All Chapters of 再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない: Chapter 601 - Chapter 609

609 Chapters

第601話

楓は頭が真っ白になり、その場から一歩も動けなくなった。脳内で甲高い耳鳴りが響いている。再び顔を上げて夕月を睨みつけたその両目は、怒りで凄惨なほど赤く血走っていた。すかさずカメラマンがレンズを楓の顔に向け直す。夕月が楓を張り倒す一部始終を目撃したことで、配信のコメント欄はさらに爆発し、残像しか見えないほどの異常な凄まじい速度で弾幕が流れ始めた。「夕月ッ!よくも私を……!」その金切り声が終わるより早く、打たれたのと同じ頬に、再び強烈な平手打ちが叩き込まれた。夕月の手には、骨の髄までの怒りが乗っていた。まさかこれほど重い力でぶたれるとは、楓も予想だにしていなかった。口の中に、どろりとした鉄錆の味が広がる。何か言い返そうとしたものの、引っぱたかれた頬は蜂に刺されたように一気に熱を持ち、パンパンに腫れ上がっていた。無数の針で刺されるような鋭い痛みが走り、まともに口を開くことすら困難だった。「あんたッ……!!」楓はギリッと唇を噛み締めた。全身の血が一気に頭へ上り、顔面が怒りで真っ赤に染まる。怒鳴り散らそうと身を乗り出した、まさにその時――涼が静かに歩み寄ってきた。彼は一言も発しなかったが、まるで夕月を庇う守護神のような絶対的な威圧感を纏っていた。そこから放たれる圧倒的なプレッシャーが、見えない圧力となって楓の気勢を力ずくでねじ伏せた。涼は一枚のウェットティッシュを取り出した。そして、楓を張った夕月の手をそっと取ると、その手のひらを静かに拭き始めたのだ。――まるで、ひどく汚らわしいものに触れてしまったとでも言うように。あまりの屈辱に楓の顔が歪む。文句を言ってやろうと息を吸い込んだが、涼の底冷えするような眼差しとぶつかった瞬間、胸の内で燃え盛っていた怒りは、氷水を浴びせられたように一瞬にして消え失せた。「一発目の平手打ちは、悠斗の母親としての怒り。あの子は私のお腹を痛めて産んだ子で、まだたったの五歳なのよ」「二発目は、あなたの実の姉としての説教」夕月の声はあくまでも淡々としていた。だが、そこには一切の反論を許さない、静かで重い威厳が満ちていた。楓は、見えない何トンもの巨岩が首にのしかかっているかのように、顔を上げることすらできなくなった。ただただ、今の夕月が憎くてたまらなかった。藤宮家に引き取られてから
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第602話

「冬真!」冬真の姿を見つけた瞬間、絶望の淵にあった楓の顔がぱっと明るくなった。本能のまま彼に縋り付こうと一歩踏み出したが――すぐに彼の異変に気がついた。彼女の視線が、黒いジャケットで不自然に覆い隠された冬真の双手に吸い寄せられる。あのような見え透いた偽装の下に何が隠されているのか、楓にも嫌というほど分かっていた。手錠……?そんな、嘘でしょ?彼女はその場に縫い止められたように立ちすくみ、信じられない思いで声を震わせた。「冬真、どうしたの……?」巨大企業である橘グループのトップが、手錠をかけられているなんて。絶対に何かの間違いだ。その時、冬真の鋭い視線が真っ直ぐに自分を射抜いていることに気づいた。自分を見つめてくれている――本来なら喜ぶべきはずなのに、彼から向けられる眼差しには、殺意にも似た怒りと憎悪、そして骨の髄まで凍りつくような冷たさしかなかった。ズカズカと冬真が迫ってくる。楓の顔に張り付いていた期待は、瞬時に恐怖とパニックへと塗り潰された。迫りくる冬真の恐ろしい気迫に押され、無意識に後ずさりする。「答えろ!悠斗はどこだ!」血を吐くような切羽詰まった怒号だった。楓の唇がガタガタと震える。「わ、私……知らない……本当に知らないのよ!」半狂乱になって、必死に首を横に振った。「知らないだと?」冬真の声は絶対零度のように冷酷だった。「お前がこの誘拐を企てたんじゃないのか。悠斗がどこに監禁されているか、知らないはずがないだろう!」「違うの、私じゃない!居場所なんて本当に知らない!」惨めで無力な被害者を装いながら、楓はすがるように自分の膨らんだ腹を撫でた。「ねえ冬真、お願いだからお腹の赤ちゃんに免じて、そんな怖い顔で怒鳴らないで……ね?」楓の腹に視線を落とした瞬間、冬真は激しい眩暈に襲われた。吐き気を催すほどの嫌悪感に、ギリッと強く奥歯を噛み締め、顎の骨が痛む。「お前の腹のガキなど、俺には一切関係ない!」「あなたの子供なのよ!」楓は狂ったように叫び返した。まるで、そうやって大声で叫び、周囲の全員に思い込ませることさえできれば、自分の構築した嘘っぱちの虚構がそっくりそのまま現実になるのだと信じ込んでいるかのように。冬真は声を低く押し殺し、その一言一言を呪いのように楓の耳元へ
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第603話

天野の言葉は、まるで氷水を浴びせられたかのように、ヒステリックに狂乱していた楓を強烈に現実に引き戻した。「誰かが私を嵌めた……?いったい誰が!?」楓は弾かれたように運転手の男へ突進し、その胸倉を乱暴に掴み上げた。「あんた、裏で誰から金をもらったのよ!言いなさい!」怒鳴りつけるが、男はまるで木偶の坊のように口を固く結んだまま、ピクリとも動かない。天野は夕月の方へ向き直った。「おそらく今回の拉致は、二つのグループが関わっている。まず藤宮楓の息がかかった連中が悠斗くんを攫い、その直後に、別の人間が横取りしたんだろう」「誰かが私を陥れたんだわ!」楓の顔からみるみる血の気が引いていく。彼女はすがるように冬真へと叫んだ。「裏で誰かが私を嵌めようとしたのよ!冬真、本当に私のせいじゃないの!」夕月は深く息を吸い込んだ。道中ずっと、心臓が破裂しそうなほど激しく脈打っている。彼女は天野を見つめて言った。「警察の方で技術的な解析が必要なら、私が全面的に協力するわ」天野は心強い妹の申し出に深く頷くと、再び冬真に向き直り、低い声で告げた。「お前も署まで同行してもらうぞ」冬真は楓へ鋭い殺意の視線を突き刺したまま、天野に低い声で吐き捨てた。「……こいつだけは、絶対に逃がすな」天野は冷たく鼻で嗤った。「言われるまでもない。お前も、この女も、俺は誰一人逃がすつもりはない」「何する気よ!」再び喚き始めた楓を、一人の警官が背後から押さえ込み、もう一人が彼女の手首に容赦なく手錠をかけた。「私は妊婦なのよ!妊婦を牢屋に入れるなんて許されないわ!」夜風を切り裂き、楓の甲高い抗議が響く。「取り調べのための連行だ。誰も牢屋に入れるとは言っていない」天野は容赦なく一喝した。「これ以上大人しく従わないなら、たとえ妊婦だろうと、こちらにはいくらでも黙らせる手段があるぞ」その圧倒的な威圧感に気圧され、楓は口を噤むしかなかった。警官に連行されながら夕月の横を通り過ぎる時、楓がふと足を止めた。「……他に誰が、悠斗を狙うと思う?」楓の唇が歪に吊り上がり、陰湿で冷ややかな笑みが浮かぶ。「きっと、そいつもあんたのことが大嫌いなのよ。……私と同じくらい、死ぬほどね!」夕月は指先が白くなるほど両手を強く握り込み、冷徹に言い放った。「悠斗を攫い直した
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第604話

楓のカメラマンがバイクに固定していた機材は、本人が連行された後もそのまま放置され、配信の映像は途切れることなく生中継を続けていた。同時接続数百万を超える視聴者のコメント欄では、怒号と罵詈雑言が嵐のように吹き荒れている。【は!?お腹の子、橘社長の子供じゃないの!?】【マジかよ!やっと私の推し社長の身の潔白が証明された!絶対藤宮楓を訴えてブタ箱に入れて!】【推しって……あの橘冬真のこと言ってんの?】【てかさ、橘冬真の両手、ジャケットで不自然に隠されてなかった?あれ絶対手錠かけられてるしょ!何かやらかしたんじゃね?】【ありえない!私の推しを変な風に言わないで!】【じゃあ、なんであんな不自然に手を隠してたか説明しろよw】【完全に手錠隠しじゃん!臭い物に蓋ってやつ!】もちろん、その混沌とした濁流の中には、まともな良心を持つ者たちの声も交じっていた。【お前ら喧嘩してる場合かよ!夕月さんが可哀想すぎるだろ……】【実の妹に自分の子供拉致された上に、その妹が元旦那とくっつこうとしてるとか、マジで地獄すぎる……】【夕月さんのビンタ最高だったわ!私でも絶対殴ってる!】画面は目にも留まらぬ速さでスクロールされ、書き込まれる言葉のほとんどが楓への容赦ないバッシングだった。ごく稀に【妊婦なんだから、ちょっと血迷っただけかも】といった擁護のコメントが湧くこともあったが、瞬く間に無数の非難に飲み込まれ、跡形もなく消え去っていった。そんな狂乱のコメント欄をよそに、固定されたカメラのレンズは、凍てつくような夜風の中に佇む夕月と涼の姿を静かに映し出していた。夕月の華奢な肩には涼の大きなコートが羽織られ、その裾が風に煽られてひらひらと揺れている。パトランプの赤と青の光に照らし出された彼女の背中は、あまりに細く、折れてしまいそうなほど儚かった。その彼女のすぐ傍らに、涼が立っていた。近すぎず、かといって遠すぎることもない、絶妙な距離感。彼は何も語りかけず、ただ静かに彼女に寄り添っている。時折、彼女の横顔を盗み見るその眼差しには、痛切なまでの労りと、深い愛情をギリギリで抑え込むような克制の念が滲み出ていた。殺伐としていた配信の視聴者たちも、次第にその静謐で美しい光景から目を離せなくなっていった。「寒くないか?」涼の声は低く控えめだった。しか
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第605話

不意に目の前へ突き出されたスマートフォンのまぶしい光に、冬真は思わず目を瞬かせた。眉をひそめて画面を覗き込むと、そこには半ばお祭り騒ぎと化した配信のコメント欄が流れていた。【ご祝儀一千万包む!支払いは橘冬真のツケで!】【ご祝儀十億!こっちは橘のババアのツケでよろしく!】【桐嶋涼にチップ一つ!これも橘冬真のツケで!】【お前らやりすぎだろwwといいつつ私もご祝儀投下!】だが、冬真の視線は暴走する文字の群れをすぐに通り越し、画面の中央へと釘付けになった。そこには、身を寄せて夕月のコートの襟元を直してやる涼の姿があった。吹きすさぶ夜風の中、うつむき加減の涼の表情までは窺えない。しかし、その指先の動きは腹立たしいほど優しく、愛情に満ちている。夕月もまた、その手が触れるのを冷たく躱すことなく、ただ静かに寄り添ったまま暗い山林の方角を見つめ続けていた。その静謐な空気感は、二人がとうに互いを深く受け入れている事実を、生々しいほどに物語っている。冬真の顔色が一瞬にして血の気を失い、凄惨なまでに歪んだ。決して、ネット民の心無いからかいや「ツケで払う」という下劣な冗談に腹を立てたわけではない。冬真の視線はただ一点、画面の中で夕月の華奢な肩を包み込み、襟を合わせている涼の手に突き刺さっていた。あそこは本来、俺の定位置だったはずだ――!*周囲の説得もあり、夕月はようやく車へ戻る気になった。腕を引いたのは涼だった。決して乱暴な力ではない。だが、有無を言わせぬ確かな意志がこもっていた。「ここに立っていても仕方ない。車で少し休め。何か分かればすぐ知らせが来る」徹夜明けのひどく掠れた、低い声だった。夕月は反論せずに従った。実際、もうとっくに限界を迎えていた。両脚には鉛が詰まったように重く、一歩踏み出すたびに自分の体ではないような鈍い疲労感が襲ってくる。肩に羽織らされた涼のトレンチコートをきつく掻き寄せ、うつむいたまま車に乗り込んだ。後部座席のチャイルドシートでは、小さなブランケットにくるまった瑛優が身を縮めていた。幼い頬にはまだ乾ききらない涙の跡がへばりついている。それを見た瞬間、夕月の胸がぎゅっと締め付けられた。橘家を出る際、この子のことだけは先に涼に送り届けてもらうつもりだったのだ。だが、夕月が悠斗の
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第606話

夕月はその細い背中を抱きしめ返した。娘のつむじに自分の顎を乗せ、そっと目を閉じる。こんな幼い子に、どうしてこんな残酷な思いをさせなければならないのか。やるせなさと胸をえぐるような痛みが、夕月の心を満たしていた。娘が一人で橘家に乗り込んできた時の場面を思い出し、夕月の目頭がふいに熱くなった。「瑛優。ママね……たまには、そんなに無理して強くならなくてもいいんだよって、言いたいの」夕月の言葉に、瑛優は少し口をつぐみ、やがて顔を上げて聞き返した。「それって、女の子は女の子らしくしなさいってこと?」夕月は横に首を振り、小さな頬を優しく包み込んだ。「ううん。あなたは大事な私の娘で……まだちっちゃなヒナ鳥なんだから。これから何が起きても、ママがこの羽であなたをすっぽり隠して守り抜く」「ママだって、何でもかんでも強くいなくちゃいけないわけじゃないんだよ」瑛優からの思いがけない言葉に、夕月は一瞬言葉を失った。「ママだからって、毎回私の前に立って、全部の盾になろうとしなくていいの」瑛優は舌足らずの可愛らしい声で、それでもきっぱりと言い切った。「私、何歳だとか関係ない。ちゃんと一人前の子どもになるんだから。だって、私ってそういう女の子だもん!」その真っ直ぐな瞳に、夕月の目元はたまらず柔らかな笑みでたわんだ。前方を向いている運転席の涼の瞳の奥にも、優しい光が瞬いていた。*やがて車は、夕月が住むマンションのエントランスに滑り込んだ。涼は先に降りて後部座席のドアを開け、瑛優を抱き上げようとした。しかし夕月は首を振ってそれを制し、自分でチャイルドシートから娘を抱え上げた。瑛優は何も言わず夕月の首に小さな腕を回し、その肩口に顔をぺたりと埋めている。「部屋まで送ろう」涼の申し出を、夕月は拒まなかった。エレベーターの箱が上昇し、階数表示が一つ、また一つと点灯していく。三人の間には言葉がなく、まるで嵐の前の静けさのような、重く張り詰めた沈黙が落ちていた。玄関に着くと、夕月は片手を空けて電子錠の暗証番号を打ち込んだ。ドアが開き、中へ入る。そのまま瑛優をリビングのソファに寝かせ、靴を脱がせてから丁寧にブランケットを掛け直した。だが、涼は玄関の土間に立ったまま、帰ろうとしない。「警察の動きは引き続き俺の方の人間にも追わ
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第607話

瑛優は夕月の脚に乗りかかるようにしてうつ伏せになり、まだ小さな手で母親の服の裾を握りしめている。その呼吸は深く規則的で、一晩じゅう味わった恐怖や不安をすべて夢の底へ溶かしていくようだった。涼はそこから立ち去らなかった。足音を立てないように浴室からお湯を張った洗面器を運び、手で温度を確かめてからナイトテーブルに置く。しゃがみ込み、まずは夕月の顔の汚れを拭い始めた。温かいタオルが頬に触れると、夕月は微かに眉をひそめたが、目を覚ますことはなかった。涼の手つきは、まるで触れれば崩れてしまうような繊細なガラス細工を扱うかのように、徹底して慎重だった。夜の冷たい風にさらされた冷気を拭い去るように、タオルが白い額を滑っていく。暖色の間接照明が涼の横顔を照らし出し、その均整の取れた骨格をくっきりと浮かび上がらせていた。高い眉骨から続く深い目元。長く伸びた睫毛が、目の下に薄い蝶の羽のような影を落としている。すっと通った鼻筋。形の良い薄い唇は今、感情を抑え込んだようにまっすぐに結ばれ、全神経を指先に集中させていた。鋭く引き締まった顎のラインから、しなやかな喉仏の下へと続く首筋。少し開いたシャツの襟元からは、鎖骨の滑らかな曲線が覗いている。徹夜による疲労の色が全体に滲んでいたが、むしろそれが、何かに取り憑かれたような危うく美しい色気を醸し出していた。涼は夕月の上着を静かに脱がせた。その手つきは、壊れやすい宝物に触れるかのように徹底して慎重だった。上着を外すと、少しだけ躊躇う素振りを見せた後、足元の靴下をそっと引き抜く。華奢な足首は、照明の下で透き通るような青白さを帯びていた。それを見つめる涼の指先が一瞬わずかにこわばり、すぐに視線を逸らした。ベッドの端に寝かせた瑛優はひどく深く眠り込んでおり、ここへ運ばれる間も目を覚ますことはなかった。涼は顔の汚れを丁寧に拭い、同じように上着と靴下を脱がせてから布団をしっかりとかける。寝返りを打った瑛優が、空中で何かを探すように小さな手をぱたぱたと動かした。涼がそっと指を差し伸べると、その手がしっかりと握りしめてくる。手のひらに包み込まれた幼い手は、孵ったばかりのひな鳥のように小さくて柔らかい。ふいに、瑛優の唇がもごもごと動き、くぐもった声が漏れた。「……パパ」涼の全身が、まるで時を
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第608話

「社長、警察の動きはこちらでもすべて追っています。捜索隊が夜通し山狩りを行いましたが、橘家の坊ちゃんの痕跡はまったく見つかっておりません」「警察の取り調べは?」涼の声が一段と冷気を帯びる。「例の寝返った運転手は、藤宮楓との協力関係についてはすべて自供しました。しかし、途中でトラックから坊ちゃんを連れ去ったのは自分ではない、と」涼の指先が、ハンドルを軽く叩く。「楓以外に、裏で糸を引いている別の黒幕がいるとでも?」「本人は『いない』と主張しています。現在、坊ちゃんを連れ去った『第三者』の行方を引き続き追跡中です」部下はその先を待ち、じっと沈黙した。しかし、涼からはなかなか言葉が返ってこない。「……社長?」しばらくして、涼が口を開いた。「ここ一ヶ月における海外送金の履歴をすべて洗え。金額にして六桁から七桁のもの、特に匿名口座から暗号資産ウォレットを経由している資金の流れを重点的に徹底調査しろ」受話器の向こうで、部下が完全に狼狽する気配が伝わってきた。「しゃ、社長……それでは対象が膨大すぎます……!」涼はシートに深く背中を預けた。車内の薄暗い照明が、彼の端正な輪郭の彫りをひときわ深く見せている。その眉間には薄氷のような冷徹さが張り付いていた。一見すると静かな冬の湖面のようだが、その底には得体の知れない激しい水流が渦巻いている。「二十四時間態勢で調べ上げろ。百人で足りなければ、千人投入しろ」「…………」部下は何かを言いかけて、結局それ以上尋ねてはいけないと悟り言葉を飲み込んだ。涼の口角が冷ややかに上がる。部下が何を言いたかったのかなど、痛いほど分かっていた。悠斗は自分の息子ではない。実家である橘家でさえ、これほどの人手と資金を投じてまで捜索してはいないだろうに、と。だが、あの子を見つけ出さない限り。夕月はこれからの人生において、ただの一夜たりとも心安らかに眠ることはできないのだから。「蟷螂の斧を狙う『黄雀』が、一度きりの罠で満足して手を引くわけがない。必ずもう一度尻尾を出す」涼の声は静かだったが、その響きには微塵も揺るがない確信が満ちていた。「ああ、そうだ」何かを思い出したように、涼はひどく何気ない口調で尋ねた。「安井綾子の動きはどうなっている?」「安井さんでしたら、今朝早く橘家の本邸へ向かいました。
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第609話

カーテンの隙間から差し込む朝の光が、寝室のフローリングの床に細い線を引いている。部屋全体はまだ薄暗く、微かに埃が舞っていた。夕月はひどく長い夢を見ていた。深い霧の中で、誰かが「ママ」「ママ」と叫んでいる。しかし、いくら声のする方へ手を伸ばしても、濃い霧に阻まれて姿を見つけることができなかった。ゆっくりと目を開く。覚醒した直後の数秒間、ひどい目眩のような感覚に襲われ、自分が今どこにいるのかまったく分からなかった。ただ、朝の光が暖かく、枕の表面に見知らぬ清潔な香りが微かに残っていることだけが感じ取れる。夕月は無意識のうちに、その枕にそっと頬をすり寄せた。シダーウッドにミントを少し混ぜたような、冷たくて淡い香り。それが引き金となり、昨夜の記憶が冷水のように一気に脳裏へなだれ込んできた。悠斗が消えた。楓が警察に連行された。橘家で監禁されたこと。吹き荒れる夜風の中で、警察からの知らせを待ち続けたこと。極限まで張り詰めた精神と疲労の限界が重なり、帰りの車中で泥のように眠りに落ちてしまったのだ。夕月は弾かれたように上体を起こし、部屋の中を見回した。そこにいるのは自分一人だけだった。ふと視線を動かすと、ナイトテーブルの上に保温ポットが置かれている。中には、すぐに飲めるように温度が調整された白湯が入っていた。そしてポットの横には、ボールペンで重石をされたレモンイエローの付箋が横たわっている。付箋を取り上げると、見覚えのある文字が目に飛び込んできた。力強い筆圧でありながら決して主張しすぎず、払いの部分に独特の丸みを帯びるその筆跡は、間違いなく涼のものだった。『パンとスープはキッチンに置いてある。温めるだけで食べられるから。今日は冷え込むから、外に出る時は必ず一枚多く羽織ること』昨夜、意識を手放す直前の最後の光景が鮮明に蘇る。ソファの横の低いスツールに腰を下ろした涼の姿。オレンジ色の間接照明が、普段は鋭い彼の横顔をひどく柔らかく照らし出していた。彼は一言も発さず、ただ静かな瞳でこちらを見つめていた。あの時、すでに睡魔に抗えずにまぶたが落ちかけていたが、ずり落ちたブランケットを彼が丁寧に掛け直してくれたことだけはぼんやりと覚えている。その時、顎の輪郭をかすめていった涼の指先は、少しだけ冷たかった。夕月はその小さな付箋を見つ
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