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十八話:小さな帰還

Author: 渡瀬藍兵
last update Petsa ng paglalathala: 2025-05-19 19:42:03

「うっ……!」

 意識が、引き戻された。

 壮絶な記憶の奔流から——ゆっくりと、けれど確かに、現実の輪郭が戻ってくる。院長室の天井。埃の匂い。窓から差し込む、青白い月の光。

(今のは……本当に……! 僕は、誠也くんの過去を……!)

 記憶の中では不思議と凪いでいた心臓が、現実に戻った途端、胸を突き破らんばかりに脈打ち始めた。こめかみが熱い。手のひらが、じっとりと汗ばんでいる。

 隣を見ると、美琴は長いまつ毛を伏せたまま、白い頬を静かに涙で濡らしていた。

「……誠也くん、本当に……想像を絶するほど、辛くて、苦しい過去を背負っていたんですね……」

 その声はひどく小さく、心の底からの哀惜でかすかに震えている。

 幼い子どもが、たった一人で——どれほどの寂しさと恐怖を抱えながら、この冷たい廃墟に縛られ続けていたのだろう。

 その想いに至ったとき、悠斗の目に、誠也はもはや恐ろしい霊としては映らなかった。ただ温もりを求め続けている、本当に小さな男の子。心の底から、そう思えたのだ。

 美琴の膝の上で、誠也は今、穏やかに目を閉じている。

 あのボロボロの木彫りの犬を、宝物のように小さな胸にぎゅっと抱きしめながら。その身体からは、蛍火のような温かく清浄な光が、静かに立ち昇っていた。

『……誠也……やっと、みんなに……会える、の……?』

 か細い声。けれど、そこには確かな期待が灯っている。

 美琴が穏やかに微笑み、深く頷いた。

「うん。もう大丈夫だよ、誠也くん。もう何も、寂しいことはないから」

 そっと深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。その呼吸が整った瞬間——美琴の纏う空気が、変わった。

「──浄魂じょうこんの祈り……汝、穢れを知らぬ純なる魂よ──今こそ全ての苦しみから解き放たれ、浄土じょうどへと、穏やかに還りなさい……」

 詠唱に応えるように、美琴の掌から光が生まれた。

 鮮やかな紅。けれどどこまでも優しい、夕映えのような光だ。それが水面に広がる波紋のように静かに広がり、誠也の小さな身体を——まるで母の腕に抱かれるように、柔らかく包み込んでいく。

 月明かりの差し込む薄暗い院長室の中で、光に包まれた誠也の姿が、ゆっくりと揺らぎ始めた。輪郭が淡くなり、周囲の空気に溶け込むように、少しずつ、少しずつ——透けていく。

(これは……一体、何が……?)

 目の前で起きている光景の意味は、悠斗にはわからない。けれど——誠也が、安らかな場所へと還ろうとしていること。それだけは、確かに感じ取れた。

『……ありがとう……お姉ちゃん……』

『本当に……ありがとう……』

 感謝の言葉が、光の中から零れ落ちた。心の底から、美琴へと向けられた声。

『……あっ……あれ……? みんなが……お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも……みんなが、見えるよ……!』

 誠也の声が弾んだ。驚きと歓喜が綯い交ぜになった、子どもらしい無邪気な声。

「えっ……?」

 その表情には、もう苦痛も寂しさも、どこにもなかった。ただ純粋な、子どもの笑顔。

 そして——小さな両手が、そっと虚空へと伸ばされた。天から差し伸べられた誰かの手を掴むように。あるいは、大好きな誰かの胸に飛び込んでいくように。

 その、あまりにも無垢な姿のまま——降り注ぐ月明かりの中に、誠也の存在は静かに、静かに溶けていった。

 光の粒子が、舞い上がる。まるで、蛍が夜空へ還っていくように。

 院長室に、静寂が満ちた。

「……今の、は……?」

 悠斗は、光の消えた空間を見つめたまま、呆然と呟いた。

「きっと……誠也くんのご家族が、迎えに来てくれたのでしょうね……」

 美琴の声は穏やかだった。けれどその瞳の奥に、深い感慨が静かに揺れている。

(そうか……あの子は、ようやく——本当に、ようやく。大好きな家族のもとへ、帰ることができたんだ……)

 温かいものが、悠斗の胸の奥に広がっていった。切なくて、けれどどこか安堵に似た——不思議な感覚だった。

 美琴がそっと身を屈め、誠也が消えたあとに床に残された木彫りの犬を拾い上げた。

 両手で包むように膝の上に置き、その木肌をそっと撫でる。

 その仕草はどこか寂しげで、それでいて、言葉にならないほどの深い慈しみに満ちていた。誠也が確かにここにいた——その証を、指先で惜しむように辿っている。

「美琴……さっきの不思議な力は……?」

 すべてを浄化するかのような、あの紅い光。そして、悠斗の額に触れただけで、他者の魂の記憶を鮮明に映し出した、あの力。決して、普通の人間に為せることではない。

 悠斗の問いに、美琴がほんの一瞬、ぴくりと動きを止めた。

 窓から差し込む月明かりが、彼女の横顔を青白く照らしている。

 ゆっくりと、視線がこちらへ向けられた。

「私は……古くから続く、巫女の血を引いています」

 凛とした声。けれどその奥には、長い歳月をかけて積み重なった、重い何かが横たわっている。

「巫女……?」

 悠斗は息を呑んだ。巫女——この現代において、その言葉がこれほどの実感を伴って響くことがあるとは、思いもしなかった。

 美琴はその大きな瞳を伏せることなく、悠斗の目を真っ直ぐに見つめ返した。

「はい。ただし——それは、決して誇れるものではありません」

 一瞬の間。

「私のこの血は……けがれた血ですから」

 夜風に溶けていくような、静かな声だった。けれどその底には、自分自身を深く責めるような、痛切な棘が潜んでいる。

「巫女の血が、穢れた血……? それは、一体どういう……」

「私の遠い先祖は——決して許されない、大きな禁忌を犯しました」

 美琴は目を伏せた。長いまつ毛が、月光に淡い影を落とす。

「だから、この私に流れる力もまた……本来の清浄さを失った、穢れたものなのです」

 淡々とした声。けれど、その言葉の一つ一つが、鉛のように重く悠斗の胸に沈んでいく。

 何を聞いてはいけないのか。どこまで、彼女の心の奥に踏み込んでいいのか。今の悠斗には——まだ、その境界がわからなかった。

 沈黙が流れた。

 やがて——美琴が、ふっと微笑んだ。儚げで、けれど確かな光を宿した微笑み。

「でも……それでも、私はこの力を使います。この血がどれほど穢れていようとも」

 声が、静かに——けれど揺るぎなく、院長室に響いた。

「私の目の前で、誰かが助けを求め、苦しんでいるのなら——私は、この力で、その人を救いたい」

 月明かりの下、美琴のその横顔は——触れれば砕けてしまいそうなほど繊細で、それでいて、いかなる嵐にも折れぬ一本の白木のように、気高く凛としていた。

 悠斗はただ——言葉もなく、その姿を見つめることしかできなかった。

 ──────────

 掌に残る あの日のかたち

 愛されしこと 忘れずとも 逢えぬ日々

 ただ祈りを 胸に宿して

 名を呼ぶ声 ついに届き

 いまこそ 還りゆかん──

 

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輪廻
美琴のご先祖さまは、どのような禁忌を犯してしまったのか……取り返しのつかないレベルの過ちだったり、何かとんでもない化け物を呼び覚まして居ないといいのですけど^^;
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