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追憶の荒野

追憶の荒野

بواسطة:  レイمكتمل
لغة: Japanese
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自分の帰国を祝う宴で、桐谷枝里子は西原越也の愛人――江川詩織に会った。 彼女は色褪せたシャツに身を包まれ、越也の取り巻きに無理やり酒を勧められていた。一杯飲めば二十万がもらえると。 枝里子が越也の腕に絡んで入ってくると、詩織はむせび泣きながらも必死に顔を伏せ、涙を拭った。越也に自分の弱さを見せたくなかったのだ。 取り巻きの一人があざけるように彼女の顎を引き、だらしなく言う。 「桐谷さんが帰ってきた以上、越也さんがお前を捨てるに決まってる。お前はな、所詮桐谷さんがいない間の代用品にすぎないんだぞ」 別の男が下品に続ける。 「とはいえ、二年も越也さんのそばにいたんだろ?越也さんに土下座すれば、情けで小遣いくらいはもらえるんじゃねえの?」 その言葉に越也は鼻で笑った。 「くだらない話はよせ」 彼は枝里子の皿にフルーツを乗せていく。 「安心してくれ、枝里子。俺はあの子と寝てない。ただ、暇つぶしに遊んでただけだ。 お前が戻ったら、すぐに縁を切るつもりだ」

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الفصل الأول

第1話

帰国した初日。

桐谷枝里子(きりたに えりこ)は、婚約者の西原越也(にしはら えつや)が心を込めて用意した帰国祝いの宴で、彼の愛人――江川詩織(えかわ しおり)と初めて顔を合わせた。

半分ほど開いている個室の扉から覗くと、一人の少女の姿が目に入った。彼女の頬にはかすかな赤が差し、怯えたように視線を揺らしている。

色褪せたシャツを身にまとい、熟れた白桃のような瑞々しさと甘さを放つ――一口かじれば甘汁が溢れそうな、魅惑的な雰囲気だった。

少女は取り囲んだ男たちに無理やり酒を飲まされている。

一杯あおられるたび、男たちは得意げに笑い、「一杯は二十万だ、もう一杯いけ!」と下品な声をあげた。

五年ぶりに見る顔ぶれだが、彼らは相変わらず放蕩と傲慢さを隠そうともしない。

枝里子の胸の奥に、不快感がじわりと広がる。

彼女が扉に手をかけたそのとき――

背後でエレベーターの扉が開き、二時間も遅れて越也が現れた。

上質なシルクのダークシャツを着こなし、急ぎ足に歩み寄ってくる。

上がり気味の目尻がうっすらと赤く、乱れた髪と呼吸が、急いできたことを物語っていた。

彼は枝里子を見つけるなり、ぱっと笑みを浮かべ、すぐに彼女の肩に自分の上着を掛けた。

「遅くなってごめん、枝里子。こんな薄着で……風邪ひいたらどうするんだ?」

枝里子の腰に腕を回し、越也は甘い声で囁く。

だが、彼の視線が個室の奥へと流れた瞬間、腕が一瞬だけ固くなったのを枝里子は見逃さなかった。

越也の視線の先では、少女が咳き込みながら涙をこぼしていた。だが、越也の姿を見ると、彼女はすぐに手で涙を拭い取った。

その横顔は計算された美しさをまとい、枝里子が事前に調べた通り、詩織は見た目のように「無垢」ではなかった。

個室の中では、タチの悪いからかいが続いていた。

若い男の一人が、少女の顎を指先で持ち上げ、鼻で笑う。

「桐谷さんが帰ってきた以上、越也さんがお前を捨てるに決まってる。お前はな、所詮桐谷さんがいない間の代用品にすぎないんだぞ」

別の男が下品に続ける。

「とはいえ、二年も越也さんのそばにいたんだろ?越也さんに土下座すれば、情けで小遣いくらいはもらえるんじゃねえの?」

その瞬間、腰を抱く越也の腕に力がこもり、枝里子は痛みに顔をしかめた。

すぐに彼は軽く咳払いし、何事もなかったように枝里子を伴って個室へ入る。

「くだらない話はよせ」

気怠げな声で言い、越也は枝里子の皿にフルーツを乗せていく。

「安心してくれ、枝里子。俺はあの子と寝てない。ただ、暇つぶしに遊んでただけだ。

お前が戻ったら、すぐに縁を切るつもりだ」

場の空気が一瞬に変わり、周囲の連中が一斉に羨望の声を上げた。

誰もが知っている。枝里子と越也は幼なじみで、彼女の留学がなければとっくに結婚していたはずだと。

「そう」枝里子は淡々と返事をした。詩織を調査していたゆえ、越也の言葉など、一言も信じていないのだ。

「なら、今すぐ出て行ってもらえば?」

しばらく待っても、返事が聞こえなかった。

越也の視線を追った先で、男の一人が詩織の鎖骨に酒を垂らし、「越也さんが手を出さなかったなら、俺が味見してやるよ」と下卑た笑い声をあげた。

次の瞬間、男は顔を詩織の胸に押しつけた。詩織は必死に首を振り、涙をこぼしながら悲鳴を上げる。

「やめてください……!私には愛してる人がいるんです、その人を裏切っては……」

その光景を越也は黙って見ていたが、彼の瞳に暗く深い影が落ちていた。

それは越也が怒っている証拠だと、枝里子はハッキリとわかっていた。

彼女の考えを裏付けるかのように、次の瞬間、越也が立ち上がると、ガラスの割れる音が響いた。

越也は長い脚で男のほうに歩み寄り、酒瓶を振りかざして彼の頭を打った。

「誰が手を出していいと言った!」

声には殺気が滲み、越也は酒瓶を二度も振り下ろす。

「やめろ!これ以上は死ぬぞ!」

越也の友人が叫ぶ。

越也は氷のような視線を友人に向け、低く吐き捨てた。

「それがどうした?死んで当然のクズだろ?」

場が凍りつく。

今日は枝里子のために設けた宴であり、越也はいつだって枝里子を第一に考える男だった。

しかし今の彼は、こんなにも怒りをあらわにしている。

皆の視線が自然と枝里子に集まる。

背筋を伸ばし、枝里子は冷たい声で言い放った。

「越也、今日は私の帰国祝いでしょ?死人を出さないで」

二人の視線がぶつかり合う。

越也は我に返り、酒瓶を手放して枝里子のもとへ戻る。

「悪い、枝里子。少し熱くなりすぎた……許してくれ」

気絶した男を部屋から運び出させ、今日の費用はすべて彼につけるようスタッフに告げると、宴は再開された。

しかし、枝里子の心はすでにそこにはなかった。

「帰りましょう」

越也は素直に従い、車に乗り込むと彼女にブランケットを掛ける。

「江川は借金まみれで、家族も病気なんだ。あんな子、一人では生きていけない。

お前と顔が少し似てたから、縁だと思って助けてあげたんだ。

でも誤解しないでくれ、俺が愛してるのはお前だけだ。戻ってきてくれて本当に嬉しいよ。

月末には結婚して、ずっと一緒にいような」

越也の甘い言葉に、枝里子はいつも頬を染めていたが、今回は何も感じなかった。

彼女は越也の輝く瞳を見据え、冷ややかに言い放つ。

「越也、あなたは私を一番よく知っているはずよ。だから、嘘はやめて。

もし他の人を好きになったなら、婚約は解消しましょう」

枝里子は恋にしがみつくような女ではないのだ。

彼女の言葉を聞き、越也の表情に影が差した。

「何言ってるんだ。お前は俺の嫁だ。俺以外と結婚なんて許さない」

その夜。

疲れ果てて眠りに落ちた枝里子がふと目を覚ます。隣は冷たく、空いていた。

胸騒ぎに駆られ、携帯を手に取る。

SNSを見ていくと、新しく追加した「友人」の投稿には、病院で男性の手と女性の手が握り合う写真があった。

そして、こんな文章が添えられていた。

【あなたがいてくれて、本当によかった】

その写真を、枝里子はずっと見つめていた。

朝の光が差し始めたころ、枝里子は乾いた瞳を潤すように瞬きをする。

すると一粒の涙が落ち、写真の中、男の薬指に光る指輪へと伝った。

その内側には、自分の名が刻まれているはずだ。

鼻をすすり、枝里子は航空券予約サイトを開く。

月末の海外行きの便を、迷わず予約した。

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松坂 美枝
松坂 美枝
クズの処理が雑で笑った
2025-08-25 10:45:25
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第1話
帰国した初日。桐谷枝里子(きりたに えりこ)は、婚約者の西原越也(にしはら えつや)が心を込めて用意した帰国祝いの宴で、彼の愛人――江川詩織(えかわ しおり)と初めて顔を合わせた。半分ほど開いている個室の扉から覗くと、一人の少女の姿が目に入った。彼女の頬にはかすかな赤が差し、怯えたように視線を揺らしている。色褪せたシャツを身にまとい、熟れた白桃のような瑞々しさと甘さを放つ――一口かじれば甘汁が溢れそうな、魅惑的な雰囲気だった。少女は取り囲んだ男たちに無理やり酒を飲まされている。一杯あおられるたび、男たちは得意げに笑い、「一杯は二十万だ、もう一杯いけ!」と下品な声をあげた。五年ぶりに見る顔ぶれだが、彼らは相変わらず放蕩と傲慢さを隠そうともしない。枝里子の胸の奥に、不快感がじわりと広がる。彼女が扉に手をかけたそのとき――背後でエレベーターの扉が開き、二時間も遅れて越也が現れた。上質なシルクのダークシャツを着こなし、急ぎ足に歩み寄ってくる。上がり気味の目尻がうっすらと赤く、乱れた髪と呼吸が、急いできたことを物語っていた。彼は枝里子を見つけるなり、ぱっと笑みを浮かべ、すぐに彼女の肩に自分の上着を掛けた。「遅くなってごめん、枝里子。こんな薄着で……風邪ひいたらどうするんだ?」枝里子の腰に腕を回し、越也は甘い声で囁く。だが、彼の視線が個室の奥へと流れた瞬間、腕が一瞬だけ固くなったのを枝里子は見逃さなかった。越也の視線の先では、少女が咳き込みながら涙をこぼしていた。だが、越也の姿を見ると、彼女はすぐに手で涙を拭い取った。その横顔は計算された美しさをまとい、枝里子が事前に調べた通り、詩織は見た目のように「無垢」ではなかった。個室の中では、タチの悪いからかいが続いていた。若い男の一人が、少女の顎を指先で持ち上げ、鼻で笑う。「桐谷さんが帰ってきた以上、越也さんがお前を捨てるに決まってる。お前はな、所詮桐谷さんがいない間の代用品にすぎないんだぞ」別の男が下品に続ける。「とはいえ、二年も越也さんのそばにいたんだろ?越也さんに土下座すれば、情けで小遣いくらいはもらえるんじゃねえの?」その瞬間、腰を抱く越也の腕に力がこもり、枝里子は痛みに顔をしかめた。すぐに彼は軽く咳払いし、何事もなかったように枝里
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第2話
越也が家に戻った頃、枝里子はちょうど進学申請書を提出したところだった。担当教員から驚きの返事が来た。【前は諦めるって言ってたよね?本来三年かける課程を二年で修了して、体まで壊したのは、婚約者が国内で待ってるからじゃなかったの?でも、君が学び続けてくれて本当に嬉しいよ。毎年、枠は一人か二人しかないからね。少し気が早いけど、おめでとうって言っておくわ!】枝里子は少し間を置いてから、返事を打った。【婚約者とは別れました。これからもよろしくお願いいたします】「まだ先生と連絡を取ってるのか?課程はもう修了しただろ?」何気なく枝里子の携帯画面を横目に見た越也が、軽く尋ねる。枝里子は姿勢を正し、反射的に言い訳を探そうとしたが、その前に越也が彼女の好きなパンとコーヒーをテーブルに置いた。「ここの店、すごく並ぶんだぞ。何度も知り合いに頼んで、やっと買えたんだ。今後はこの店に出資しようと思ってる。株主になれれば、お前が食べたい時にいつでも買えるからな」焼きたての香りが漂うパンがずらりと並べられているが、枝里子は食欲がなく、真っ直ぐに切り出した。「昨日の夜、病院に行ったよね?」越也の手が止まり、眉を上げて茶化すように笑う。「俺にGPSでも仕込んだか?よく分かったな。江川の母親が、昨夜急に心臓発作を起こしたんだ。誰も助けがいないから、手伝いに行ったんだ。病院の手続きは一人じゃ大変だからな」越也の素直な説明に、枝里子は喜ぶべきか、悲しむべきかは分からなかった。昨日の夜、自分を抱きしめていた男が、その直後に愛人の女性の手を握っていた。それが浮気になるかどうかは人によるが、枝里子は、自分が寛容なほうではないという自覚がある。「……越也、そういうの、私には受け入れられないわ。だから、もう別れ――」話が終わる前に、ガシャンという音が響いた。越也がカップを叩き割ったのだ。「何度も言ってるだろ!俺と江川はやましいことなんて一切してない。お前に隠し事もない。いい加減、疑うのはやめてくれないか?」その声には、徹夜明けの苛立ちが滲んでいた。「枝里子、お前が帰国したのは俺と結婚するためだろ?だから俺は江川と縁を切るつもりだし、なんでもお前の望み通りにしてきた。それなのにまだ不満なのか?いいか、江川と違って、お前は孤児
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第3話
救急車はほどなく到着した。枝里子がまだ状況を呑み込めずにいる間に、ぶすりと太い針が手の甲に突き立てられた。鋭い痛みに思わず顔を上げ、息を呑むように問いかける。「……何をするの?」越也は唇を引き結び、冷ややかに告げた。「お前も江川も、血液型はRHマイナスだ。江川はお前のせいで事故に遭い、今は大量出血で命さえ危ないんだ。責任は取ってもらうぞ」枝里子は自分の耳を疑った。越也も知っているはずだ。彼のもとへ一刻も早く帰れるよう、この二年間、枝里子は昼夜を問わずに勉強し続け、ついには貧血になってしまったことを。それなのに、彼は今、詩織のために自分の血を差し出せと言う。枝里子はたちまち針を抜こうとした。「そんなこと、できるわけがないわ!先に私を辱めたのは彼女のほうよ。事故に遭ったのも自分から飛び出したからで……それに、母の形見だって――」「もういい!」越也の大きな手が彼女の手首を押さえつけた。「死んだ人間の形見より、生きた命の方が大事だろう?たかが形見が理由で江川を死なせるというのか?」氷のように冷たい掌。その感触に、枝里子は全身の血が逆流するような感覚を覚えた。しばらく経ち、彼女は声を搾り出すように返す。「……私を産み育ててくれた母と、あなたの愛人を天秤にかけるというの?」越也は重く息を吐き、こめかみを押さえた。「……言い方が悪かった。だが江川はお前のせいで事故に遭ったんだ。お前は無関係じゃない」結局、枝里子には血を差し出す以外の選択肢はなかった。いつの間にか用心棒らしき人たちが、彼女の両脇を固めていた。身体も心も限界を越え、血が抜かれていくたび視界は白く霞む。「桐谷さんの顔色が悪すぎます。これ以上血を抜くのは危険です、今すぐやめた方が……」看護師の声が遠くに響く。だが、すぐに越也の冷徹な声がかぶさった。「顔色が悪いのはいつものことだ、問題ない。詩織の方が大事だ。続けろ」枝里子の長い睫毛が濡れ、苦笑いしたくても、唇を動かす力さえ奪われていく。五袋分の血が抜かれたころ、隣のベッドで詩織が微かに目を開け、猫のように甘える声を漏らした。「……越也さん……」越也はたちまち枝里子の手を放ち、優しい声で返事をした。「ああ、俺はここだ」詩織は悪い夢を見ているようだ。「……桐
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第4話
しばらく待っても、越也からの返事はなかった。怪訝に思った枝里子が視線を上げると、彼の携帯の画面には、メッセージの吹き出しが幾つも並んでいた。送り主のアイコンは、やはり詩織だった。越也は顔を上げ、どこか沈鬱な表情で言った。「枝里子……今度はなんの真似だ?なぜ江川を放っておいてくれない?」彼は画面を枝里子の目の前に突きつける。そこに振込明細が映っていた。振込人は枝里子で、受取人は詩織、金額は四千万円。しかし、その写真には粗い加工の跡がはっきりと残っていた。枝里子は鼻で笑う。こんな拙い細工を、越也が信じるとは――やはり男にとって、惚れた女の言葉こそ絶対なのだ。「私は、こんな低俗な取引をした覚えは一度もないわ」枝里子は静かに告げた。だが、越也は失望を隠さぬ目で首を横に振る。「やっていない?じゃあ江川が自作自演したって言うのか?あんなに純粋な子が、お前を貶めるわけがないだろう。江川が母親のことで金に困っているのを知って、そこを突いて彼女を俺から引き離そうとしたんじゃないのか?お前……海外で何を学んできたんだ?力を笠に着て人を踏みつけることか?俺は、お前を見誤ったよ」その言葉を置き捨て、越也は背を向けた。その後の二日間、越也は一度も姿を見せなかった。窓の向こうに見えるのは、詩織と肩を寄せ合い、廊下を並んで歩く後ろ姿ばかり。退院の日も、枝里子は一人ぼっちだった。だが、病院を出る直前に事態は急変する。視界がふっと暗転し、次に目を開けたとき――鼻腔を刺したのは、鉄錆の匂いだった。周囲を見渡せば、冷たいコンクリートの床に無機質な壁。そこは人気のない倉庫で、鋭い目をした男たちが数人、無言で立っている。枝里子と詩織は、隣同士の椅子に縛り付けられていた。男のひとりが銀色のナイフを弄びながら、刃先を二人の顔すれすれになぞる。「さて、この新品の切れ味……どっちで試してやろうか」詩織は顔面を真っ青にして、甲高い悲鳴をあげた。「誰なの!触らないで!」枝里子は手首の縄に指を探り、わずかな緩みを感じる。しかし、焦れば動きが悟られる。胸の奥の動悸を押し殺し、枝里子は詩織の声を制して時間を稼ぐ。「……あなたは?私たちをさらって、いったい何が目的なの?」男は目を細め、詩織の顔を舐めるように眺めた
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第5話
越也は、一言も発しない枝里子を無理やり車に乗せた。シートに座らせた瞬間、枝里子の腹部に滲む血を見て、思わず息を呑む。「……枝里子、痛くないのか?」伸ばしかけた手を、枝里子は冷ややかに払った。そして、かすれた声が落ちる。「触らないで……気分が悪くなる」越也の拳が、膝の上で硬く握られる。「……迎えに行くのが遅れて、本当にすまない。俺、知らなかったんだ……あんなことになるなんて」枝里子の視線とぶつかり合うが、その言葉は霧のように虚しく消えていく。知らなかった?そんなはずはない。誘拐の目的は、金か女と決まっている。廃墟同然の倉庫に置き去りにすれば、どんな結末になるか予想できたはずだ。彼にとって本当に守りたかったのは詩織、それだけのことだ。沈黙する枝里子を前に、越也は押し殺すように低く言った。「全部俺が悪かったんだ。必ずやった奴に報いを受けさせる」車は唸りを上げて街を駆け抜け、停車した瞬間、越也はシートベルトを外して降りようとする。だが先にドアを開けたのは枝里子だった。彼女は何も言わず、ただ前だけを見て歩き去っていく。追いかけようとしたその時――「越也さん……!」背後から声が飛び込んできた。振り返れば、襟元の乱れた詩織が立っている。白い肌には青紫の痕が散り、乱れた髪と涙で腫れた目のまま、彼の胸に飛び込んできた。「越也さん……痛い……私、汚されちゃった……もう、あなたに顔向けできません……」越也の呼吸が荒く、重くなる。「……何があったんだ?」詩織は、去っていく枝里子の背を一瞬見やり、ためらいながら唇を噛んだ。「……さっき知ったんです。実は桐谷さん、犯人と取引して……私の住所をバラしたんです。家に戻ったら、もう廊下で待ち伏せされてて……私は必死で逃げてきたけど……」震える肩が、越也の心を揺らす。瞳が鋭く細まり、声がわずかに上ずった。「枝里子、これは……お前が仕組んだのか?」枝里子の瞳は、冷ややかな光を放つ。「やっていないことを、認めるつもりはないわ」揺るぎのない視線に、越也は一瞬言葉を失う。だが、詩織が彼の袖を掴み、嗚咽まじりに告げた。「さっき通報したんです。犯人はもう捕まって、警察ももうこっちに向かってるって」「……そうか。なら、警察の調べを――」その
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第6話
翌朝、枝里子は使用人によって地下室から解放された。その使用人は詩織の指示で、枝里子の顔に厚化粧を施し、昨夜の惨状を隠そうとする。しかし、彼女をよく知る越也の目をごまかすのは容易ではなかった。越也は一目で枝里子の疲弊を見抜き、訝しげに眉を寄せる。「ただ一晩閉じ込められただけで……どうしてこんなに憔悴しているんだ?」枝里子は顔をそむけ、冷ややかに言い放った。「あなたとあの女のおかげよ」その刺々しい言葉に、越也の顔に苛立ちが浮かぶ。「まだ反省してないようだな。江川は昨夜、お前に食事を運び、今日出してやるよう口添えまでしてくれたんだ。お前は彼女の寛大さに感謝すべきだ」枝里子はもう、嘲笑う気力すらなく、ただ冷え切った瞳で彼を見返した。そんな中、詩織が越也の腕に寄り添い、静かに首を振った。「いいんです、越也さん。あなたと桐谷さんこそ、お似合いの二人ですから……」そう言って、彼女は大切そうに抱えていたウェディングドレスを差し出した。「これは、私が心を込めて仕立てたウェディングドレスです。もし桐谷さんがこれを着て、越也さんと結ばれるなら……それだけで、私はずっと越也さんのそばにいられる気がするんです」潤んだ瞳で小さく微笑むと、か細い声で続けた。「この最後のお願いを、聞いてくれませんか?他には何も望みませんから」探るように、それでいて必死に愛を告げる詩織。その控えめさと健気さに、越也の心はたやすく揺さぶられてしまう。彼女はいつだって分をわきまえ、誰よりも愛おしく思えてしまう存在だった。「……わかった。叶えてやる」そう答えると、彼は使用人に枝里子を連れ出すよう命じ、冷ややかに言い放った。「さっさと試着しろ」枝里子はまるで人形のように引きずられ、更衣室へ押し込まれた。そのとき、ドレスの内側から異様な匂いが漂っていることに気づく。着替えを拒もうとした瞬間、使用人の手が無理やり彼女を押さえつけた。次の瞬間、昨夜鼠に噛まれた傷口に裏地が触れ、焼けつくような激痛が全身を走った。ドレスの裏には、唐辛子の水が染み込ませてあったのだ。皮膚を焼くような刺激が肉に食い込み、枝里子は思わず悲鳴を上げる。必死にドレスを引きはがそうとしたが、その拍子に布は裂け、床に白い布片が散らばった。使用人の悲鳴が響き渡り
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第7話
翌日は結婚式の前日だった。屋敷では朝から使用人たちが慌ただしく新居の飾りつけに追われている。「江川様のご希望で、この色の風船を飾るようにと」「庭の百合は全部抜きなさい、薔薇を植えるの。江川様は薔薇がお好きだから」「桐谷様と西原様の婚約写真は外して処分を。江川様のお気に召さないそうだ……ほら、急ぎなさい、結婚式の飾りつけ、西原様はすべて江川様に一任するとおっしゃってたんだぞ!」新居と呼ばれる部屋は、詩織の好み一色に染められていた。枝里子は静かにスーツケースのジッパーを閉め、窓の外を見つめながら小さく息を吐いた。もうすぐですべてから解放される。そんなとき、越也と詩織が連れ立って部屋に入ってきた。越也は室内を見回し、飾りつけに目を細めると、どこか掴みどころのない微笑みを浮かべた。そして懐から、細工の煩雑な指輪を取り出し、枝里子の薬指に強引に嵌める。「どうだ?サイズは合うか?」指輪は根元まで届いたものの、指があまりにも細いため、すぐに緩んでくるりと回り、落ちかけた。枝里子は淡々と見下ろし、一瞬で真実を見抜く。「……これ、あの女の指に合わせたものでしょう」越也の顔がこわばる。無表情の枝里子を前に、胸を締めつけられるような痛みが走った。まるで、彼が夢見てきた婚礼など、枝里子にとっては何の意味もないかのように。「……デザイナーの手違いだろう。もう一つ作らせる。……枝里子、明日は俺たちの結婚式だ。嬉しくないのか?」「まぁね」気のない返事をすると、枝里子は指輪を外し、そのままカバンに放り込んだ。「まだ用事があるから」そう言い残して背を向ける。その夜。使用人がごみ箱から指輪を拾い、越也に差し出した。「西原様……桐谷様が、これを捨てておられるのを見ました」驚いてカバンを探った枝里子は、指輪がなくなっていることに気づく。盗まれたのだ。詩織が息を呑み、頬を紅潮させながらわざとらしく言った。「結婚指輪なのに……桐谷さん、どうしてそんなことを?もしかして、私の存在が気に入らないのですか?」彼女は目を伏せ、か細い声で続けた。「でも……越也さんを放っておけなかったんです。もう十数時間も眠らずに、結婚式の準備をしていたので」詩織の声は次第に熱を帯び、大胆さを増していった。「結婚式
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第8話
詩織は大きなベッドに抱き上げられると、頬を赤らめ、越也の首に腕を回した。「……越也さん、ありがとうございます」さらに何か言おうとした瞬間、越也は彼女をそっと押し離し、険しい顔で遮った。「待て」彼はすぐさま部屋を飛び出したが、廊下には人影すらない。頭が真っ白になり、近くを通った助手の胸ぐらを掴む。「枝里子はどこだ?見張っておけと言ったはずだろう!」「しゃ、社長が気にかけているのは江川さんのほうだと思って、その指示をあまり気にしていなかったんです……」「何をバカなことを!枝里子は俺の婚約者だ、勝手な判断をするな!今すぐ探してこい!」怒声とともに浮き上がった血管が、彼の焦りを物語っていた。部屋へ戻り、車の鍵を探しながら携帯を掴む。枝里子に電話をかけようとしたが、詩織が腕を取って阻んだ。「越也さん……私を病院へ連れて行っていただけませんか?あの事故の傷が、また疼き始めて……」一瞬、越也の脳裏に枝里子の後ろ姿がよぎった。「……わかった。佐藤に車を出させる」だが、詩織は彼の腕を強く握ったまま離さなかった。明日は結婚式。枝里子を追い出した今夜さえ乗り越えれば、自分の未来は変えられる。その思いに縋りつきながら、彼女は涙をこぼした。「越也さん……桐谷さんは、あなたと駆け引きをしてるだけです。困らせて、謝らせたいだけ。だから放っておけば、必ず戻ってきます。私……さっき桐谷さんに突き飛ばされたとき、傷口が開いてしまったみたいで……本当に痛いんです。お医者さまに診てもらわないと炎症になるって……だから、越也さんに送ってほしいんです、だめ?」涙に濡れた顔で懇願され、越也は長く沈黙した。だがやがて、はっきりと首を横に振った。「詩織。何があっても、枝里子は俺の妻だ。それは子どもの頃から決まっていたことだし、変わることもない。さっきは俺も感情的になって、あいつを傷つけてしまった。だからちゃんと説明したいんだ。明日、彼女をこの世で一番幸せな花嫁にするとな」「……越也さん……私は、あなたを奪うつもりなんてありません。ただ、せめて最後に一晩だけ……私にくれませんか?私はあなたを、誰よりも愛しているんですよ……」詩織はすすり泣きながら唇を寄せた。外は黒雲に覆われ、胸の奥まで押し潰されるような圧迫感が広がる。越也
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第9話
雨は容赦なく車の屋根を叩き、轟音が車内を震わせていた。ハンドルを握る越也の視線は、必死に闇の中を探している。見慣れたあの背中を、この雨の帳の向こうに見つけられると信じたかった。だが、二時間が過ぎても成果はなく、焦燥だけが積もっていく。枝里子がどこへ向かったのか、見当もつかない。帰国して間もない彼女にとって、この国はまだ異国同然だ。頼れる人も少なく、しかもこんな夜更けに――越也は何度も彼女に電話をかけた。しかし返ってくるのは虚しい呼び出し音だけ。繋がらず、切られもせず、延々と続くプープーという音が彼の神経をすり減らす。「……越也さん、まだ桐谷さんと連絡がつかないのですか?」助手席から詩織の不安げな声がした。彼はちらりと横目をやり、蒼白な顔をした彼女を見て少しだけ声を和らげた。「まだだ。防犯カメラも調べさせてるが……」言葉を遮るように、助手からの報告が入る。「社長、雷雨のせいで周辺の防犯カメラがダウンしました。復旧には時間がかかりそうです。空港の情報も追っていますので、もう少々お待ちください!」「空港?」詩織の目がかすかに輝く。思わず口元が緩みかけ、慌てて咳払いで誤魔化した。「もし桐谷さんが本当に出て行ったら……明日の結婚式はどうなるんでしょう。招待客の前で、お一人で立たれるおつもりですか?」彼女はさらに身を乗り出し、抑えきれない熱を帯びた声を重ねた。「越也さん……もしよかったら、私が代わりを務めます。ベールを被れば、誰も気づきませんから――」「ふざけるな!」怒気を含んだ声が車内を切り裂いた。薄い唇は強く結ばれ、血の気が引いている。「俺の隣に立てるのは枝里子だけだ。詩織、二度とそんなことを口にするな」その一言で車内は一気に凍りついた。雨音だけが激しく響くなか、越也はひたすらハンドルを握りしめ、無意味な探索を続けた。結局、成果は得られぬまま家へ戻ることになった。玄関をくぐった瞬間、全身から滴る水よりも、胸の奥の冷たさのほうが勝っていた。枝里子と口論になることは今までにもあった。だが彼女は決して黙って去ったりしなかった。互いに頭を冷やし、最後には必ず話し合いの場を持とうとしてくれた。今回はそうではなかった。越也はまるで沼にはまったかのように、息をするのも苦しい。携帯の画面には、枝里子
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第10話
携帯に、動画と音声ファイルが一つずつ残されていた。「越也さん、見ちゃだめ!」詩織が泣き叫び、必死に飛びかかろうとするが、すぐに越也の部下に止められた。越也の手は震えていた。動画を開くと、暗い部屋で隠し撮りされたような粗い映像が流れた。最初に聞こえてきたのは、枝里子の声だった。「……あの車の事故、本当に偶然だったんですか?本当のことを話してくれないなら、あなたは刑務所に行くことになります」――あの車の事故。越也の全身が強張る。脳裏に、血まみれで倒れ込む詩織の姿が蘇った。あの瞬間から、彼の心は大きく揺らいだ。ただひたすらに自分を愛してくれる詩織を、枝里子が理不尽に傷つけた――そう思い込み、彼女を信じることができなくなってしまったのだ。まさか……あの事故は嘘だったのか?重苦しい吐息を漏らすより早く、動画の中の運転手が低く呟いた。「違います……あれは、誰かに頼まれたんです。『あの女を軽くはねて怪我をさせろ。血糊の袋は自分で割るから心配するな』って……終わったら二百万くれるって言われて……病気の母の治療費に充てろって」「……お母さんの名前は?」枝里子の静かな声が響く。「林田しのぶ、です」その名を聞いた瞬間、越也の視線は鋭く詩織に突き刺さった。目の奥が赤く染まっていく。林田しのぶ(はやしだ しのぶ)。越也はすぐ思い出した。詩織の寝たきりの母親もその名前だ。しかも、枝里子の帰国を祝う宴の夜も、詩織が「母の体調が悪い」を理由に彼を呼び出したのだ。こんなことまで……嘘だったのか。「いや、違う!全部桐谷さんが仕組んだ罠なんです!」詩織は首を激しく振り、必死に叫ぶ。だが先ほどの挙動不審な様子が、もはや何よりの証拠だった。林田本人は病院にいる、確認は簡単だ。越也はすぐ助手に調べるよう電話をかけた。だが詩織の蒼白な顔を見た瞬間、越也は確信した。調べるまでもない、すべてこの女の仕業だと。何もかもが詩織が仕組んだ罠なのに、越也は彼女だけを信じ、何度も何度も枝里子を傷つけた。指の関節が白くなるほど握りしめ、越也は深呼吸をしてから次の音声ファイルを開いた。今度は、詩織と例の誘拐犯の会話だった。男のねっとりとした声が流れ、詩織は息を呑んだ。越也に携帯を奪われる前にチェックしていたが、録音を最後まで聞いて
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