神父と白い野獣

神父と白い野獣

last updateLast Updated : 2026-07-19
By:  あともすUpdated just now
Language: Japanese
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14世紀イングランド。人質として過ごしている村の教会で司祭として過ごす【アーサー・クロムウェル】は、聖職者としての自分と伯爵の私生児としての素性、無力な現実のはざまで苦悩していた。ある嵐の夜、白い獣と呼ばれる異形の流浪人【ウルフ】と出会うまでは──。 二人の結託を知った村の代官【トーマス・バートン】は、二人を引き離すべく、ウルフが彼が呪われた存在だという噂を流して排除しようとする。 伯爵令息と異形の流浪人の立場を超えたデコボココンビと仲間たちは、この苦難をどうやって乗り切るのか。アーサーとウルフの関係はどうなるのか!?

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Chapter 1

#1.プロローグ:未来から過去へ、過去から未来へ

「大丈夫。ウルフがいるから」

 少しだけ不安そうなルーシーにアーサーが優しく笑いかけると、彼女はハッと目を瞬かせた。

「お前はいつも、それを当たり前みたいに言うな」

 それを聞いたウルフは呆れたように言ったが、アーサーの信頼を拒みはしなかった。

***

 三人はカンタベリー巡礼のため、ロンドン方面へ向かって旅をしていた。

 けれど、テムズ川にかかるメイデンヘッド橋へ着いて、三人は目の前の光景に顔を見合わせた。

 古い木橋の前には、長い列ができていた。荷車は一台ずつ、橋を壊さないようにゆっくりと進んでいる。馬の鼻先は前の荷台に届きそうで、行商人も巡礼者も、諦めたように足を止めていた。

 ウルフは橋の上と列の先を見比べ、低く息を吐いた。

「今日はもう昼をとっくに過ぎている。この調子では、今日中に向こうへ渡れても、宿場に入る頃には日が落ちているだろう」

「そうなると、日のあるうちに宿を取るのは厳しいかもね」

 アーサーも同じように橋を眺めては、うーんと唸って腕組してから、思いついたように提案する。

「じゃあ、今日はこの手前で野営にしよう。朝早くから並べば、明るいうちに向こうへ行けるよ」

「野宿、するの……?」

 まだ旅慣れないルーシーは、森の闇夜を思い出して、少しだけ声を落とした。

 アーサーはウルフの背について行く足を止めると、振り返って優しく笑いかける。

「さっきも言っただろ。ウルフがいるから大丈夫だよ」

「だから、俺を理由にするな」 

 ウルフは肩越しにそう返した。

「取り敢えず、俺は野営場所を整えておく。お前たちは薪と、食えそうなものでも探してこい。あまり遠くへ行くなよ」

「分かってるよ」

 アーサーが明るく答えると、ウルフはもう一度橋の方を見やり、それから街道を外れて川辺の方へ歩いていった。

 日が傾き始めた頃、アーサーとルーシーが野営地へ戻ると、焚火の支度だけはすでに整っていた。乾いた枝が組まれ、鍋をかける場所も作られている。

 けれど、そこにウルフの姿はなかった。

「あれ。居ない……ねえルーシー。火を見ていてくれる?」

 アーサーは集めてきた薪を下ろしながら言った。

「どこ行くの、アーサー?」

「僕、ウルフを探してくる。そんな遠くにはいないと思うんだけど……」

「わかった。私はご飯作ってるから気を付けて行ってきてね」

「うん、ありがとう」

 ルーシーの声を背に、アーサーは川の音を頼りに木立の奥へ入った。

 橋や街道のざわめきは、少し離れるだけで薄れていく。あしの葉が風にこすれ、湿った土の匂いが足元から立ちのぼった。

 やがて、水を叩く音が聞こえた。

 アーサーが草を分けて覗き込むと、浅瀬に白い背中があった。

 ウルフは腰に布を巻いただけの姿で川に入り、両手で水面を探っていた。濡れた白髪が肩に貼りつき、日に焼けにくい肌の上には、古い傷の跡がいくつも淡く浮かんでいる。

 夕焼けの色を受けてなお、白く輝く美しい体に、アーサーは思わず見とれてしまい、暫しその場に立ち尽くしてしまう。だが間もなく、自分がウルフを探しに来たことを思い出し、彼に声を掛けた。

「ウルフ、魚、獲ってるの? 水、冷たくない?」

 アーサーが声をかけると、ウルフは振り返りもせずに言った。

「夕飯、羊の餌みたいな草と木の実だけでいいのか?」

「それは淋しいな。だったら、僕も魚るの手伝おうか?」

「はっ……どうせお前には獲れまい」

「決めつけが早いなあ」

 相変わらず子ども扱いのウルフの皮肉にアーサーは肩を竦めると、続けて声が掛かる。

「と言うか、川まで来て泥だらけの足で戻る気か。水が温かいうちに体を洗っておけ」

「そう言えば、そうだね……そうするよ」

 アーサーは素直に靴を脱ぎ、裾をたくし上げた。そして身に着けていた濡れて困るものを岸へ置いてしまうと、思い切って上着まで全部脱いでしまった。

 ウルフの真似をしてほぼ全裸になったアーサーが、そろそろと川へ足を入れた瞬間、思ったより冷たい水に声が出た。

「冷たっ」

「大げさだ」

 膝まで水に浸かって体をビリビリと戦慄かせているアーサーを、ウルフは呆れたように鼻で笑った。

「ウ、ウルフは平気なの?」

「騒ぐほどではない」

 そう言いながら、ウルフは素早く手を沈めた。水が跳ね、次の瞬間には銀色の魚が彼の手の中で暴れていた。

 魚を掴む、その鮮やかな手さばきにアーサーは思わず笑った。

「すごい。本当に手で獲れるんだ」

「見てないで手を動かせ。コツを掴めばすぐ出来るぞ」

「じゃあ、僕はこっち」

 アーサーは水をすくい、ウルフの背中へ軽くかけた。

 ウルフがゆっくり振り返る。

「おい。魚を取りに来たんじゃなかったのか?」

「ごめん。ちょっとやってみたくなって」

「子どもか。少し前までお偉い司祭殿をやっていたとは思えないな」

 皮肉と共に低い声で睨まれたが、その目は本気で怒ってはいなかった。

 アーサーは笑いながら、今度は自分の腕についた泥を洗い落とした。

 自分とは違う、ウルフの白い髪。白い肌。傷の残る背中。

 初めて見た者なら、そこに恐れを覚えるのかもしれない。村の人々がそうだったように。

 けれどアーサーは、彼のその類を見ないほどの肌の白さを不吉なものとして見たことは一度もない。

 大きく頼もしい背中が隣にいれば、アーサーは夜の森でも眠れる。

 水音の中で背を向けられても、置き去りにされたとは思わない。

 それが、少し不思議だった。

「アーサー、ウルフ……」

 木立の向こうからルーシーの声がした。

「お鍋、できた……わ!?」

 草を分けて現れたルーシーは、浅瀬の二人を見た途端、言葉を詰まらせた。頬が見る間に赤くなる。

「ちょっと、裸じゃない! 早く川から出ないと体冷やしちゃうわ!」

「すぐ戻るよ」

 アーサーが平然と答える横で、ウルフは獲った魚を片手に岸へ上がった。

「何を慌てている。飯にするぞ」

「う、うん」

 濡れた腰布や肌を気にする様子もなく岸へ上がる二人の姿に、ルーシーは目を伏せたまま頷いた。

 野営地へ戻ると、焚火は赤く育っていた。

 魚が串に刺され、火のそばでゆっくりと焼けていく。川の匂いと煙の匂いが混ざり、夕闇の中でウルフの白い髪だけが淡く浮かんで見えた。

 アーサーは自分の濡れた髪を拭きながら、その横顔を眺めた。

 この旅が始まる前、自分たちはまだ、こんなふうに同じ火を囲んではいなかった。

 彼の白い姿に誰もが怯えていたし、まるで歩く厄災のように噂をし、アーサーも近づくことを許されなかった。

 それでも、あの嵐の夜、アーサーは運命的にウルフと出会ったのだ。

 雨から逃れようと教会のひさしの下でずぶ濡れで蹲っていた、ウルフという、一人の流浪人に──。

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#1.プロローグ:未来から過去へ、過去から未来へ
「大丈夫。ウルフがいるから」  少しだけ不安そうなルーシーにアーサーが優しく笑いかけると、彼女はハッと目を瞬かせた。「お前はいつも、それを当たり前みたいに言うな」  それを聞いたウルフは呆れたように言ったが、アーサーの信頼を拒みはしなかった。*** 三人はカンタベリー巡礼のため、ロンドン方面へ向かって旅をしていた。  けれど、テムズ川にかかるメイデンヘッド橋へ着いて、三人は目の前の光景に顔を見合わせた。  古い木橋の前には、長い列ができていた。荷車は一台ずつ、橋を壊さないようにゆっくりと進んでいる。馬の鼻先は前の荷台に届きそうで、行商人も巡礼者も、諦めたように足を止めていた。  ウルフは橋の上と列の先を見比べ、低く息を吐いた。「今日はもう昼をとっくに過ぎている。この調子では、今日中に向こうへ渡れても、宿場に入る頃には日が落ちているだろう」「そうなると、日のあるうちに宿を取るのは厳しいかもね」 アーサーも同じように橋を眺めては、うーんと唸って腕組してから、思いついたように提案する。「じゃあ、今日はこの手前で野営にしよう。朝早くから並べば、明るいうちに向こうへ行けるよ」「野宿、するの……?」 まだ旅慣れないルーシーは、森の闇夜を思い出して、少しだけ声を落とした。  アーサーはウルフの背について行く足を止めると、振り返って優しく笑いかける。「さっきも言っただろ。ウルフがいるから大丈夫だよ」「だから、俺を理由にするな」  ウルフは肩越しにそう返した。「取り敢えず、俺は野営場所を整えておく。お前たちは薪と、食えそうなものでも探してこい。あまり遠くへ行くなよ」「分かってるよ」 アーサーが明るく答えると、ウルフはもう一度橋の方を見やり、それから街道を外れて川辺の方へ歩いていった。  日が傾き始めた頃、アーサーとルーシーが野営地へ戻ると、焚火の支度だけはすでに整っていた。乾いた枝が組まれ、鍋をかける場所も作られている。  けれど、そこにウルフの姿はなかった。「あれ。居ない……ねえルーシー。火を見ていてくれる?」 アーサーは集めてきた薪を下ろしながら言った。「どこ行くの、アーサー?」「僕、ウルフを探してくる。そんな遠くにはいないと思うんだけど……」「わかった。私はご飯作ってるから気を付けて行ってきてね」「うん
last updateLast Updated : 2026-07-09
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#2.第一話「これが、僕の四角い世界」①
 時は14世紀、1320年代のイングランド。  イングランド王エドワード二世の寵臣政治は終わりを告げ、今はわずか十五歳の若きエドワード三世が即位していた。しかし、国政の実権は、母であるイザベラ王太后と、その愛人ロジャー・モーティマーによる摂政体制が握っている。  中央政府の政治腐敗は深まるばかりで、そのしわ寄せが哀れな庶民に重くのしかかる。  人々が未来への希望を持てず、ただ息を潜めて生きるしかなかった、そんな世の五月──……。 肌寒い晩春の森を、白い影がゆっくりと通り過ぎて行く。  それは、厚みのある白い革のフードを目深に被った一人の男だった。フードから覗くのは老人のような白髪だが、その下の肉体は、老人とはかけ離れた若々しく、屈強なものだ。  丈夫そうだがボロボロの長袖から伸びる腕の皮膚は日差しに透けるように白く、この温かな森の中では不自然に残された残雪のようであったが、彼一番の特徴である白いフードを纏う事でその異様さは幾分か軽減されていた。  しかし背中には膨らんだ荷物袋、腰には二本のナイフを提げた姿は別の険しい雰囲気を纏っており、何も知らない旅人が薄暗い時分に彼に遭遇すれば、きっと魔物と間違えるだろう。  だから男は不必要に夜を歩かないことを心に決めている。移動は昼間のみだ。  ふと、男の真上を一羽の隼が地上を見下ろして過っていった。  隼の存在に気を取られた男は、一瞬だけ歩みを止めた。 「あれは、野生ではないな……」  あっという間に飛び去った隼に対し男はそんな感想を述べつつ、空にはもう何もないことを確認すると、男は再び静かに歩き始めた。*** 空から滑空した隼は間も無く、濃い緑のチュニックに身を包んだ青年アーサー・クロムウェルの左手に止まった。  彼は、待ち構えていたように逆の手でご褒美の餌を与え、隼の柔らかな羽毛の胸を優しく撫でた。 「お帰りノヴァ。でも、お土産は無いみたいだね」  ノヴァと呼ばれるメスの隼は、アーサーが少年の頃に父が唯一与えた贈り物だ。狩りは下手だが、飼い主にはとても良く懐いている。  折角空に放ったのに狩りをせず空中散歩だけで帰ってきたペットの様子にアーサーは少し残念に思いつつ、ノヴァの小さな頭に目隠しのフードを被せてしまった。  アーサーの本業は教区司祭だ。もう
last updateLast Updated : 2026-07-09
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#3.第一話「これが、僕の四角い世界」②
 教会から信者たちが去るのを確認すると、アーサーは教会関係者達の居住である司祭館に戻るとジャイルズ司祭長の部屋へ向かい、今朝の出来事を報告した。 老司祭長は代官(トーマス)の勝手な振る舞いを聞くと、顔を曇らせて申し訳なさそうに謝った。 「すまないね、アーサー。私がもっとしっかりしていれば、お前をあんな辛い目に合わせることもなかったのに」  ジャイルズはベッドに座ったまま、背中を丸めた。 「私が引退せずここに残り、お前たちに目をかけているのが面白くないのだろう。せめて正式にクロムウェル家の人間として司祭長になっていれば、トーマスももう少し遠慮しただろうに…情けないよ」  ジャイルズは元々、教会の後援者が替わる前からここにいたペンストレイト領の司祭だ。大人たちの事情で送られてきたアーサーと母を案じ、引退を撤回して彼らを支え続けてくれており、アーサーはその恩義に深く感謝している。 「いいえ、ジャイルズさん」と、アーサーはかぶりを振った。「ペンストレイト領だったこの村で、急に僕のような私生児が伯爵の名代で送られてくるなんて、メチャクチャですよ。村の人が納得できないのは当然です。それを立場を超えて取り持ってくださったのは、ジャイルズさんのおかげです。僕が頼りないばかりに、いつも心配ばかりかけてごめんなさい」  本当はアーサーはクロムウェル家の人間としてもっと堂々と振る舞うべきなのだろう。そうすれば、代官トーマスに好き勝手言われずに済む。だが、相手はこの村の代官であると同時に、幼い頃から師事した人物だ。アーサーはどうしても気後れしてしまうのだ。 「お前は本当にいい子だよ。ただ、優しすぎる。しかし、ここはもうクロムウェルの教会だ。トーマスに何か言われても、もっと強気に跳ね返していいんだ。お前にはそれができる強さがある。勇気を持ちなさい」  ジャイルズは優しく微笑んだ。「だが、その優しく素直なところが、ペンストレイトとかクロムウェルとか関係なく、私がお前とエレイン様を支えたいと思った理由なんだよ」と言葉を続けた。 「ジャイルズさん……」  項垂れたアーサーのくせ毛の頭に、老人の節くれだった手が優しく載せられる。その温かい感触が、無力感に沈んでいたアーサーの心に、再び頑張る活力を取り戻させた。 聖ヒュー教会の司祭として、一日の最初にすべき公務を全て済ませたアー
last updateLast Updated : 2026-07-09
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#4.第一話「これが、僕の四角い世界」③
 代官夫人ヘレナが月に数度開く「淑女の集い」は、元貴族の女たちが、自分たちの失われた地位を再現するための「貴族ごっこ」だった。それは、厳格なマナーと閉鎖的な空間を持つ閉じた劇場であり、その指導を完璧にクリアした者には、立身出世の切符が与えられる。  アーサーは、そんな場でただ一人の男性参加者だった。正式な社交界には出られない私生児の彼にとって、ここは貴族のマナーを実地で学ぶ数少ない練習の場だったのだ。 代官邸の応接間であるパーラーの扉が開かれ、正装を身にまとったアーサーが入室した瞬間、その場にいた女たちの視線が一斉に彼へと注がれた。  昼間でも若干薄暗い室内で、普段の地味な司祭服からは考えられないほど端正なその姿は、場の空気を一変させた。深いフォレストグリーンの上着の輝きは木漏れ日のようであり、肩より上の深紅の帽子(シャペロン)の赤は、彼の内に秘める情熱のように鮮やかだ。  アーサーはシャペロンを脱いで従者に渡すと、優雅な歩みで進み出て、主宰であるヘレナの椅子に手を掛け、静かに引いた。 「どうぞお座りください」  その姿に見惚れていたヘレナは、声を掛けられるとハッとして、慌てて席へと座った。  それを皮切りにアーサーは順々にテーブルに沿って並べられた席を引き、女たちを座らせると、最後にヘレナの側にある席に戻って自分も腰掛けた。  スラリと姿勢良く腰掛けた横顔は、大人びた髪型と相まって伯爵令息の名に恥じない紳士そのものだった。それでいてそばかすの散る頬には少年のあどけなさが残り、それが女たちの母性をくすぐるのだ。  飾られた人形を愛でるようにアーサーの顔を見ていた夫人の一人は、彼の明るい緑の眼差しと、ニコリとした微笑みを返されてしまい、思わず慌てて視線を逸らし扇子で顔を隠した。  すっかり場の空気を持って行ってしまったアーサーの様子に、ヘレナは面白くなさそうに内心ムッとした。彼女は小さく咳払いをして、声を上げる。 「皆様。本日はお日柄も良く、無事『淑女の集い』を開催できたことを嬉しく思います。人々の手本となる成熟した女として、美しく優雅にお楽しみくださいませ」  乾杯の音頭と共に宴はゆったりと始まった。 ヘレナが優雅に声を上げると、お茶と菓子が運び込まれ、ようやく歓談が始まった。だが、その会話は表面的な美しさと裏腹に、アー
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#5.第一話「これが、僕の四角い世界」④
 ミサを終え儀礼用の衣装を脱いで、普段着になったアーサーは一人、息を吐いた。  やっと本当の意味で自分に課せられた一日の重い役目から解放されたと言う、これ以上ないほどの安堵に包まれた。 「お疲れ様です。アーサー様」 「うん、ピーターもお疲れさま。今日もありがとう」  アーサーが着ていた儀礼服の抜け殻を抱えたピーターの労いにアーサーは上の空で頷くと、足早に教会を後にして居住区である司祭館へと向かい階段を上がる。  向かう先は病床の司祭長ジャイルズの部屋ではなく、自室よりも奥に、隠れるように配置された小さな部屋だった。  小窓も無い扉をノックもせずに開けて中に入ると、そこにはアーサーの母エレインが居た。  そこは私生児を生んだ女として公式的には居ないものとされ、隠れるように暮らす事を強いられているエレインの自室であった。  誰も来ない内に扉を閉め、背中で深く息を吐き出す。そこでようやく、アーサーは顔に張り付いていた『若き司祭』の仮面を剥ぎ取ることができた。 「ただいま、母さん」 「お帰り、アーサー」  二人は余計な事は語らず狭い部屋に置かれた小さなテーブルの席に着いて向かい合う。  そこには粗末ながらパンと干し肉と木の実、手のひらサイズのお椀に冷えたスープが二人分置かれていた。  これはエレインがアーサーのために用意した家族だけの夕食だ。  二人がこんな食事をしているなんて誰も知らないし、教会のしきたりからも切り離された、知られてはいけないものだった。  それでも、唯一誰の目にも触れない、このささやかな夕食の時間だけは、エレインとアーサーは普通の親子に戻る事が出来るのだ。  カトラリーもろくに揃っていないのでマナーも気にせず、アーサーはラフに干し肉を齧り、お椀に直接口を付けてスープを啜りながら、今日一日のことを二人はお互いに報告し語り合った。  だが、二人の間で交わされる話題は明るいものばかりで、苦しい話題が上がる事は無かった。  そんな分りきったことは、わざわざ口にする必要が無いからだ。
last updateLast Updated : 2026-07-10
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#5.5.一話の補足:時課とは
中世ヨーロッパの教会では、一日を祈りによって区切っていました。 この決まった祈りの時間を**時課(じか)**と呼びます。現代の時計のように「何時何分」と厳密に生活を管理するのではなく、日の出や日没、食事、労働の区切りに合わせて、神への祈りを捧げることで一日の流れを整えていました。修道院では特に厳格に守られており、聖職者や修道士たちは、昼夜を問わず決められた時間に祈りを行いました。 村の教会でも、司祭は日々の聖務として時課の祈りを行います。主な時課中世西方教会で用いられた主な時課は、おおよそ以下のように分けられます。時課  |  目安   | 内容  ──────────────────────夜課  |深夜〜夜明け前 |夜の祈り──────────────────────朝課  | 夜明け頃  |朝の祈り──────────────────────一時課 | 朝6時頃 | 一日の始まりの祈り──────────────────────三時課 | 朝9時頃  |午前の祈り──────────────────────六時課 | 正午頃  | 昼の祈り──────────────────────九時課 |午後3時頃 |午後の祈り──────────────────────晩課  |夕方  |日暮れの祈り──────────────────────終課  |就寝前 |一日の終わりの祈り──────────────────────時刻はあくまで目安で、季節や地域、教会の習慣によって前後します。 作中では、現代的な時計時間よりも「昼のお祈り」「晩のお祈り」「寝る前の祈り」のように、生活感のある表現を優先しています。■作中での扱い アーサーは教区司祭として、ミサだけでなく、こうした時課の祈りも日々の務めとして行っています。たとえば、作中に出て
last updateLast Updated : 2026-07-11
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#6.14世紀イギリスが十倍楽しめる!アッシュワース村ガイド①
■アッシュワース村 設定資料本資料は、ペンストレイト領の内陸に位置するアッシュワース村について、これまでに確定している設定を整理し、読者が一続きの情景として理解できるようまとめたものである。 ─────────────────── 0.アッシュワース村とアーサーアーサーはクロムウェル伯爵の私生児だが、現在ペンストレイト男爵領の荘園、アッシュワース村に居ます。かつてクロムウェル伯爵がペンストレイト男爵からブリストル海峡のフェリー(渡し場)の利権を奪い、十年ほど実効支配をしていました。ペンストレイト男爵はそれに対して周辺の領や王室を巻き込んで抗議し、最終的にアッシュワース村の教会とグリーブ地(教会が管理する区画)運営権(パトローネ権)と交換することでフェリー利権を奪還。そして、その教会の代表、伯爵の名代としてアッシュワース村へ送られてきました。伯爵の名代と言うと聞こえはいいですが、アーサーは実質上の人質の立場にあります。________________________________________1. 広域における位置づけペンストレイト領は、性格の異なる三つの拠点によって成り立っている。港町【イーストブリッジウォーター(以下EBW)】領の経済を支える中心地であり、海運と渡し場(フェリー権)による収益が集まる場所である。領主の本宅もここに置かれ、富と情報が最も集まりやすい。自由都市【ブリストル】港町とはやや距離を置いた位置にあるが、街道が集中する要衝で、官僚機構や税務事務所が置かれている。トーマスが税務官僚として勤務していたのもこの街で、数字と書類に囲まれた実務の中心地だった。アッシュワース村港町EBWからおよそ20km内陸に入った場所にある農村。農業・畜産だけでは利益は出ないが、領全体の維持と均衡を支えるために欠かせない土地であり、管理の要として位置づけられている。________________________________________
last updateLast Updated : 2026-07-11
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#7.第二話「神父アーサーと白い〝野獣〟」①
 1328年 五月十二日、昇天祭当日。  復活祭から数えて四十日目、主イエスが天へと帰ったことを祝うこの聖なる日は、今日の日を祝うかのように晴れた空の日差しとも重なり、村は朝からどこか浮き足立った空気に包まれていた。  だが、司祭館の自室で目を覚ましたアーサーの心は、穏やかで、柔らかく明るい陽光とは裏腹に、どろりとした重い闇に沈んでいた。 (……あの、赤い目……)  額に張り付いた汗を拭い、アーサーは荒い息を整える。  自室に逃げ帰って気絶するように寝落ちてから、夢を見た。白く巨大な何かに圧倒され、抗うこともできずに呑み込まれる夢だ。顔は見えなかったが、その闇の奥で、魔的なまでの赤色を湛えた瞳だけが、じっと自分を鋭く見詰めていた。 「アーサー、大丈夫ですか? 落ち着いてやれば大丈夫ですよ」 「ああ、うん。大丈夫だよ」  表情の暗いアーサーの様子に、準備を手伝っていたピーターが心配そうに声を掛けた。  この日。祭壇へ向かうアーサーの足取りが重いのは、昇天祭のために着せられている、白と金で飾られた神々しい法衣のせいだけじゃないだろう。  昨夜のことを思い出しては重くなる気持ちを、アーサーは頭を振って振り払う。  今はそんな事を気にしてる場合じゃない。これから始まる昇天祭のミサを無事にこなさなくてはならないのだから。  普段司祭として振舞っているが、21歳で実際はまだ副助祭に過ぎないアーサーが昇天祭のようなハレの日を執り行うのは異例中の異例だ。  本来、副助祭はミサを主宰することは出来ないが、司祭長のジャイルズが実質上の引退をしてしまっているので仕方がない。  初めての事なので、事前に何度もジャイルズやピーターと一緒に打ち合わせをし、予行演習も行ったが、本番の緊張感は桁違いだった。  それは、初めての舞台だからとか、分不相応な重責を負わされている苦しさと言うより、「まだ21歳で、法的には司祭ですらない若者が、伯爵家の身勝手で聖職者のトップとして村に立たされている滑稽な茶番劇」で、アーサーが些細な失敗でもしないかと目を光らせる
last updateLast Updated : 2026-07-13
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#8. 第二話「神父アーサーと白い〝野獣〟」②
 森で出会った不思議な気配を意識し始めてから、アーサーにとって夜の訓練の意味が少し変わった。  こうやって一人で夜の森に居ることで、あの白い人影が現れてくれないかと思うようになった。  あの白い人影を待っているからと言って、別にトレーニング内容が変わったわけではない。だが、何だか気持ちがソワソワして、祈るような気持で時間が少し長引くようにはなった。  お陰で、普段から短い睡眠時間が更に減り、日中にふと意識が遠のくほどの睡眠不足に拍車がかかったが、暫くは挫けずに出会えるチャンスを待って森へ通った。  しかし何日経っても白い人影がアーサーの前には訪れず、湿った夜風に肩をすくめて帰路につくばかりだった。   そんなある日の日中。  この日は信徒からの相談が少なく、家を訪問する予定も無かったので、アーサーは自主的に教会周りの墓地の整備を手伝うことになった。  五月だというのに空はどんよりと低く、先日までの温かな陽気が嘘のように消え失せてしまい、異常な冷え込みのせいで、まるで冬のような刺すような冷気が肌を刺した。  アーサーは墓守アリスター・クックから借りた、使い込まれて硬くなった革の前掛けを締め、泥と格闘していた。  手に持つスコップは、重い樫の木を削り出したものだ。刃先にだけ補強の鉄が打ち付けられており、突き立てるたびに「カチッ」と石に当たる鈍い感触が手に響く。 「司祭様、そこだ。春の雨で土が沈んだところには、水が溜まる。一刻も早く埋め戻さんと、中が腐っちまう」 「っはい。く、泥が重いな……」  寡黙なアリスターの指示は短く、容赦がない。アーサーは薄手のチュニックの袖を捲り上げ、水を含んで底なしに重くなった泥をスコップで運んでは、自らの靴で一歩一歩踏み固めていく。  ふと顔を上げれば、ノヴァが高い木の枝からその様子を静かに見下ろしていた。普段と違う、泥にまみれた格好のアーサーを不思議そうに眺めていたが、ふと視線を外して飛び立ち、高くピィピィと鳴いた。  アーサーが腰を伸ばし、ノヴァが飛んで行った方へ
last updateLast Updated : 2026-07-13
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#9.5.二話の補足:森に現れる白い鹿の精霊について
 ブリテン島の古い伝承では、白い鹿はただの珍しい動物ではなく、森の奥に潜む異界や、日常の外側にあるものと結びつけて語られることがあります。 特にケルト系の伝承では、白い動物は異界と関わる存在とされ、白い牡鹿は「異界からの使者」「人を別世界へ導くもの」「重大な変化の前触れ」として語られることがあります。  物語上では、白い鹿を見た者がそれを追い、森の奥へ入り、日常の秩序から外れた冒険や試練に巻き込まれる、という形がよく合います。アーサー王伝説でも、白い鹿の追跡は騎士たちを新たな探索へ向かわせる合図として扱われます。追いかけた者が不思議な出来事に出会ったり、試練に巻き込まれたりする物語に登場します。白い動物そのものが、現実の獣でありながら、どこかこの世ならざるものの気配をまとった存在として受け取られていたためです。 白い鹿は、幸運の象徴としてだけではなく、境界の象徴でもあります。 人里と森、現世と異界、日常と非日常。そのあわいに現れ、人を普段なら踏み込まない場所へ誘うものとして扱われました。 アーサー王伝説はもちろん、中世の物語では、白い鹿や白い牡鹿を追うことは、騎士たちが新たな冒険へ向かうきっかけとして描かれることが多かったと聞きます。つまり白い鹿は、物語の中で「何かが始まる合図」として機能する存在でもありました。 イングランドでは、白い牡鹿を意味する “White Hart” という言葉もよく知られています。これは後世には紋章や宿屋の名などにも使われ、幻想的な伝承だけでなく、王権や高貴さの象徴としても扱われるようになりました。 そのため、森で白い鹿を見ることは、単なる動物との遭遇ではなく、運命の変化や、異界との接触を予感させる出来事として読むことができます。
last updateLast Updated : 2026-07-14
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