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四十七話:説得の重み

Autor: 渡瀬藍兵
last update Fecha de publicación: 2025-06-01 19:03:00

星が瞬き始めていた。

 空の色はとうに藍へ沈み、街灯がぽつぽつと道を照らしている。住宅街の細い路地を歩くたび、どこかの家から晩御飯の匂いが漂ってきた。焼き鮭の、香ばしくて少し塩辛い匂い。食卓を囲む家族の気配が、壁越しにほのかに滲んでいる。

 静江の家の前には、そういった匂いが一切なかった。

 灯りの落ちた玄関。閉ざされたカーテン。家そのものが息を潜めているような静けさが、二人を出迎える。

「……先輩、押しますよ」

「うん」

 インターホンのボタンが押される。電子音が家の奥へ吸い込まれ、そのあとには沈黙だけが返ってきた。

 十秒。三十秒。一分。

 前回よりも、さらに長い沈黙だった。虫の声が耳につく。もう出てこないのではないか——そう思いかけた頃、玄関の内側で何かが動く気配がした。

 鍵が外れる音。チェーンが擦れる音。そしてゆっくりと、扉が開く。

「……はい。松田ですけど……」

 その声は、前回よりもさらに薄かった。疲弊を通り越して、もう何かを感じること自体を諦めたような響き。

 けれど——悠斗と美琴の顔を認めた瞬間、静江の表情が一変した。瞳に感情が戻る。それは喜びでも安堵でもなく、硬く、冷たい拒絶だった。

「……はぁ。なんなんだいあんた。もう二度と顔も見たくないって言ったよね?」

 扉に手がかかる。閉めようとしている。前回と同じ動き。同じ拒絶。

「……あなたの気持ちはよく分かります! でも……! せめて話を聞いてください……、詩織さんのために」

 悠斗の声が、閉まりかけた扉の隙間に滑り込んだ。必死さを抑えようとして、それでも抑えきれない切迫が滲んでいる。

 扉の動きが、止まった。

 細い隙間から覗く静江の顔。その目が揺れている。怒りと、苦痛と、もっと深い場所にあるものが、薄い唇の震えとなって表に出ていた。

「……ほんとうに、なんなんだい……! 勘弁しておくれよ……! あの子が死んでなお、苦しめようってのかい……!」

 声が裏返った。怒りだけではない。その奥に、剥き出しの悲鳴がある。

「もう失うもののないあたしに、これ以上何を求めるってんだい……!」

「……静江さん」

 美琴の声が、沈黙を断った。静かだが、迷いのない声だった。

「ずっと後悔されているのですよね?」

 悠斗の背筋に、冷たいものが走った。

「……美琴、それは——」

 傷口を抉る。今の静江にその言葉を投げれば、残っているものまで壊しかねない。咄嗟に手を伸ばしかけた悠斗に、美琴が振り向いた。首を、静かに横に振る。

 その目が言っていた。——大丈夫です、と。

「……はっ、後悔だって?」

 静江の声は笑いの形をしていた。けれど、そこに笑いの温度はない。乾ききった喉から絞り出されたような、擦れた音。

「そんなの……何十回、何百回したか、もう忘れちまったよ」

 扉の隙間から覗く横顔が、街灯の光をわずかに受けている。深く刻まれた皺。落ち窪んだ目元。後悔という言葉すら、もう彼女には軽すぎるのかもしれなかった。

「そうですよね。ご自身がそれを一番よくわかっているはずです。あなたは結婚を認めればこうはならなかったと思っているでしょう」

「……」

 沈黙が返った。否定も肯定もない。ただ、扉を閉めようとする手が止まっている。それだけが答えだった。

 美琴は一呼吸置いて、声に凛とした芯を通した。

「彼女は今も、あの薄暗い風鳴トンネルで、ずっとあなたに謝り続けています。『ごめんなさい、母さん』と」

「っ……!」

 静江の喉が引き攣った。扉を掴む指が白くなる。

「だったらなんで……ここに帰ってこないんだい……!」

「それは、きっと怖いからだと思います」

「……怖いだって?」

「詩織さんはあなたを裏切ってしまったと思い込んでいます。だから、謝りたくても怖いのだと思います」

「……静江さん。私たちには霊が見えるんです。先輩に至っては、彼女の過去を——記憶を、思いを見ました」

 美琴の声は揺れない。事実を事実として差し出す、けれど突き放すのではなく、相手の手が届く場所にそっと置くような語り方だった。

「……私は先輩を通してでしか聞いていませんが……、詩織さんは後悔しています。ご主人が家を出ていってあなたを一人にしてしまったように、自分も事故で亡くなってしまって、あなたを一人にしてしまったと——そう悔いています」

「あの人のことをどこで……!」

 静江の声に、初めて別の色が混じった。怒りではない。驚愕でもない。もっと奥にある、触れられたくなかった場所を触れられた者だけが発する、剥き出しの痛みだった。

「言ったでしょう? 私たちには霊が、そして今も風鳴トンネルで謝罪を続けている詩織さんが見えるのです」

「…………」

 静江は黙った。扉を閉める気配はもうなかった。細い隙間の向こうで、彼女の瞳が揺れている。信じたいのか、信じたくないのか。その境目で立ち尽くしているような、危うい沈黙。

 悠斗は、隣に立つ美琴を見ていた。

 凛としていた。はっきりとした物言いでありながら、その言葉のひとつひとつが静江を包み込むように届いている。強さと優しさが同じ声の中に同居して、それが矛盾なく成立している。

 (すごい……僕とは言葉の重みが違う……)

 だが、同時に気づいてもいた。

 美琴が、あまりにも場慣れしている。言葉の選び方。間の取り方。相手の感情が揺れる瞬間を見極める目。それは一朝一夕で身につくものではない。何度こうした場面に立ってきたのか——数え切れないほどの対話を、この年齢で重ねてきたのだろう。

 美琴の言葉は、確かに静江の心に届き始めていた。

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