LOGINかつて、彼が欲情したとき、いつもこういう声で自分を呼んだのだ。でも、今彼はケガ人だし、自分もまだ本調子じゃない。こんな状況でそんなことになるなんて、絶対にありえない!そう思ったが、何気なく視線を下にやった桜は、息をのんだ。そこに眠っていたはずの彼の熱が、目を覚ましていたのを目にしたから……桜の顔はカッと熱くなり、慌てて彼女は視線を逸らし、床の一点を見つめた。「は、離して!タオル、洗ってくるから」だが、安人はため息交じりに言った。「なあ、桜」その低くかすれた声には、どこか困ったような響きがあった。「これは看病じゃなくて……俺を誘ってるんだろ」そんなわけないでしょ!ただ体を拭いていただけなのに、彼にスイッチが入るなんて思ってもみなかった……そう思うと、桜は泣きそうになりながら顔を上げ、キレイな目で彼を睨みつけた。「そっちが変なこと考えてるだけでしょ!」すると、安人は薄い唇をあげて、ふっと笑った。「ああ、そうだな。俺がスケベなんだ」突然、彼は桜の細い腰に手を回し、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。桜は不意を突かれ、彼の膝の上にすとんと座らされる形になった。さらに、何が起きたか理解する前に、顎をぐっと掴まれてしまった。次の瞬間、彼は顔を傾け、彼女のわずかに開いた唇を貪るように塞いだ。桜が驚いて目を見開いた。その隙に、彼の舌に唇をこじ開けられて、口の中へと侵入されてしまったのだ……「ん……安人……んんっ」唇をきつく塞がれ、桜の声は彼の強引なキスにすべて飲み込まれてしまった。何ヶ月も離れていたせいだろうか。体は言葉よりもずっと正直だった。最初は理性を働かせて安人を止めようとした桜だったが、あっという間に、彼の腕の中で力が抜けてしまった。閉ざされた目はまつ毛がかすかに震え、目じりが潤んでいた。安人は彼女の唇を離すと、今度は柔らかい耳たぶを含み、舌を絡ませて吸い付いた……一方、桜はただ無意識に、彼の胸もとをぎゅっと掴むことしかできない。濡れたタオルはいつの間にか床に落ちていて、部屋は甘く切ない空気で満たされていた。どうすれば彼女が喜ぶのか、安人は知り尽くしていた。病室だからだろうか、桜はいつもより緊張しているようで、ひどく敏感だった。彼に吸われて赤く腫れた唇が少し開き、呼吸が速くなる。堪えきれないよ
一方、安人が手当てを受けていると、綾から電話がかかってきた。ネット上のデマは、まだうまく収束させられていないみたいだった。桜がなかなかコメントを出さないせいで、ネットでは鬱で自殺したという噂まで広まっていた。綾は状況を説明してから、「桜ちゃんは目を覚ました?」と尋ねた。「起きましたよ」安人は声をひそめて言った。「ご心配なく。ネットの件は俺がなんとかしますから」「お願いね。でも、何よりも桜ちゃんの気持ちを優先してあげて。わかった?」「わかっています」電話を切るとすぐに、安人は新太に電話をかけた。「石原の今までのスキャンダルを全部ネットに流せ」……安人の手当てが終わると、ちょうど新太が手配した着替えが届いた。夏帆がスーツケースを受け取り、病室まで運んでくると、安人は、今夜は自分が付き添うからと言って、夏帆と寧々に宿泊先へ戻るよう促した。怪我人の安人と、衰弱している桜。二人きりにしておくのは少し心配だったが、自分たちがここに残ってもお邪魔虫になるだけだ。そんなわけで、夏帆と寧々は結局、撮影現場に戻っていった。二人が帰った後、安人はスーツケースを開けた。今日は急いで着替えただけで、まだ体をちゃんと洗えていない。海水は乾いたものの、肌のべたつきがずっと気持ち悪かった。もう我慢の限界だった。安人はスーツケースから綺麗な着替えを取り出し、車椅子を動かしてバスルームへ向かった。「待って」桜は慌てて彼を呼び止めた。「その足で、どうやってシャワーを浴びるの?」「大丈夫だ」安人は平然としていた。「だめ!」桜は布団をめくりあげ、ベッドから降りようとした。それを見た安人は慌てて彼女を引き留めた。「何をする気だ?」「手伝うに決まってるでしょ!」安人は言葉を失った。「どうしたの?」桜は、さも当然といった顔で彼を見つめた。「私たち、付き合ってるんでしょ?しかもその足の怪我は、私のせいじゃない。だったら私が手伝ってあげても問題はないでしょ?」しかし、安人はごくりと喉を鳴らし、気まずそうに言った。「そこまでしてもらうほどじゃない。ただシャワーを浴びるだけだ」「シャワーを浴びたら、足の包帯が濡れちゃうでしょ」桜は言う。「私が体を拭いてあげる。髪は自分で洗えるでしょ?」安人は一瞬ためらい、彼女をじっと見
桜は真剣な表情で、まるで神に誓いを立てるかのように、強い眼差しを向けていた。それを聞いて、安人はスマホを取り出し、信用できないという顔で言った。「口約束だけじゃダメだ。桜、君には前科があるからな。だから、ちゃんと証拠を残させてもらう」桜は彼の手にあるスマホを見て、すぐにその意味を察した。少し気まずかったけれど、彼女は頷いた。「いいよ」それから、安人は録画のボタンを押すと、スマホを桜に向けた。「さっき言ったこと、もう一回言ってくれ」すると、桜は息を深く吸い込み、一呼吸を置いてから、さっきの言葉を真剣にもう一度繰り返した。安人はその動画を保存すると、スマホをしまった。それを見て、そばにいた夏帆は、笑いを堪えきれない口元を桜に見られないように、さらに深く頭を下げた。一方、寧々はずっと、状況が飲み込めていない様子だった。彼女は夏帆を見て、次に安人を見て、最後に桜に視線を向けた。何かがおかしいとは思うものの、すぐには頭が追いつかなかった。考えても分からないので、彼女は考えるのをやめた。とにかく、桜と安人が仲直りしたならそれでいい!……その晩、安人と桜は一緒に夕食をとった。夕食を食べ終えると、ちょうど7時半だった。看護師がノックして入ってきて、ベッドサイドにいる安人に目を向けた。それから、看護師はにこやかに言った。「碓氷さん、足の傷の処置をする時間ですよ。処置室までお願いしますね」その言葉に、水を渡そうとしていた安人の手が止まった。桜も何かがおかしいと感じ、眉をひそめて安人を見た。「足の傷?」すると、夏帆も横でバツが悪そうに頭を掻いた。片や、まだ状況が飲み込めていない寧々が近づいてきて、なにげなく桜に言った。「そうよ。碓氷さん、あなたを助けるために左足の裏を十数センチも切ったんだから。じゃなきゃ、車椅子になんて乗ってないでしょ!」それを聞いて、桜は言葉を失った。一方、安人はコップを寧々に渡して言った。「彼女のこと、頼む。すぐ戻るから」そして、夏帆も慌てて駆け寄り、安人の車椅子を押して足早に病室から「逃げる」ようにして出て行った。夏帆がものすごい速さで車椅子を押していくのを見て、寧々はため息をついて言った。「碓氷さん、本当にあなたのことが大好きなのね。あなたが意識不明の時、看護師さ
一生懸命思い出そうとしてみたものの、安人に抱きついて泣いたのは覚えている。でも、キスをしたなんて……どうして覚えてないんだろう?とはいえ、最近記憶があやふやなのを桜も自覚していたので、実際のところどうだったか、確信をもてなかったのだ。だから、彼女はただしょんぼりと「ごめんなさい、わざとじゃないの」としか言えなかった。その言葉を聞いて、安人は呆れたように笑った。「桜、君はごめんなさい以外に言うことはないのか?」桜は唇を噛み、目を伏せて、彼の顔を見られなかった。だが、安人は彼女を見逃そうとしなかった。彼女が自分の心と向き合えるように、これまでどれだけ努力してきたか。それなのに、これで全部振り出しに戻ってしまった。だけど、今の状況は以前とは違う。安人はもう、じっくり時間をかけるような悠長な手を使うのはやめることにした。それに、今の桜にはそのやり方はもう適していないことが明らかだから。彼はやり方を変えるしかなかった。そう思って、少し目を細め、彼は分厚い包帯が巻かれた自分の足に視線を落とした。そして、ふと眉を上げた。「もういい」静かな病室に、彼のため息が響いた。桜はきょとんとして、安人を見上げた。安人は彼女を見つめ、口の端を少し上げた。「俺がいると心置きなく休めないみたいだな。じゃあ、邪魔はしないよ」桜は息をのみ、何か言い訳しようと口を開いた。でも、安人はもう背中を向けていた。その時になって、桜はようやく安人が車椅子に乗っていることに気づいた!「安人!」桜は慌てて体を起こし、点滴の針も構わず、彼の腕を掴んだ。その瞬間、勢いよく動いたせいで、手の甲の針から血が逆流してしまった。「何をしてる!」安人は慌てて彼女の手首を掴み、厳しい声で言った。「早く手を離せ、血が逆流してるぞ」しかし、桜は自分の手のことなんて気にしていなかった。彼女はただ、心配の色を露わに、安人を食い入るように見つめた。「安人、答えて。一体どうしたの?」安人が口を開く前に、物音を聞きつけた寧々と夏帆が慌ててドアを開けて入ってきた。「どうしたの?」寧々はベッドのそばに駆け寄り、目が赤くなった桜が安人をじっと見つめているのを見て、二人がまた喧嘩しているのかと思って、宥めようとした。「桜、落ち着いて。ちゃんと話せばわか
桜の胸がきゅっと締め付けられ、ついにこらえきれなくなった。ゆっくりと目を開けると、その真っ赤になった瞳と不意に安人の漆黒の瞳と、視線がぶつかった。そして、目が合った瞬間、桜の鼻の奥がツンとして、涙が堰を切ったようにあふれ出てきた。「ごめんなさい」彼女の声はかすれて震えていた。本当はそれ以外に何て言えばいいのか、彼女自身も分からなかった。彼女が泣き出すと、安人は胸がえぐられるような痛みを感じた。彼は強張った表情で手を伸ばし、その指先で優しく彼女の涙を拭ってあげた。「怖がらなくていい。俺がいる。もう誰にも君を傷つけさせない」その言葉を聞くと、桜はもう我慢できなかった。彼の胸に飛び込んで、声を上げて泣きじゃくった――……ここにきて、桜はついに、この数日間心に溜め込んできた感情のすべてを吐き出した。安人は彼女をしっかりと抱きしめ、自分の胸の中で思う存分発散させてあげた。人間はもともと感情豊かな生き物だ。感情は解放してあげるべきで、無理に抑え込むのはかえって逆効果になる。もともと桜は、精神的に強い子じゃない。繊細で自分に自信がなく、マイナスの感情をうまく消化できないタイプなのだ。1ヶ月も我慢を続けたことで、もう限界を超えていた。だから、安人は何も言わず、彼女が一度にすべてを吐き出せるようにしてあげた。だが、桜は泣きじゃくった末に、とうとう咳き込み始めてしまった。安人は慌ててテーブルの上の水筒を手に取り、蓋を開けて彼女の口元へ持っていった。「ほら、お水を飲みなさい」桜はしゃくりあげながら、濡れた瞳で彼を見上げた。彼女に見つめられて安人は根気強く宥めて言った。「お水を飲んだら、喉も楽になるから」桜はそれでようやくうなずき、おとなしく水を何口か飲んだ。水で乾燥してかゆかった喉を潤し、咳も次第に止まった。一旦泣き止んだものの、桜の顔にはまだ涙の跡があった。さらに熱のせいで青白かった顔色も赤くなっていた。安人は彼女の涙を拭ってあげると、続けて宥めた。「よし、もう泣くな。まだ熱があるんだから、これ以上泣いてまた熱が上がってきたらどうするんだ」桜はこくりと頷いた。泣き疲れたのか、体中がだるかった。安人は彼女を支え、ゆっくりとベッドに横にならせた。それからまもなく、彼女はまた意識が朦朧として眠りに落ち
安人が病室の前に着くと、ちょうど中から医師と看護師が出てきたところだった。医師は安人に気づくと、軽く会釈した。「碓氷さん」安人も医師に返事をすると、続けて尋ねた。「彼女の容体はどうですか?」医師はありのままに答えた。「肺の炎症は落ち着きました。まだ少し熱はありますが、心配いりません。肺炎はこういう経過をたどるものですよ。炎症を抑える治療をあと1週間ほど続ける必要があります」それを聞いて、安人は淡々と頷いた。体の問題は治療すれば治る。でも、本当に厄介なのは心の問題だ。医師と看護師さんが立ち去ると、安人は夏帆に車椅子を押されて、病室に入った。その時、病室では、寧々が入り口に背を向け、桜の体を起こして解熱剤を飲ませているところだった。薬を飲み終えた桜は、また横になった。意識はあるものの、どこか上の空といった様子だ。寧々はしきりに話しかけていたが、桜の反応は薄かった。目を覚ましてからずっとそうだ。寧々が話しかけても、桜は彼女を見つめ返し、しばらくしてからやっと反応するのだ。それも、かすかに微笑むか、ごく短い言葉を返すだけで、ひたすらぼーっとしたままだった。寧々は、桜さんの精神状態が危ういことに気づいていた。子供の頃のトラウマに、美雨が意図的に再現したシナリオが重なり、何度も絶望的な状況に追い込まれていたのだから、普通で居られるはずがないのだ。むしろ、彼女が今までよく耐えてこられたのが、すごいと思わずにはいられないくらい。それと同時に、寧々は自分を責めていた。友達としても、アシスタントとしても、桜が心身的に受けたダメージにいち早く気づいてあげられなかったから。今回の件で、寧々は改めて痛感していた。桜にとって、安人がどれだけ大切な存在なのかを。だから寧々は安人に電話したとき、桜の今の状態を詳しく話したのだ。その連絡を受け、安人もまた病院へ向かう途中、すでに専門のカウンセラーを手配してくれたようだから、おそらく、次の日の午後には来てもらえるだろう。それまでの間、寧々は安人にすべての望みを託していた。寧々には、安人がそばにいてくれることこそが、どんなカウンセラーよりも効く薬だと思えたからだ。……そう思っていると、車椅子の車輪が床をこすり、かすかな音が聞こえてきた。コップを手に振り返った寧々は、安
「誰もあなたを責めてない」浩平はため息をついた。「いったん手を放してくれ。二階に車のキーを取りに行ってくる」それを聞いて、蛍はゆっくりと手を離すと、心細そうに彼を見つめた。「あなたが病院に送ってくれたら、詩乃さんはどうするの?」「花梨さんがついてるから大丈夫さ」浩平はそう言って部屋を出ると、急いで二階へ向かった。そして二階にあがると、浩平は部屋のドアをあけて入っていった。すると詩乃は体を起こして尋ねた。「彼女はどうだった?」「酷い熱だ。うわ言まで言ってる」浩平は引き出しから車のキーを取り出すと、詩乃を見て言った。「市内の病院に連れて行くから、少し時間がかかるかも。俺のことは
「さっきのは、わざとじゃないの。あの子が怒ってるのを見て、ただ止めようとしただけなの。そしたら、うっかり足が絡まっちゃったの......神様に誓うよ!」由理恵はそう言うと、本当に手を挙げて誓った。「お母さんの言ってることは全部本当よ。もし今日の言葉に一つでも嘘があったら、天罰が下ってもいい。誰からも見放されて、身寄りなく死んだって構わないから!」それを聞いて浩平はただ、悪びれる様子もなく嘘をつく由理恵の顔を見ていた。そして、今ここで彼女のついた嘘を簡単に暴いても、なんの意味もないだろうと思った。それに多分、こうして真正面から由理恵の嘘を暴くだけでは、彼女は自分がどれほどとんでもない
12月5日、輝と音々の結婚式までいよいよ秒読み段階に入った。星城市にある岡崎家は、すでに賑わいを見せていた。岡崎家の跡取り息子である輝の結婚式は、盛大に執り行われることが決まっていた。輝の両親はビジネスで幅広い人脈を持っており、披露宴の招待客は150卓を超える予定だった。星城市で一番大きな結婚式場が、岡崎家によって貸し切られていた。しかし、主役である輝と音々はまだ北城にいた。本来なら輝はとっくに岡崎家に戻っていなければならないのだが、音々と息子に会いたくて北城に留まっていて、何度説得しても、彼はどうしても帰りたがらなかった。音々は、岡崎家の跡取り息子として、こんなに
「池田咲玖......」音々は眉をひそめた。「他に何か分かったの?」「亡くなって32年も経つのに、まだ番号が使われているなんて、おかしいですわ。同姓同名の人かもしれません。もう一度調べてみますね」「ああ、よく調べて。細心の注意を払って」「わかりました」電話を切ると、音々はスマホを置いて、洗面所に入って顔を洗った。わざわざ自分に電話をかけてきて、あの歌を知っているなんて......きっと自分の出生の秘密を知っている人物だわ。知っているだけじゃない。自分が孤児になったことにも、関わっているかもしれない。音々は顔を上げて、鏡に映る自分を見つめた。水滴が頬を伝い、洗面台







