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荒れていく彼の心を見送って

荒れていく彼の心を見送って

By:  米菓子11Completed
Language: Japanese
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私には、秘密がある。 誰かに触れた瞬間、その人が心の中でいちばん大切に想っている人の顔が見える。 7歳のとき、上田大河(うえだ たいが)が隣に引っ越してきた。あの日から、大河の心の中にはずっと、私だけがいた。 18歳、初めて手を繋いだとき――私だった。 22歳、プロポーズされたとき――私だった。 結婚式の夜、唇が重なったとき――やっぱり、私だった。 しかし結婚3周年の朝。ネクタイを直してあげようと、指先が喉仏にそっと触れたとき、いつものように目を閉じた。 浮かび上がったのは、二つの顔だった。 一つは私。もう一つは、見知らぬ女。 その夜、大河のスマホが光った。 【大河さん、今日は付き合ってくれてありがとう】 21年間で、10万回もの触れ合い。 初めて、狂いが生じた。

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Chapter 1

第1話

私には、秘密がある。

誰かに触れた瞬間、その人が心の中でいちばん大切に想っている人の顔が見える。

7歳のとき、上田大河(うえだ たいが)が隣に引っ越してきた。あの日から、大河の心の中にはずっと、私だけがいた。

18歳、初めて手を繋いだとき――私だった。

22歳、プロポーズされたとき――私だった。

結婚式の夜、唇が重なったとき――やっぱり、私だった。

しかし結婚3周年の朝。ネクタイを直してあげようと、指先が喉仏にそっと触れたとき、いつものように目を閉じた。

浮かび上がったのは、二つの顔だった。

一つは私。もう一つは、見知らぬ女。

その夜、大河のスマホが光った。

【大河さん、今日は付き合ってくれてありがとう】

21年間で、10万回もの触れ合い。

初めて、狂いが生じた。

……

結婚記念日を祝うために、1カ月前からレストランを予約していた。

着ていく赤いワンピースは、大河が「似合うよ」と言ってくれたお気に入りの一着。パールのピアスも大河からもらったもの。

午後6時。着替えを終えて鏡の前に立ち、ピアスをつけていると、大河から電話がかかってきた。

「急な出張が入った。今夜は無理だ」

慌ただしい声で、それだけ言い残して電話は切れた。

大河のほうから先に電話を切るなんて、これが初めてだった。

鏡の中の自分を見つめる。右のパールはちゃんと収まっているのに、左のピアスだけがつけられないまま、指先で揺れていた。

ほどなくして、親友の真野菜奈(まの なな)から電話がかかってきた。「じゃあ私が付き合うよ」と。

彼女の車に乗って、街なかの洋食屋へ連れていってもらった。

店の前に着いて、ドアに手をかけた瞬間、私の足が止まった。

ガラス張りの窓際の席に、大河がいた。

向かいに座っているのは、25、6歳くらいの女性。笑うと口元に、くっきりとしたえくぼが浮かぶ人だった。

大河はすっと手を伸ばし、親指で彼女の口元についたクリームをそっと拭った。

18歳のころからずっと、私だけに向けてくれていた仕草だった。

隣の菜奈もそれに気づいていた。今にもドアを押して飛び込んでいきそうな彼女の腕を、私は咄嗟に掴んで引き留めた。

「やめて」

「……あの女、誰なの!?」

「ううん、知らない」

夜の11時、大河が帰ってきた。毎年の記念日とまったく同じように、赤いバラを一束抱えていた。

シャワーを浴びて出てきた大河が、背後からそっと私を抱きしめる。あごを私の頭の上に乗せて、低い声で言った。

「実里、今日は本当にすまなかった。絶対埋め合わせするから」

そっと目を閉じると、二つの顔が脳裏に交互に浮かんだ。私――伊能実里(いのう みのり)と、あの女。

半分ずつ。

21年間で初めて、大河の心の中に「他の誰か」を見た。

大河が眠りについてから、スマホをそっと手に取った。

ロック解除のパスコードは私の誕生日のまま、何も変わっていなかった。

チャット一覧のいちばん上に「ピン留め」されていたのは、本間望美(ほんま のぞみ)との会話だった。

半年前から始まったそのやり取りは、仕事の連絡からいつしか日常の雑談へと変わっていた。【了解です】というビジネスライクな返信が、【おやすみ】という親密な挨拶になっていた。

【今日、気分が落ち込んでて。甘いもの食べたい】という彼女のメッセージに、大河は【1階のお店のナポレオンパイ、買ってきてあげるよ】と返していた。

少し遡った日のメッセージには、【前に勧めてくれたお店、一人で行ってみたけど、イマイチだった。次は一緒に連れてって】と。

そして最後が、今夜届いたメッセージだった。【大河さん、今日は付き合ってくれてありがとう】

スマホを置いて、ベッドに戻った。

大河は寝返りを打って、長年の習慣のように私を引き寄せ、寝ぼけた声を漏らした。私はそっと問いかけた。

「……今日、誰と一緒にいたの?」

眠りの淵で、大河は「ん」とだけ喉を鳴らして、私をもっとしっかり抱きしめた。

「クライアントと」

私は、もう何も聞かなかった。

翌朝、出かける前に大河が私の額にキスをした。

「昨日は本当に抜けられなかったんだ。週末、温泉に連れていくから」

その笑顔は、昔と何も変わらなかった。

しばらく彼の瞳を見つめてから、私は「うん」とだけ言った。

大河が出ていくと、あの赤いワンピースをきちんと畳んで、クローゼットの一番奥にしまい込んだ。

昼に菜奈から電話があった。大丈夫かと聞かれて、長い沈黙が流れた。

「実里。あんた、7歳のころからずっと、彼だけを見てきたじゃない」

「わかってる」

「これから……どうするつもり?」

窓の外を見た。空はどこまでも青く、雲ひとつなかった。

「私にも、わからない」

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第1話
私には、秘密がある。 誰かに触れた瞬間、その人が心の中でいちばん大切に想っている人の顔が見える。 7歳のとき、上田大河(うえだ たいが)が隣に引っ越してきた。あの日から、大河の心の中にはずっと、私だけがいた。 18歳、初めて手を繋いだとき――私だった。 22歳、プロポーズされたとき――私だった。 結婚式の夜、唇が重なったとき――やっぱり、私だった。 しかし結婚3周年の朝。ネクタイを直してあげようと、指先が喉仏にそっと触れたとき、いつものように目を閉じた。 浮かび上がったのは、二つの顔だった。 一つは私。もう一つは、見知らぬ女。 その夜、大河のスマホが光った。 【大河さん、今日は付き合ってくれてありがとう】 21年間で、10万回もの触れ合い。 初めて、狂いが生じた。……結婚記念日を祝うために、1カ月前からレストランを予約していた。着ていく赤いワンピースは、大河が「似合うよ」と言ってくれたお気に入りの一着。パールのピアスも大河からもらったもの。午後6時。着替えを終えて鏡の前に立ち、ピアスをつけていると、大河から電話がかかってきた。「急な出張が入った。今夜は無理だ」慌ただしい声で、それだけ言い残して電話は切れた。大河のほうから先に電話を切るなんて、これが初めてだった。鏡の中の自分を見つめる。右のパールはちゃんと収まっているのに、左のピアスだけがつけられないまま、指先で揺れていた。ほどなくして、親友の真野菜奈(まの なな)から電話がかかってきた。「じゃあ私が付き合うよ」と。彼女の車に乗って、街なかの洋食屋へ連れていってもらった。店の前に着いて、ドアに手をかけた瞬間、私の足が止まった。ガラス張りの窓際の席に、大河がいた。向かいに座っているのは、25、6歳くらいの女性。笑うと口元に、くっきりとしたえくぼが浮かぶ人だった。大河はすっと手を伸ばし、親指で彼女の口元についたクリームをそっと拭った。18歳のころからずっと、私だけに向けてくれていた仕草だった。隣の菜奈もそれに気づいていた。今にもドアを押して飛び込んでいきそうな彼女の腕を、私は咄嗟に掴んで引き留めた。「やめて」「……あの女、誰なの!?」「ううん、知らない」夜の11時、大河が帰ってきた。毎年の記念日
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第2話
その日、大河の会社へ行った。乗り込んだエレベーターの中で、望美と鉢合わせた。私の顔を見るなり、彼女は太陽のようにまぶしい笑顔で手を差し伸べてきた。「こんにちは。本間望美と申します。上田社長の秘書をしております」臆する様子も微塵もない、堂々とした自然な振る舞いだった。彼女はフロアのボタンを押すと、一歩引いて私の隣に並んだ。しばらくして電話が鳴り、彼女が出た。「大河さん?うん、あの人、お昼はだいたい食べないんですよ。コーヒー一杯で済ませちゃって。もう慣れました。わかった」通話を切って、望美は私に向けて微笑んだ。「お昼を届けにいらしたんですか?」ちょうどエレベーターのドアが開いたが、私は答えなかった。社長室に入ると、大河は書類に目を落としたまま、顔も上げなかった。持参した弁当箱をデスクの上に置く。「お昼、ちゃんと食べてないの?」「忙しいと、ついな」すぐに望美がノックして書類を持ってきた。弁当箱をちらりと見て、くすりと笑いながら言う。「さすが、気が利きますね。大河さんが肉じゃがを食べたいって言ったら、もうちゃんと作っていらっしゃるなんて」大河に肉じゃがを取り分けようとした手が、宙で止まった。大河は黙って食べ続け、その間、一度も顔を上げなかった。望美が出ていくと、社長室には二人だけになった。「あの子、大河のことよく知ってるのね」「誰が?」「本間さん。お昼を食べないこと、コーヒーしか飲まないこと」大河は箸を置いた。「実里、彼女は秘書だよ。俺のことを把握しておくのは、仕事のうちだ」「そう」「また変なこと考えてるのか。俺の心の中にいるのはお前だけだ」わざとらしいほど大きなため息をひとつついて、大河は俯いたまま食べ続けた。その夜、大河は22時まで残業した。書斎にお菓子を持っていくと、デスクのスマホの画面が光っていた。望美からの、自撮り写真の通知だった。大河は私が見ている前でスマホをひっくり返して、画面を下にして伏せた。「仕事の件だ」「聞いてないわ」お菓子を置いて、書斎を出た。ドアノブに手をかけたまま、私はそこで一瞬だけ立ち止まった。――大河は、呼び止めなかった。……週末、「記念日の埋め合わせ」だと言って、大河はレストランに連れていってくれた。
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第3話
大河は書斎で残業していた。深夜11時。温めた牛乳をマグカップに注ぎ、私は書斎へと向かった。ドアがわずかに開いていた。大河は電話中だった。もうずっと聞いていなかった、あのひどく甘く、柔らかな声で。「うん、先に寝て。また明日話そう。俺もだよ」通話を切って顔を上げた大河は、ドアの隙間に立つ私を見て、一瞬だけ固まった。「……まだ起きてたのか」「部下に対しても、いつもそんな優しい声で話すの?」「普通に話しただけだろ。また変な勘ぐりをするなよ」私は何も言わず、背を向けてその場を離れた。背後で、書斎のドアがかちりと冷たく閉まる音がした。昔は大河のほうからあのドアを閉めることなんて、一度たりともなかったのに。それから20分ほど待つと、ようやく大河が寝室に入ってきた。まだ起きている私を見て、わずかに目を細める。「大河、聞いてほしい話があるの。私には昔から、不思議な力があって。誰かに触れると、その人が心の中でいちばん大切に想っている人の顔が見える」ジャケットを脱ごうとしていた大河の手が、ぴたりと止まった。「7歳のとき、初めてあなたに触れた瞬間、見えたのは私だった。18歳で手を繋いだときも、私だった。プロポーズの日も、私だった。……そして結婚3周年の朝。あなたの喉仏に触れたとき、二つの顔が見えた。私と、本間さんの顔が」しんと静まり返った時間のあと、大河はふっと吹き出すように笑った。「想像力がたくましいな。最近ひとりで家にいることが多いから、気が滅入ってるんじゃないか?」「冗談で言ってるんじゃない。一言一句、ぜんぶ本当のことよ」大河の口元から、すっと笑みが消えた。「お前やっぱり疲れてるよ。一度、ちゃんと診てもらったほうがいいかもしれないぞ」私は立ち上がり、大河の手を握った。「1秒だけでいい。今すぐ、頭の中で誰か一人を思い浮かべて。あなたの心の中に今、誰がいるか、私が当ててみせるから」大河は、さっと手を引き抜いた。決して乱暴な動作ではなかった。けれどそこに、微塵の迷いすら存在しなかった。「いい加減にしてくれ!秘書に何か不満があるなら直接俺に言え。彼女にはちゃんと付き合っている相手がいるんだぞ。そんな根も葉もない妄想で、彼女を悪く言うのは失礼だろ!」大河はジャケットを掴み直すと、そのまま寝室
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第4話
病院に一緒に来てほしいとメッセージを送ると、大河からは【わかった】と短い返信があった。けれど翌朝の7時。私のスマホに届いたのは、1通の冷ややかなメッセージだった。【急な出張が入った。明後日には戻る。体調が悪いなら運転手を呼んで病院に行ってくれ】すぐに電話をかけたが、無機質なアナウンスが「電波の届かない場所にいるか、電源が入っておりません」と告げるだけだった。会社の受付に問い合わせると、電話口に出た若い女性スタッフが、あっさりと答えた。「上田社長は本日、出張のご予定は入っておりませんが……」私はひとりでタクシーを呼び、病院へと向かった。産婦人科の長い廊下。目の前では、お腹の大きな妻のために、夫がしゃがみ込んでスニーカーの靴紐を結び直してあげていた。少し先では、別の夫が妻の腰をそっと支えながら、気遣うようにゆっくりと歩調を合わせている。この空間で、ひとりでいるのは私だけだった。血液検査の結果、黄体ホルモンの数値が著しく低く、切迫流産の危険があると医師に告げられた。「ご家族の方は、本日はいらっしゃっていませんか?」「……私が自分で署名します」そう答えた私を、医師は痛ましそうな目で一瞬だけ見つめた。「ご主人は?」「仕事で、出張中です」医師はそれ以上、何も踏み込んでこなかった。処置室のベッドに横たわり、張り止めの点滴を受けながら、ぼんやりとSNSのタイムラインをスクロールしていると、不意に望美の新しい投稿が目に飛び込んできた。息を呑むほど美しい海岸の夕焼けを収めた、9枚の写真。添えられたキャプションには──【誰かさんが、ストレスがたまると海を見たくなるって言うから、今日は連れてこられちゃった。上司に甘やかされすぎてます】9枚目、最後の写真。画面の右下に、男性の手がほんの少しだけ写り込んでいた。その薬指に光る指輪。今この瞬間も私の左手にあるものと、まったく同じデザインの、私たちの結婚指輪だった。その日の夜10時。お腹の奥から、引き裂かれるような激痛が始まった。ひとりでタクシーを呼んで夜間救急に駆け込み、看護師に車椅子を押されて処置室へと運び込まれる。「……もう、だめでしたか」「残念ですが、すでに進行流産となっています。今すぐ子宮内容除去の手術が必要です。ご家族への
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第5話
時計の針を、昨夜へと巻き戻す。私が菜奈に「迎えに来て」と電話をかけたのは、夜9時だった。「今から?」「……うん」彼女は20分で飛んできてくれた。部屋に入ってきた菜奈は、ローテーブルの上に残された「あれ」を見て、何も聞かなかった。私の荷物が詰まったスーツケースをひったくるように受け取ると、車へと向かってくれた。マンションを出たとき、手元のスマホが光った。大河からのメッセージだった。【熱がひどくて、点滴に付き合ってる。話は明日ちゃんと聞く。悪かった】菜奈は片手でハンドルを握りながら、私を横目で見やった。「……どこ行く?」「とりあえず、菜奈のところに」「彼は?」「他の子の、点滴に付き添ってる」菜奈はぐっと唇を噛み締め、それ以上は深く聞かなかった。私は車窓に頬を預けた。ガラス越しの冷たさが、じんわりと伝わってきた。そっと、自分のお腹に手を重ねてみる。――もう、何もない場所に。ごめんね。パパは、あなたの存在を知らなかったわけじゃないのよ。ただ、別のことのほうが急ぎだと思っただけなの。……翌日の午後。大河からの着信があった。私は通話ボタンを押した。「お前今どこにいる!?家にいないのか!?……なぁ、テーブルの上に置いてあった紙、あれはいったい何なんだよ!」「見れば分かるでしょ。あなたの子どもの」電話の向こう側が、息を呑んだようにふっと静まり返った。「……お前、昨日の夜……『妊娠してる』って、そう言いかけてたのか……?」「もう、いなくなったわ」「待ってくれ、俺は本当に何も知らなかったんだ!てっきりいつもの健診に付き合ってほしいってだけの話だと……!昨日は望美が本当にひどい高熱で――」「分かってる」私は、すがるような彼の弁明を静かに遮った。「彼女の熱が『38度5分』あったことは、あなたの耳にちゃんと届いてた。でも、私が『妊娠6週目』だったことは、聞こえなかった。帰ってきてから話を聞くってあなたは言ったけど……あの夜、私が玄関で見送ったのは、外へと急ぐあなたの背中だけだったわ」大河は、もう何も言い返せなかった。「ねえ、大河。昨夜、部屋を出ていくとき。あなた、一度でも振り返った?」電話の向こうからは、ただ呼吸音だけが聞こえてくる。「……一度も、振
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第6話
大河が出張に出ている間に、自分の荷物をすべて運び出した。前もって新しい部屋を探し、荷物をまとめ、引越し業者を予約しておいた。わずか3時間。それだけで、6年分の記憶が詰まった部屋を空にした。クローゼットの中の服。ドレッサーの上に並んだボトルや小瓶。ベッドサイドのテーブルに置きっぱなしの読みかけの本、水の入ったグラス、ヘアピン。引き出しの奥の、婚姻届受理証明書。キッチンにある、私が選んだエプロン。私のお茶碗。私の箸。ベランダで育てていた、ジャスミンの鉢植え。手伝いに来てくれた菜奈は、リビングの真ん中に立って、ぐるりと部屋を見回した。「これ、全部置いていくの?」「うん」「ソファは?半年以上かけて選んだじゃない」私は、そのソファを見つめた。「大きすぎて、新しい部屋には入らないから」菜奈はそれ以上何も言わなかった。最後にクローゼットを開けた。大河の側は整然としていて、私の側には空のハンガーだけが残されており、かすかに揺れていた。すでに私の署名が入った離婚届をローテーブルの上に置いた。その上に、赤い組み紐のミサンガを重ねた。大河が7歳のころにくれたもので、小さな鈴はもうすっかり錆びていた。隣にメモを添えた。【重荷になりすぎて、もうつけられない】玄関の下駄箱の上に、鍵を置いた。ドアを閉める前に、もう一度振り返った。一緒に選んだソファ。私が縫ったカーテン。昨日飾ったばかりの花がテーブルの上にあった。何も持っていかなかった。マンションの下では、菜奈が車で待っていた。乗り込むと、菜奈が静かにエンジンをかけた。「泣いた?」「ううん」菜奈はちらりと私を見て、それ以上は何も言わなかった。新しい部屋は北向きで、こぢんまりとした部屋だった。窓を開けると、下の路地を走り回る子どもたちの声が聞こえてきた。スーツケースを床に下ろして、がらんとしたフローリングの上に立った。細い窓から、冬の陽射しが差し込んでいた。スーツケースの一番上に、古い日記帳が入っていた。7歳から書き始めたものだ。最初のページにはこう書いてあった。【今日、隣に引っ越してきた男の子と仲良くなった。上田大河くん。転んで泣いていたから、手を引いて起こしてあげた。目を閉じたら、スカートを履いた私が見えた】日記を
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第7話
離婚協議書を、大河の会社宛てに書留で送った。追跡番号は手元に控えていたが、向こうからは何の連絡もなかった。菜奈から電話があった。当事者の私よりも、彼女のほうがずっと気が立っていた。「まだ署名してないの?」「してない」「催促したの?」「してない」「焦らないの?」窓の外の街路樹を見た。葉がほとんど落ちていた。「菜奈、協議書にははっきり書いてあるわ。離婚届にはもう署名も押印も済んでる。あとは役所に出すだけ。彼が引き延ばしたところで、どれだけ粘れるっていうの?」菜奈はしばらく黙ってから、声を落とした。「岡村友紀(おかむら ゆき)から聞いたんだけど、大河、今かなり憔悴してるって。無精髭を生やしたまま、会議中も上の空で、深夜になっても会社に残っていて、誰が声をかけても帰らないって」「それは彼の問題」「本当に、何も感じない?」スマホを握る指先に力が入った。爪が、手のひらに食い込んだ。「菜奈、私は流産したの。彼が海辺で別の女性の写真を撮っていたとき、私は一人で手術台に乗って、同意書にサインした。もう感じるわけないでしょ?」電話の向こう側が、ふっと静まり返った。しばらくして、菜奈は「ごめん」とだけ言った。「いいよ」電話を切って、窓の前にしばらく佇んでいた。足がしびれてきてから、ようやく机に戻り、デザイン画の制作を続けた。数日後、大河からメッセージが届いた。【なあ、一度会って、ちゃんと話したい】ほんの少し画面を見つめて、一言だけ返した。【いいよ】ビルの地下にあるカフェで待ち合わせた。わざと10分遅れて行った。ドアを開けると、冷たい隙間風が首元に忍び込んで、思わず肩をすくめた。大河は隅の席に座っていた。テーブルの上には、二つのカップ。ラテと、アメリカーノ。彼は、ひどく痩せていた。顎の輪郭が尖り、シャツの襟はしわくちゃで、ボタンが一つ掛け違えられていた。以前は出かける前に、必ず鏡の前で身だしなみを確認していた人だった。襟はきちんと伸ばして、袖口はそろえて。今は、自分の輪郭すらまともに保てていなかった。大河はラテを私のほうへそっと押し出した。「私、昔からコーヒーなんて飲まないわ」大河が一瞬、戸惑ったように目を泳がせた。「ラテが好きだと思って」「それは
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第8話
大河はついに離婚届にサインした。ただし、引き換えに一つ条件を出してきた。私の口座に1億円を振り込む、21年分の償いだからと。もちろん、受け取らなかった。そしてもう一つ、要求があった。「正式な離婚の届け出を、3カ月だけ待ってほしい。その間、もう一度だけお前を本気で口説かせてくれ」というものだった。代理人づてにその話を聞いたとき、菜奈の声はなんとも言えない複雑な響きを帯びていた。「これまであんたをちゃんとした形で追いかけたことが、一度もなかったって。7歳から28歳まで、ずっとあなたが追いかけてきた。今度は自分が死に物狂いで追う番だって」「好きにすれば」翌日、花が届いた。赤いバラ、巨大な花束。アトリエの入り口を塞ぐほどの量で、カードにはこう書いてあった。【1日目】受付に頼んで、受け取りを拒否してそのまま返送してもらった。次の日にまた届いた。受付が困り顔で言うには、何度突き返しても、その日のうちにまた送り直されてくるのだという。「お隣のお花屋さんにあげて」その次の日、受付が伝言を持ってきた。「お隣のお花屋さんの店主から、『上田さんにくれぐれもよろしくお伝えください』とのことです。最近、お店の前が華やかになってお客さんが増えているそうですよ」花の次は、別のものが届くようになった。バッグはそのまま返送した。ネックレスは、箱に【結婚三周年のお詫びに】と書いてあった。リボンすら解かず、そのまま送り返した。【せめて開けてみてくれないか】とメッセージが来た。返信しなかった。郵送作戦も通じないと悟ると、やがて大河は直接アトリエへ足を運ぶようになった。ある日、クライアントと打ち合わせ中に、アシスタントが会議室に入ってきた。「上田という方が受付でお待ちです」「そのまま待たせておいて」クライアントとの打ち合わせは午後2時から5時まで続いた。大河は3時間、受付のソファに座って待っていた。見かねたアシスタントが三度お茶を出したが、彼は一口も口をつけなかった。ただ、ロビーのテーブルに置いてある私の過去のデザインポートフォリオを、最初のページから最後まで、それこそ穴が開くほど一枚一枚めくっていたという。クライアントを見送って、会議室エリアに戻ると、ソファから大河が立ち上がった。その手には、まだ私のポート
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第9話
菜奈の元同僚が、その場に居合わせたらしい。大河は望美を社長室に呼び入れた。ドアを開け放ち、フロアの全社員が息を潜めて見守る中、告げた。「本間望美さん、今日付で解雇だ。退職手続きは今日中に終わらせてください」望美は固まった。見る見るうちに両目に涙を浮かべ、なぜかと問い詰めた。「お前自身が、いちばんよくわかっているはずだ」望美は泣き始めた。その声はみるみる大きくなり、水を打ったように静まり返ったオフィス全体に響き渡った。あの海辺の写真はなんだったの、あの木の下での約束はなんだったの、あのレストランの席はなんだったのと、彼女は涙ながらに問い続けた。ご両親に紹介してくれるって、そう言ったじゃないですか、とも。大河は、すがりつく彼女の言葉を冷徹に遮った。「二度と俺の前に現れないでくれ」菜奈はそこまで一気に話し終えて、私を見た。「……本当に解雇したんだって。友紀が言うには、オフィス全体が完全に凍りついたらしいわよ」「だから何」「……何も感じないの?」「彼が自分の会社の社員を解雇することが、私といったい何の関係があるというの」翌日、大河がアトリエに来た。一枚の書類を、私の机の上に置いた。退職合意書だった。望美の直筆サインと、会社の公印がしっかりと押されていた。大河は私の前に立ち、どこか褒めてほしそうな、すがるような瞳でこちらを見つめていた。まるで、いいことをして母親に報告しにきた子どものように。「実里……彼女を辞めさせた。もう二度と、俺たちの前には現れない」私は手にしていたペンを置き、静かに顔を上げた。「……それで?」大河は、喉まで用意していたはずの言葉を、すべて詰まらせた。「……喜んでくれると、思ってた」「大河。問題の本質は、最初から彼女じゃなかったのよ」「俺が全部悪かったのはわかってる!これからは変わる。どうすればいいか言ってくれ!スマホもいつでも見せる、SNSのパスワードだって全部教えるから……!」「私が、いつからあなたの心に自分の顔を見つけられなくなったか、わかる?……あなたが私に初めて嘘をついた日じゃないわ。彼女がコーヒーに入れる砂糖の量は完璧に覚えているのに、私がコーヒー自体を飲まないことを忘れた日よ。私たちの『木の下の約束』を彼女とも同じように交わして、帰って
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第10話
1年後、個展を開いた。タイトルは「7歳」子どもの純粋な目線から着想を得た作品群だった。担当のキュレーターは、私の展示を見て「ひどくやさしくて、なのにどこか力強い」と言ってくれた。雑誌の取材で、メインビジュアルである「手を繋ぐイメージ」に込めた意味を聞かれた。「特別な意味はありません。誰かと手を繋げるならそれは素敵なことだけれど、手を繋ぎ続けられないのなら、ひとりで歩いていけばいい。ただそれだけです」そのインタビュー記事が掲載されてから、菜奈が教えてくれた。大河はわざわざその雑誌を買って、自宅のベッドサイドに置いているらしい。以前、私が寝ていた側のテーブルに。寝室のクローゼットの半分は、今も空のままだという。服は全部右側のスペースにぎゅうぎゅうに押し込んで、私のいた左側には、頑なに何も置こうとしない。彼のアシスタントが漏らしたところによれば、オフィスでひとりパソコンのモニターをぼんやり眺めていることが多く、その画面にはいつだって、私たちの前撮り写真が映し出されているという。「……どうしてそんなに詳しいのよ」と、私は菜奈に呆れて聞いた。「友紀が言ってたの。いつもの仲間たちがみんなで心配してるって。この一年で、すっかり生気を失っているって」「それは、彼の問題よ」十一月、ひとりプラタナスの木を見に行った。プラタナスの並木道には黄金色の落ち葉が敷き詰められたように厚く積もっていて、一歩踏みしめるたびに、足元でさらさらと乾いた音が鳴った。ゆっくり歩いていると、数十メートル先の木の下に、ふと誰かが佇んでいるのが見えた。グレーのチェスターコート。5年前に、私が彼の誕生日に買ってあげた一着だった。袖口の生地がほつれて、細い糸が何本も飛び出している。それでも彼は、新しいコートに替えていない。向こうも、私に気づいた。一瞬その場に縫い止められたように固まり、それから、すがるようにこちらへ二歩踏み出して、誰かの名前を呼ぼうと口元を震わせた。私はきびすを返し、反対の方向へとまっすぐ歩き出した。ずいぶん遠くなってから一度だけ振り返ると、大河はまだあのプラタナスの木の下に立ち尽くしていた。ぽつんとひとりで、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、こちらをじっと見つめていた。私はまっすぐ前を向き、そのまま歩き続け
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