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六十九話:陽菜の湯

مؤلف: 渡瀬藍兵
last update تاريخ النشر: 2025-06-12 19:00:00

ふたりで並んで歩く夜の温泉郷は、悠斗が勝手に思い描いていたよりも、ずっと賑やかだった。

 提灯のあかりが石畳に淡くこぼれ、道の両脇にはまだ人の流れがある。湯上がりらしい客の笑い声が遠く近く重なって、その合間を、甘じょっぱい匂いや香ばしい匂いがふわりとすり抜けていった。

「思ったより人がいるんだね」

 そう口にすると、美琴も周囲を見回しながら小さくうなずいた。

「そうですね。それに美味しそうな匂いが……」

 言いながら、すこしだけ鼻先を動かす。その様子が妙に素直で、悠斗は思わず口元を緩めた。

「もしかして、もうお腹空いた?」

 冗談めかして言うと、美琴はぴたりと足を止めかけた。それから頬をふくらませ、じとっとした視線を向けてくる。

「も、もうっ! そんな訳ないじゃないですか……! まぁ……少し食べたいと思ったのは事実ですけど……」

 語尾だけが、少しだけしぼんだ。悠斗は肩を揺らして笑う。

「ごめんごめん。じゃあ、戻ってきたら、なにか買おうか。その頃には小腹も少しは空くかもしれないし」

「そうですね! そうしましょう!」

 今度はぱっと表情が明るくなる。その切り替わりがおかしくて、喉の奥で笑いをこらえながら、悠斗は女将から受け取った地図に目を落とした。

 紙の上に引かれた細い線を指で追い、角をひとつ、ふたつ。賑わいの中心から外れるにつれて、通りの音も少しずつ遠のいていく。店の明かりは減り、代わりに街灯の白い光が道をまだらに照らしていた。

 やがて辿り着いたのは、人気の少ない細い通りの先だった。

 そこにあったのは、温泉へ続く風情のある小道というより、小さな林の入口にしか見えない場所だった。黒々とした木立が寄り合っていて、その奥だけ、夜が一段深く沈んでいる。

「先輩……。本当に……」

 美琴が不安そうに声をこぼす。言いたいことは、悠斗にもよくわかっていた。

 どう見ても、ここは温泉への入口ではない。

 喉の奥に、かすかな引っかかりが残る。けれど地図を見直しても、示されている場所はやはりここだった。

「おかしいな……でも確かにここみたいなんだよね」

 紙から顔を上げて言うと、美琴は林の奥へ目を向けたまま、そっと息をついた。

「そしたら一応、奥まで行ってみましょうか?」

「うん。一度行けるところまで行ってみよう」

 そう返して、悠斗は地図をたたんだ。

 夜気は温泉街のぬるい空気より、少しだけひやりとしていた。林の入口に立つと、さっきまで漂っていた食べ物の匂いも、賑わいも、急に背中のほうへ遠ざかった気がした。

 悠斗は隣の美琴を一度だけ見て、それから暗がりの奥へ足を向けた。

  林に入った途端、空気がひやりと変わった。

 木々は思っていた以上に鬱蒼としていて、少し進んだだけでもう、温泉街のほうから漏れていた灯りが届かない。頭上で、ときおり枝が揺れる音だけがする。悠斗は足を止め、携帯を取り出してライトを点けた。

「……この道、霊感がない人だと、きっと怖いよね」

 半分冗談のつもりで言うと、隣の美琴が小さく笑った。

「ふふ、たしかにその通りですね。今回は私たちに霊感があるからこそ、何もいないというのが……」

 そこまで言って、美琴がふっと足を止めた。

 そのまま後ろを振り返る。悠斗もつられて立ち止まり、喉の奥がきゅっと狭くなった。

「えっ、なに? なにかいた?」

「いえ……。なんか視線を感じたような気がして」

「こんな道でそんな怖いこと言わないでよ……」

 思わず声が小さくなる。美琴ははっとしたようにこちらを向いて、慌ててぶんぶんと手を振った。

「だ、大丈夫ですよ! 何かあっても私がいるんですから! 先輩のこと守りますよ!」

 びしっと言い切る声は妙に頼もしい。

 頼もしいのだけれど。

 悠斗は一瞬だけ黙って、美琴を見た。胸を張ったその姿は、夜道に不釣り合いなくらい堂々としている。

「……うん。事実、僕よりいろいろできる美琴がいるのはそうなんだけど」

 そこまで言ってから、なんとも言えない顔になる。

「僕としてはちょっと複雑かな……っ!」

 守ると言われて嬉しくないわけじゃない。むしろ、かなり嬉しい。

 ただ、そういうことではないのだ。こういう場面でくらい、せめて自分が前に立ちたい、みたいな気持ちも、ちゃんとある。

 なのに現実は、美琴のほうがずっと頼もしい。

 ありがたいのに、ちょっとだけ情けない。そんな複雑さだった。

 そのまま歩くこと数分。

 林の湿った匂いに混じって、鼻先にかすかな硫黄の気配が触れた。温泉の匂いだ。悠斗は少しだけ顔を上げ、暗がりの先を照らす。

「あっ、竹の壁が出てきたね。本当に温泉への道だったんだ……」

 ライトの先に、すっと縦に伸びる竹垣が浮かび上がっていた。林の中に不意に現れたそれは、いかにも奥へ何かを隠しているようで、ここまでの怪しさを思えば、むしろ本当にあったことのほうが意外なくらいだった。

「本当に怪しい道でしたけど、温泉が楽しみですね! 美肌♪ 美肌〜♪」

 さっきまで視線だの何だので止まっていたのが嘘みたいに、美琴はご機嫌な足取りで先へ進んでいく。小さく弾む声が、静かな夜道に妙に似合っていなくて、悠斗は思わず苦笑した。

 竹垣に沿って進み、その先へ抜けた瞬間だった。

 悠斗は足を止める。

 目の前にあった案内板には、はっきりとそう書かれていた。混浴、と。

 ただ、よく見ると湯船は二つに分かれているらしい。しかも女性はタオルを身につけたまま浸かってよい、と注意書きまである。配慮はされている。されているのだが、それで落ち着けるほど悠斗の心臓は素直ではなかった。

 どくん、と一度大きく鳴る。

 しかも周囲には、ほかに人の気配がない。湯の音だけが、やけに静かに耳へ届いてくる。

「……」

 隣で、美琴も言葉を失っていた。

 見ると、頬がわかりやすく赤い。悠斗はそれを視界の端で捉えた途端、余計にどこを見ればいいのかわからなくなった。

「……美琴。先に入っておいでよ」

 どうにかそれだけ言うと、美琴がぱちりと瞬きをする。

「……えっ? でも……」

「僕は美琴が出るまでここで待ってるから」

 口にしながら、自分でも無理のある提案だとは思った。けれど、この場で平然と一緒に入れるほど肝が据わっているわけでもない。

 美琴は困ったように視線を揺らし、それから周囲の暗さと、ひらけた湯場を見回した。

「で、でも、いくら夏とはいえ、ここは山の上ですよ? 風は冷たいですし、そんな中待たせてしまっては先輩が風を引いてしまいます……」

「大丈夫大丈夫。僕は……」

 言いかけた、そのときだった。

 夜風が、するりと素肌を撫でていく。

 浴衣の隙間という隙間から容赦なく入り込んできて、思わず肩が強張る。夏とはいえ、山の上の夜気は思ったよりずっと冷たかった。長居できる感じではない。悠斗は背筋を震わせそうになるのをどうにか押し殺す。

 けれど、美琴は見逃さなかった。

「ほら、先輩」

 すっと近づいてきた美琴が、悠斗の手首をやさしく掴む。

 その指先は意外なほどしっかりしていて、逃げる間もなく視線がそこへ落ちた。白い光の下で、自分の手の甲にうっすら鳥肌が立っているのが、はっきり見えてしまう。

「鳥肌が立っているじゃないですか。これは寒い証拠です。流石に、その……恥ずかしくはありますけど……でも、ここで待たせるわけにはいきませんし。湯船も別みたいですから、それなら……問題ない、ですよね」

 悠斗は返事ができなかった。

 否定する理由も見つからない。かといって、素直にうなずくには心臓がうるさすぎる。喉の奥で言葉だけが渋滞して、そのまま黙り込んでしまう。

「……」

 そんな悠斗を見て、美琴はなにかを決めるように、ぎゅっと一度だけ目を閉じた。細い肩がわずかに上下して、それから小さくうなずく。

「先輩。私、中で着替えてきますね」

 言ってから、ほんの少しだけ頬を赤くしたまま視線を揺らす。

「たぶん、奥にあるほうの湯船にいますから……先輩も、来てくださいね。待ってますから」

 最後は勇気を出すように言い切って、美琴は小さく手を振った。その仕草だけはいつも通りで、けれど足取りはどこかそわそわしている。そうしてそのまま、更衣室のほうへ入っていった。

 あとに残された悠斗は、しばらくその背中が消えたあたりを見つめたまま動けなかった。

 胸の奥に、じわりと罪悪感が滲む。

あとに残された悠斗は、しばらく更衣室のほうを見たまま動けなかった。

 胸の奥に、かすかに引っかかるものがある。

 ここまで言わせてしまった、という気まずさだった。けれど、あの冷たい風を思い出すと、強がりきれないのも事実で。美琴が気を回してくれたことに、ほっとしている自分もいた。

 喉の奥で小さく息をつき、悠斗は誰に聞かせるでもなく呟く。

「美琴、ありがとう……。ちゃんと出たら、お礼を言わなくちゃ」

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