All Chapters of 愛し続けた彼を、私は手放すことにした: Chapter 121 - Chapter 124

124 Chapters

第121話

 休みが終わり、再び撮影現場へ出勤すると、紗月は由衣の周囲の空気がどこかおかしいことに気づいた。 これまでも由衣の機嫌がいいことはなかった。 だが今日は、紗月が現場に来た時から、由衣が何とも言えない視線でじっと彼女を観察していた。 その視線に、紗月はなんとなく背筋が寒くなる。 幸い、今日は由衣の撮影スケジュールがかなり詰まっていた。 ほとんどの時間をスタジオでの撮影に費やしており、紗月と顔を合わせる機会もあまりない。 それに、紗月は少しだけ安堵する。  今日は美咲から、セットの解体作業を手伝うよう指示されていたからだった。 本来であれば、この作業は専門の大道具会社の担当であり、解体スタッフの配置もすでに決まっていた。 そのため、紗月が来たところでかえって邪魔になるだけで、スタッフたちも困ったような顔をしていた。 結局、運搬などの簡単な作業だけを任されることになった。 それでも、美咲や由衣の傍にいるよりは、こちらの方がずっと居心地がよかった。 解体チームの雰囲気はとても良い。 四人しかいないからか、全員仲が良く、仕事中も笑い声が絶えない。 紗月が一人で黙々と作業をしていると、退屈しているのではないかと気を遣い、わざわざ会話に巻き込んでくれることもあった。 こんな職場の空気は、紗月にとってほとんど初めてのものだった。 朝倉サポートソリューションズでの日々は、毎日が息苦しく、張り詰めた空気の中で過ごすばかり。 由衣の傍も同じだった。 だからこそ、解体スタッフたちの楽しそうな会話を聞きながら、紗月も時折つられるように微笑み、小さな笑い声を漏らしていた。* 昼休み。 紗月は近くの椅子に腰を下ろし、ぼんやりと時間が過ぎるのを待っていた。 何気なく顔を上げた時、別の方向から由衣がこちらへ歩いてくるのが見えた。 迷いのない足取り。 その視線もずっと紗月へ向けられている。 明らかに、自分を目当てにしているのだと分かった。 紗月の前まで来ると、由衣はゆっくり顔を上げ、目の前にある解体途中の背景セットへ視線を向けた。 それは数日前の撮影で使われていたセットだった。 二階建てほどの高さがある、マンションのバルコニーを模したセット。 高層階のベランダを演出するために作られたものだ。 今は、もともと取り付けられていた透かし彫りの装
Read more

第122話

 すべては一瞬の出来事だった。 幸いだったのは、紗月が立っていた場所が足場の縁ではなかったことだ。 とっさに身体をひねったことで、そのまま床へ倒れ込み、間一髪で足場の外へ投げ出されるのは免れた。 しかし、その代償は大きかった。 足首に鈍い痛みが走る。 まだ治りきっていなかった場所を、再び捻ってしまったのだろう。今度は前回とは比べものにならないほど痛みが強かった。激しい痛みに息が詰まりそうになる。 紗月はその場に身体を丸めるように倒れ込んだ。 それでも、両腕だけは無意識にお腹を守るよう抱き締めたまま、決して離そうとはしない。 あと少し。 あとほんの少し位置がずれていたら、そのまま足場から真っ逆さまに落ちていた。 痛みがあまりにも激しく、息をすることさえ苦しい。 額には汗が滲み、全身は強張ったまま一歩も動けなかった。 視界まで歪み、ぐらぐらと揺れている。 それでも、その視界の端には由衣の足元が映っていた。 彼女は安全な場所に立ったまま、一歩も動こうとしない。 ただ静かに、紗月が苦しむ姿を見下ろしていた。 やがて痛みがわずかに和らぎ、紗月はゆっくりと顔を上げる。 その視線の先で、由衣は口元をゆっくりと吊り上げ、不気味な笑みを浮かべていた。 その瞳には、凍りつくような冷たい悪意が宿っていた。 紗月と目が合っても、由衣は視線を逸らそうとはしなかった。 その身には、狂気と冷静さが同居したような、ぞっとする空気が漂っている。 紗月の心は、一気に底へ沈んでいった。 由衣が、はっきりとそう口にしたからだ。「やっぱり、本当に妊娠してたんだ」 その口調には、一片の迷いもなかった。 つまり、たった今の行動は、紗月が本当に妊娠しているのかを確かめるためだけのものだったのだ。* 昼休みが終わると、由衣は何事もなかったかのように撮影現場へ戻っていった。 だが、彼女が去った後も、あの低く不気味な笑い声だけはいつまでも紗月の耳にこびりついて離れない。 全身から血の気が引き、震えはいつまで経っても止まらなかった。 ――もう、ここにはいられない。 紗月は本能的に、お腹の中の子だけは守らなければならないと思った。 そう思った瞬間、紗月ははっと息をのんだ。 妊娠を知ってからというもの、胸の中はずっと複雑な思いでいっぱいだった。どこか現実味
Read more

第123話

 彼がそこまで率直に尋ねてくるとは思ってもみなかった紗月は、呆然と篤司を見つめた。 唇を開きかけるものの、結局何も言葉にすることができない。 当の篤司はまるで気にした様子もなく、本当に何気なく事実を確かめただけ、とでも言うような淡々とした表情を崩さなかった。 それ以上問い詰められることもなく、紗月は胸の奥でそっと安堵の息をつく。「今日はもう動かないほうがいいでしょう。足首も捻っていますし、かなり腫れています。一度病院で診てもらったほうがいい」 篤司は終始抑揚のない声音でそう告げた。 何事にも動じないような淡々とした雰囲気はどこか近寄りがたく、紗月は少しだけ怖さを覚える。 それでも、そのさりげない気遣いが胸に沁みて、ありがたくてたまらなかった。「ありがとうございます……篤司さん?」 篤司はちらりと紗月を見ただけで、呼び方については何も言わなかった。 ただ小さく頷くと、それ以上言葉を交わすこともなく、そのまま解体チームの作業へ戻っていった。 足が思うように動かせないままでも、紗月は何度か立ち上がって手伝おうとした。 しかし、そのたびにチームの誰かが気づき、慌てて制止する。「大丈夫ですよ、朝倉さん。うちは作業も早いですし、無理に手伝っていただかなくても平気ですから」 そう優しく声を掛けられても、何もせずに見ているだけでは、紗月はどうしても落ち着かなかった。 自分だけ何もせず座っているように思われるのが嫌だった。それでも椅子に座らされたままでは、本当に何もすることがない。 そんなふうに所在なくしていた、その時だった。「朝倉さん。視力はいいですか」 不意に篤司が隣へやって来て、相変わらず無表情のままそう尋ねた。「えっ? 視力……ですか? あ、はい……目はいいほうです」 篤司は小さく一つ頷いた。 何を考えているのか読み取れないまま、彼は近くの机へ向かい、一冊の記録表と一本のボールペンを持って戻ってくる。「篤司さん……?」「これは記録表です。確認した資材や備品を記録しておく人が必要なので、この一覧にある品目ごとに数量を書いてもらえれば十分です」 そう言いながら、午前中に取り外され、整然と並べられた木材や資材を指さした。「多少誤差があっても問題ありません。会社へ運び戻す時に、もう一度正式に数量を確認しますから」 特別な技術も知識
Read more

第124話

 篤司は普段ほとんど笑わないのだろう。 ぎこちなく浮かべられたその笑みは、どこか不自然だった。 紗月には分かった。彼なりに親しみやすく接しようとして笑ってくれたのだと。けれど慣れていないせいか、表情はどこかぎこちなく、少しだけ引きつって見えた。「……ありがとうございます。書き間違えていないといいんですが」 紗月が小さく礼を言うと、篤司は資料を閉じながら静かに答えた。「間違っていても構いません。どうせ最後にもう一度確認しますから」 そう言って一拍置くと、何かを思い出したようにふと尋ねる。「……朝倉さん、今日はどうやって帰るんですか」「えっ?」「必要なら送ります。会社の車がありますから」おそらく現場用の車のことだろう。紗月は一瞬きょとんと目を瞬かせたあと、慌てて両手を振った。「い、いえ! そこまでしていただくのは申し訳ないです」「大したことじゃありません」 篤司はいつもと変わらない淡々とした口調で続ける。「あとで必要になったら、遠慮なく声をかけてください」 それ以上は勧めなかった。 無理に気を遣わせることも、断られた相手との距離を縮めようとすることもない。ただ必要だと思ったから声をかけ、それで終わり――そんな一線の引き方が、いかにも篤司らしかった。「こっちも片付きましたので」 それだけを告げると、篤司は振り返ることなく解体チームの輪へ戻っていく。 戻った途端、仲間たちが何か面白そうに声を掛けていた。 距離があったため、紗月には何を話しているのかまでは聞き取れなかった。 それでも、篤司は最後までいつも通りの無表情で、短く受け答えをするだけだった。からかわれても表情ひとつ変えず、淡々と受け流すその落ち着きぶりは、やはり彼らしかった。 * 立ち上がった瞬間、それまで意識の隅へ追いやっていた足首の痛みが、鋭く存在を主張する。 腫れ上がった右足をかばいながら、紗月は左足へ体重を預け、一歩ずつ引きずるように撮影現場へ戻っていった。 今日の仕事が終わったことを、美咲へ報告するためだ。 しかし、美咲の姿はどこにも見当たらない。 代わりに、ちょうど一つのシーンを撮り終えた由衣が、その場に立っていた。 足を引きずりながら近づいてくる紗月の姿を認めると、由衣は口元をほんのわずかに歪めた。 その笑みは一瞬で消えたものの、目だけはじ
Read more
PREV
1
...
8910111213
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status