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桃アレルギーの私を忘れた彼

桃アレルギーの私を忘れた彼

By:  ねんねんCompleted
Language: Japanese
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私、水原遥那(みずはら はるな)は、その日、恋人の藤宮渉(ふじみや わたる)に誘われて、共通の友人たちの集まりに顔を出していた。 場が盛り上がった流れで、罰ゲームつきの王様ゲームをすることになった。負けたのは渉だった。 罰ゲームの内容は、近くのカフェまで行って全員分のドリンクを買ってくること。 三十分ほどして、渉は紙袋をいくつも提げて戻ってきた。笑いながら、ひとつずつテーブルに並べていく。 「お前、二日連続で徹夜してるんだろ。アイスコーヒーにしといた」 そう言って友人の前にカップを置くと、渉は今度、夏川茉莉(なつかわ まり)のほうを向いた。 「茉莉はマンゴーラッシー好きだったよな。ナタデココ入りで合ってる?」 「これはお前の。レモンティー、氷なし。いつものやつ」 ひと通り配り終えると、テーブルの上には人数分のドリンクが並んでいた。 ただ、私の前だけが空いていた。 渉の手元には、もう何も残っていない。 その場にいた全員が、一瞬だけ目を瞬かせた。 「遥那さんの分は?」 渉は少しも慌てた様子を見せず、自分のピーチティーを私のほうへ寄せた。 「忘れた。でも、遥那は俺のを飲めばいいだろ」 すぐに友人の一人が、大げさに肩をすくめた。 「うわ、またそれかよ。集まりのたびに忘れるじゃん。仲いいアピールするなら、もうちょっと別のパターンにしてくれって」 周りは笑いながら、軽い調子で茶化していた。 でも、私はそのカップに手を伸ばせなかった。 みんなには、私たちが仲のいい恋人同士に見えているのだと思う。 けれど渉は、本当に忘れている。 付き合って四年目になっても、彼はまだ、私が桃アレルギーだということを覚えていない。 私はピーチティーを、そっとテーブルの中央へ押し戻した。 四年も、ずっと見ないふりをしてきた。 もう、離れるべきだ。

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Chapter 1

第1話

私、水原遥那(みずはら はるな)は、その日、恋人の藤宮渉(ふじみや わたる)に誘われて、共通の友人たちの集まりに顔を出していた。

場が盛り上がった流れで、罰ゲームつきの王様ゲームをすることになった。負けたのは渉だった。

罰ゲームの内容は、近くのカフェまで行って全員分のドリンクを買ってくること。

三十分ほどして、渉は紙袋をいくつも提げて戻ってきた。笑いながら、ひとつずつテーブルに並べていく。

「お前、二日連続で徹夜してるんだろ。アイスコーヒーにしといた」

そう言って友人の前にカップを置くと、渉は今度、夏川茉莉(なつかわ まり)のほうを向いた。

「茉莉はマンゴーラッシー好きだったよな。ナタデココ入りで合ってる?」

「これはお前の。レモンティー、氷なし。いつものやつ」

ひと通り配り終えると、テーブルの上には人数分のドリンクが並んでいた。

ただ、私の前だけが空いていた。

渉の手元には、もう何も残っていない。

その場にいた全員が、一瞬だけ目を瞬かせた。

「遥那さんの分は?」

渉は少しも慌てた様子を見せず、自分のピーチティーを私のほうへ寄せた。

「忘れた。でも、遥那は俺のを飲めばいいだろ」

すぐに友人の一人が、大げさに肩をすくめた。

「うわ、またそれかよ。集まりのたびに忘れるじゃん。仲いいアピールするなら、もうちょっと別のパターンにしてくれって」

周りは笑いながら、軽い調子で茶化していた。

でも、私はそのカップに手を伸ばせなかった。

みんなには、私たちが仲のいい恋人同士に見えているのだと思う。

けれど渉は、本当に忘れている。

付き合って四年目になっても、彼はまだ、私が桃アレルギーだということを覚えていない。

私はピーチティーを、そっとテーブルの中央へ押し戻した。

四年も、ずっと見ないふりをしてきた。

もう、離れるべきだ。

……

茉莉はストローを挿すなり、ひと口飲んでぱっと顔を上げた。

「すごい。この前、私が何気なくナタデココ多めがいいって言ったの、覚えててくれたんだ」

渉は、さらりと言った。

「茉莉のこと、俺が忘れたことあった?」

同じテーブルにいた友人たちが、すぐに茶化し始めた。

「はいはい、記憶力いいのはもう分かったから」

「遥那さんが羨ましいよ。渉、その記憶力なら、記念日も誕生日も絶対忘れなさそうじゃん」

渉は笑って、こちらを振り向いた。

私はミネラルウォーターを口にしながら、目を伏せたまま何も言わなかった。

「飲まないのか?」

渉はそれだけで察した気になったらしい。

ピーチティーにストローを挿し、自分で先に口をつけてから、何事もなかったように私の手元へ寄せた。

「大丈夫。そんなに冷たくないから」

向かいの友人たちは、また始まったと言いたげに口元を緩めていた。

私は差し出されたカップに視線を落とした。

中には、氷がまだごろごろ残っている。

そこへ、茉莉がこちらに身を寄せてきた。

「渉、私それ飲んだことない。ちょっと味見してもいい?」

「いいよ」

答えたのは渉だった。

私が何か言う前に、ピーチティーは渉の手に移っていた。

茉莉は受け取ろうとせず、渉が持ったままのカップに顔を近づけた。

そのままストローに口をつけ、しばらく飲み続ける。

気づけば、中身は半分近くまで減っていた。

「やば、ちょっと飲みすぎたかも」

茉莉は悪びれもなく笑い、自分のマンゴーラッシーを私のほうへ滑らせた。

「遥那さん、ごめんね。けっこう飲んじゃった。よかったら、私の飲む?」

それは、茉莉がもう半分以上口をつけたものだった。

私は首を横に振った。

「いらない」

「飲んでよ。もしかして、間接キスとか気にしちゃうタイプ?女の子同士だし、大丈夫でしょ」

明るい声でそう言うと、茉莉はわざとらしく背筋を伸ばし、びしっと片手を上げてみせた。

その妙に真面目ぶった仕草がツボに入ったのか、周りの友人たちは顔を見合わせたあと、こらえきれないように吹き出した。

すぐに、部屋中に笑い声が広がる。

渉は笑いながら呆れたように首を振り、茉莉は自分でもおかしくなったのか、肩を震わせて笑っていた。

渉の幼なじみたちの集まりに、私はもう何度も顔を出してきた。

それでも、こういう身内だけで盛り上がる流れには、いつも置いていかれる。

笑い声がようやく落ち着いたころ、誰かが私をちらりと見て、すぐに視線をそらした。

渉の顔から、笑みが消えた。

「茉莉は謝っただろ。まだ何が気に入らないんだよ」

私は、かすかに眉を寄せた彼を見つめた。

別に、茉莉を責めたかったわけじゃない。

ただ、あの冗談と謝罪がどう結びつくのか、私には分からなかっただけだ。

けれど渉は、茉莉のマンゴーラッシーを取り上げると、私の前にあったピーチティーも一緒に彼女へ渡した。

「遥那が飲まないならいい。両方、茉莉が飲めば」

それから、苛立ちを隠そうともせずに私を見た。

「遥那、そんなくだらないことで空気悪くするなよ。

茉莉だって、わざとじゃないんだから」

隣で、茉莉がぽつりと言った。

「いいの。私が悪いんだし」

茉莉は二つのカップを抱えて席に戻った。

うつむいた横顔は、今にも泣き出しそうに見えた。

さっきまでの笑い声が、嘘みたいに消える。

誰かが慌てて明るい声を出した。

「ほら、続きやろう。次、別のゲームにしない?」

けれど渉は、もうすっかり興が冷めたようだった。

ソファにもたれて、黙ってスマホをいじっている。

私たちが付き合い始めて、四年目になる。

渉は、茉莉のマンゴーラッシーにはナタデココを多めにすることも、友人が何日も徹夜続きだったことも覚えている。

それなのに、私が桃アレルギーだということだけは覚えてくれない。

さっきのピーチティーを本当に口にしていたら、今ごろ私は救急車で運ばれていたかもしれない。

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第1話
私、水原遥那(みずはら はるな)は、その日、恋人の藤宮渉(ふじみや わたる)に誘われて、共通の友人たちの集まりに顔を出していた。場が盛り上がった流れで、罰ゲームつきの王様ゲームをすることになった。負けたのは渉だった。罰ゲームの内容は、近くのカフェまで行って全員分のドリンクを買ってくること。三十分ほどして、渉は紙袋をいくつも提げて戻ってきた。笑いながら、ひとつずつテーブルに並べていく。「お前、二日連続で徹夜してるんだろ。アイスコーヒーにしといた」そう言って友人の前にカップを置くと、渉は今度、夏川茉莉(なつかわ まり)のほうを向いた。「茉莉はマンゴーラッシー好きだったよな。ナタデココ入りで合ってる?」「これはお前の。レモンティー、氷なし。いつものやつ」ひと通り配り終えると、テーブルの上には人数分のドリンクが並んでいた。ただ、私の前だけが空いていた。渉の手元には、もう何も残っていない。その場にいた全員が、一瞬だけ目を瞬かせた。「遥那さんの分は?」渉は少しも慌てた様子を見せず、自分のピーチティーを私のほうへ寄せた。「忘れた。でも、遥那は俺のを飲めばいいだろ」すぐに友人の一人が、大げさに肩をすくめた。「うわ、またそれかよ。集まりのたびに忘れるじゃん。仲いいアピールするなら、もうちょっと別のパターンにしてくれって」周りは笑いながら、軽い調子で茶化していた。でも、私はそのカップに手を伸ばせなかった。みんなには、私たちが仲のいい恋人同士に見えているのだと思う。けれど渉は、本当に忘れている。付き合って四年目になっても、彼はまだ、私が桃アレルギーだということを覚えていない。私はピーチティーを、そっとテーブルの中央へ押し戻した。四年も、ずっと見ないふりをしてきた。もう、離れるべきだ。……茉莉はストローを挿すなり、ひと口飲んでぱっと顔を上げた。「すごい。この前、私が何気なくナタデココ多めがいいって言ったの、覚えててくれたんだ」渉は、さらりと言った。「茉莉のこと、俺が忘れたことあった?」同じテーブルにいた友人たちが、すぐに茶化し始めた。「はいはい、記憶力いいのはもう分かったから」「遥那さんが羨ましいよ。渉、その記憶力なら、記念日も誕生日も絶対忘れなさそうじゃん」
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第2話
それでも渉は、きっと私の運が悪かったか、体が弱かっただけだと思うのだろう。渉は黙り込み、茉莉もうつむいたままだった。さっきまで騒がしかった空気が、嘘みたいに重くなる。そのとき、スマホが鳴った。席を立ってトイレへ向かう途中、背後で誰かが小さく息をつくのが聞こえた。扉を閉める。その途端、向こう側から明るい声が上がった。「ほらほら、続きやろう。茉莉も一枚引いて。まずチーム分けね」茉莉が小さく鼻をすすった。「渉はもう引いた?」「とっくに引いたよ。ほら、茉莉も早く」私は扉に背を預け、喉の奥にこみ上げるものを無理に飲み込んだ。電話口で、人事部長が言った。「本当に退職するの?来月から主任に昇格する予定だったでしょう?」私は目を閉じた。壁の向こうでは、渉と茉莉の組が勝ったらしい。歓声のあと、ぱん、と手を合わせる音が聞こえた。「はい。もう決めました」人事部長はしばらく黙ったあと、あきらめたように退職日までの手続きと引き継ぎについて話し始めた。電話を切って席へ戻ると、さっきまでいた部屋は空になっていた。店員が片づけをしていて、私に気づくと少し驚いた顔をした。「あの、お客様。先ほどの皆さまのお連れ様ですか?藤宮様たちでしたら、海辺でバーベキューをするそうで、もうお会計を済ませて出られました」握りしめていた拳から、ゆっくり力が抜けていく。私は小さく息を吐いた。また、忘れられた。……遅い時間だったせいで、タクシーはなかなかつかまらなかった。ようやく乗れたころには、もうすっかり夜が更けていた。家に着き、玄関のドアを開けたところで、渉から電話がかかってきた。出るなり、責めるような声が飛んできた。「なんで車に乗らなかったんだよ。茉莉がお前のピーチティーをちょっと飲んだくらいで、そこまで拗ねることか?こっちはずっと探してたんだぞ」私はうつむいたまま靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。「みんなが出るとき、私はトイレで電話してた」電話の向こうで、渉が数秒黙った。それでも、口調はきついままだった。「そんなに長く話すような用だったのかよ」つまり、私が悪いらしい。一拍置いて、渉は言った。「今夜はまだ長くなりそうだから。悪いけど、帰りは自分でなんとかしてくれ」私
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第3話
私はカップをそのままテーブルに置いた。「ありがとう。二人で飲んで」茉莉は「え」と小さく声を漏らし、首をすくめた。「遥那さん、そんな顔しなくても。私、口つけてないよ?」渉は眉をひそめ、私の腕を引いてベランダへ出ると、声を低くした。「お前、何してるんだよ。せっかく茉莉が作ってくれたのに、あんな断り方したら気まずくなるだろ」私は渉の目を見返した。「桃は、無理なの……」「桃って……お前、ピーチティー好きだっただろ。茉莉が作ったから嫌なのか?」あまりにも話がかみ合わなくて、急にばかばかしくなった。出会ったばかりの頃、私は桃アレルギーだと伝えたはずだった。桃のうぶ毛を少し吸い込むだけでも、息が苦しくなる。まして、口にするなんて論外だった。それなのに渉は、いつから私がピーチティーを好きだと思い込むようになったのだろう。私が黙っていると、渉は深いため息をついた。「あの日、お前のドリンクを買い忘れたからか?それとも、茉莉がお前の分を飲んだから?最近のお前、ちょっと気にしすぎだろ。俺と茉莉は幼なじみだけだ。嫉妬するにしても、茉莉にぶつけるなよ」ふと、渉はベランダに干してあった私の仕事用のスーツがなくなっていることに気づいた。明日のために取り込んだのだと思ったのか、渉の声が少しだけやわらいだ。そして、私の手首をそっと握った。「もう怒るなって。もうすぐ主任になるんだろ?そんなことで拗ねてたら、部下に示しがつかないぞ。今の仕事がひと段落したら、来月、夜景のきれいなレストラン連れてってやるから。二人でゆっくり飯食おう。な?」私は何も言わず、手首を引いた。渉は一瞬、戸惑ったように私を見た。そのとき、茉莉が目を赤くしてベランダの入口に立っていた。「ごめんね、遥那さん。私、もう余計なことしないから。私のせいで喧嘩しないで」それだけ言うと、茉莉は逃げるようにリビングを横切り、玄関のほうへ走っていった。渉の顔が、すっと強張った。「これで満足か?」渉は上着をつかみ、茉莉を追いかけようとした。私は渉を呼び止めた。「渉、私の誕生日、覚えてる?」渉は玄関を出かけたところで足を止めた。「いつだっけ。最近忙しくて、俺……」「昨日」本当は、渉の幼なじみたちの集まりになんて行きたく
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第4話
「桃アレルギーなの」背後で、フォークの音が止まった。「いつから?」「生まれつき」渉の声が、少し荒くなる。「だったら先に言えよ。茉莉がわざわざ選んでくれたのに、無駄になっただろ」私は振り返り、ケーキフォークを握ったまま不満そうにこちらを見る渉を見た。私の顔色を見て、渉もようやく何かおかしいと気づいたらしい。表情は少し和らいだ。けれど、口を開けばやはり、面倒な相手をなだめるような言い方だった。「分かった、分かった。これからは桃味のものは買わない。それでいいんだろ」そう言って、渉は面倒くさそうに息を吐いた。まるで、自分はもう十分譲ったのだから、私はそれで納得するべきだと言われているようだった。最初から最後まで、渉は私がただ拗ねているだけだと思っている。少し機嫌を取れば、それで済む話なのだと。「うん」私は短く返事をして、必要な書類をバッグに入れた。渉はケーキを食べながら、ちらりとこちらを見た。「出張?」「実家に帰る」渉は軽くうなずいた。「そっか。しばらく帰ってなかったよな」そこで何かを思い出したように、渉は続けた。「あ、そうだ。前にお前が持ってきた飲むヨーグルト、茉莉がうまいって言ってた。辛味噌も気に入ってたし、帰るなら多めに買ってきてやって。辛味噌は原材料見とけよ。茉莉、ピーナッツ入ってるの無理だから」私は返事をしなかった。渉はそれ以上確認もせず、引き出しを開けて透明な袋を取り出した。「これも持ってけ。移動中に食べればいい」中に入っていたのは、食べかけのポテトチップスと、半分だけ残ったチョコレートだった。数日前に茉莉が遊びに来たとき、渉は彼女のために袋いっぱいのお菓子を買い込んでいた。その残りが、これだった。私は渉の横を通り過ぎ、バッグにポケットティッシュを入れた。渉の声が低くなる。「まだ怒ってるのか?だから、もう桃味のものは買わないって言っただろ。これ以上どうしろってんだよ。まあいい。実家で少し頭冷やしてこい。戻ってきたら、昨日言ってたレストランでちゃんと話そう。茉莉が、もう予約してくれてるから」私は背を向けたまま、静かに首を横に振った。「いい。高いところ、苦手だから」次の瞬間、腕をつかまれた。ぐっと引かれて、無
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第5話
エレベーターが下りていく。エントランスを出ると、外はしんと静まり返っていた。タクシーの運転手さんが、スーツケースをトランクに載せてくれる。「忘れ物は大丈夫ですか?こんな時間に空港まで行くなら、戻るのも大変ですからね」私は後部座席に腰を下ろした。「大丈夫です。置いてきたのは、もう要らないものだけなので。お願いします」タクシーがゆっくり走り出した。空港が近づくころになって、ようやく渉から電話がかかってきた。「今の、どういう意味だよ。もう戻らないって。別れるって何だよ。実家に帰るだけじゃないのか」私は窓の外へ目を向けた。人気のない夜道を、街路樹の影が後ろへ流れていく。大学に入ってから、私はこの街で七年暮らした。その七年のほとんどに、渉がいた。それなのに、いざ離れるとなっても、不思議なほど未練はなかった。「渉、私は勢いで言ってるんじゃない」「だったら何だよ。土産のことか?茉莉の分まで頼んだのがそんなに嫌だったのか?嫌なら買ってこなくていいだろ。そんなことで別れるとか言うなよ。俺たち、四年も付き合ってきたんだぞ」「そういうことじゃない」渉の声が、少し焦ったものに変わった。「じゃあ何なんだよ。まさか、まだあのピーチティーのことを気にしてるのか?」返す言葉を探す気力も、もう残っていなかった。私は目を閉じ、シートにもたれて小さく息を吐いた。「さあね」私はそれ以上何も言わず、電話を切った。そのまま渉と、彼の幼なじみたちをまとめてブロックした。運転手さんが、バックミラー越しにちらりと私を見た。「お客さん、彼氏さんと何かあったんですか?」「……別れたんです」「そりゃまた……喧嘩ですか?それとも、浮気とか?」みんな同じことを聞く。どうして別れるのか、と。私は大学時代のたまごサンドと、あのカフェラテを思い出した。渉が買い取ってくれた、袴一式のことも。それから、付き合って初めてのバレンタインに渡した手作りのアルバム。二人で撮った写真を、一枚残らず貼ったアルバムだった。渉はそれを抱きしめたまま、何度も目元を拭っていた。いい大人が子どもみたいに泣いているのがおかしくて、私は笑った。渉は私の手を強く握り、何度か言葉を詰まらせてから言った。「遥那、
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第6話
エレベーターのボタンを何度も押しているあいだも、電話の向こうで茉莉は泣いていた。「遥那さん、本当に行っちゃったの?私のせい……?ごめんね、渉。私、また余計なことしちゃった。ミルクレープも、あのドリンクも、買わなければよかった。もうやだ。私なんて、いないほうがいいのかも……」茉莉は、いつもグループの中心で笑っているような子だった。そんな彼女がここまで弱った声を出すのを、渉は聞いたことがなかった。エレベーターの階数表示が、一階で止まった。遥那はもう下まで降りたのだ。今すぐ追えば、まだ間に合うかもしれない。それなのに、そのとき渉の頭を占めていたのは、電話の向こうで泣き続ける茉莉のことだった。茉莉が本当に何かしたらどうしよう。そう思った瞬間、渉は遥那を追うことを諦め、車の鍵を手に取って茉莉の家へ向かった。茉莉が無事だと分かっても、不安は消えなかった。結局、夜が明けるまでそばにいた。帰り際、茉莉が渉の手をつかんだ。「渉、遥那さん、本当に戻ってこないの?」渉は一度目を伏せてから、答えた。「戻ってくるよ。今は意地になってるだけだ。落ち着けば、きっと帰ってくる」そのときの渉は、本気でそう思っていた。けれど今、テーブルに残されたミルクレープを見ていると、その自信が少しずつ揺らいでいく。もし、本当に戻ってこなかったら。……三日後、雨が降った。渉は朝から窓の外ばかり気にしていた。遥那が帰ってきても、見逃したくなかった。けれど会社から電話が入り、溜まった仕事の件で出社を求められた。仕方なく、渉は隣の部屋の住人に、遥那が戻ったらすぐ連絡してほしいと頼んだ。隣人は不思議そうな顔をした。「喧嘩でもしたんですか?水原さんが帰ってきたら、本人から連絡が来るんじゃないですか?」渉は苦笑した。「ブロックされてるんです」その日、渉は仕事中もずっと落ち着かなかった。何度も隣人にメッセージを送り、そのたびに「まだ帰ってきていません」と返ってくる。窓の外では、雨脚がさらに強くなっていた。遥那は車を運転できない。空港に着いたあと、タクシーがつかまらなかったら。雨の中で、濡れたまま待っていたら。考えれば考えるほど、じっとしていられなくなった。渉は結局、仕事を途中で抜け、
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第7話
百合以外にも、花はいくらでもあった。けれど渉は、別の花を選ぶことなど考えようともしなかった。人事部としてもこれ以上は対応できないということで、渉は会社を出るよう促された。外では、まだ雨が降っていた。来たときよりも激しく、視界まで白くにじむほどだった。渉は、遥那のスマホの待ち受けに写っていた袴姿を思い出した。あの袴は、レンタルではなく買ったものだった。いつか結婚するときは、この袴で前撮りしよう。そう言ったのは、たしかに渉だった。けれど、その袴は……袴をしまっていた箱は、渉が捨てた。あの箱には、ほかにもいろいろ入っていたはずだ。大学の卒業写真も、袴一式も、記念日に贈り合ったものも。それから、遥那が手作りしてくれたアルバムも。風にあおられた雨が、車体を強く叩いた。次の瞬間、空を裂くように雷が鳴る。渉は乱暴に車のドアを開けると、ほとんど我を失ったように車を出した。……新しい職場に入ってから、私の毎日は驚くほど穏やかだった。通勤時間が短くなり、満員電車に押し込まれることもない。朝は、そのぶん一時間以上長く眠れるようになった。私が何時に起きても、食卓には両親が用意してくれた朝食がある。冷蔵庫には、昼に持っていくお弁当と、午後に食べる果物が入っていた。中身を一つ一つ確かめなくても、そのまま持って出られる。アレルギーを気にしなくていいだけで、ずいぶん楽だった。そんな穏やかな日が続いていたある日、前の職場の同僚から電話がかかってきた。「遥那、この前、例の彼氏が会社に来たよ。あなたがいつ辞めたかも知らなかったみたい。しかも、百合の花束まで持ってきてたの。正直、見ていてこっちが呆れた」私は少し驚いた。「会社まで来て、何しに?」「人事部で、遥那の書類を見せてほしいって。緊急連絡先を知りたかったみたい。……退職したこと、彼には言ってなかったの?」「言ってない。だから知らないと思う」私は手元のファイルの表紙を、指先で何度かなぞった。胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。「だからあんなに焦ってたんだ。喧嘩でもしたの?」「まあ、そんな感じ。もう別れたし――」そこで、新しい職場の同僚が「そろそろ行こう」と声をかけてきた。歓迎会ということで、まず私にメニューが
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第8話
店を出ても、渉はまだあの男性社員のほうを気にしていた。私が名前を呼ぶと、渉は暗い顔のまま、店先から少し離れた場所までついてきた。「俺と別れたのって、あいつが原因なのか?」爪が手のひらをかすめる。私は胸の奥にこみ上げるものを押し込めて、ため息をついた。「渉。今になってもまだ、別れた理由が分からないの?」渉は、何日も髭を剃っていないようだった。あごには無精ひげが伸び、赤く充血した目を見る限り、まともに眠れてもいないのだろう。私にそう聞かれると、渉は足元に目を落とした。声は少しかすれていた。「思い出したんだ。お前が桃アレルギーだったこと。あの日、俺がピーチティーを渡しただろ。もしお前が飲んでたら、病院に運ばれてたかもしれない。そのあとも、茉莉がピーチティーを作ったり、桃のミルクレープを買ってきたりした。高いところが苦手なのに、あんな高層階のレストランまで予約した。そこまでされたら、怒って当然だよな」渉はようやく顔を上げた。「遥那、本当に悪かった」私はしばらく何も言えなかった。こんな遠くまで追いかけてきて、渉がようやく分かったのは、結局そんな上辺だけのことだった。「それを謝りに来たの?謝れば、終わると思った?また忘れたら、そのたびに謝るつもり?それとも、また私に言うの?どうして先に教えてくれなかったんだって」渉がはっと顔を上げた。「違う。今回はたまたまなんだ。最近ずっと忙しくて……」「何に?」渉は言葉を失った。私はそのまま続けた。「幼なじみたちと集まって、バーベキューに行って、茉莉と高校の先生に会いに行って。そうやって忙しかったから、私の桃アレルギーも、高いところが苦手なことも、誕生日も忘れたのね」痛いところを突かれたように、渉の表情がこわばった。それでも彼は一歩近づき、私の手を取ろうとした。私はその手を振り払った。それでも渉は、また距離を詰めてきた。「俺と茉莉は、本当にただの幼なじみなんだ。誤解しないでくれ。それに、茉莉だってわざとじゃない。あいつ、自分なんていないほうがいいって泣くくらい、責任を感じてたんだぞ。遥那、許してくれ。これからは絶対に忘れない。誕生日も、アレルギーも、高いところが苦手なことも、ちゃんと覚えておく。俺は、お前がい
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第9話
「水原さん、大丈夫?」「うん、大丈夫。ありがとう」男性社員が駆け寄ってきた。渉のほうをちらりと見てから、声を落として聞く。「もしかして、彼氏?」「元彼」「……より戻したい系?」「まあ、そんなところ」男性社員は何か言いかけて、そこで口を閉じた。言葉を選んでいるのが分かったので、私は先に言った。「その気があったら、元彼なんて言わないよ」その言葉に、男性社員は少しだけほっとした顔をした。「じゃあ、これから仕事で分からないことがあったら、いつでも聞いて。俺で分かることなら、何でも答えるから」私はうなずいた。振り返ると、渉はまだその場から動けずにいた。肩を落としたまま、すっかり気力をなくしたように立ち尽くしていた。……それから数日、渉はもう私を訪ねてこなかった。おそらく向こうへ戻ったのだろう。私は偶然、茉莉のインスタを目にした。茉莉は高校時代の友人たちとの集合写真を載せ、こう書いていた。【十年以上の付き合いって、後から来た人のひと言ふた言で壊れるものなんだね】詳しいことまでは知らない。ただ聞いた話では、渉は戻ってすぐ、茉莉を問い詰めたらしい。茉莉は、自分はわざとではないと言い張った。恋人だった渉でさえ私の桃アレルギーを忘れていたのに、自分が覚えているわけがない、と。けれど渉は、ケーキ屋の店長に直接話を聞きに行った。店長の話では、桃のミルクレープはあまり注文が入らないらしい。よく出るのは、チョコや抹茶、季節のフルーツだった。それでも茉莉は、ほかの味には目もくれず、桃のミルクレープを選んだ。そのうえ、桃は洗わず、そのまま切って上にのせてほしいとまで頼んでいた。店長は困ったものの、断りきれず、その場で一つ作ることになった。それなのに茉莉は、店に並んでいたものの中から、一番きれいなものを選んだだけだと言っていた。そこで渉は、ようやくすべてを理解した。渉は茉莉と激しく言い争い、それきり連絡を絶つと言った。茉莉には、それが耐えられなかった。小さい頃から周りにちやほやされて育ち、家は裕福で、見た目もよく、愛想もいい。そんなふうに突き放されたことなど、一度もなかったのだ。渉にブロックされてからも、茉莉は何度も電話をかけた。けれど一度もつな
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