LOGIN結安は何も答えなかった。――答えられなかった。自分の立場があまりにも曖昧だったからだ。彼女はもう成人している。法的には章真は保護者ではない。けれど、逃げられない。表向き、章真は「後見人として面倒を見ている」体を貫いていた。慈善家として周囲に称賛されながら、その裏では――彼女を甘いデザートみたいに扱っている。気が向けば、いつでも口にできる存在として。それがいつになるかは彼の気分次第。……そして、わずかに残っている良心次第だった。まだ、彼女は若すぎるから。道中、宇佐美はほとんど口を開かなかった。重苦しい沈黙のまま、車は耀石本社へ到着する。その頃、章真は会議中だった。桐生が結安を迎え、そのまま社長室へ案内する。室内には新しく、小さなピンクの机が置かれていた。結安は思わず無言になる。……小学生じゃあるまいし。どうしてこんな机なの。そう思ったが、口には出さなかった。黙って鞄を置き、宿題を広げる。桐生はそんな彼女を見ながら、胸の奥で小さくため息をついた。章真に長年仕えてきた彼女は知っている。あの男は善人なんかじゃない。理由もなく少女を傍に置くはずがないのだ。本来なら、大切に守られて育つはずだった令嬢。そんな結安がいずれ章真の愛人になるかもしれない。……いや、おそらくそうなる。けれど、妻になることはない。桐生は胸が痛んだ。だが余計なことを口にできる立場でもない。せめて優しく接するくらいしかできなかった。どうせいつか大人になる。そして章真も、いつかは飽きる。あの男は一人の女性を長く愛せるタイプではない。桐生は焼き菓子を置き、静かに部屋を後にした。結安は集中して問題集を解いていた。だから男がいつ入ってきたのか、気づかなかった。気づいた時には、章真が彼女の鞄から落ちた封筒を拾い、中を開いていた。そして、淡々と読み上げる。「立花結安さんへ君のことが好きです。もし少しでも気になってくれているなら、明日、図書室に来てください。勉強、教えます。――藤堂駿(とうどう しゅん)」……結安は呆然と見上げた。こんなもの、いつ入れられたのだろう。まったく気づかなかった。藤堂駿の名前くらいは知っている。学
結安は章真を見上げた。視線が重なった瞬間――互いに、もう分かっていた。成人祝いの夜を境に、二人の関係は変わってしまったのだ。章真は彼女を女として見ている。まだ手を出されたわけではない。けれど、自分は彼のものだと――誰にも触れさせないと、無言のまま宣告されていた。結安の長い睫毛がかすかに震える。「……自分で帰りたいです」章真はそっと彼女の頬に触れた。「聞き分けてくれるよな?」声音は穏やかだった。だが、拒否を許す響きではない。やがて結安は小さな声で答えた。「……はい」逆らえるはずがなかった。彼がどれほどの力を持つ男なのか、結安は嫌というほど知っている。もし彼の意に背けば――路頭に迷う程度では済まない。自分では想像もできないような場所へ、簡単に突き落とされる。結安はそんな目に遭いたくなかった。彼女にはまだ、広い世界を見たいという夢がある。自分の人生を自分の足で歩きたい。だからこそ理解していた。復讐だの反撃だのは物語の中だけの話だ。現実では章真のような男がすべてを支配している。結安は車を降りた。すると章真が車窓を下ろし、指先で軽く招く。呼ばれるまま近づくと、彼はそっと彼女の頬を撫でた。低く押し殺した声が耳に落ちる。「……俺の言いたいこと、分かってるな?」結安の瞳が潤む。それでも彼女は涙を堪えながらゆっくり頷いた。――屈辱だった。自分がどんな立場なのか、嫌になるほど理解している。章真は顎をしゃくり、教室へ行けと促した。彼の存在があるせいで、教師たちは誰も結安に強く出られない。もともと成績も優秀だった。休み時間、結安は女子生徒たちと話していて、自分の鞄に封筒が入れられたことに気づかなかった。学年でも有名な男子からのラブレターだった。女子が頼まれて、こっそり入れたらしい。放課後前の自習時間。結安は英語教師の三浦先生に職員室へ呼ばれた。三浦先生は花柄のブラウスにレザースカートという装いで、髪型もどこかレトロだった。若くて綺麗な教師として校内でも有名で、言い寄る男性も多い。けれど理想が高いのか、恋人がいるという話は聞いたことがなかった。結安は先生の向かいに座る。テストの話かと思っていたが、三浦先生は小さなク
章真はまだ完全に目が覚めていなかった。いつも通り、どこかの女のベッドで朝を迎えたのだとばかり思い込んでいた。昨晩はすっきりと発散しきれなかったせいか、身体の奥に軽い渇きが残っている。本能の赴くまま、身をよじる女を再び組み敷こうとしたその時――ふと意識が鮮明になり、腕の中にいるのがそこらの行きずりの女ではなく、自分が囲っているいたいけなアヒルであることに気づいた。結安は全身を小刻みに震わせていた。あまりに距離が近すぎたのだろう。彼女は居心地悪そうに顔を背けた。その拍子に、すらりとした首筋のラインが引き締まり、抜けるように白い肌が露わになる。息をのむほど美しい。薄ピンク色のワンピースが華奢な肩から滑り落ち、覗いた生真面目な肩先は、まるでパッケージを剥がしたばかりの、とろけるような生クリームケーキを思わせた。章真は彼女の顔をじっと見つめた。彼は酸いも甘いも噛み分けた大人の男だ。自分の身体が何を求めているかなど、嫌というほど分かっている。驚きを隠せない一方で、彼は彼女の表情を克明に観察していた。きっと、怖くてたまらないのだろう。成人を迎えたばかりで、いきなりこんな状況に直面しているのだ。彼女の心の中で激しい葛藤が渦巻いているのが見て取れた。だが結局、彼はそれ以上無理に迫ることはせず、そっと身を引いた。その深い瞳に大人の色香を漂わせながら、静かに問いかける。「昨日の夜、俺をお前の父親と勘違いしていただろう。結安、俺はそんなに老けて見えるか」結安の父親なら、少なくとも四十代だ。それに引き換え、自分はまだ三十代に入ったばかり。男として最も脂が乗っている年齢だ。アヒルは本当に男を見る目がない。二人はそれぞれベッドから起き上がった。結安が気まずさを隠せるはずもなかった。彼女は胸元を小さく押さえながら、逃げるようにバスルームへと駆け出す。「学校、遅刻しちゃう……」章真は手首を返して時計に目をやった。――いや、もう完全に遅刻だ。時計の針はすでに八時を回っている。結安が身支度を終えて寝室に戻ると、ベッドの上はすでにもぬけの殻だった。思わず安堵の息を漏らすと同時に、どこかぽっかりと胸に穴が空いたような感覚に囚われる。章真が何を考えているのか、彼女にはさっぱり分からなかった。ただ、彼に対する恐怖心だ
蝋燭の火が吹き消される。途端に、辺りは闇へ包まれた。視界を失った分だけ、感覚が妙に鋭くなる。その瞬間だった。温かな唇がそっと額へ触れる。そして低く落ちる声。「――誕生日おめでとう」結安は完全に固まった。もう子どもじゃない。今日から、自分は十八歳の大人だ。そして章真も、もう保護者ではない。血の繋がりもない、ただの成人男性。そんな男が自分へ口づけを落とした。額とはいえ――あまりにも近すぎる。結安はその場で息を呑む。幸い、暗闇が彼女の震えを隠してくれていた。細い身体が男の腕の中へ閉じ込められる。近い。近すぎる。やがてケーキのクリームが章真の頬へ付けられ、再び照明が灯った。結安は顔を上げる。すぐ目の前に章真がいる。周囲には食器の触れ合う音や笑い声があるのに、不思議なくらい遠かった。気づけば彼女はダイニングテーブルへ座っていた。隣には章真。蝶野が年代物のワインを持って来る。結安は酒を飲んだことがない。だが章真は自然にボトルを受け取った。黒い瞳が結安を見つめる。小さな音と共にコルクが抜かれ、二つのグラスへ赤い液体が注がれる。芳醇な香り。結安はグラスを見つめ、それから蝶野や使用人たちへ目を向けた。みんな忙しそうに動き回っている。自分のために。――今夜だけ。今夜くらい、少しだけ流されてもいいかもしれない。どうせいつか、この場所を離れる。そのいつかの先に未来があるかすら分からない。結安はそっとワインを口へ運ぶ。酸味と渋みが広がった。まるで、十八歳という年齢そのものみたいだった。眉を寄せ、小さく舌を出す。その仕草を見た章真は思わず目を細めた。――面倒なほど幼い。会社の女たちは皆、男顔負けに酒が強い。こんな青臭い小動物みたいな子は彼の人生に一人もいなかった。いや。そもそも、こんな存在自体が初めてだった。それに蝶野が選んだあのドレス。似合いすぎる。今後パーティーへ出る時、絶対にあんな格好はさせられない。男たちの視線が集まるに決まっている。ボディガードを八人くらい付けるべきかもしれない。二十四時間体制で。そんなことを真顔で考えている自分に、章真は内心で呆れた。互いに違うことを
章真の表情を見た瞬間、結安は理解した。――偽物だと気づいていない。彼女は胸を撫で下ろす。嬉しそうにバッグへ触れる章真を見上げながら、どこか現実感のない気持ちになっていた。その時、扉がノックされる。章真は機嫌良さそうに振り返った。「入ってくれ」蝶野が箱を抱えて立っていた。「結安ちゃんのお誕生日だから、私たちで少しお金を出し合ったんです。何を買えばいいか分からなくて、清水さんの娘さんがオーストラリアで選んでくれたドレスなんですよ。絶対似合うと思って。着てみてくれません?」ドレスは二十万円近い品だった。蝶野の給料は決して悪くない。けれど彼女は普段かなり質素な生活をしている。それでも、このくらい良い物じゃないと結安には釣り合わないと思ったのだ。結安はその気持ちをちゃんと理解していた。くすみがかったローズカラーのドレス。ヌードベージュのヒール。その優しさが嬉しくて、胸が少し痛む。それでも蝶野を喜ばせたくて、結安は素直に試着することにした。ドレスは露出が激しいわけではない。けれど胸元は深めに開いていて、白い肌が大きく覗いていた。まだ幼さの残る柔らかな肩。朝露を纏った蕾みたいな、危うい美しさ。そこへヒールを履くと、結安はほとんどまともに歩けなくなった。やっとの思いで部屋を出る。その頃、章真は蝶野と夕食の話をしていた。「……葉山叔父さん」幼い響きを含んだ声に、章真が振り返る。そして、そのまま視線を逸らせなくなった。アヒルが綺麗なのは前から知っていた。けれど、身体のラインをなぞるようなドレスを着た姿が、ここまで破壊力を持つとは思わなかった。華奢なのに、隠しきれない艶がある。こんな姿で外へ出れば、どれだけの男が欲望の目を向けるのか。章真は無言のまま見つめ続ける。その視線に、結安は本能的な危うさを感じた。下品な目ではない。けれど――侵食されるみたいだった。胸がざわつく。どうにか不安を押し隠し、小さな声で尋ねる。「……似合いませんか?」章真の声が急に低くなる。「似合う。すごく綺麗だ」蝶野は感嘆の声を漏らした。「まあ、本当にお姫様みたい……!映画女優さんより、うちの結安ちゃんの方がずっと可愛いですわ」そして楽しそう
食事を終えると、章真は仕事があると言って外出した。その瞬間、結安はすぐ二階へ駆け上がる。寝室のドアを閉め、背中を扉へ預けた。やがて階下の庭からエンジン音が聞こえる。――章真が出て行った。その音を確認した途端、結安の心臓は激しく跳ね始めた。彼女は急いで隠し場所へ向かう。改めて札束を見る。まだ信じられない。この金が、本当に自分の物になったなんて。結安は札束を胸へ抱き寄せる。けれど、このままここへ置いておくわけにはいかなかった。成人したら部屋を借りる。金庫も買う。それから少しずつ口座へ移していく。何もかも慎重に進めなければならない。――そして、章真への誕生日プレゼント。それは高級ブランドの精巧なコピー品で十分だった。十万円程度。それで問題ない。……それからしばらくの間、二人の関係は驚くほど穏やかだった。あの手紙以来、章真は結安を本当に可愛がるようになった。時間がある日は学校まで送り迎えをし、一緒に食事を取り、時には一ノ瀬家や周防家の食事会へ連れて行くこともある。もう「アヒルを追い出そう」などとは思わなくなっていた。ちゃんと育てて、将来は良い相手へ嫁がせてやろう。その時には、帰って来られる実家の一つくらい残してやってもいい。そう考えながら、章真は内心で満足していた。――やっぱり自分は善人だ。だからアヒルも、こんなに懐くのだろう。転機が訪れたのは十二月の半ばだった。結安が十八歳になったのだ。つまり――成人。この日を境に、章真は法的な保護者ではなくなる。結安は真新しいマイナンバーカードを指先で撫でる。これで自分一人で口座を作れる。部屋も借りられる。結安は高級マンションの一室を契約した。家賃は月百万円。さらに貸金庫も手配する。一千万円近い現金を何度かに分けて運び込み、その後マーケットで精巧なエルメスのコピー品を購入した。本物と見分けがつかないほど精巧なビジネスバッグ。店を出たところで、スマホが震える。章真からだった。低く甘い声が耳へ落ちる。「今日は早めに帰る。誕生日、ちゃんと祝ってやるからな。プレゼントも用意した。結安、絶対気に入るぞ」結安は手元の偽物のエルメスを見下ろす。そして静かに答えた
朝倉監督?イヤホン越しの声に、夕梨は一瞬だけ動きを止めた。返事をせずにいると、再び同じ指示が入る。「岸本さん、問題ありませんか?」「問題ありません」短く告げると、冬の冷気の中でスーツの裾と髪を整え、乱れが一切ないことを確認してから、駐車場へ向かった。黒いランドローバー。ナンバーは「立都 300あ 68-90」寒真――彼の車だ。夕梨は深呼吸し、ドアを開けた。中では寒真とトップ女優が、激しく口づけを交わしていた。二人はまるで他人の存在などないかのように夢中で、夕梨が固まったその瞬間、男が低く言った。「閉めて」夕梨は迷わずドアを閉め、監督が「仕事を
すべてが順調に流れ始めた。二日後、澪安の両親がベルリンに到着し、思慕も一緒に連れて来てくれた。それだけではない。願乃も合流した。寛夫婦は飛行機が難しくなってしまったが、輝――慕美の義理の父と、赤坂瑠璃が末娘の夕梨を連れて来た。さらに赤坂茉莉、岸本美羽まで勢ぞろいし、皆が慕美に力を届けに来てくれた。大きな別邸は、あっという間に満室になった。年長者の温かさは言うまでもない。慕美が人生で欠いてきたものが、この家ではすべて満たされていくようだ。――まるで人生にもう思い残しがないかのように。思慕は、一ヶ月以上も母に会えていなかった。まるで子猫のように、母の肩に頬を
澪安は本当に帰らなかった。どれだけ追い返されても、涼しい顔で居座り続ける。彼と慕美の関係は、もう周防本邸でも公認になっていた。もっとも、二人は本邸ではあくまで他人のふり。その芝居に、周防家の者たちは笑いを堪えるので精一杯だった。……半月が過ぎ、空気は秋の色を帯び始め、木々は金色に染まっていた夕刻。栄光グループ本社の最上階。社長室の一面ガラスの向こうには、溶けるような夕日が広がり、眼下の街を黄金に染めていた。澪安は端正なスーツ姿で携帯を耳に当てる。このあと役員会議があり、今日は思慕を迎えに行けない。そして結代は風邪で幼稚園を休んでいる、と。電話口の
夜はすでに更け、エレベーターの数字がゆっくりと階を上がっていく。到着までの時間が、やけに長く感じられた。フロアに着いたころには、指先まで少し震えていた。玄関前の灯りは運悪く切れていて、鍵穴が見えづらい。慕美は鍵を差し込もうとするが、なかなか合わない。そのとき、背後から温かい体温がふわりと覆い、まるで影のように彼女を囲い込んだ。耳元すれすれの低い声。「貸して」二人の体が密着し、呼吸の音さえ聞こえる距離。鍵は差し込めたものの、回される前に澪安が彼女の顎を掴み、そのまま唇を奪った。薄暗い玄関先で響く、湿ったキスの音だけが妙に鮮明だった。長いキスのあと、二人はドアに