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覚束ない足取りで和彦が客間に戻ったのは、日付も変わった夜更けだった。だるい体でなんとかシャワーを浴びてから、一緒に寝たらどうだという賢吾の誘いを振り切った結果だ。
あの男の側にいたら、いつまで経っても情欲が鎮まらないという危機感があった。それこそ、精が尽きるほど賢吾の手と口で果てたというのに、いまだに胸の奥で燻ぶるものがあるぐらいだ。到底、隣で穏やかに眠れるとは思えない。 和彦はふらふらと畳の上にへたり込み、熱っぽい吐息を洩らす。さすがに今夜はもう、堅苦しい書類に再び目を通せる集中力はなかった。部屋の電気を消す前に、明日の出勤の準備を整えておこうと文机に這い寄ったところで、あることに気づく。「あっ……」 出したままにしておいた携帯電話二台のうち一台に、着信表示があった。里見との連絡用に使っている携帯電話だ。一瞬、和彦の脳裏を過ったのは、いよいよ俊哉から連絡がきたのかということだった。履歴を見る限り、里見の携帯電話からかかってきたようだが、慎重にならざるをえない。なかなか道を開けようとしない若者たちに苛立つ。なんとか追い抜こうとしながら、思い出していた。 前にもこんなことがあったのだ。賢吾と街中を歩いていて、人ごみに紛れるようにして立っていた鷹津を見かけた。あのときは、単なる見間違いかと気にも留めなかったが、今にして断言できる。 鷹津はあの場にいて、和彦を見張っていた。いや、見守っていたのだ。そして今夜も。 ようやく人が#散__ばら__#け、和彦が駆け出そうとしたとき、背後から腕を掴まれて引き止められた。「先生っ」 ハッとして振り返ると、中嶋が立っていた。「どこに行くんですか。一人で」「あっ、いや……」 和彦は気もそぞろに応じながら、鷹津が歩いて行った方角を見つめる。完全に姿を見失ってしまった。肩を落とし、ため息をつくと、中嶋に顔を覗き込まれる。「何かあったんですか?」「……知り合いがいたような気がしたんだ。けど、見間違いだったようだ」 中嶋から探るような眼差しを向けられ、それが嫌で強引に話題を変える。「加藤くんは? 一緒に帰ったかと思ったんだ」「まさか。先生を放って、そんなことしませんよ。あいつは電車で帰ったようです。俺は、タクシーを捕まえようと思ったんですけど、こんな場所ですから、なかなか。一旦先生のところに戻って、店から連れ出そうとしたら――……」 中嶋は露骨に、和彦が誰を追おうとしていたのか気にしている。もし、鷹津がいたと知ったら、和彦が懇願したところで黙ってはいないだろう。まっさきに南郷に報告するか、それとも賢吾か。なんにせよ、自分のために最大限利用するはずだ。「気になりますね。先生が必死で追いかけようとしていた相手……」「医大時代の知り合いだ。聞いたところでおもしろくはないぞ」「先生の話は、なんだっておもしろいですけどね」 ニヤリと笑いかけてきた中嶋だが、心なしかいつもよりぎこちない。今から別の店に移動するという心境ではないだろう。和彦も、すぐにでも体からアルコール分を抜いて、ついさ
秦と中嶋の関係にこれ以上立ち入っては、単なるお節介だなと見切りをつけ、和彦は帰り仕度を始める。まだ飲み足りないし、弱音も吐き足りないのだが、秦をつき合わせるのも気が咎めた。 秦なりに今夜は傷心のようで、いつものように甘ったるい台詞は期待できないだろう。――別に聞きたいわけではないが。 立ち上がり、コートに袖を通す和彦を、驚いたように秦が見つめてくる。「もうお帰りですか?」「ぼくは、中嶋くんと飲みたかったんだ。せっかくの機会を潰した罰として、ここの支払いは君が持ってくれ」「それはもちろんです。でも、もう少しわたしにつき合ってもらえると嬉しいのですが……」「今夜は、他人の愚痴を聞ける精神状態じゃない。それに、中嶋くんの同行があって、護衛なしでの夜遊びを許可されているのに、肝心の彼がいなくなったんだ。それが組にバレると面倒だ」 引き止めようとする秦の声を振り切って、個室を出ようとした和彦だが、ふとあることが気になって足を止める。思い切って秦を振り返った。「――……あの男から、連絡はないのか」「聞きたいことは、一つでは?」 和彦が唇を引き結ぶと、秦は気障な仕種で肩を竦める。そして、緩く首を横に振った。それを見届けてから、今度こそ和彦は個室をあとにした。 きちんと四人分の飲み代を支払って店を出ると、エレベーターホールに向かいながらマフラーを首に巻く。 期待したわけではないので、失望はなかった。ただ気まぐれに、行方をくらました男――鷹津のことを尋ねただけで、それ以上の意味はない。和彦はそう自分に言い聞かせながらエレベーターに乗り込んだ。 ビルのエントランスまで降り、外の通りを眺める。寒そうに肩を竦めて歩く人たちの姿を見て、帰りはどうしようかと考えていた。この時間帯、すぐにタクシーが捕まるとも思えないが、だからといって長嶺組から迎えを寄越してもらうわけにもいかない。 ひとまず中嶋に、一人で帰るとメールだけでもしておこうと、携帯電話を取り出す。簡単な文章を打ち込んでから和彦は顔を上げ、再び通りに目を向ける。何げない一連の動作だが、数瞬遅れて強烈な違和感に
秦に厄介な火を灯した元凶ともいうべき中嶋は、加藤と寝ていると打ち明けたことをどう感じているのだろうか。加藤だけではなく秦まで、自分の思惑から外れた行動を取ったことに、戸惑っているのか、苛立っているのか。 和彦は、瞬く間に頬が上気した中嶋を、そっと盗み見る。自分だけ先に帰ってしまおうかと考えなくもなかったが、三人それぞれと関わりを持っているだけに放っておけない。善人ぶるつもりはなく、自分が去ったあとの事態を危惧したのだ。「――加藤くん、仕事は大丈夫なのか?」 声をかけると、伏せがちだった切れ長の目がまっすぐ和彦を捉える。腹が決まったような顔つきになっていた。「はい……。夕方から明日の午前中いっぱい、休みをもらっていますから」「貴重な休みなら、こんなところで胡散臭い男……たちにつき合ってないで、早く帰ったらどうだ」 加藤は毅然とした表情で、首を横に振った。「いえ。俺も……、この人――秦さんと話をしてみたいので」 次の瞬間、バンッと大きな音が個室内に響く。中嶋が乱暴にテーブルを叩いたのだ。 中嶋は立ち上がると、憎々しげに秦を睨みつけた。「……怒って、いるんですか?」「どうして、〈おれ〉が怒るんだ。お前が先生と寝ていても、嫌だと思ったことはない。むしろ、羨ましい――」「とぼけないでください。俺と加藤のことです。こんな、あなたらしくないことまでして……」「お前の言いたい秦静馬らしさとは、お前が打算含みで誰と寝ようが、他人事のように涼しげに笑っていることか?」「俺相手には、どんなふうに振る舞ってもいいです。だけど、こいつを……加藤を巻き込むのは違う」「どう違う? お前は先生を利用して、足場を固めようとしている。加藤くんのことも、手駒にしようとしているんだろ。おれは先生と親しくしているんだ。加藤くんとも親しくしたいと思っても、おかしくはないはずだ」 中嶋が返事に詰まったのは、傍らで見ていてもわかった。咄嗟に和彦が秦を窘
毛皮特有の上品な光沢を帯びたロングコートにセカンドバッグという出で立ちは、美貌の怪しい青年実業家という肩書きを実によく演出しており、似合ってはいるものの、いつも以上に胡散臭く見える。 おやっ、と思ったのは和彦だけではなく、中嶋も軽く眉をひそめていた。「部屋を出たとき、そんな格好はしてなかったでしょう。……なんだか、ホストをスカウトしていた頃のあなたに戻ったようですよ」「人と待ち合わせをするのに、目立つ格好のほうが都合がよかったんだ。このコートは、うちの店のホストに借りた」「……面倒くさいことを……。それで、野暮用は片付いたんですか?」 呆れたように問いかける中嶋に対して、秦が一瞬ドキリとするような鋭い笑みを向けた。華やかだが、同時に胡散臭さもつきまとう男を、その笑みはまったくの別人のように見せた。 和彦がよく知る、独占欲と執着心の強い、厄介な男たちのような――。「まあ、片付いたと言えば、片付いたな。予定通り、連れて来ることができたから」 和彦と中嶋は同じタイミングで首を傾げ、数秒後には驚きの声を上げていた。秦に続いて、遠慮がちにカーテンを開けて個室に入ってきたのが、まったく予想外の人物だったからだ。「加藤……」 ぽつりと中嶋が呟く。 トレーナーの上からライダースジャケットを羽織った格好の加藤は、状況がよく呑み込めない様子ながら会釈をしたあと、その場にいる三人を見回す。一体なんの集まりかと問うように視線を向けたのは、中嶋だった。一方の中嶋のほうは、困惑したように秦を見た。 和彦は不穏な空気を感じ取り、ソファの上で動けなくなっていた。秦の鋭い笑みを目にしたあとで、突然の加藤の登場だ。〈偶然〉によって作られた状況のはずがなかった。 秦は悠然とロングコートを脱ぐと、空いているソファに腰掛け、居心地悪そうに立ち尽くしている加藤にも座るよう促す。我に返った中嶋が口を開こうとしたが、秦は片手をあげて制すると、二人を案内してきたスタッフに注文を頼む。 スタッフが立ち去ったあと、今度こそ中嶋が秦に問い
「体調を崩されているようなら、すぐに長嶺組に連絡して、連れて帰ってもらおうかと思ったんですが、違いますよね。――何かありました……ね」 返事は、沈鬱なため息だった。 昨日、総和会本部で守光と夕食を共にとったあと、ある要求をされた。 曰く、来週の金曜日に俊哉が和彦との対面を求めており、そのときは、人目のない場所で父子で時間を気にせず語り合いたいと希望が出されたそうだ。 守光が切り出した時点で、それはもう決定事項で、和彦に否という権利はない。能天気に構えていたわけではないが、再び俊哉と顔を合わせるのはもう少し先ではないかと、切望にも似た気持ちで考えていたのだ。 和彦を一層精神的に追い詰めるのは、俊哉との定期的な対面を考えているという、守光の言葉だった。 間に総和会が入ることで、和彦は俊哉を避けられない。求められるまま、総和会の護衛に守られ――見張られて、俊哉の放つ毒気を浴びることになる。 守光は、疎遠だった父子を結びつけて、ただ偽善的な喜びに浸るような人間ではない。総和会を率いている狡猾な化け狐は何かを計算しているだろうし、そこを十分理解したうえで、俊哉も接触しているはずだ。 聞きたいことはいくつかあったが、何も聞けずじまいだった。聞いてしまえば、さらに厄介な事態に引きずり込まれると考えたからだ。とにかく和彦の立場は、聞けば、従わずにはいられないという弱いものなのだ。 今回は守光から口止めされなかったため、本部をあとにしてすぐに、賢吾に連絡し、報告した。もちろん、二人の権力者による計画を止めてほしかったわけではない。そんなことをすれば、賢吾と守光、長嶺組と総和会との間に要らぬ不和を生み出しかねないと、冷静さを失った頭でもわかる。 電話越しに賢吾に対して何度も、堪えてほしいと和彦は訴えた。賢吾は納得していない様子だったが、不承不承、諾と言ってくれた。守光が決めた以上、賢吾もまた、それ以外の返事を持っていないのだ。 自分が苦々しい思いを味わうのは仕方ないといえるが、同じものを賢吾に味わわせるのは、和彦にはつらかった。「――……君は、両親と連絡を取り合っているか?」
「二神さんは、何か気になることがあるのですか? ……火曜日の夜のことで」 自分で口にして、なんとなく見当はついた。そして、外れてはいなかった。「――伊勢崎組長との食事会では、わたしは隊長の護衛は外れていました。副隊長という立場上、四六時中、隊長についていることは不可能で、今日も別々の場所でこうして仕事をこなしているわけですが……。火曜日は、隊長に休みを申しつけられて、動けませんでした」「ああ……、そういえば、姿が見えませんでしたね」 我ながらぎこちない台詞回しに、和彦の視線は泳ぎそうになる。二神は何かを察したように、ふっと口元を緩めた。「食事会の様子は、護衛についていた隊の者でもわかりません。佐伯先生と隊長と……伊勢崎組長の三人だけで楽しまれていたということですから。――そのあとのことも。せめて、食事会はどうだったか、一緒にいた佐伯先生からお聞きできないかと思ったんです」「御堂さんは、なんと?」「肉ばかり勧められて、佐伯先生が四苦八苦されていたとだけ。つまり、はぐらかされたわけです」「御堂さんも苦労されていましたよ。伊勢崎さんは、ずいぶん御堂さんの体調を気にされていて。……和やかな雰囲気で食事をしていたと思います。会話も弾んでいましたし。ぼくは、お二人の詳しい事情は知らないので、能天気にそう感じただけかもしれませんが」 慎重に言葉を選んで話す和彦に、二神はいきなり頭を下げた。驚いた和彦はソファから腰を浮かせる。「二神さんっ?」「申し訳ありません。佐伯先生に気を使わせてしまって。それに、つまらないことで引き止めてしまいました」 気にしないでくださいと、もごもごと応じた和彦だが、ただ、これだけは言わずにはいられなかった。「……御堂さんのこと、本当に大切にされているんですね。二神さんの気持ちも、しっかり十分伝わっていると思います。あくまで、ぼくの勘ですけど」 頭を上げた二神が穏やかな表情で頷いてくれたので、和彦はほっとする。
さすがの賢吾も、和彦の心を煩わせるものすべてを見通すことは不可能らしい。「……最初にぼくを狙って、あんなことをした人間が、どんな顔をして、そんなことを言うんだ」「俺はいい。俺は、許されるんだ」 さすがに図々しい発言だと思って和彦が顔を上げると、待っていたようなタイミングで唇を軽く吸われた。「先生を狙って自分のものにして――見事に、骨抜きにされたんだ。そんな哀れなヤクザを、愛情深い先生なら、たっぷり甘やかしてくれるだろ?」 本当に図々しいと思いながらも、和彦はつい笑みをこぼしてしまう。 自
「不愉快どころか、やけに楽しそうでしたよ、秦さん。いい店を先生に紹介しないと、と張り切ってもいましたし」「ならいいんだ。あの人、職業柄なのか知らないけど、よく気をつかってくれるから。ぼくみたいな人間につき合って、迷惑をかけても悪いしな」 和彦が、長嶺父子のオンナであることは、すでに知られている事実だ。いまさら千尋と甘い会話とキスを交わしていたからといって、他人に喜んで報告するような悪趣味なまねを、秦がする必要もない。 和彦が心配していたのは、そんなことではなく、純粋に今言った通りのことだった。 大きく息を吐き出しながら、中島がマシンをゆっく
「――先生」 呼ばれて、おずおずと振り返ると、そこに真剣な賢吾の顔がある。何か言われたわけでもないのに、和彦は小さく喘いでから賢吾の唇にそっと自分の唇を重ねた。すると、賢吾のもう片方の手に、和彦の柔らかな膨らみは包み込まれる。 「ひっ、あぁっ」 泡で滑る手に柔らかく揉みしだかれ、たまらず和彦は、ビクッ、ビクッと腰を震わせ、背をしならせる。下肢が、甘く溶けてしまいそうだった。 「あとでたっぷり、ここを揉んで悦ばせてやる。最近、弄られるのがよくなってきたみたいだからな。今は、洗うだけだ」 賢吾の的確に動く指は貪欲に、和彦の官能を刺激する
外から男二人のにぎやかな話し声が聞こえてくる状況で、求められるまま、やむをえず舌を絡め合い、唾液を交わす。引き出された舌を痛いほど吸われると、たまらず和彦は鷹津の肩にすがりついていた。 ますます鷹津の腕の力が強くなり、和彦の中で奇妙な変化が起こっていた。鷹津のことがどうしようもなく嫌いで、嫌悪しているのに、そんな男にねじ伏せられるように口づけを交わしていると、高揚感に襲われ、体の奥深くから強引に官能を引き出される。 官能に形を借りた、サソリの毒かもしれないと、ふとそんな考えが脳裏を過る。鷹津の毒を注入され、体も心も侵されていくのだ。 思わず身じろごう