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ウェイトマシンのコーナーに中嶋の姿を見つけた和彦は、さっそく歩み寄る。約束しているというほどではないが、互いに次の予定を聞いて、スポーツジムに通う曜日や時間帯を合わせるようになっていた。
そうやって顔を合わせては、情報交換を行っている――というわけではなく、まだ和彦のほうが、中嶋から一方的にあれこれと教えてもらうことが多い。 汗だくになってバーベルを持ち上げていた中嶋が、和彦に気づくなり、危うくバーベルを落としかける。照れ笑いを浮かべて無事にバーベルを置くと、汗を拭きながら和彦の側にやってきた。「みっともないところを見られました」「大げさだな」 笑みをこぼした和彦は、中嶋に促されるままレッグマシンに腰掛ける。 さっそくマシンを動かし始めると、中嶋に言われた。「先週はすみませんでした。約束していたのに、仕事が抜けられなくて」「もういいよ。気にしてないし、君が忙しいのはわかっているから。それに、秦さんが来てくれた」<ただの〈オンナ〉であったなら、知る必要のないことだ。しかし和彦は、佐伯俊哉の息子だ。自分が生まれる前に起こったことだとしても、知らない顔はできなかった。 考え続けることに神経が疲弊して、たまらず目を閉じる。 かろうじて和彦は、若い頃の俊哉の姿を写真で見たことがあった。実家に保管してあるものではなく、里見が昔、古い資料の中からたまたま発見したものを見せてくれたのだ。 一方の守光は、若い頃はどんな感じだったのだろうかと、ふと想像した次の瞬間、和彦は目を開ける。 ジャケットから携帯電話を出そうとモゴモゴと身じろいでいると、何事かと護衛の組員が振り返る。なんでもないと答えて、ようやく携帯電話を取り出すと、ある人物へとかけた。 「もしもし、突然で悪いけど、頼みがあるんだ――」**** 座卓の上に積み上げられたアルバムに、和彦はそっと片手をのせる。このとき、形容しがたい切なさが胸を通り過ぎた。 浮き足立った状態で夕食と風呂を済ませたあと、いざ目的のアルバムを目の前にしたのだが、まさかこんな感傷に浸ることになるとは思わなかった。 和彦の中に〈普通の家庭〉という尺度は存在しないのだが、大切に保管されてきたであろう積み上げられたアルバムを目の前にすると、いろいろと考えてしまう。特に長嶺の家は行事ごとを大事にしているため、自分の実家との違いを痛感せざるをえない。 昨日千尋に電話で頼んだのは、本宅にある古いアルバムを見せてほしいというものだった。千尋は特に理由を問うことなく、あっさりと承諾してくれた。 想定外だったのは、仕事終わりに本宅に立ち寄り、客間でゆっくりと見るつもりだったのに、なぜかアルバムが賢吾の部屋に運び込まれていたことだった。その理由を聞こうにも、肝心の千尋が今夜は本宅にはいない。 この部屋に運び込ませたのは、きっと賢吾が命じたのだろうなと思いつつ、少し緊張しながら和彦は一冊のアルバムを手に取る。古いアルバム、と指定しておいたのだが、あからさまに目につく位置に置かれた新しいアルバムを無視することはできなかった。 慎重にアルバムを開くと、和彦の意識はあっという間
「そんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫」 突然、頬にさらりと乾いた感触が触れ、和彦は目を見開く。御堂の手が頬にかかっていた。 「何も、伊勢崎さんと二人きりで会えと言っているんじゃない。当然、わたしも同席するし、万が一にも伊勢崎さんが君を責めようとするなら……、そうだね、あの人の口におしぼりでも詰め込んでやろう」 笑っていいのかどうか判断に困り、自分でもわかるほど微妙な表情を浮かべた和彦に、御堂がぐいっと顔を近づけてくる。息もかかる距離で秀麗な美貌を目の当たりにして、視線を逸らすことはできなかった。 「つまり、そう気負わなくていいということだ。せっかくだから、玲くんの近況とか聞いてみるといいよ。気になるだろう?」 「……はい。でも、ぼくの気持ちはともかく、伊勢崎さんと会うことを、まずは賢吾さんに相談しないと……」 「それは、わたしに任せてほしい。賢吾に説明して、否とは言わせない」 色素の薄い御堂の瞳は、ときおりヒヤリとするような強い光を湛える。それはきっと、自信であったり自負と呼べるものだと和彦は思う。裏の世界で生き抜くために必要なもので、それがあるから賢吾とも堂々と渡り合えるのだ。それに南郷とも。 羨ましいと、率直に感じた。これは嫉妬とは切り離された感情で、憧れに近いかもしれない。 和彦がぎこちなく頷くと、ようやく頬から御堂の手が離れる。このときふと、離れた場所にひっそりと立つ二神に気づいた。普段、物憂げで陰りのある表情を浮かべていることの多い男だが、今は、微妙にうろたえているように見える。 そんな二神に対して御堂が、艶やかな笑みを向けた。 「うちの二神には、刺激が強かったみたいだ……」 ぽつりと御堂が洩らし、今度こそ二人は別れた。 車に乗り込んだ和彦は、思わずため息をつく。御堂の口から伊勢崎父子の話題が出たことで動揺してしまったが、それも長くは続かない。 夜の街の光景を漫然と眺めながら、頭を占めるのは、俊哉と守光のことだった。 御堂は、知りたいことは長嶺の男たちに直接聞けばいいと言った。聞く相手は守光しかいないのだが、真実を聞かされたとき、自分がそれを受け入れられるか和彦には自信はなかった
** 店を出ると、予想以上に冷たい夜風に頬を撫でられて和彦は首をすくめる。 隣に立った御堂はコートを羽織ることなく腕にかけると、灰色がかった髪を掻き上げながら辺りを見回した。すると物陰から、男たちがスッと姿を現す。和彦と御堂にそれぞれついている、護衛の男たちだ。 ここで二人は別れることになるため、和彦は御堂に礼を言って頭を下げた。食事をご馳走になったのだ。 「君と秘密の話ができるなら、安いものだよ。悪かったね。明日も仕事があるのに、遅くまで引き止めてしまって」 「とんでもない。こちらこそ、御堂さんとゆっくり話ができて楽しかったです」 もう一度頭を下げて、護衛のもとに向かおうとした和彦だが、御堂に呼び止められて振り返る。 「――近いうちにまた誘ってもいいかな?」 「えっ……、ええ、それはもちろん」 「実は数日前に伊勢崎さんから連絡があって、近いうちにまたこっちに来るようなんだ。そのとき、ぜひ佐伯くんも食事を誘いたいと言われた」 伊勢崎、と聞いてドキリとする。この瞬間、和彦の脳裏に鮮やかに蘇ったのは、伊勢崎玲の若く凛々しい顔だ。もちろん、御堂が指しているのは、玲の父親である龍造のほうだ。 うろたえる和彦に対して、御堂はこう続けた。 「息子が世話になった礼をしたいと、伝言を言付かった」 居たたまれない気持ちとは、まさに今の和彦の心境を指すのだろう。おそらく龍造は、『世話』という言葉に特別な意味を込めているはずだ。 よほど罪悪感に満ちた顔をしたのか、御堂は安心させるように和彦の肩に手を置き、小声で言った。 「心配しなくていい。玲くんのことで抗議したいとか、そういうつもりではないだろう。むしろ――君に感謝しているはずだ」 「感謝、ですか?」 「伊勢崎龍造は……というより伊勢崎組は、長嶺組と接触する機会を持ちたがっていた。君はきっかけとしては最適だ。そんな君に無体を働いたら、伊勢崎組はこちらでは身動きが取れなくなる。賢吾の執念深さについては、わたしがたっぷり語って聞かせているからね。だから今後のことを考えて、君とまず友好的な関係を築きたいんだろう」 伊勢崎組
ここで、料理が冷めてしまうことが気になり、和彦は焼き魚に箸を伸ばす。一方の御堂は、焼き物にステーキを選んだ。なんとなく意外な気がしたが、御堂は苦い顔をして、体力をつけるために肉を食べろと周囲の人間たちから忠告されているのだと教えてくれた。 それを聞いた和彦は、他人事とは思えなくて破顔してしまった。「大事にされてますね」「お互いにね。――さっきの君の質問の答えにも繋がるけど、君は本当に、総和会から大事にされているよ。だからこそ一部の人間は、わたしが目障りで仕方ないだろう」 和彦の頭に浮かんだのは、二人の男の顔だ。あえて名を出すまでもなく、御堂とは認識を共有しているはずだ。「総和会は、君の機嫌をなるべくなら損ねたくないんだ。だからこうして、わたしが君と会うのも大目に見られている」 だからといって、批判がないわけではないだろう。自分の知らないところで駆け引きが行われているのかもしれないと推測し、和彦は改めて、総和会という組織の得体の知れなさに思いを巡らす。 そんな組織のトップに君臨しているのが、長嶺守光という男なのだ。そして、自分の父親は――。 不穏な触手がまたじわりと広がったようだった。和彦は、世間話を装って切り出す。「御堂さんは、賢吾さんとつき合いが長いのでしたら、長嶺組の本宅に出入りされていたこともあるんですか?」「まあ、数回といったところかな。お互い、友達の家に遊びに行くという年齢でもなかったし。一応わたしは組の関係者だったから、まだ堅気の人間のほうが、気軽に出入りできていたかもしれないな」 御堂の言葉に、微かに肩が揺れる。「……その頃は長嶺組の組長は、今の総和会会長だったんですよね……」「ピリピリしていたよ。勢力争いが活発な頃だったからね。長嶺組が、というわけじゃなく、極道の世界全体が。本来こういう表現をしちゃいけないんだろうが、だからこそ、活気があった。影響力もあったから、忌避されながらも、反面、その影響力は頼りにもされていた。今はなんでもやりにくいよ。慎重に、警察の目をかいくぐることに神経を注いでいる」 一見してヤクザとは程遠い優
一度気づいた可能性は、和彦の中で不穏な触手を伸ばしていた。 自分の父親が、現在、自分をオンナにしている男と、かつて肉体関係にあったなど考えたくはない。しかし、頭から振り払えないのだ。 おぞましいと身震いをした次の瞬間、では自分の現状はなんだと自問し、ここで和彦の思考は停止する。そこでまた、俊哉と守光の関係について、一人では答えの出せない思索に耽る。その繰り返しだ。 若い頃の俊哉が、かつて面倒事を守光に処理してもらったことは、守光自身の口から教えられた。そのとき和彦は、〈縁〉による二つの家――というより、二人の男の意外な繋がりにただ驚いたのだが、今となっては、守光は何か含みを持たせていたのではないかと疑わずにはいられない。 それともただの考えすぎなのだろうかと、一縷の望みにすがるように思ったりもする。 俊哉が若かったということは、当然守光も若く、今のように刺青を隠したりはしていなかったのかもしれない。千尋が知らないだけで、当時は他人に気安く肌を見せていた可能性だってある。だが、エリート官僚である俊哉が目にする可能性は、どれぐらいになるのか。 和彦は胸苦しさを覚え、ふっと息を吐き出す。自分は父親を信じたいのか、それとも貶めたいのか、それすら判断できないということは、まだ頭も気持ちも混乱しているのだ。 わかりきったことを自分の中で確認した和彦は、何げなく視線を上げてドキリとする。御堂が真剣な顔をしてこちらを見ていた。目が合うなり、すかさず指摘される。「――今晩は、心ここにあらずといった感じだね」 動揺した和彦は反射的に視線をさまよわせたあと、すみませんと小声で謝罪する。「何か気になることがあるみたいだ」「いえ、そんな……」 一緒にいるのが御堂だからと、安心感からつい気を抜いていたらしい。和彦は座椅子に座り直すと、グラスを取り上げる。ワインを勧められたが、今日は冷茶にしてもらった。 目の前にはすでに料理が並び、最近肌で感じている秋の訪れを、使われている食材でも知ることができる。お茶を一口飲んでグラスを置いた和彦は、飾りとして添えられている紅葉を指先でつついた。 今日、いつも
本当に元気だなと思いながら和彦は、いつもの癖で千尋の頭を手荒く撫でる。「ぼくはまだ動けないから、お前だけ先にシャワーを浴びてこい……」「二人でゆっくり入ろうよ。俺が全部やってあげるから」「……それはちょっと、魅力的な提案だな」「じゃあ、すぐにお湯溜めてくるっ」 締まりのない笑顔を見せた千尋がベッドを飛び出して行こうとしたので、慌てて腕を掴んで引き止める。「下着ぐらい穿いていけっ」「えー、どうせすぐ脱ぐじゃん……」 ぶつぶつ言いながらも、ベッドの端に腰掛けた千尋が、床に落ちた下着を拾い上げようとする。わずかに上体を起こして、まだ目に新鮮に映る刺青に見入っていた和彦だが、あることが気になり、何げなく尋ねた。「なあ、刺青を入れたら、組か長嶺の家で、祝い事みたいなことはするのか?」 下着を掴んだまま、不思議そうな顔で千尋が振り返る。「祝ってもらえるのかな?」「……ぼくに聞くなよ。いや、お前の家は行事ごとはいろいろしっかりやっているから、これはどうなのかと気になっただけだ」「うーん、大っぴらにはしないよね。組員同士ならさ、気安く話すかもしれないし、体を見せることもあるだろうけど。俺が知る限り、じいちゃんとオヤジが背中にあるものを披露したなんて話は聞いたことないかなー。そもそも、ごく限られた組員か、特別な相手以外は知らないと思うよ。俺たちの体にどんな刺青が入っているかなんて。それどころか、入っていること自体、どれぐらいの人間が知ってるか。俺も、特別な人にしか見せるつもりないし」 ここで千尋が意味ありげにニヤニヤと笑う。「じいちゃんとオヤジの刺青って、それぞれの気質がよく出てるだろ? 日ごろ長嶺の男たちを、食えない古狐だとか、蛇みたいに陰湿な野郎だなんて、陰口叩いている奴らは、まさかそのまんまのものが、背中に堂々と彫ってあるなんて、思いもしないだろうね」「――……よくまあ、そんな命知らずなことを楽しそうに口にできるな、お前」 苦笑を洩
外から男二人のにぎやかな話し声が聞こえてくる状況で、求められるまま、やむをえず舌を絡め合い、唾液を交わす。引き出された舌を痛いほど吸われると、たまらず和彦は鷹津の肩にすがりついていた。 ますます鷹津の腕の力が強くなり、和彦の中で奇妙な変化が起こっていた。鷹津のことがどうしようもなく嫌いで、嫌悪しているのに、そんな男にねじ伏せられるように口づけを交わしていると、高揚感に襲われ、体の奥深くから強引に官能を引き出される。 官能に形を借りた、サソリの毒かもしれないと、ふとそんな考えが脳裏を過る。鷹津の毒を注入され、体も心も侵されていくのだ。 思わず身じろごう
さすがの賢吾も、和彦の心を煩わせるものすべてを見通すことは不可能らしい。「……最初にぼくを狙って、あんなことをした人間が、どんな顔をして、そんなことを言うんだ」「俺はいい。俺は、許されるんだ」 さすがに図々しい発言だと思って和彦が顔を上げると、待っていたようなタイミングで唇を軽く吸われた。「先生を狙って自分のものにして――見事に、骨抜きにされたんだ。そんな哀れなヤクザを、愛情深い先生なら、たっぷり甘やかしてくれるだろ?」 本当に図々しいと思いながらも、和彦はつい笑みをこぼしてしまう。 自
** 別れ際、玄関で秦に抱き締められてから、和彦は部屋をあとにした。 エレベーターの中で、もう二度と秦と会わないということはおそらく不可能だろうなと、ぼんやりと考える。秘密を共有してしまったということもあるが、秦との間に確かな結びつきができたことを実感していたのだ。 賢吾や千尋、三田村との間で生まれた結びつき――縁と、同種だ。肉欲と切っても切れない縁で、それはすぐに、情へと変化する。さすがに和彦も、それぐらいは学習していた。 複雑になった事態と人間関係を、自分はどうするつもりなのか、考えたくなかった。体も心も、秦から与え
「不愉快どころか、やけに楽しそうでしたよ、秦さん。いい店を先生に紹介しないと、と張り切ってもいましたし」「ならいいんだ。あの人、職業柄なのか知らないけど、よく気をつかってくれるから。ぼくみたいな人間につき合って、迷惑をかけても悪いしな」 和彦が、長嶺父子のオンナであることは、すでに知られている事実だ。いまさら千尋と甘い会話とキスを交わしていたからといって、他人に喜んで報告するような悪趣味なまねを、秦がする必要もない。 和彦が心配していたのは、そんなことではなく、純粋に今言った通りのことだった。 大きく息を吐き出しながら、中島がマシンをゆっく