All Chapters of 再婚、そしてまた再婚......気づけば御曹司に溺愛された: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

梨沙は呆然とした。千鶴は泣き崩れ、片手で顔を覆った。「それもあなたたちの家で、あなたたちの寝室でだよ。どうしてあんなことができるんだい!これは私たちへの侮辱よ!」梨沙の胸には驚きと嬉しさが同時に込み上げた。祖母は昔気質な考え方をしているから、離婚なんてするな、少し我慢しなさいと言われるかもしれないと思っていた。今でも、あの閉鎖的な地域では、離婚した女性は陰であれこれ言われる。祖母もそういう環境で育ってきたのだから、そうした価値観に染まっていても不思議ではない。けれど、違った。梨沙はまったく予想していなかった。海渡の浮気を知った祖母が、ここまで必死に自分の離婚を後押ししてくれるなんて。梨沙は目尻をこすった。「おばあちゃん、とりあえず帰ってから話そう。この件は、おばあちゃんが思ってるほど単純じゃないの」その言葉を聞き、海渡の胸にのしかかっていた大きな石が少しだけ下りた。口元に薄い笑みが浮かぶ。――やはりそうだ。梨沙は自分から離れられない。海渡は軽く咳払いをした。「この件については後でちゃんと説明する。今はおばあちゃんを連れて帰ってくれ。少し落ち着いてもらわないと」梨沙は海渡を見ようともしなかった。半ば引きずるように千鶴を連れて立ち去る。二人の姿が角を曲がり、エレベーターの方へ消えていくまで、海渡はじっと見つめていた。やがて待合用のプラスチック製ベンチに腰を下ろし、冷たい壁にもたれかかる。こめかみを揉みながら頭痛をこらえた。なぜか心がひどく落ち着かない。ネクタイを緩めるように襟元を引っ張り、重い息を吐く。そして立ち上がり、その場を後にした。――千鶴は鼻水と涙でぐしゃぐしゃになりながら梨沙を抱き締めた。「本当に全部本当なのかい?」梨沙は苦笑する。祖母の涙を拭いながら言った。「こんな状況で、嘘なんてつかないよ。おばあちゃんの心臓が耐えられないんじゃないかと思って、ずっと言えなかった......一か月くらい経って心臓の状態が落ち着いて、離婚の話も確定してから伝えるつもりだったの」千鶴はさらに激しく泣き出した。ほとんど号泣だった。「一体......どれだけ辛い思いをしてきたんだい。かわいそうに......ごめんなさい。あの男との結婚を許すんじゃなかっ
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第82話

「梨沙は知らないだろうけどね、あの親子が昔うちの隣に引っ越してきた頃、あの子は痩せ細っていてね......私がここまで育てたんだよ......」梨沙は口を挟まず、黙って耳を傾けていた。祖母にも吐き出す場所が必要だと分かっていたからだ。実の孫のように可愛がってきた相手に、突然裏切られ、騙され、孫娘まで傷つけられた。あんなに素直で良い子だったはずの子が、いつの間にか別人のようになってしまった。大切に育ててきた小鳥が、振り向いたら毒蛇になっていて、家族を一人ずつ噛んでいったようなものだ。こんなことが自分の身に起きて、平気でいられる人がいるだろうか。思う存分話させてあげればいい。そうすれば少しは気が晴れる。胸の内に溜め込むより、口に出した方がいい。抱え込めば、心まで病んでしまうから。――夜。礼都は望の部屋から出て、静かにドアを閉めた。リビングへ向かう途中、ポケットのスマホが鳴り出す。「もしもし」「いつになったら望を連れて帰ってくるんだ?もうずいぶん経ってるぞ」「もうすぐです」「もうすぐっていつだ?はっきりした日を言え。でなければ人をやって連れ戻すしかない」電話の向こうから聞こえる老いた声を聞きながら、礼都は片手で眉間を揉んだ。スマホを持ったままバルコニーへ歩いていき、窓の外を見つめる。冷ややかな声が、一語一語はっきりと響いた。「3日後に望が入院して手術の準備に入ります。半月後には本家へ連れて帰ります」祖父の土岐賢一郎(とき けんいちろう)はそれを聞き、少し心配そうに言った。「あの坊主で本当に信用できるのか?昔から勉強もろくにしなかったくせに、いつの間にか耳鼻科医になっただなんて」礼都は皮肉っぽく笑った。「それなら、あなたが執刀しますか?」賢一郎「......」少し沈黙した後、老人は軽く咳払いをした。「お前の叔父の友人に腕のいい医者がいてな。脳外科専門なんだが、お前も今度時間を作って頭を――」礼都は無表情のまま電話を切った。そのまま寝室へ向かおうとした時だった。階下にふと見慣れた姿が映る。梨沙だった。まだ車の修理が終わっていないのだろう。路肩に立ち、タクシーを止めようとしている。マンションの入口にはタクシーが頻繁に行き来していた。
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第83話

梨沙は数秒間、ぽかんとしたまま固まった。だがすぐに了承し、慌てて礼を言った。礼都の口元がわずかに緩む。「5分だ」5分後。黒いセダンが梨沙の前に停まった。窓が下がる。薄黄色の街灯に照らされて、礼都の顔が浮かび上がった。彼はダークグレーのシャツを着ており、袖は前腕までまくり上げられている。腕時計もアクセサリーもなく、すっきりとした印象だった。「乗って」梨沙は再び礼を言い、助手席のドアを開けて乗り込んだ。「場所は?」「ヒロ花火工場です。郊外にあるので、一時間くらいかかると思います」「わかった」礼都は簡潔に答えると、右手でシフトレバーを操作した。そこで梨沙は、この車がまさかのマニュアル車だと気づいた。「今どきマニュアル車って、なかなか手に入りませんよね?」礼都は軽く相槌を打ち、前方から目を離さないまま答えた。「ああ。これは特注したものだ」「そうなんですね」梨沙が返事をすると、車内は一気に静かになった。何を話せばいいのかわからず、彼女はそっと礼都を盗み見る。彼は前方に集中していた。横顔の輪郭は整っていて、顎のラインはまるで刃物で削り出したかのように鋭い。「何を見てる?」突然そう聞かれた。振り向きもしない。盗み見が見つかり、梨沙の顔が熱くなる。「い、いえ......ただ感謝を言いたくて......」「気にしなくていい」「前に車を壊してしまって、本当にすみませんでした。責任はちゃんと取ります」「それはいい。車両保険に入ってる」「......そうですか」梨沙は腕をさすった。礼都は何も言わず、車内の温度を一度だけ上げて、そのまま静かに運転を続けた。道の途中で、再びスマホが鳴った。海渡からだった。梨沙は少し考えた末、電話に出る。「何?」声は冷え切っていた。受話器の向こうから聞こえてきたのは、かつて大好きだった、今では吐き気がするほど嫌悪している優しい声だった。「広瀬さんが君との取引をやめるらしいな?」梨沙は鼻で笑った。やはり海渡の差し金だ。祖母にも海渡にも、離婚しないと言ってしまったせいで、海渡は完全に安心しているのだろう。梨沙は絶対に自分から離れられないと思っている。だから数日前までは、自ら彼女のマンシ
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第84話

だからこそ、梨沙は周囲の反対を押し切り、広瀬との提携を決めたのだった。この2年間、彼女はヒロ花火工場の技術改良や工程の最適化を手伝い、さらには取引先まで紹介してきた。正月の頃には、広瀬がわざわざ手土産を持って訪ねてきて、「秋谷さんは広瀬家の恩人です」と何度も口にしていた。それなのに――最終的に彼女に返ってきたのは、広瀬の門前払いと、ヒロ花火工場からの締め出しだった。自分は広瀬が最も苦しい時に手を差し伸べた。だが広瀬は、彼女が最も苦しい時に梯子を外した。これが人間というものなのか。梨沙は静かにうなずいた。「......そうですか」そう言って車へ戻った。門の中にすら入れなかったことは、当然ながら礼都も見ていた。「次はどこへ行く?」梨沙は両手で顔をこすった。そして周囲を見回し、ヒロ花火工場以外で唯一明かりのついている工場を指差した。「もう一軒だけ行ってみます。下手な鉄砲も数打てば当たるかもしれませんし」約束の花火イベントは、すでに前金を受け取っている。契約違反になれば倍額返金だ。払えないわけではない。ただ、自分の信用を傷つけたくなかったし、顧客を失望させたくもなかった。もう少しだけ足掻いてみたい。もしかしたら――という可能性に賭けて。礼都はうなずき、工場の門前へ車を停めた。梨沙は急いで車を降りる。そして工場内で作業員たちと一緒に残業していた花火製造工場のオーナーを見つけた。「あの、すみません」紺色の作業着を着て全身煤だらけの男が振り返る。だが現れたのは、意外にも若く整った顔だった。「俺に何か?」梨沙は探るように尋ねた。「こちらの花火工場のオーナーさんでしょうか?」男はうなずく。梨沙は事情を手短に説明した。男は彼女を上から下まで見つめる。「そうだが......うちの工場の評判、聞いてないんですか?」梨沙は首を横に振った。看板に書かれていた工場名まで見ていなかった。若い男は吹き出した。「まさか『もりもり花火工場』を知らないんですか?」梨沙は一瞬固まった。もりもり花火工場――業界では有名だ。品質が良いからでも、規模が大きいからでもない。平均して二か月に一度は爆発事故を起こすからだ。大惨事にはならないものの、毎
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第85話

火花と閃光が一斉に弾けた。それは10秒近く続いた。ようやく収まった頃には、梨沙の顔は煤で真っ黒になっていた。彼女は激しく咳き込み、吐き出した息からは黒い煙まで混じっている。一方の白澤は、爆発で鳥の巣のようになった髪を抱えながら、ひたすら謝っていた。「本当にすいません!でも......これで分かりました、あんたは本物のプロなんですね!だから頼む、俺に知恵を貸してください!俺はこれからどうしたらいい?おい、秋谷さんに水を持ってきてくれ!」作業員が慌てて隅へ走り、ミネラルウォーターを一本持って戻ってきた。それを受け取った梨沙は口をゆすいでから言った。「不純物の硬度が高すぎるんです。混合機の中で高速攪拌されると激しく衝突して摩擦熱が発生する。局所的な圧力も高くなり、温度が一気に上昇するので、確実に爆発します」そう言いながら工場内を見回した。白澤は粉塵管理の知識もないらしい。床のコンクリートの隙間には白い粉が溜まり、圧薬用の金型の縁にはバリが出ている。梨沙は心の底から絶望しかけた。白澤の「もりもり花火工場」は、安全性すら確保できていない。彼女はため息をついた。「それでも続けたいんですか?」白澤は力いっぱい頷く。「はい!」「私の言う通りにすることはできますか?」「はい!」今度はさらに勢いよく頷いた。梨沙は落ち着いた口調で言った。「この原料は使用停止。仕入れ担当に連絡して、仕入れのルートと機械のメンテナンス履歴を確認してください。金型のバリは全部研磨して除去。明日の午前中に工場全体を徹底清掃してください」白澤は圧倒されながらも何度も頷く。「わかりました!」梨沙は彼の肩を軽く叩いた。「明日の朝一番で、私が花火の配合表を送ります。白澤さんは少量の原料を仕入れて、まずは私の案件を完成させてください。原料代と工賃を合わせても2万円くらいでしょう。完成したら12万円払います」そう言うと、彼女は持ち歩いていたメモ帳に連絡先を書き始めた。その横で白澤がおずおずと尋ねる。「秋谷さん、一つ聞いてもいいですか?どうして真夜中に花火工場を探してるんです?」梨沙の手が止まった。少し沈黙してから答える。「夫に浮気されたんです。私を無理やり連れ戻そうとして、私が音を上げるよ
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第86話

礼都は唇をわずかに開いた。だが結局、何も言わなかった。代わりに梨沙へシートベルトを締めるよう促した。「帰ろう」車は帰路についた。時刻はすでに深夜1時を回っている。郊外から市街地へ続く道路には人影ひとつなく、不気味なほど静まり返っていた。道の両側には畑や荒れ地が広がり、ときおり林を通り過ぎる。街灯が壊れたまま放置されている区間もあった。窓の外を眺めながら、梨沙は思った。もし一人でここまで来ていたら、きっと怖かっただろう、と。その時だった。突然、車が大きく揺れた。そして路肩で急停止する。梨沙は不思議そうに礼都を見た。だが彼の視線はボンネットへ向いていた。そこから一筋の白煙が上がっている。梨沙は目を見開いた。「え......うそ......」礼都はドアを開けて車を降りた。梨沙も慌てて後を追い、スマホのライトを点ける。礼都がボンネットを開けた瞬間、刺激臭が鼻を突いた。二人でしばらく確認した後、礼都は重く息を吐いた。「冷却液が漏れてる。ラジエーターもやられてるな」そう言いながらスマホを取り出し、ディーラーへ電話をかけようとする。「圏外だ。君は?」梨沙も急いで確認した。「私も圏外です」真冬の冷たい風が吹きつけ、体温を容赦なく奪っていく。「とりあえず車に戻ろう。それから考える」梨沙は頷き、足早に車へ向かった。一方、礼都はトランクへ回り、自分の予備の上着を取り出す。車内へ戻ると、それを梨沙へ差し出した。「これを」簡潔な一言だった。礼都自身はグレーのシャツ一枚しか着ていない。それに比べれば、梨沙のほうがまだ暖かそうだった。「大丈夫です。私、上着を着てますから。土岐さんが着てください。あとで体温が逃げたら寒くなりますよ」そう言って彼女はスマホのライトを点けたまま、二人の間のセンターコンソールへ置いた。礼都はちらりと見て言う。「そんなに長くはもたない」梨沙は唇を噛んだ。「街灯もないですし......真っ暗だと閉塞感があって、土岐さんの体調が......その、悪くなってしまうかもしれないと思って」その言葉に、礼都の手がぴたりと止まった。だがすぐに何事もなかったように指を握り込む。「大丈夫だ。ここは俺に任せろ。君は
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第87話

梨沙は気まずそうに礼都を見た。彼はきっと、この人生でこんなにボロくて安っぽい車に乗ったことなど一度もないはずだ。礼都は無言だった。梨沙は慌てて説明した。「私、早く帰らないといけなくて。工房のほうにも用事がありますし......その......土岐さんはここで唐沢さんを待たれますか?」礼都は無表情のまま言った。「一緒に行こう」白澤はすぐに車を降りた。中央の二つの座席に積まれていた原料をまとめて後ろへ放り投げると、粉塵がもうもうと舞い上がる。梨沙は思わず咳き込んだ。ようやく二人分の席が空いた。白澤は期待に満ちた顔で梨沙を見た。「秋谷さん、どうぞ!この人が例の浮気したクズ旦那ですか?へえ、俺よりイケメンじゃないか」梨沙は慌てて首を振った。「ち、違います!ただの......友達です。私を送ってくれただけで」白澤は納得したように頷いた。そしてこっそり礼都を何度も見た。ただ立っているだけなのに、この男の放つ圧迫感は、父親が物干し竿を持って自分の前に立った時よりもずっと強い気がした。二人は車に乗り込んだ。白澤のオンボロ車は再びガタガタと音を立てながら走り出す。「この辺は電波が悪いんで、俺いつもモバイルWi-Fi持ち歩いてるんですよ。つないでもいいですよ」梨沙は小さく答えた。「いえ......私たち、スマホの充電が切れたんです」白澤は片手で運転しながら身をかがめ、もう片方の手で収納ボックスを探った。そしてモバイルバッテリーを取り出し、後ろへ放り投げる。梨沙は礼を言った。ちょうど二本の充電ケーブルが付いており、一人一本ずつ使えた。礼都のスマホが起動した瞬間、唐沢から電話がかかってきた。「土岐様、どちらにいらっしゃったんですか?車の位置情報を確認したら空港方面へ向かう道路で止まっていました。ご無事ですか?」礼都は短く応じた。「ああ」そして淡々と指示を出す。「車が故障した。レッカーを手配してくれ。俺は今、帰る途中だ」唐沢はようやく安堵した。1時間ほどの道のりだったが、白澤は2時間近くかけて走った。ようやく到着した。二人が車を降りる。白澤はにこにこと手を振った。「秋谷さん、俺これから原料を買いに行きます。帰ったら花火の配合表を送ってください
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第88話

「余計なことを聞くな」唐沢は慌てて笑顔を浮かべた。「いえ、そんなつもりじゃ......ただ先ほど旦那様からまたお電話がありまして、望様の手術の進捗を聞かれたので、そのままお伝えしただけです」礼都はゆっくり目を閉じた。「そうか」軽く返事をする。前方のカーブを曲がり、さらに二キロほど進めば土岐ビルに着く。だが、そのカーブへ差しかかる前に。礼都が不意に口を開いた。「カウンセリングルームへ寄ってくれ」唐沢には理由が分からなかったが、そのまま従った。――心理カウンセリングルーム。文山は礼都の姿を見ると、興味深そうに眉を上げた。「今日はどんな風の吹き回しです?」礼都は歩み寄り、診療ベッドに腰を下ろした。静かに顔を上げ、文山樹(ふみやま いつき)を見る。「昨夜、車が途中で故障した。周囲には電波もなく、電話もつながらなかった。密閉された車内で――」最後まで言い終える前に、文山は表情を強張らせた。「発作が起きたんですか?」その一言に、礼都は眉をひそめる。「いや」文山は驚きながらも尋ねた。「圧迫感や不快感は?」礼都はしばらく考えた後、首を横に振った。文山はこめかみを指で押さえながら、ふと核心に辿り着く。「一人だったんですか?」礼都は再び首を振った。文山は少し考え込んでから言った。「おそらく、その相手があなたに絶大な安心感を与えていたんでしょう。認めるかどうかは別として、その人の存在が、あなたにとって『安全な場所』になったんです」礼都は失笑した。そして否定する。「あり得ない」文山も笑った。「相手の性別を聞いても?」礼都は答えた。「女性だ」文山の顔にうっすらと好奇心が浮かぶ。「彼女ですか?」礼都は眉を寄せた。「違う」「そうですか」文山は頷いた。「なら、その人と少し付き合ってみるのもいいかもしれませんよ。思いがけない発見があるかもしれません」「くだらない」礼都は一蹴した。文山は肩をすくめる。「どこがです?あなたは恋愛をしたことがないから分からないんですよ。実際にしてみれば、その楽しさが分かります」「必要ない」礼都の鉄壁ぶりを見て、文山もそれ以上勧めるのをやめた。「じゃあ、今日は機嫌が良さそうなので、一つ
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第89話

初香は唇を尖らせ、小声で言った。「ええ......でもろくな人じゃないので、もし道であいつを見かけたら、うちの社長の代わりに唾でも吐きかけてやって」柳は真面目な顔でうなずいた。「わかりました」初香は軽く咳払いをした。「新卒で仕事探すのが大変なのも、職歴に空白を作りたくないのも分かってる。だからうちみたいな小さい会社を踏み台に選ぶんだよね」それを聞き、粟野と柳の顔に少し気まずそうな表情が浮かんだ。初香は拳を握りしめて言った。「でも安心して。梨沙さんはいい人だから。今はまだ規模が小さいけど、梨沙さんがいる限り、ここはきっといつか大きくなるよ!」柳はうなずいた。「そうなればいいですね。秋谷さんと数日働いただけですけど、本当にいい人だと思いました」初香は大喜びした。「見る目あるじゃん!」親指を立てて褒めながら、「じゃあ明日、飲み物奢ってあげる」と言った。粟野がわざとらしく咳払いをする。初香は笑いながら言った。「はいはい、粟野君も一緒にどうぞ」――まさに腐れ縁というべきか。梨沙がスーパーへ買い物に行くと、海渡と明里にまで遭遇した。海渡はショッピングカートを押し、明里はその前に立っている。二人は笑いながら話していて、どこか家庭的で温かな雰囲気だった。梨沙は先にシーフードコーナーへ向かおうとした。しかし明里が呼び止める。「梨沙さん!」今日は補聴器をつけていなかった梨沙は、聞こえないふりをしてそのまま歩き続けた。5歩ほど進んだところで、腕を掴まれる。振り返ると、海渡と目が合った。海渡は彼女の耳元へ視線を走らせ、両手で手話をした。長い間使っていなかったのか、少しぎこちない。「梨沙、素直に家へ帰ってこい。そうしたら広瀬さんにまた君の花火デザインを受けさせるよ」梨沙の表情は変わらなかった。「前にも言ったでしょう。お断りよ」海渡の指の動きが速くなる。「今の状況を考えてみろ。夫婦が別居して、まるで仇同士みたいだ。梨沙、君は昔から聞き分けがよかったんだろう?お互い一歩ずつ引けばいいじゃないか」梨沙は顔を上げて、口元を緩める。声は柔らかいのに、その奥には刃が潜んでいた。「海渡、一つ教えて。あなた、露木さんと何回寝たの?」海渡の表情が固まった。
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第90話

明里は腹が立って仕方なかった。だが、どうすることもできない。海渡は次の棚の前で梨沙に追いついた。「梨沙、杉山の件はもう聞いた。これは人を見る目がなかったのは俺の責任だ。本当にすまなかった。大丈夫だったのか?」遅すぎる謝罪だった。悪意ある誤解を重ねた末の謝罪だった。そんなものに意味はない。枯れた花に後から水をやっても無駄なのと同じだ。遅れて届いたものは、期限切れの薬のようなものだった。どれほど大切だったとしても、もう何の意味もない。深く考えれば考えるほど気持ち悪くなる。梨沙は首を横に振った。「もう意味はないよ、海渡。邪魔だからどいて」海渡は反射的に身を横へずらした。梨沙はカートを押して立ち去ろうとする。だが海渡は彼女の手を掴んだ。「梨沙、約束するよ。明里は遠ざける」梨沙は一瞬目を見開いた。だがすぐに彼の手を振り払い、カートを押して前へ進む。その声はどこか頼りなく、遠かった。「そんなこと、本当にそうしてから言って」――梨沙は食卓いっぱいに料理を並べた。彼女が料理している間、二人の老婦人は望と一緒にリビングでテレビを見ていた。「あのお肉、おいしそう......私も食べたいわ」料理番組を見て、秋子はよだれまで垂れそうになっている。千鶴は呆れ返った。ティッシュを何枚か抜き取り、その顎に押し当てる。「......私、梨沙の料理を手伝ってくるよ」そう言って立ち上がり、キッチンへ向かった。「おばあちゃん、だから手伝わなくていいって」「嫌よ。休んでる方が疲れるんだから」「......」「聞いて、あのおばあさん頭おかしいのよ!」「アルツハイマー病だから......」「それは知ってる。私が言いたいのは、病気になる前から頭がおかしかったに違いないってこと」そう言いながら、千鶴は梨沙の代わりにジャガイモを切り始めた。「ジャガイモをスライサーで千切りにしちゃ駄目だよ。水っぽくなってシャキシャキ感が消えちゃうからね」言いながら包丁を動かす。手元が残像のように見えたかと思うと、あっという間に小ぶりのジャガイモ二個が均一な細切りになっていた。一本一本ほとんど同じ太さだ。梨沙は微笑むだけで何も言わず、鍋の蓋を開けてスープに塩を加えた。千
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