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第331話

こんな状況で、萌花が何の意味もなく蓮に上着を渡すはずがない。萌花は技術の世界では化け物のような存在だ。服の中に発信機を仕込むくらい、彼女にとっては造作もないはずだと紗夜は知っている。彼女は萌花の腕をつかんだ。「ねえ、何か仕込んであるんでしょう?このまま蓮を一人で行かせるなんて、そんなことしないですよね?」萌花は静かに口を開いた。「愛莉も技術者です。米粒より小さい、世界でも最先端に近い監視カメラまで作れる人間なんです。玉城さんのスマートフォンに不正アクセスしても、跡を残さないほどの人です。そんな人が、玉城さんの身につけた発信機に気づかないと思いますか」紗夜の目に残っているかすかな光が、ゆっくり消えた。「じゃあ……本当に、何もできないんですか?」「今すぐしなければならないことがあります」萌花は言った。「愛莉の監視から抜け出すことです」その場にいる全員が、息をのんだ。紗夜は目を見開いた。「どういうことですか?私たち、今も愛莉に監視されているっていうんですか?」萌花はスマートフォンを取り出し、検知アプリの画面を確認した。画面には、監視装置らしき信号がいくつも表示されている。ひとつ、ふたつ、三つ――少なくとも五か所。そこから半時間ほどかけて探し回り、萌花は本当に五つの超小型監視装置を見つけ出した。そのうち一つは紗夜の服に貼りつけられていた。愛莉は、以前と同じ手口を使っている。すべての監視装置を見つけ出し、破壊してから、萌花はようやく小さく息を吐いて言った。「警察だけでは足りません。通信解析に強い専門チームの支援が必要です」警察の要請を受け、通信解析の専門チームが村に入った。蓮の家のそばには仮設の指揮スペースが作られ、衛星回線の機材も次々と運び込まれていく。萌花は専門チームと連携しながら、愛莉がさきほど使った通話経路の追跡を始めた。だが、通話時間はあまりにも短かった。しかも愛莉は、追跡されることを最初から想定していたのだろう。通信経路は何度も迂回させられていて、どこから発信されたのか簡単には分からない。今ある設備では、通話が一分以上続いていないかぎり、発信元を割り出すのは難しい。一分にも満たない通話となると、その時刻に世界中の衛星通信網で行われた膨大な通信記録の中から、条
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第332話

蓮がヘリを降りると、あとから大柄な男が二人続いて降りてきた。二人は迷彩柄の服を着て、手には銃を持っている。立ち方ひとつ見ても、ただの見張りではなく、相当な訓練を受けた人間だとわかる。蓮は周囲を見回した。どうやら、ここは島らしい。しかし、見えるのは果てしなく広がる海と、目の前に生い茂る深い森だけで、それ以上のことは分からない。二人の男に背中を押され、蓮は森の奥へ進まされた。しばらくすると木々が途切れ、視界が開ける。目の前に現れたのは、城を思わせるほど大きな別荘だった。さらにその隣には、場違いなほど静かに、小さな教会まで建っている。入口で、男たちは蓮を足止めした。ヘリに乗せられる前に拳銃はすでに奪われたが、それだけでは足りないらしい。今度は金属探知機を使い、服の上から靴の先まで念入りに調べられた。盗聴器や発信機を警戒しているのだろう。それでも何も見つからないと、男たちはようやく蓮を別荘の中へ押し込んだ。中へ入った瞬間、蓮は異様な光景に足を止めた。ホールには白い花、リボン、風船、キャンドルが所狭しと飾られている。壁には「Happy Wedding」と書かれたプレートまで掛けられている。だが、お祝いの気配などどこにもない。広すぎる別荘の中にあるのは、作り物めいた華やかさと、息苦しいほどの静けさだけだ。蓮は空間に向かって声を張った。「隠れていないで出てこい。見ているんだろう」すると、どこからともなく声が響いた。「蓮。やっと来てくれたのね」「こそこそ隠れていないで、出てこい。人間なら、姿を見せろ」「どうして私の名前を呼んでくれないの?私は愛莉よ」蓮の声は氷のように冷たかった。「悪いけど、その名前を聞くだけで吐き気がするんだ」そのとき、階段の上に白い影が現れた。蓮が目を向けると、そこに立っているのはウエディングドレス姿の女だ。純白のドレスには細かな装飾がびっしりと施され、長いトレーンが階段の上に広がっている。華やかなはずの姿なのに、この人気のない別荘ではひどく異様に見えた。蓮の視線は、その裾からゆっくりと上へ移っていって、最後に、女の顔で止まった。華やかなドレスとは不釣り合いに、女の顔には古びた白いウサギの仮面がつけられている。もとは真っ白だったのだろうが、今はうっすら
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第333話

蓮はもう我慢の限界だ。彼は手を伸ばし、そのウサギの仮面を剥ぎ取ろうとした。その仮面の下にどんな顔があるのか、確かめずにはいられなかった。しかし、女の反応は早い。彼女はすっと一歩後ろへ下がって、片手を軽く上げた。控えていた武装した男たちがすぐに蓮を取り押さえた。蓮はそのまま、近くのピアノに押さえつけられた。「君……いったい何をするつもりだ」「あなたと結婚するのよ」蓮はほとんど反射的に叫んだ。「ふざけるな」女はドレスの裾を持ち上げ、ゆっくりと蓮のそばへ歩いてきた。仮面の奥から聞こえる声は奇妙なほど甘い。「ふざけてなんかいないわ。これは夢なの。蓮は、私が十年間ずっと見続けてきた夢だよ。この十年、ずっと今日という日のためだけに生きてきたの」女は両手を広げ、仮面をつけたまま広いホールの中でくるりと回った。「見て。ここは童話に出てくる、王子様とお姫様のお城よ。私もやっと、おとぎ話のお姫様になれたの。お姫様と王子様は最後に結ばれて、お城でいつまでも幸せに暮らすのよ」その姿を見て、蓮の背筋には冷たいものが走った。しかし今、真正面から逆らうわけにはいかない。だが、今ここで力ずくで逆らえば、健太と芽衣に何をされるか分からない。蓮は湧き上がる嫌悪感を押し殺した。二人を無事に帰すためにも、まずは相手に合わせ、少しでも時間を稼ぐしかない。蓮は時雄と萌花を信じている。あの二人なら、必ず方法を見つけて、ここまでたどり着く。蓮は女の妄想を断ち切るように口を開いた。「俺はもう、君の言う通りに来た。これで満足だろう。どうするかは好きにすればいい。だが約束どおり、健太と芽衣は帰せ」ウサギの仮面をつけた女が振り返って、首をかしげた。その声は甘く、まるで本当に何も知らない少女のようだ。「私、いつ二人を帰すって言ったのかしら。あなたが来れば、あの子たちを殺さないとは言ったけど。今あの子たちを解放したら、困るじゃない。私だって馬鹿じゃないのよ。あの人たちが必死に私の居場所を探していることくらい、分かっているもの」愛莉は楽しそうに笑った。そして身をかがめ、ピアノに押さえつけられている蓮の目をのぞき込んだ。「あなた、あの二人のことが好きなんでしょう?それなら、私たちの子どもみたいにそばに置いてあげればいい
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第334話

蓮は力いっぱい身を振りほどいた。押さえつけている男たちが一瞬体勢を崩し、その隙に蓮は抜け出して、出口へ向かって走り出した。「蓮。せっかくここまで来たのに、健太と芽衣がどうなってもいいの?」その声が落ちた直後、階段の上に二人の子どもの姿が現れた。健太と芽衣だ。二人とも手足をきつく縛られている。男たちは、まるで小さな荷物でも扱うように二人を抱え、階段を下りると、そのまま床へ投げ捨てた。二人は怖さのあまり、身じろぎさえできない。目元にも睫毛にも、乾ききらない涙が残っている。本来なら澄んでいるはずの瞳は、恐怖でいっぱいだった。蓮はすぐ二人のそばへ駆け寄った。蓮の姿を見た瞬間、健太と芽衣の目からまた涙があふれた。怖かった気持ちも、つらかった気持ちも、堰を切ったようにこぼれ出した。「放せ。今すぐこの子たちを放せ」蓮は二人を縛っていた縄を急いでほどき、口をふさいでいたテープを慎重にはがした。ようやく自由になった二人の腕や足には、縄が食い込んだ跡が青紫色に残っている。体のあちこちにも傷があり、殴られたことは一目で分かった。「先生!」二人は同時に、蓮の胸へ飛び込んだ。「先生、迎えに来てくれたの?」「先生、帰りたい。お母さんに会いたい」「怖いよ……」腕の中で震える二人を抱きしめながら、蓮は奥歯を噛みしめた。自分のせいで、この子たちまでこんな目に遭わせてしまった。蓮は愛莉を見据えた。「どうすれば、この子たちを解放するんだ」愛莉もゆっくりとしゃがみ込んで、仮面の奥に、目だけが笑った。「ねえ、ここで暮らしたくない?ここはお城よ。お菓子はいくらでもあるし、おもちゃだって遊びきれないくらいあるの。ここにいたいって言ってくれたら、あなたたちはこのお城の主人になれる。ここにあるものは、全部あなたたちのものよ」けれど二人はまったく聞く耳を持たず、泣き叫んだ。「帰りたい!おうちに帰りたい!」愛莉の声が、ふっと冷たくなり、そこからむき出しの脅しが聞こえた。「これ以上泣いたら、蛇のいる穴に放り込むわよ。少しずつ食べられてしまえばいいわ」二人は一瞬で声を失った。蓮は怒りを押し殺し、低く吐き捨てた。「君は、どこまで狂ってるんだ」愛莉は立ち上がった。「蓮、嘘じゃないのよ。私と結婚して
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第335話

「知ってるだろう。俺はずっと、人に見られる場所で生きてきた。拍手も、歓声も、スポットライトも、俺にとっては当たり前のものだ」蓮はゆっくりと言った。「俺の結婚式なら、なおさら盛大で、意味のあるものにしたい。本当に俺を愛しているなら、人生で一番大切な瞬間を、世界中の人に見届けさせるべきじゃないか」愛莉の目に、ぱっと喜びが浮かんだ。「結婚してくれるの?」「大人しく君と結婚してもいい。ただし、その結婚式は世界中にライブ配信してほしい」愛莉は声を上げて笑った。「蓮って本当にかわいいね。そんなこと考えているの?配信すれば、警察が私の居場所を見つけられるって思ってるんでしょう?」蓮は言った。「俺たちの結婚を誰にも知られたくないのか?」それは愛莉にとって、あまりにも大きな誘惑だ。世界に自分と蓮の結婚を知らせる。世界に蓮が自分のものだと見せつける。「いいわ。やってあげる」蓮はまさか本当に承諾されるとは思わなかった。だがすぐに、愛莉は続けた。「でも残念ね。たとえ配信しても、誰にもこの場所は突き止められないわ。この配信は、私が作った特別なシステムを通しているの。どれだけ追いかけても、本当の場所にはたどり着けない。最後に出てくるのは、現実には存在しない場所だけよ。私の仮想領域の防壁を破れる人なんていない。だから、期待しないことね。誰も見つけられないから」蓮の顔色がわずかに暗くなった。愛莉がただ者ではないことは、蓮にも分かっている。米粒ほどのカメラを仕込み、通信経路まで自在に操る。萌花が警戒しているのも当然だ。しかし、それでも蓮には、この方法に賭けるしかなかった。まもなく、蓮の結婚式というライブ配信が始まった。それがウイルスのように、世界中の端末へ広がっていった。世界中で、パソコンを立ち上げた人々の画面に突然同じ配信が割り込んできて、閉じようとしても閉じられず、発信元のIPアドレスも追えない。最初、人々は何が起きたのか分からなかった。ウイルスだと思い、慌てて画面を閉じようとするが、その画面はどうしても消えない。そこでようやく、人々はただの不具合ではないと気づいた。配信画面には最初、古びた教会の内部だけが映っていた。しばらくすると、画面の奥から二人が姿を現した。カメラがそのうちの一人
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第336話

だがまもなく、蓮が拉致されたという情報は警察によって事実だと確認された。公式発表によれば、特別救助チームはすでに現地へ向かっており、人質の救出に全力を挙げているという。【うそ、特別救助チームまで出てるじゃん。これ本当だったんだ……】【蓮、かわいそう。この前の発作の映像も、たしか過激なファンが流したんだよね?まさか同じ人?】【じゃあ、蓮がゲイだって噂も、その女が仕組んだんじゃない?私たち、完全に誤解してたのかも】【蓮、本当に大丈夫なの……?】配信画面の中で、蓮は無理やり教会へ連れていかれた。健太と芽衣も華やかな衣装を着せられ、花を持たされていて、式に付き添う子ども役として立たされている。教会の中は、結婚式のために整えられているようで、祭壇も花もそろっている。だが、参列者の姿はどこにもなく、広い教会の中に立っているのは司祭だけだ。その司祭の顔にも恐怖が張りついている。彼もまた、無理やり連れてこられた被害者なのだとすぐに分かった。蓮は祭壇のそばまで押し出され、隣には相変わらずウサギの仮面をつけた愛莉が立っている。司祭は震える声で祈りの言葉を読み上げてから、かすれた声で尋ねた。「あなたがたは、神の御前で夫婦となることを誓いますか」仮面の下から、甘い声が聞こえた。「誓います」蓮は何も言わなかった。司祭は数秒待ったが、返事がないので、仕方なくさらに続けた。「それでは、神様の祝福をお受けください……」配信のコメント欄は荒れに荒れている。【だめだよ!拉致犯と結婚なんて絶対だめ!】【死ね!クソウサギ】【誰か蓮を助けて。今どれだけ絶望してるんだろう】【全国に流れてるのに、警察まだ場所つかめないの?】その頃、日向村の臨時指揮所では、全員が配信画面を食い入るように見つめている。紗夜の目には、憎しみが燃えている。「この女……本当に殺してやりたい」しかし画面に蓮の顔が映ると、その表情はすぐに痛みに変わった。「時雄、何とかして。お願いだから、早く何とかしてよ」臨時指揮所は、張りつめた空気に包まれていた。通信解析の専門チームだけでなく、パーセクテックの技術部門のメンバーもほぼ全員が集まり、並んだ端末の前で配信元の特定にあたっている。愛莉の言ったことは嘘ではない。配信元へ近づこ
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第337話

誰もすぐには信じられなかった。だが、晴加が裏社会とつながっていたとなれば、これまで不可解だったことにも説明がつく。彼女の周りに訓練された男がいることも、普通では手に入らないような機器を次々と使っていたことも、もはや偶然ではない。時雄は紗夜に目を向けた。「紗夜、晴加という名前に覚えはあるか?」時雄自身には、その名前にまったく心当たりがない。紗夜はしばらく考え込んでいたが、次の瞬間、何かを思い出したように勢いよく立ち上がった。「思い出した……」一方、教会では、蓮は黙ったまま、ふいに体を横へずらして一歩踏み出すと、愛莉の顔を覆っている仮面をつかんだ。愛莉は完全に油断していて、白いウサギの仮面が、一気に剥ぎ取られる。次の瞬間、愛莉の悲鳴が教会に響いた。彼女は両手で顔を覆い、狂ったように叫びながら後ずさった。そして、そのまま逃げるように駆け出していった。配信のコメント欄が、一瞬でざわついた。【今の何?人間の顔だった?】【あんな顔、初めて見たんだけど……】【いや、あれは単にブスとかじゃない。整形を繰り返した後遺症でしょ】【スクショした。顎も頬骨も不自然すぎるし、二重もやばい。どうしたらあんな顔になるの】【あんな顔で蓮と結婚しようとしてたの?正気じゃないでしょ】仮面が外された直後、配信画面はすぐに真っ暗になった。日向村の小さな家では、時雄がすぐに尋ねた。「知ってるのか。あの女」萌花も手を止めて紗夜を見た。紗夜は信じられないという顔をしている。「まさか、彼女だったなんて……」横にいる隼人がたまらず口を挟んだ。「姉さん、早く言ってよ。誰なんだよ」「同じクラスにいたの。みにくいアヒルの子って呼ばれていた子。晴加よ」全員がぽかんとした。時雄もすぐには飲み込めなかった。「同級生だったのか?」時雄は蓮や紗夜と同い年ではあるが、幼いころから天才児として扱われ、学校も特別なクラスに通っていた。一方、紗夜と蓮は幼なじみのようなもので、小さいころから同じ学校に通っていた。だから二人のクラスで何があったのか、時雄はほとんど知らない。紗夜は口を開いた。「晴加は、小学校のころから私たちと同じクラスだった。でも、見た目のことでからかわれていたうえ、人付き合いも苦手で、いつも
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第338話

その場で誰もが言葉を失った。真実がこんなものだったとは誰も思っていなかった。しかし、どれほど昔のことが分かったところで、今の状況が変わるわけではない。今必要なのは、蓮たちの居場所を一刻も早く突き止めることだ。島では――仮面を剥ぎ取られた愛莉は、両手で顔を覆ったまま別荘へ逃げ込んで、そのまま自分の部屋へ駆け込み、扉を乱暴に閉めた。蓮は、手の中に残されたウサギの仮面を見つめている。仮面は大切に保管されていたらしい。プラスチック製の安っぽいもののはずなのに、長いあいだ何度も撫でられてきたのだろう。表面は玉のように滑らかになっている。その古びた黄ばみを見つめているうちに、蓮の脳裏に、遠い記憶の中の小さな影がゆっくりと浮かび上がった。蓮はウサギの仮面を見つめたまま、息をのんだ。記憶の奥にいた、あの少女。まさか、彼女だったのか。そう気づいた直後、男たちが背後から蓮を押さえ込んだ。抵抗する間もなく手足を縛られ、そのまま地下の一室へ引きずられていった。健太と芽衣も別々の場所へ引き離された。蓮は十字架のような拘束台に縛りつけられ、そのすぐそばには、拷問に使うための道具が並んでいる。鞭、鉄のペンチ、刃物――どれも目を背けたくなるようなものばかりだ。それらを目にした瞬間、蓮の中で、かつての記憶が一気に噴き上がった。汚く、苦しく、思い出したくもない過去。胸の奥に押し込めていたはずのものが、無理やり引きずり出された。ほどなくして、男の一人が地下室に入ってきて、黙ったままいきなり蓮を殴りつけた。腹に、顔に、容赦なく拳が落ちて、口の中に血の味が広がったところで、蓮の意識はぷつりと途切れた。次に目を覚ましたとき、全身の骨が砕けたように痛んだ。口の中には、鉄錆のような血の味が広がっている。蓮は重いまぶたをどうにか開けた。目の前に椅子があって、そこに愛莉が座っている。彼女は着替えて、それでも白いドレスであることに変わりはない。顔にはまたあのウサギの仮面をつけている。蓮が目を覚ましたことに気づくと、愛莉は立ち上がって、そばに置いてあった救急箱を手に取り、蓮のところへ歩いてきた。近づいてくる気配に、蓮は反射的に身を引こうとした。だが、縛られた体は少しも動かない。次の瞬間、愛莉の指が傷口に触れた。「離れろ
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第339話

「私のこと、本当に覚えてないの?」蓮はようやく少しだけ呼吸を取り戻し、かすれた声で言った。「覚えてる。晴加だろ」その名前を聞いた瞬間、愛莉は仮面の下で凍りついた。蓮に覚えていてほしい。しかし、本当に覚えられているのが怖い。まして、覚えているうえで「ブス」と言われたのだと分かった瞬間、愛莉の心は音を立てて砕けた。蓮は続けた。「あのころみにくいアヒルの子って呼ばれていた。いつも一人でいて、あの変わった子だろう。覚えてるよ。俺はあの時、一度だって君をいじめてない。侮辱したこともないだろ。なのに、どうしてこんなことをするんだ」愛莉の目は涙であふれている。「蓮、知ってる?学校で優しくしてくれたのはあなただけだったの。あなたは言ってくれた。顔のことで自分を嫌いになる必要なんてないって。人はみんな違うし、その違いを笑うほうが間違っているんだって。私がいじめられたとき、あなたは見て見ぬふりをしなかった。いつもかばってくれて、相手と喧嘩になったこともあった。遊園地に行ったときも、このウサギの仮面を買ってくれた。私の目はきれいだって、星が入っているみたいだって、そう言ってくれたの」愛莉は、遠い記憶の中へ沈んでいくようだ。「蓮が言ってくれた言葉を、一つ残らず覚えている。この何年ものあいだ、何度も何度も思い返してきた。あなたは、神様が私を救うために遣わしてくれた天使なの。真っ暗だった私の人生に、初めて光をくれたの」愛莉は蓮に近づいて、片手でそっと蓮の頬に触れる。「だから分かるでしょう?私がどれほどあなたを愛しているか」蓮は口を開いた。「その愛は、俺には重すぎる。それは愛なんかじゃない。本当に愛していると言うなら、俺と二人の子どもを解放しろ。そうすれば、あの頃の君まで憎まずに済むかも」愛莉は急に激しく取り乱し、立ち上がって大声で叫んだ。「無理よ。あなたを放すなんて、絶対に無理。蓮には、この島で私と一生暮らしてもらう。生まれ変わっても、その先でも、ずっと私と一緒にいるの」蓮の声は冷たかった。「君はただの狂人だ」「蓮、私がこの何年、あなたのために何をしてきたか知ってる?」愛莉は息を詰めるように話し始めた。「小さいころから両親がいなかった。身内といえば叔父だけ。でも、あの人は技術のことしか見
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第340話

「黙れ!」それでも愛莉は、構わず話し続けた。「蓮、知ってる?私、毎年の誕生日に同じことを願ってきたの。あなたと一緒にいられますようにって。そして今日は、ちょうど私の誕生日で、やっと、願いがかなったの。見て。この島。海に浮かぶ宝石みたいでしょう?きれいで、静かで、誰にも邪魔されない。ここも、あなたも、自分に贈るために用意したプレゼントなの」蓮は床に倒れたまま、目を閉じた。愛莉の声はもう聞きたくない。返事をすれば、彼女の狂った夢の中に自分まで引きずり込まれてしまう気がした。だから蓮は、黙り続けた。その沈黙が愛莉には何よりはっきりした拒絶に見えた。「蓮、私を愛して。あなたが愛するのは私だけでいいの」「殺されても、君だけは愛さない」愛莉は立ち上がり、床に倒れた蓮を見下ろした。「いいわ。どうせあなたはもう私のものだから。気が変わるまで、時間はいくらでもある」それから三日が過ぎた。そのあいだ、蓮はあらゆる苦痛を味わわされた。体も心もとうに限界を超えている。それでも不思議なことに、発作は起きなかった。むしろ頭は怖いほど冴えている。何度も、かつて最も絶望していたころに引き戻されそうになった。それでも蓮は、そのたびに歯を食いしばって耐え抜いた。この十年、蓮は何度も、自分の人生を終わらせたいと思ってきた。それなのに今は、生きたいと強く思っている。こんなにも強く生き延びたいと思ったことはなかった。それはまるで、過去に受けてきたすべての苦しみに、初めて真正面から抗っているかのように。愛莉も蓮がここまで折れないとは思っていなかった。どれだけ痛めつけられても、蓮は屈しなかった。愛莉を受け入れることも、この島で一生を過ごすと約束することも、最後まで拒み続けた。地下室に閉じ込められてから、どれほど時間が過ぎたのか分からない。昼なのか夜なのかさえ分からず、体にはもうほとんど力が残っていない。蓮は床に横たわったまま、暗い天井を見上げた。ただ、胸元の薔薇のブローチを片手で強く握りしめている。そのとき、そろった足音が近づいてくるのが聞こえて、蓮は目を閉じた。また愛莉が人を寄こしたのだと分かった。この数日、鞭で打たれても、水に沈められても、電気を流されても、蓮は屈しなかった。やがて、あのウサギの仮面が
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