All Chapters of 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる: Chapter 871 - Chapter 880

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第871話

世羅の問いに対し、理斗ははぐらかすような真似はしなかった。ただ事実だけを告げた。「笑美とは、二十年近い付き合いだ」その一言に込められた真意は、捉えようによっていくつもあり得る。それだけ長い歳月を共有した絆は、そう簡単には壊れない——そういうことだ。世羅は黙って拳を握り締めた。理斗を見つめた瞳が、一瞬だけ鋭く冷たくなった。だが、世羅は賢かった。ここで彼に追い打ちをかけるような面倒な真似はしない。さらりと話題を変え、微笑んでみせた。「……そうだよね。大丈夫、気にしないで。私、ちゃんと分かってるから」穏やかに頷き、いつも通り、理斗を頼りながらも適度な距離を保った。理斗は世羅を見つめた。彼女が抱えるいくつかの感情には、どうしても応じることができなかった。それでも、笑美と自分は、はじめから一緒になる運命なのだ。……世羅と別れて車に乗り込んだ理斗は、眉をひそめたまま、しばらくエンジンをかけずに沈黙していた。最近の笑美は、明らかに感情の起伏が激しすぎる。彼女がどれだけ強がってみせても、心の中では自分のことを絶対に手放せないのだと、理斗は思い込んでいた。だがそうは言っても、根拠のない嫉妬で笑美がずっとくすぶり続けているのは、見ていてあまり気分のいいものではなかった。笑美が不機嫌であれば、理斗だって心地よくはない。少し考えた末、笑美に電話をかけて、機嫌を取ってやることにした。結婚式の準備に意識を向け直させれば、それで彼女も落ち着くはずだ。携帯の連絡先の一番上には、笑美の名前が固定されている。発信ボタンを押そうとしたその瞬間、画面が切り替わり、周平からの着信が入った。理斗は怪訝に眉を寄せ、通話に応じた。「……お前、どういうつもりだ!」電話口の父は、いきなり声を荒げていた。「清水家へ来いと言っておいただろう。婚姻届の具体的な話を進めるというのに、お前はそれほど忙しいのか!」理斗は苛立たしげに眉間を揉んだ。「……急ぎの用事が入ったんです」「届を出すことより大事な用などあるか!」「婚姻届など、いつでも出せるでしょう。今日でなくても問題はないはずです」そこに関しては、疑う余地などなかった。「いいか、よく聞け。今日、笑美はお前が来なかったことに相当頭に来ていたぞ。その勢いで、ついに『結婚しない』とまで
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第872話

基地から戻ってから、ゆっくり話せばいいだけのことだ。……両家の反応は、笑美の予想をはるかに超える残酷なものだった。自分の決意を正直に打ち明ければ、きっと両親も真剣に話し合ってくれると、心のどこかで信じていたのだ。だが、違った。笑美の必死の訴えは、誰の耳にも届かなかった。結婚式は彼女の意思を完全に無視したまま、強行されようとしていた。笑美は、怒りでどうにかなりそうだった。どうして誰もが、自分を聞き分けのない愚かな子どもだと見下すのか。ただの気まぐれでごねているだけだと思い込むのか。母の純子だけは、笑美の様子がいつもと違うことに気づいていた。しかし、夫の異常なまでの頑固さと融通のなさも、誰よりよく知っている。「……笑美。お母さんにだけは話して。あなたたち、本当のところはどうなっているの?」笑美は、喉の奥がひどく詰まった。理斗の頭の中が世羅のことで支配されている事実を思い出すと、惨めで、情けなくて、口に出すことすら耐えがたかった。滲み出る涙を必死にこらえ、ただ絞り出すように言った。「……お母さん。理斗は、もう私のことなんて好きじゃないんだ。愛されてもいないのに、無理強いして縋りつくのは嫌。だから、こっちから願い下げってだけだよ」純子の胸が、ぎゅっと締めつけられた。自分の娘がどんな子か、一番よく分かっている。絶対に、一人で抱えきれないほど深く傷ついているはずだ。純子は急いで娘を抱き寄せ、その背中をさすった。「……大丈夫よ。お母さんがもう一度、お父さんとしっかり話してみるから。あの人は頭が固いけれど、なんとかするわ」母の温もりに包まれた瞬間、笑美の目に限界まで溜まっていた熱いものが溢れ出した。声を出して泣いてしまわないよう、唇を強く噛みしめる。「……うん……私、もう結婚しない。絶対に、したくない」この名家に生まれ、何不自由ない恵まれた環境で育ってきた。その代償として、人生の重要な局面では家の方針に従う。誰もがそうやって、自分の感情を殺して生きている。だから、今こうして笑美が大騒ぎして婚約を破棄しようとするのは、周囲の大人たちから見れば、単なる身勝手なわがままにしか映らないのだ。でも、もうこれ以上は耐えられなかった。結婚した後の生活を想像するたびに、絶望で吐き気がした。理斗の異常なま
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第873話

その考えが頭をよぎってから、笑美はろくに眠れなかった。決して尻尾を掴ませない、信頼できる「役者」を見つけ出すのは、そう簡単なことではない。夜通し考えを巡らせていたせいで、会社に着いても、まだ頭に霞がかかったようだった。笑美のオフィスの前を通りかかった承一が、ドアから顔を覗かせて一瞥した。「何か悪いことでもしてきたのか。ひどい顔してるぞ」笑美は椅子にぐったりともたれたまま、力のない声で返す。「悪いことなら、してきたところ」承一は片眉をわずかに上げた。「温井紬が不良の親玉なら、お前は下っ端か。冗談は顔だけにしておけ」笑美は奥歯を噛み締めた。馬鹿にして!けれど、言い返す気力すら湧かなかった。誰もがそう思っているのだ。笑美は理斗に夢中だ、と。だからお父さんも、結婚式の解消を頑なに認めようとしない。承一はそのまま部屋の中へと足を踏み入れた。すでに、軽口を叩くような気分ではなくなっていた。笑美の様子が、明らかに普通ではないと気づいたからだ。いつもならうるさいほど元気な彼女が、すっかり生気を失っている。その瞳の奥には、いつもの光がない。体調がまだ戻っていないのかと思い至り、近づいて額に手を当て、熱を確かめる。そして険しい顔で眉を寄せた。「熱は引いたのか?顔色がひどいぞ」笑美はゆっくりと顔を上げて承一を見ると、思わず力なく微笑んだ。「承一」「聞いていい?私、誰かと結婚なんてできると思う?」承一の眼差しが、ふっと鋭さを帯びた。笑美をじっと見据える。「本気で言ってるのか?」笑美は一瞬押し黙り、深く溜息をついた。「馬鹿みたいだよね」承一はしばらく無言のままだった。笑美の置かれている状況と、今の心境が、痛いほど見えてきたからだ。こんな顔は、今までの笑美にはなかった。笑美の性格はよく分かっている。彼女が同じことを二度口にしたときは、本気なのだ。承一は彼女の傍らに立ったまま、動かなかった。長い沈黙が続く。額に当てられた手も、ずっとそのままだった。やがて、笑美がふと顔を上げた。「もしもーし?何考えてるんだ?」承一は我に返ったように、熱を測っていた手を離し、代わりに人差し指で笑美の額を軽く弾いた。「お前んちの、文字を打つ猫。今度もう少し語り合ってみようかと思ってな」「……?」承一
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第874話

「清水笑美、もう気が済んだか」理斗は、一語一語ゆっくりと口にした。笑美は自嘲するように笑った。「何が何でもダメなのか?あなたとあの大切な妹さんのために、私が身を引いてあげるって言ってるのに、ダメなのか?世間の目なんて、あなたならどうとでもなるだろ」吐き出す言葉の端々に、鋭い棘が混じる。理斗は顎のラインをきつく引き締め、笑美を射抜くように見据えた。「いつになったら大人になるんだ。世羅がお前のことを許すと言ってくれているのに、自分がしたことと、いつになったら正面から向き合う気だ?」笑美は目を見開いた。「……何かしたって?私が何を?」本当に、何のことだかさっぱりわからなかったのだ。だが理斗の目には、その態度がただの開き直りにしか映らなかった。彼の瞳に、かすかな失望の色がよぎる。それでも、世羅の言葉は間違っていなかった。笑美が世羅を危険な目に遭わせ、あの雪山で死にかける目に遭わせた張本人だとわかっていても、理斗は笑美との縁を切ろうとは微塵も思わなかった。それだけ、二人は長い時間を共にしてきた仲なのだ。「今日、選びたくないというなら、また今度にしよう」これ以上言葉を重ねて説明する気はなかった。ここで洗いざらい話したところで、また大騒ぎになるだけだと見切っていた。あの頃、世羅は「気にしない」と言ってくれた。しかし理斗は後日、密かに笑美の通話履歴を調べたのだ。あの日、世羅が笑美に電話をしていた記録が、確かに残っていた。信じたくなかった。受け入れたくなかった。しかし世羅はあの事故による足の怪我のせいで、人生が崩れかけていた。幼い頃から習っていたダンスの道を、絶たれてしまったからだ。夢を無残に断ち切られたようなものだった。それが後に、彼女が転職するきっかけとなった。世羅が被った取り返しのつかない理不尽な現実は、笑美の行動が生み出したものだ。だが笑美は自分の妻となる人間だからこそ、自分がその責任を取る——それが、理斗の導き出した不器用な答えだった。理斗は一拍の間を置き、先ほど部屋にいた承一の姿を思い返した。なぜか、ひどく強い不快感が胸をざわつかせている。彼はらしくもなく、ぽつりと告げた。「結婚式は、必ず予定通りに行う。これからは、ちゃんと一緒にやっていく。お前を粗末に扱うような真似はしない……俺を信じてくれ」理斗は
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第875話

紬は、笑美の様子が心配でたまらなかった。あれほど大らかで明るかった子が、今は深い絶望に沈んだような顔をして、追い詰められている。けれど、笑美の瞳の奥には、まだ火が燻っていた。絶対に負けてたまるかという、運命に抗おうとする強い意志が。「……何か考えてるの?」紬は声を落とした。笑美のことだ、勢い任せに突き進んで、思わぬ失敗をしないか心配だった。把握しておければ、いざという時に手を貸せる。笑美は静かに首を振ると、握り返した紬の手に力を込めた。「大丈夫。ごちゃごちゃした話だから、心配しないで。私一人で何とかするから」両家の企業が複雑に絡み合っている。事を荒立てれば、恨みを買うのは避けられない。紬は笑美のことをよくわかっているから、それ以上は聞かなかった。ただ、笑美が着ているウェディングドレスに目を留め、思わず眉をひそめた。「……ねえ、そのドレス、サイズが合ってなくない?」笑美は、自分の腰のあたりを自嘲気味に見下ろした。ウエストの布地がたるんでいる。明らかに笑美のサイズではなかった。「結婚式が一週間も前倒しになったせいで、仕立て直す時間がなかったんだって。だから、これを用意されたんだよ」そう口にしながら、笑美はただ苦笑するしかなかった。本人のサイズすら合っていないドレス。この式そのものが、理斗の笑美に対する扱いをそのまま表しているようだった。もっと早く気づくべきだったのに。現実に徹底的に打ちのめされて、ようやく目が覚めたのだ。「準備はできているか?」不意に声が響き、振り返ると、ドアのところに理斗が立っていた。パイロットだけあって、引き締まった体躯と姿勢の良さでタキシードを着こなしている。笑美は理斗を見つめた。あの長い年月、自分が全身全霊で注いできた愛情は、目の前のこの男に注がれていたのだ。笑美は一途で、確信するまで突き進む性格だった。けれど今回は、痛い目を見て、血を流した。その痛みによって、ようやく目が覚めた。紬は、さりげなく視線をそらした。理斗が歩み寄り、ふと、笑美のドレスのサイズが合っていないことに気がついた。彼は一度唇を引き結んでから、短く言った。「急なことだったからな。すまない」両家が突然前倒しにしたせいで、多くのことが間に合っていなかったのだ。笑美は、理斗の目を冷ややかに見据えた。「
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第876話

笑美自身がすでにこの結婚を望んでいないことは、紬にも痛いほどわかっていた。だが、理斗がこの場で花嫁を置いて立ち去るのとは、まったく意味が違う。紬は思わず冷ややかな視線を向け、皮肉を口にした。「今日が何の日か本当にわかってます?何があなたをそこまで、理性を失わせているんですか?」理斗は口元を固く引き結んだままだった。突然の知らせだ。彼とて、こんな展開を望んでいたわけではない。笑美は、理斗に握られていた自分の手を、静かに引き抜いた。「……また、世羅?」理斗は何も答えなかった。その重い沈黙が、何よりの答えだった。笑美は自嘲するように、ふっと笑う。「わかった。行って」拍子抜けするほど、あっけらかんとした声だった。以前のように感情的になって声を荒げることも、泣いて不満をぶつけることもない。そのあまりの潔さが、理斗の胸の内に説明のつかない空虚感を生み出した。じわじわと広がる、薄ら寒い焦燥感。だが、今は立ち止まって考えている猶予はなかった。世羅の足の後遺症は、何年も前に笑美が彼女を雪山に置き去りにしたことと直接繋がっている。だからこそ、理斗には彼女を見捨てることなど絶対にできないのだ。「待っていてくれ。必ず戻る」理斗は立ち上がり、真剣な眼差しでそう約束した。今の笑美には「待つ」以外の選択肢などないはずだと、理斗は疑っていなかった。何しろ今は式の直前なのだ。状況が状況であることは、笑美だって理解しているはずだ。そうして、理斗は控室を出ていった。人目を避けながら、足早に階下へと向かう。その途中で、偶然にも聖也と鉢合わせた。聖也に事情を問われ、理斗はありのままを短く伝えた。聖也は目を丸くして驚いた。「彼女が、そんなに素直に見送ったのか?」取り乱さなかっただけでも奇跡じゃないか。理斗はジャケットのボタンを外し、待たせていた車に乗り込みながら答える。「ああ。あいつは本当に大事なときには無茶はしない。今回は無理をさせた分、結婚したらちゃんと埋め合わせするつもりだ」それを聞き、聖也もなるほどと納得した。笑美がどれほど理斗を深く愛しているか、聖也はずっとそばで見てきた。婚約してからも海外を飛び回る理斗を、寂しいとも言わず、ただひたすらに待ち続けていたのだ。それほどまでに彼を愛している笑美が、いかに
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第877話

来賓たちは、すでにそれぞれの席に着いていた。紬は、祈るような気持ちで振り返り、入り口を見つめた。扉がゆっくりと開き、笑美が三郎の腕にそっと手を添え、バージンロードを歩み始めた。まだ異常事態に気づいていない来賓たちが、笑顔で携帯を構え、フラッシュをたき始める。紬はきつく唇を引き結び、笑美の美しく整った横顔を見つめた。胸が、ギリギリと締めつけられるように痛む。自分も似たような地獄を味わってきたからこそ、今の笑美がどれほどの屈辱と絶望の中にいるか、痛いほどによくわかった。これから、社交界でどれだけの心ない噂が飛び交うことだろう。三郎は娘と腕を組み、誇らしげに前へと歩いていったが、壇上まで辿り着いたところで、そこに立つはずの理斗の姿がないことに気づき、怪訝そうに首をかしげた。笑美は父の腕を軽く叩き、自分の席へ戻るよう目で静かに促した。三郎は深く追及することはせず、言われるがままに席へと戻っていった。広大な壇上に、笑美はただ一人で立った。来賓たちの困惑を含んだ視線が、四方八方から彼女一人へと突き刺さる。司会者も、プロでありながらどう言葉を紡げばいいのか戸惑い、口ごもっていた。新郎がいないのだから、式を進行しようがないのだ。客席にいた聖也は、壇上で奇妙なほど落ち着き払っている笑美の姿に耐えきれなくなり、慌てて携帯を取り出し、理斗に電話をかけた。だが、どういうわけか、何度かけても繋がらない。聖也は自分のことでもないのに、思わず冷や汗をかいた。これは、どういうことだ?一体どうなる?親族席に座っていた純子は、もはや居ても立っても居られなくなった。明らかに、何かがおかしい。立ち上がり、祈るような目で壇上の娘を見つめる。やがて、来賓たちのざわめきが、はっきりとした声となって会場に響き始めた。「……どういうことかしら?今どきの式って、新郎が最後にサプライズで登場する演出なの?」「気づいてないの?明らかにおかしいでしょ。新郎、逃げたんじゃないの!?」周囲から、抑えきれないどよめきが波のように広がっていく。一人立つ花嫁を見る目が、次第に奇妙なものへと変わっていく。からかうような、あるいは好奇心剥き出しの視線。誰かが、ぼそりと嘲笑をこぼした。「ないわぁ。清水家の御曹司さん、よっぽど気に入らないお嫁
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第878話

自分が後妻として清水家に入ったところで、手に入る財産などたかが知れている。だが、もし世羅が理斗の妻の座に収まれば――話はまったく変わってくる。そんな計算をめぐらせながらも、世羅が心の底から理斗を愛していることも、彼女はよく分かっていた。手段はどうあれ、結果さえ望み通りになるのなら、それで構わない。あの笑美については――菫は声もなく冷笑した。うちの娘には到底敵わない。人の心を操る策略において、相手にならない。勝ち目など、一体どこにあるというのか。真っ直ぐすぎて、少しの融通も利かない、あの世間知らずのお嬢様には。笑美は壇上から、波のように押し寄せてくる嘲笑や哀れみの声を聞いていた。腕は一颯に強く握られたままだったが、それを振りほどくこともせず、それでも、客席から見つめる錚々たる顔ぶれの来賓たちを真っ直ぐに見据えた。笑い者にされることなど、今の彼女にとってはもはや何の恐怖でもなかった。「……皆様、ご覧の通り、新郎は本日、ここへは来ておりません」マイクを通した声は、どこまでも冷たく、落ち着き払っていた。ゆっくりと、会場の全員を見渡す。そのとき、ホールの最後方の出入り口に、遅れて到着した承一の姿が見えた。距離が遠すぎて、彼がどんな顔をしているかはわからない。笑美は一語一語、まるで他人事のように淡々と言葉を紡いだ。「実は、今日この場は、そもそも設けられるべきではありませんでした。もともと私がここで皆様にお伝えしたかったのは――私と清水理斗は、もう二度と交わることのない、別々の道を歩んでいくということです」その決定的な言葉に、会場が一気に沸き立った。誰もが、そんな展開を予想していなかった。横に立つ一颯も、信じられないというように目を見開く。最前列の三郎が、弾かれたように立ち上がった。それでも、珍しいことに娘の言葉を強引に遮ろうとはしなかった。笑美の声には、何の怒りも、悲しみも滲んでいなかった。どこまでも冷ややかな表情で、言葉を続ける。「ただ、ひとつだけ、この場ではっきりさせておきたい事実があります。今日、何の責任感もなく、両家の体裁すら顧みず、ここへ来なかったのは清水理斗の意思です。大人として、自分が果たすべき最低限の責任すら果たせない人間は、到底許されるものではありません」その痛烈な
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第879話

その声は、笑美にとっても完全に予想外だった。笑美の視線は、自分が頼んでおいた「役者」の男性に向けられていた。彼が立ち上がり、二、三歩踏み出したちょうどそのとき、あの聞き覚えのある声が真っ直ぐに鼓膜を打ったのだ。心臓が大きく跳ねた。激しい動揺をどうにか顔に出さないようにして、声の主へと視線を向けた。そこには、涼しげでどこか気だるげな承一の瞳があった。片手をポケットに突っ込み、深みのある漆黒のフォーマルスーツを纏った彼が、大勢の視線を一身に浴びながら、壇上でひとり立つ笑美のもとへ一歩、また一歩と歩み寄ってくる。息を呑むほど、絵になる光景だった。会場の空気が一瞬、ぴたりと静まり返る。誰もが、彼が放った言葉を、一拍遅れても飲み込めずにいた。ただ一人、紬だけは違った。穏やかな顔に驚きを浮かべ、困惑したように目を瞬かせる。これまで、この二人の間にそんな気配があるとは微塵も気づいていなかったからだ。紬の隣に座る慎は、ゆったりと足を組んだまま彼女の手を握り、親指でその甲を優しく撫でている。この急展開にも、少しも驚いた様子は見せない。「あのふたりって……いつから?」紬が目を丸くする。慎は少し首を傾けて彼女を見た。「承一さんが、笑美と理斗の結婚式の話が出た途端、『親父から見合いを迫られてる』なんて言い出したのは、どうしてだと思う?」その一言で、紬はすべてを察し、再び視線を壇上へと戻した。承一は、すでに笑美の傍らに立っていた。深い黒のスーツは、まるで最初から計算されていたかのように、笑美の純白のウェディングドレスと不思議なほど見事に調和している。まるで、これが本来の結婚式の姿であるかのように。笑美は思考が追いつかないまま、隣に立つ男をぼうっと見つめていた。承一は視線を落とし、笑美の手首をそっと握る。それが、小刻みに震えているのを感じ取った。ひとりでこれほど多くの嘲笑や悪意の目に晒されて、どれだけ平然を装おうとも、内心は恐怖と緊張で張り詰めていたに決まっている。承一は笑美を一瞥してから、来賓たちのほうへと向き直った。「本日の状況は、皆様もすでにお察しのことと思います。政略的な婚姻は大人たちが決めるものであり、若い当人たちが容易に口を挟めるものではない――皆様もよくご存じのはずです。ただ、今日の清水理
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第880話

承一は、ざわめく来賓たちの反応など意に介さなかった。笑美の手をしっかりと握ったまま、言葉を継ぐ。「話を整理しましょう。今日のこの結婚式は、そもそも彼女本人が望んだものではありませんでした。親の命令であれ政略であれ、今の時代、誰もがおとなしく従うわけではないことは、皆様もご存じでしょう。大切にされないのなら――笑美、オレと結婚しないか?相手を変えるというのも、悪くない選択肢だ」それは、紛れもないプロポーズだった。会場のあちこちから、一斉に息を呑む音が上がる。誰もが目を丸くして、壇上の信じられない光景を凝視していた。新郎に逃げられて結婚式が破綻したどころか――前代未聞の略奪劇へと変貌したのだ。会場は、大混乱に陥った。人々の表情がめまぐるしく変わっていく。なかでも、両家の親たちの狼狽ぶりは凄まじかった。兄の一颯も、驚きのあまり顔を引きつらせて固まっている。あの承一が?誰もが一目置くあの男が、こんな頭のネジが数本飛んでいるような妹を好きだというのか!?当の笑美は、耳の奥でずっと心臓が早鐘のように鳴り響いていた。ぽかんと口を開けたまま、目の前の承一を見つめる。彼はすでに笑美の真正面に立ち、その瞳には、笑美がこれまで一度も見たことのないような、熱く深い光が宿っていた。そして、彼女の耳にだけ届く低い声で囁く。「得体の知れない役者の男より、オレのほうがずっとマシだろ。おバカさん」その言葉に、笑美は弾かれたように我に返った。そうだ――!承一が相手なら、誰も文句のつけようがない。父の口も完全に塞げるし、理斗の家もぐうの音も出ないはずだ。笑美は瞬時に腹を括った。承一に向かってすっと手を差し出し、意図的に会場中に響くような声を張る。「……いいよ」本来の打ち合わせならば、指輪をはめるふりだけをして乗り切るはずだった。しかし承一は、どこからともなく「本物」の指輪を取り出すと、笑美の左手薬指にゆっくりとはめ込んだのだ。「これを受けたからには、もう後戻りはなしだ」笑美は呆然と、自分の指で光るリングを見つめた。信じられないことに、サイズはぴったりだった。今日の結婚式では、ドレスのサイズも合わず、式自体も望まないもので、何もかもが大人たちの都合で強引に進められてきた。それなのに――承一が用意
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