LOGIN私、水原遥那(みずはら はるな)は、その日、恋人の藤宮渉(ふじみや わたる)に誘われて、共通の友人たちの集まりに顔を出していた。 場が盛り上がった流れで、罰ゲームつきの王様ゲームをすることになった。負けたのは渉だった。 罰ゲームの内容は、近くのカフェまで行って全員分のドリンクを買ってくること。 三十分ほどして、渉は紙袋をいくつも提げて戻ってきた。笑いながら、ひとつずつテーブルに並べていく。 「お前、二日連続で徹夜してるんだろ。アイスコーヒーにしといた」 そう言って友人の前にカップを置くと、渉は今度、夏川茉莉(なつかわ まり)のほうを向いた。 「茉莉はマンゴーラッシー好きだったよな。ナタデココ入りで合ってる?」 「これはお前の。レモンティー、氷なし。いつものやつ」 ひと通り配り終えると、テーブルの上には人数分のドリンクが並んでいた。 ただ、私の前だけが空いていた。 渉の手元には、もう何も残っていない。 その場にいた全員が、一瞬だけ目を瞬かせた。 「遥那さんの分は?」 渉は少しも慌てた様子を見せず、自分のピーチティーを私のほうへ寄せた。 「忘れた。でも、遥那は俺のを飲めばいいだろ」 すぐに友人の一人が、大げさに肩をすくめた。 「うわ、またそれかよ。集まりのたびに忘れるじゃん。仲いいアピールするなら、もうちょっと別のパターンにしてくれって」 周りは笑いながら、軽い調子で茶化していた。 でも、私はそのカップに手を伸ばせなかった。 みんなには、私たちが仲のいい恋人同士に見えているのだと思う。 けれど渉は、本当に忘れている。 付き合って四年目になっても、彼はまだ、私が桃アレルギーだということを覚えていない。 私はピーチティーを、そっとテーブルの中央へ押し戻した。 四年も、ずっと見ないふりをしてきた。 もう、離れるべきだ。
View More「水原さん、大丈夫?」「うん、大丈夫。ありがとう」男性社員が駆け寄ってきた。渉のほうをちらりと見てから、声を落として聞く。「もしかして、彼氏?」「元彼」「……より戻したい系?」「まあ、そんなところ」男性社員は何か言いかけて、そこで口を閉じた。言葉を選んでいるのが分かったので、私は先に言った。「その気があったら、元彼なんて言わないよ」その言葉に、男性社員は少しだけほっとした顔をした。「じゃあ、これから仕事で分からないことがあったら、いつでも聞いて。俺で分かることなら、何でも答えるから」私はうなずいた。振り返ると、渉はまだその場から動けずにいた。肩を落としたまま、すっかり気力をなくしたように立ち尽くしていた。……それから数日、渉はもう私を訪ねてこなかった。おそらく向こうへ戻ったのだろう。私は偶然、茉莉のインスタを目にした。茉莉は高校時代の友人たちとの集合写真を載せ、こう書いていた。【十年以上の付き合いって、後から来た人のひと言ふた言で壊れるものなんだね】詳しいことまでは知らない。ただ聞いた話では、渉は戻ってすぐ、茉莉を問い詰めたらしい。茉莉は、自分はわざとではないと言い張った。恋人だった渉でさえ私の桃アレルギーを忘れていたのに、自分が覚えているわけがない、と。けれど渉は、ケーキ屋の店長に直接話を聞きに行った。店長の話では、桃のミルクレープはあまり注文が入らないらしい。よく出るのは、チョコや抹茶、季節のフルーツだった。それでも茉莉は、ほかの味には目もくれず、桃のミルクレープを選んだ。そのうえ、桃は洗わず、そのまま切って上にのせてほしいとまで頼んでいた。店長は困ったものの、断りきれず、その場で一つ作ることになった。それなのに茉莉は、店に並んでいたものの中から、一番きれいなものを選んだだけだと言っていた。そこで渉は、ようやくすべてを理解した。渉は茉莉と激しく言い争い、それきり連絡を絶つと言った。茉莉には、それが耐えられなかった。小さい頃から周りにちやほやされて育ち、家は裕福で、見た目もよく、愛想もいい。そんなふうに突き放されたことなど、一度もなかったのだ。渉にブロックされてからも、茉莉は何度も電話をかけた。けれど一度もつな
店を出ても、渉はまだあの男性社員のほうを気にしていた。私が名前を呼ぶと、渉は暗い顔のまま、店先から少し離れた場所までついてきた。「俺と別れたのって、あいつが原因なのか?」爪が手のひらをかすめる。私は胸の奥にこみ上げるものを押し込めて、ため息をついた。「渉。今になってもまだ、別れた理由が分からないの?」渉は、何日も髭を剃っていないようだった。あごには無精ひげが伸び、赤く充血した目を見る限り、まともに眠れてもいないのだろう。私にそう聞かれると、渉は足元に目を落とした。声は少しかすれていた。「思い出したんだ。お前が桃アレルギーだったこと。あの日、俺がピーチティーを渡しただろ。もしお前が飲んでたら、病院に運ばれてたかもしれない。そのあとも、茉莉がピーチティーを作ったり、桃のミルクレープを買ってきたりした。高いところが苦手なのに、あんな高層階のレストランまで予約した。そこまでされたら、怒って当然だよな」渉はようやく顔を上げた。「遥那、本当に悪かった」私はしばらく何も言えなかった。こんな遠くまで追いかけてきて、渉がようやく分かったのは、結局そんな上辺だけのことだった。「それを謝りに来たの?謝れば、終わると思った?また忘れたら、そのたびに謝るつもり?それとも、また私に言うの?どうして先に教えてくれなかったんだって」渉がはっと顔を上げた。「違う。今回はたまたまなんだ。最近ずっと忙しくて……」「何に?」渉は言葉を失った。私はそのまま続けた。「幼なじみたちと集まって、バーベキューに行って、茉莉と高校の先生に会いに行って。そうやって忙しかったから、私の桃アレルギーも、高いところが苦手なことも、誕生日も忘れたのね」痛いところを突かれたように、渉の表情がこわばった。それでも彼は一歩近づき、私の手を取ろうとした。私はその手を振り払った。それでも渉は、また距離を詰めてきた。「俺と茉莉は、本当にただの幼なじみなんだ。誤解しないでくれ。それに、茉莉だってわざとじゃない。あいつ、自分なんていないほうがいいって泣くくらい、責任を感じてたんだぞ。遥那、許してくれ。これからは絶対に忘れない。誕生日も、アレルギーも、高いところが苦手なことも、ちゃんと覚えておく。俺は、お前がい
百合以外にも、花はいくらでもあった。けれど渉は、別の花を選ぶことなど考えようともしなかった。人事部としてもこれ以上は対応できないということで、渉は会社を出るよう促された。外では、まだ雨が降っていた。来たときよりも激しく、視界まで白くにじむほどだった。渉は、遥那のスマホの待ち受けに写っていた袴姿を思い出した。あの袴は、レンタルではなく買ったものだった。いつか結婚するときは、この袴で前撮りしよう。そう言ったのは、たしかに渉だった。けれど、その袴は……袴をしまっていた箱は、渉が捨てた。あの箱には、ほかにもいろいろ入っていたはずだ。大学の卒業写真も、袴一式も、記念日に贈り合ったものも。それから、遥那が手作りしてくれたアルバムも。風にあおられた雨が、車体を強く叩いた。次の瞬間、空を裂くように雷が鳴る。渉は乱暴に車のドアを開けると、ほとんど我を失ったように車を出した。……新しい職場に入ってから、私の毎日は驚くほど穏やかだった。通勤時間が短くなり、満員電車に押し込まれることもない。朝は、そのぶん一時間以上長く眠れるようになった。私が何時に起きても、食卓には両親が用意してくれた朝食がある。冷蔵庫には、昼に持っていくお弁当と、午後に食べる果物が入っていた。中身を一つ一つ確かめなくても、そのまま持って出られる。アレルギーを気にしなくていいだけで、ずいぶん楽だった。そんな穏やかな日が続いていたある日、前の職場の同僚から電話がかかってきた。「遥那、この前、例の彼氏が会社に来たよ。あなたがいつ辞めたかも知らなかったみたい。しかも、百合の花束まで持ってきてたの。正直、見ていてこっちが呆れた」私は少し驚いた。「会社まで来て、何しに?」「人事部で、遥那の書類を見せてほしいって。緊急連絡先を知りたかったみたい。……退職したこと、彼には言ってなかったの?」「言ってない。だから知らないと思う」私は手元のファイルの表紙を、指先で何度かなぞった。胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。「だからあんなに焦ってたんだ。喧嘩でもしたの?」「まあ、そんな感じ。もう別れたし――」そこで、新しい職場の同僚が「そろそろ行こう」と声をかけてきた。歓迎会ということで、まず私にメニューが
エレベーターのボタンを何度も押しているあいだも、電話の向こうで茉莉は泣いていた。「遥那さん、本当に行っちゃったの?私のせい……?ごめんね、渉。私、また余計なことしちゃった。ミルクレープも、あのドリンクも、買わなければよかった。もうやだ。私なんて、いないほうがいいのかも……」茉莉は、いつもグループの中心で笑っているような子だった。そんな彼女がここまで弱った声を出すのを、渉は聞いたことがなかった。エレベーターの階数表示が、一階で止まった。遥那はもう下まで降りたのだ。今すぐ追えば、まだ間に合うかもしれない。それなのに、そのとき渉の頭を占めていたのは、電話の向こうで泣き続ける茉莉のことだった。茉莉が本当に何かしたらどうしよう。そう思った瞬間、渉は遥那を追うことを諦め、車の鍵を手に取って茉莉の家へ向かった。茉莉が無事だと分かっても、不安は消えなかった。結局、夜が明けるまでそばにいた。帰り際、茉莉が渉の手をつかんだ。「渉、遥那さん、本当に戻ってこないの?」渉は一度目を伏せてから、答えた。「戻ってくるよ。今は意地になってるだけだ。落ち着けば、きっと帰ってくる」そのときの渉は、本気でそう思っていた。けれど今、テーブルに残されたミルクレープを見ていると、その自信が少しずつ揺らいでいく。もし、本当に戻ってこなかったら。……三日後、雨が降った。渉は朝から窓の外ばかり気にしていた。遥那が帰ってきても、見逃したくなかった。けれど会社から電話が入り、溜まった仕事の件で出社を求められた。仕方なく、渉は隣の部屋の住人に、遥那が戻ったらすぐ連絡してほしいと頼んだ。隣人は不思議そうな顔をした。「喧嘩でもしたんですか?水原さんが帰ってきたら、本人から連絡が来るんじゃないですか?」渉は苦笑した。「ブロックされてるんです」その日、渉は仕事中もずっと落ち着かなかった。何度も隣人にメッセージを送り、そのたびに「まだ帰ってきていません」と返ってくる。窓の外では、雨脚がさらに強くなっていた。遥那は車を運転できない。空港に着いたあと、タクシーがつかまらなかったら。雨の中で、濡れたまま待っていたら。考えれば考えるほど、じっとしていられなくなった。渉は結局、仕事を途中で抜け、