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第9章 聖域

 懐中電灯の光が闇を裂き、狭い山道を細く照らしていた。夜気は重く、虫の声すら遠い。 梓は隣を歩く吉川の様子に目をやった。 吉川は時折歩みを緩め、火傷を負った腕を押さえている。包帯の隙間から滲んだ布が汗に濡れ、光を受けて暗く沈んで見えた。「先生……痛むんですか?」「大丈夫です。大したことはありません」 吉川はそう言っているが、分厚く巻かれた包帯がいかにも痛々しい。梓が立ち止まり、光を彼の腕に向ける。吉川は小さく首を振った。「でも――巻き直した方が」「いえ、湿潤療法なので、このままで大丈夫です」 梓は布を取り出そうとしたが、吉川がやんわりと制した。「無理をするのは君の方でしょう。顔色が優れません」 梓は言葉を詰まらせた。 脳裏に浮かぶのは、母の日記の最後の一文。 ――『二度と戻らない』。「……母は、どうしてあんなことを書いたんでしょう」「強い言葉ですね。固い決意を感じます。きっと本当にこの村には戻らない、戻ることが出来ない理由があったんでしょう」 静かな声に、梓はかすかに肩を落とした。 彼の言葉は慰めではない。けれど確かに、支えになる理屈だった。「先生は……怖くないんですか」「怖いですよ。ですが、恐怖を記録に残せば、それは無意味なものではなくなります。――君も忘れなければいい」 梓は小さく頷き、懐中電灯を持ち直した。 その時、道が二つに分かれた。 左は岩肌の裂け目へ続き、低い水音が響いている。洞窟だ。 右は藪を抜けた先に、ぽっかりと広がる窪地。そこに石組みの井戸が見えた。木の蓋は錆びた鎖で留められ、隙間からは冷気とともに鉄臭い匂いが漂ってくる。「……井戸?」 吉川は灯りを向け、眉を寄せた。「古い造りですね。記録に残しておきたいが――」 梓は思わず首を振った。背筋をなぞる冷気に、ここではないと直感する。「先生……あっちは、だめです。清音に案内してもらった祠は洞窟の中にありました」 言い切る声は震えていたが、必死だった。 吉川は短く考え、やがて頷いた。「分かりました。なら、まずは祠を確かめましょう」 二人は井戸から視線を外し、岩肌の裂け目へと歩みを進める。 背後で、井戸の鎖が風に揺れて鳴った。低い水音が重なり、闇はさらに深まっていく。◆ 洞窟の奥は湿り気が濃く、足音に重なるように水滴の音が響いていた。灯り
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第9章 にくゑ

 板を写し終えたときだった。 洞窟の奥から、かすかな息づかいのような音が響いた。湿った闇そのものが呼吸しているようで、二人は同時に顔を上げた。 ――ふう、ふう……。 低く重なる音が、岩壁に反響して胸の奥を震わせる。「……聞こえますか」「はい」 吉川の声は押し殺されていた。 梓は灯りを固く握りしめ、首を縦に振る。甘ったるい匂いが急に濃くなり、喉の奥に粘りつく。 耳を澄ませると、息づかいの合間に囁きが混じっている。 意味を結ばない声が重なり合い、まるで複数の人間が同時に呟いているようだった。 梓は母の日記の最後の一文を思い出した。 ――「もう二度と戻らない」 背筋に冷たいものが走り、視界が滲む。「先生……ここから先は……」 吉川は懐中電灯を奥に向けたが、光は闇に呑まれて何も映さない。彼の理性は告げていた。ここは禁域だ、立ち入ってはならない。だが同時に、医師としての衝動が彼を迷わせた。「確かに……ここは危険な雰囲気があります。しかし、真実はこの先にある」 梓は頭を振った。「だめです……誰かが、見ている……」 その瞬間、背後から空気が揺れた。 暗闇の奥に、確かに何かの視線を感じる。 ――覗かれている。 囁き声が幾重にも重なり、洞窟の空気そのものがざわめいた。 二人は息を呑み、互いの存在を確かめるように目を合わせた。 囁きが途切れた刹那、岩壁のあちらこちらがじわりと濡れ、黒い液がにじみ出した。それは洞窟の奥全てを覆い尽くし、祠を中心に岩肌全てを覆い尽くす。 滴かと思ったそれは膨らみ、肉のように脈動し始める。 いや、肉のように、ではない。 それは肉だった。黒い液体は見る見るうちに赤黒く色を変え、それははっきりと肉塊に姿を変える。 ――ぐじゅ、ぐじゅ……。 甘ったるい匂いが一層強くなり、吐き気を誘う。 梓は思わず後ずさり、吉川が腕を引いて支えた。「下がってください!」 声を上げた瞬間、にじんだ塊から眼のようなものが開いた。 白濁した膜に包まれた無数の瞳。次々と瞬きを繰り返しながら、二人を見据える。 同時に裂け目が生まれ、口腔のような穴が開いた。 ぬめる舌を思わせる触手が這い出し、闇の中で蠢く。「……これが……にくゑ……」 吉川は震える声で言い、一歩後ずさる。 だが触手の一本が閃くように伸び、梓の腕を掴んだ
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第9章 廃屋へ

 洞窟から戻る道の途中、雑草に紛れているが脇に分岐する小道が見えていた。その先には、古井戸の黒い輪郭がぽっかりと浮かんでいた。月明かりがその縁を銀で縁取るたび、梓は胸の奥を小さく締めつけられるような感覚を覚えた。「この先にある古井戸、少し気になりますね」「……はい、井戸の先にも何かあるみたいです」 清音に言われた言葉が、ふと蘇る。──古井戸には近づくな、と。何かを守るための境界線のように、彼女の中でその言葉が折り重なっていた。「調べてみたくもありますが……」 吉川の声を聞きながら、道の分かれ目を過ぎ、数歩進んだとき――夜の空気が一瞬、ざわついた。井戸の向こうから、切羽詰まった女性の声が鋭く響いた。「助けてっ!」 その叫びが夜気を震わせ、梓の胸が凍る。声は一度で終わらず、嗚咽と短い断末魔のように続いた。懐中電灯の光を握る手に力が入る。清音の言葉が、不意に耳の裏から囁かれた。──古井戸に近づくな、と。梓はその戒めを思い出しながらも、足を止めることはできなかった。 梓は古井戸の方向に目を向けた。吉川も同じく、暗闇の奥を見据えている。「先生、今のは!?」「ええ、聞こえました。あの声には聞き覚えがあります」 二人は迷うことなく、分かれ道に向かって駆け出した。 古井戸を横目に過ぎると、その先の暗い森の中に小さな建物の影が浮かび上がる。黒ずんだ屋根が月光に浮き、社務所の跡を残す廃屋だった。障子の一隙間から、暗がりのなかで揺れる小さな影が見え、かすかな音が漏れている。短く、途切れる嗚咽。子どもの泣き声だった。 梓の足が無意識に速まる。胸の中で、祠の板に刻まれた文字列がまた揺れた。〈この子は、普通に生きて〉――その殴り書きが、眼前の泣き声と重なる。 障子越しに揺れる影がもう一度見え、梓は無意識に駆け寄ろうとする。吉川が静かに後を追い、彼女の肩に軽く触れて速度を抑えた。彼の目は夜の光に冷たく光り、しかし表情には確かな理性があった。「落ち着いてください。様子を伺います」 吉川は低く言い、障子の隙間に懐中電灯を差し入れて中を覗き込む。光が畳に落ちた瞬間、そこに縛り付けられた人体の輪郭が浮かび上がった。男の体は柱に固定され、縄が何重にも巻かれている。筋が浮いた腕が痙攣し、唸り声が口から漏れていた。 吉川が低く囁いた。「梓さん、静かに。まずは状況を確かめな
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第9章 言の葉

 吉川は柱から縛めをほどいた俊夫に肩を貸した。 俊夫はよろめきながらも、歩き出す。「せ、先生? なんで? 俺は……?」「安心してください。とりあえず皆で診療所まで戻りましょう」 朦朧としている俊夫に落ち着いた声をかけながら、吉川は歩き出す。「梓さんは、沙織さんたちを」「はい!」 梓は沙織の側に膝をつき、子どもの体温を確かめる。陽一はまだ震えており、小さな背中が母親の胸に寄り添う。「何があったのかは後で伺います。今は、ここを離れることが先です」 梓は囁くように言いながら、沙織に手を差し出した。 沙織は眉を寄せ、嗚咽を抑え込もうとして顔を上げる。恐怖と安堵が混ざった表情で、震える手を梓の指に絡める。「……どうして……どうしてこんなことを……」「今は、とにかく動きましょう。先生の指示に従ってください。私も、手伝います」 沙織を立たせ、梓は陽一を抱き上げた。陽一は身体を小さく丸め、母の胸から離れるのを嫌がった。「おかあさん……」 小さな声が震える。梓がそっと背を支えると、陽一はびくびくと小さな体を預けながら、縛られていた柱の方を見た。「……おとうさん、だいじょうぶ?」 その問いかけに、沙織の顔が歪む。答えを返せずに唇を噛み、震える手を梓の腕に短く触れた。そこに感謝と疲労、そして言葉にできない苦悩が混じった熱を残した。「大丈夫よ、陽一。先生が診てくださるから」 沙織は必死に声を絞り出し、息子の頭を撫でた。 その時――外から、砂利を踏む足音がかすかに聞こえた。風に乗って、松明の匂いが戸の隙間から流れ込む。梓は無意識に立ち止まり、耳を澄ませる。足音は間を置いて近づき、やがて止まる。 吉川の目が一瞬だけ険しくなる。治療の手を止め、梓に短く囁いた。「梓さん、外の様子を見てください。急ぎますが、慎重に」 梓は静かに頷き、障子の隙間に懐中電灯の光を差し出す。外は月光に照らされた小径が細く伸び、一人の男がこちらを覗き込むように近づいてきた。光が当たるその顔は、庄司――村の猟師だった。手には猟銃を抱えている。しわの刻まれた表情は冷たい眼差しを湛えながら、どこか歪んだ微笑を浮かべている。 庄司の声が夜に低く響いた。「ここに入ったのは誰じゃ? 村ん外ん者か?」 そのひとことで、室内の緊張が一段と高まった。男たちの影が戸口に寄り、火の光が差し込
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