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104 Bab

鉄の掟

煙草を挟んだ宇治宮の指先が、かすかに、だが確かに震えるのを、京司の鋭い眼光は捉えて離さなかった。「何の事や? いきなり押し掛けてきた用件が、そないな下らん戯言か」吐き捨てるような宇治宮の冷徹な声音に、京司の表情は一層の険しさを帯びていく。「――組の屋台骨を支える若頭補佐の安否すら、あなたにとっては些末に過ぎんと言うのですか」宇治宮の口から、張り詰めた空気を引き裂くような怒声が飛び出した。「うるさいんじゃっ! 下の連中を管理するんも、お前の仕事やろがっ!」水を打ったように静まり返っていた和室に、彼の怒号が激しく響き渡る。だが、京司の心はピクリとも動かない。激昂する宇治宮を前にしてもなお、彼はただ冷徹なほどに落ち着き払った態度で、その視線を受け止めていた。「……シノギのヤク(薬)がもたらす端金は、オヤジにとって、俺たち“子”の命よりも重いものなのですか」京司の口から紡がれたその言葉が、凍てついた刃のように空気を切り裂いた。刹那、宇治宮の動きがぴたりと止まる。石像と化したかのように、指一本すら動かさない。ただ、彼の指に挟まれたままの煙草から、仄白い紫煙だけが、部屋の静寂のなかを、ゆらりと、あてどなく漂っていた。長い沈黙が、二人の間に重く澱んでいた。やがて、強張っていた宇治宮の輪郭が、微かな諦念とともに緩んでいく。「カシラのお前には、いずれ話そうと思うとったんや……」紫煙の向こう側、宇治宮の視線は決して京司の瞳を捉えようとはしなかった。ただ虚空を睨み、吐き出される煙とともに、言い訳めいた言葉が形を成していく。それを聞く京司の胸の奥で、何かが決定的に瓦解していった。それは長きにわたる歳月が、一枚ずつ丁寧に積み上げてきた“信頼”という名の堅牢な城壁だった。音もなく、しかしあまりにも鮮烈に、その礎から崩れ落ちていく。胸の深奥を吹き抜けるのは、ただ荒涼とした、冷たい風の音だけだった。「うちでは薬の商いはご法度……そう刻まれた鉄の掟やなかったんですか」京司の口からこぼれ落ちた言葉は、鉛のような質量を持って宇治宮の肩にのしかかった。宇治宮の額を、じっとりとした厭な汗が這い始める。沈黙を破ったのは、宇治宮の喉の奥から搾り出される、歪んだ言い訳だった。それはまるで、錆びた鋏でガラスを引っ掻くかのように、京司の鼓膜を
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極道の矜持

「暴対法以来、いくら老舗の看板を背負うているとはいえ、うちの台所も火の車や…。お前もカシラを張る身やったら、それくらいの渡世の厳しさは、肌で知っているはずやろ」※暴対法…暴力団対策法組長の言葉は、煙草の煙とともに頼りなく部屋の隅へと霧散していった。かつての九条組の威光は、今や時代の濁流に押し流され、足元から音を立てて崩れかけている。老いた首領の瞳に宿るのは、時代の敗者としての、卑屈なまでの現実主義だった。対峙する男の背が、微かに、しかし決定的に強張る。「……そやから、ご法度の薬に手を染めてもええと、そう仰るんですか。オヤジ」低く、押し殺した声が、重苦しい沈黙を切り裂いた。男の視線は、組長が差し出す“禁断の果実”を頑なに拒絶している。「俺らは商売人やありまへん。極道や。…九条組がこれまで命懸けで守り抜いてきた矜持は、一体どこへ捨ててこられたんですか」それは、変わりゆく時代への痛切な反逆であり、ただ愚直に“任侠”を信じ続ける男の、血を吐くような祈りでもあった。魂を焦がすような京司の熱弁も、血の滴るような魂の叫びも、すでに宇治宮の淀んだ眼には届かない。彼の世界はとうに、濁りきった毒に満たされていた。「青臭いきれいごとぬかしおって……この若造がっ!」宇治宮の激情が爆発する。卓上で結晶のようにきらめいていた重厚な切子ガラスの灰皿が、無慈悲な凶器へと変貌し、京司の額めがけて放たれた。鈍い衝撃ののち、鮮烈な紅が京司の額を割り、 音もなく伝い落ちた。皮膚を裂いた灰皿は、事もなげな風を装って青畳の上を虚しく転がっていく。「親であるこの儂に抗弁垂れるとは、偉くなったもんやなぁ、京司」遮るもののない罵声が部屋に響く。しかし、京司は眉一つ動かさない。額を汚す自らの血を拭おうともせず、ただ無言のまま、凝固した時間の中に佇んでいた。「今はまだ、儂個人の商いに留めとる。……だがな、いずれは組を挙げての大商いに広げていくつもりや。お前もその腹を括っておけ」一方的な宣告を残し、宇治宮は京司の返答を待つ気すらないように背を向けた。傲慢な足音が遠ざかる。残された部屋には、吐き捨てられた言葉の重苦しい余韻と、底冷えするような静寂だけが取り残されていた。
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砂上の楼閣

宇治宮の邸宅を後にした京司の足取りは、まるで泥の中を歩くかのように重かった。かつて己が至高の標と仰ぎ、その背中を追い続けた男の、無残に崩れ去った現在の姿。それが容赦のない現実という名の礫となって、京司の胸を打ちのめす。「俺は……あないな男の為に……鈴華の手を放してしまったんか」絞り出した呟きは、夜の闇に吸い込まれて消えた。押し寄せる絶望と、取り返しのつかない後悔の念が、彼の胸の奥底を冷酷に支配していく。彼の絶対的な信仰の、その美しい拠り所であったはずの九条組。だが、その幕を引いてみれば、現れたのはただの砂上の楼閣――脆く崩れゆく、張りぼての王国にすぎなかった。彼が縋っていたのは、とうに冷め切った過去の残像だったのだ。 無意識のうちに、京司の足は血の匂いをたどるようにして組事務所へと向いていた。鉄錆びた重い扉を押し開くと、淀んだ空気のなかに数人の若衆と、そして錨の鋭い眼光が浮かび上がる。「カシラ……! 一体どうされたんですか!?」錨の喉から絞り出された声が、荒々しく室内を震わせた。京司の割れた額から容赦なく溢れ、その顔を赤く染めていく鮮血が、男たちの平穏を無慈悲に切り裂いていた。「……何でもあらへん。ちょっと、一人にしてもらえるか」拒絶の響きを帯びた声が消えるのと、自室の戸が閉まるのは同時だった。昏い窓の向こうには、京都の街が色とりどりのネオンという仇花を咲かせている。その艶やかな花を根元から牛耳るのが、他ならぬ九条組であった。じっとそれを見つめる京司の瞳には、しかし、かつての輝きはない。かつては夜を彩る絢爛たる花に見えたその光も、今の彼にとっては、色褪せた悪趣味な造花にしか映らなかった。静寂が支配する部屋に、遠慮がちなノックの音がかすかな波紋を広げた。「カシラ、せめて傷の手当だけでも……」救急箱をそっと携え、足音を忍ばせるようにして入ってきた錨。京司はその姿をただ視線で追う。言葉は室内の重い空気に溶けて消え、二人の間には、沈黙だけが雄弁に横たわっていた。「小競り合いでもありましたか?」錨の囁きは、夜の静寂に溶けるように消えた。消毒液を含んだガーゼが、京司の額の傷にそっとあてがわれる。ひやりとした冷たさと、微かな熱。しかし京司は、ただ揺るぎない沈黙を守るだけで、その瞳には何の色彩も宿らない
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崩壊

「錨……お前、知っとったんとちがうんか?」ぽつりと言葉が零れた。京司の瞳は、どこか遠くを見つめている。その瞬間、手当てをしていた錨の動きが、にわかに静止した。「何の……件でしょうか」錨の声には、戸惑いと、かすかな動揺が滲む。思考の歯車が噛み合わない。「……なんでもあれへん」京司はそれきり口を噤み、二人の間には、ただ包帯を擦り合わせる衣擦れの音だけが響いた。手際よく処置を終えた錨は、深く一礼して部屋を去ろうとする。しかし、扉を目前にして、彼の足は動かなくなった。背後に残された京司の沈黙が、彼の背中に重くのしかかっているかのようだった。張り詰めた糸が切れたように、錨が言葉を紡ぎ始めた。その声は震えていたが、眼差しには退かぬ覚悟が宿っている。「カシラ……私はあなたを心から崇敬しております。あなたの命は絶対。その忠誠に、誓って嘘偽りはございません。若頭補佐へと引き上げていただいたご恩も忘れた事はございません。」しかし、そこまで一気に捲し立てると、錨はがくりと肩を落とした。まるで目に見えない鎖に縛り付けられているかのように、苦しげに喘ぎ、最後の言葉を絞り出す。「けれども、 私が盃を頂いたのは、組長なのです……。親の命令は、己の命よりも重い。どうか…どうかご理解いただけますよう」吐き出された言葉の重みに、錨自身がじっと耐えていた。 再び深く頭を下げ、錨の影が部屋から消えてゆく。京司は沈黙を守り続けたが、去りゆく者の胸中に溢れる澱を、痛いほどにその掌で受け止めていた。錨の放つ微かな空気が、京司の疑惑をたちまち揺るぎない確信へと変えた。言葉にされぬ言葉が、薬物の闇を雄弁に物語っていた。(──裸の大将やな。まるで)誰もいない空間に宛てて、京司は自嘲を孕んだ笑みを、そっと寂しげにこぼした。 宇治原という絶対の天秤の前では、善悪という名の脆い秤など無価値に等しかった。彼の紡ぐ言葉こそが、この世界の理であり、抗えぬ宿命。――九条組は今、どす黒い薬禍の深淵へと、ゆっくりと、しかし確実に足を踏み入れようとしている。京司はただ、紫煙の向こうをじっと見つめていた。燻る煙の合間に揺らめくのは、血と汗で築き上げてきた“九条組”という名の、あまりにも堅牢なはずの城塞。しかし今、その土台は音も立てずに砂へと変わり、足元からさら
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