない言葉だった。「部下には、これまでも協力させました。理由は言わず、疑問も許さず。ただ、やるべきことをさせた。みんな不満そうでした。でも、代わりはいくらでもいた」そこで立花由香利は、ほんの少しだけ顔を上げた。「でも、蒼太は違った」空気が変わる。「私が何を命じても、あの人は顔色一つ変えなかった。嫌がる素振りもない。疑問もない。ただ、必要だから処理する。まるで、私の考えを最初から理解しているみたいに」司狼は表情を動かさない。理解していたわけではない。任務だから応じていただけだ。だが、立花由香利はそう受け取っていなかった。「恋人がいることは知っていました」立花由香利の声に、わずかな棘が混じる。「会社でも噂になっていました。彼から告白したって。おかしいでしょう? 蒼太みたいな人が、あんな女を選ぶなんて」(……あんな女)その言葉に、司狼の目がわずかに細くなる。赤影が横目で司狼を見た。「調べました。花邑美咲のこと。学歴も、職歴も、家族も。全部。私より下だった」立花の唇が歪む。「だから分からなかった。蒼太が、どうしてあの子を選んだのか。でも、メッセージを送れば返ってくる。どんな時間でも。私が求めれば拒まない。仕事も、体も、全部、彼は私の望むようにしてくれた」彼女は笑った。壊れかけた笑みだった。「だから、思ったんです。蒼太にとって本当に必要なのは私だって」
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