جميع فصول : الفصل -الفصل 10

10 فصول

第1話 あれ? うちに猫なんていたっけ?

「にゃー」  ……猫?  うちに猫なんていたっけ? 波瑠は細く目を開けた。昨日、深酒をしてしまったので、身体がとてもだるい。  ほわほわの白と薄茶の毛並みで金茶の目をした猫が「みゃー」と小さく鳴きながら、とてとてと畳の上を歩いていた。  仔猫?  思わぬものが目に入り、細くしか開けていなかった目を、瞬きを一度してからはっきりと開けた。すると、そこはいつも眠っている寝室ではなかった。広い土間の玄関から入ってすぐの、使っていない和室だった。その畳の上に直に寝ていたのである。 ……昨日、こんなところで寝ちゃったんだ。ベッドにも行かず着替えもせず。暖房つけっぱなしで。……スーツ、しわくちゃ。雨戸を立てるのも忘れちゃった。  部屋は朝の光で満ちていた。明るい日差しが縁側から入り、カーテンのかかっていないガラス戸を通って、畳に幸福そうな陽だまりをつくっている。 「にゃー」  猫。……かわいい。  でも、私、猫は飼っていなかったはず。  どこで連れて来ちゃったんだろう? 拾ったのかな?  ぼんやりした頭で波瑠は、昨夜のことを思い出そうと考えを巡らした。  ……駄目だ。寝起き、駄目。全然思い出せない。  とりあえず波瑠は身体を起こした。  やわらかな毛玉のような仔猫は、波瑠が身体を起こすと「にゃー」と鳴いて、波瑠にすり寄って来た。 ふふ。かわいい。 「――え⁉」  猫を抱き上げようとして、波瑠はあるものが目に入り、思わず声を上げた。  あるもの――  ――誰か、いる。 波瑠が寝ていた和室に、もう一人、見知らぬ人間が寝ていた。  波瑠は一人暮らしだ。  一人暮らしには広い、平屋の一軒家で静かに暮らしている。 ……誰?  眠っているその人を、波瑠はじっと見つめた。  短い黒髪……きれいな髪。さらさらしている。  波瑠は向こうを向いている顔を見るために移動し、顔を覗き込んだ。 うわあ、きれいな寝顔! 白い肌に整った眉毛。毛穴なんて見当たらず、つるんとしている。睫毛長い! ――女の子? ううん、男の子? ――どっちだろう?   波瑠がじっと見つめていると、そのきれいな寝顔がぴくりと動き、ゆっくりと目を開けた。  すごい! 目を開けると、ますますきれい!「おはようございます。……昨日は泊めてくれてありがとうございます
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第2話 そう言えば、うちの前で拾ったんだっけ

 昨日波瑠は、会社の飲み会に参加していた。  そして、座席の隅の方で、ひっそりと飲んでいた。「黒岩課長! おめでとうございます!」 「生まれたのは、女の子ですよね?」 「三人目なんて、すごいなあ」 「奥さんと仲良しですよね。インスタ見ています!」 「奥さんも美人で、娘ちゃんたちもかわいいですよね」 「羨ましいなあ」  場の中心となっているところで、課長の黒岩が、皆に三人目の子どもが出来たことを祝福されていた。  波瑠は、顔を真っ赤にしてまなじりを下げている黒岩を横目で見ながら、次々に酒を飲んだ。飲み放題なので遠慮なく飲み続ける。「おめでとうございます!」と皆が拍手したときは、一応皆と一緒に拍手をした。少し笑顔も見せてみた。  だけど、あの祝福の輪の中に入って、「赤ちゃんの写真見せてください! きゃー! かわいいですねえ」などとやることは出来なかった。 なぜならば、波瑠は、黒岩とつきあっているから。  ――いや、もう「つきあっていた」、かな。  もうこんなの、嫌。耐えられない。別れる。今すぐ。いいや、もう、別れた!  波瑠は暗い思いを晴らすように飲み続けた。この次は日本酒にしよう。悪酔いしても構わない。いや、悪酔いしてしまいたい。  不倫であることは、最初から分かっていた。だけど、愛されているのは自分だと信じていた。奥さんには気持ちはないと。娘はかわいいけれど、奥さんはもう「娘の母親」でしかなく、性的関係もないと。――そう、確かに言っていた。それが何? 三人目が生まれた? どういうことなの、いったい。 結婚がしたかったわけではない。  そもそも波瑠には結婚願望はなかった。しかし、恋人がいる幸福感は好きだった。好きという感情で包まれるあの感じは波瑠の渇きを癒した。だから、ずっと恋人が切れ目なくいた。  黒岩とは、新卒で入社して一年くらいしてからつきあい始め、気づいたら三年経っていた。つき合い始めたころのような情熱がないのは分かっていた。でもその代わりに親密な情みたいなものがあると、波瑠は思っていた。身体を求められるのも嬉しかった。愛情があると信じていたから。  ――だけど、身体だけだったのかもしれない。  皆に祝福され、赤ちゃんや娘たち、そして奥さんの写真を見せながら幸せそうな顔をしている黒岩を
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第3話 きれいな男の子と猫の名前

 ――思い出した。  昨日帰ったとき、この子たち拾ったんだったわ。  ……酔っていたから、なんか勢いで。「ここに置いてください」という言葉を聞いて驚きのあまり頭が働き、波瑠は昨夜の自分の行動を蘇らせることが出来た。 「にゃー」とまた猫が鳴いた。  波瑠はこめかみを抑えながら、彼らを見る。  ……しかし、ほんとうにきれいな顔。  そして、きれいな顔の彼は不安気な顔をしていた。 「あの……」 「あ、うん、今、思い出した。そう言えば、うちの前で拾ったのよね、昨日」 「はい」 「それで、ここに置いて欲しいっていうのは? どういうこと?」 「……僕、行く場所がなくて。こんなふうにぐっすり眠れたのも久しぶりで。僕、しばらく眠ることが出来なかったので、動けなくなってしまっていたんです。夜は寝てもすぐに目が覚めるんですけど、昨日はぐっすりと眠れて。……だから、おかしなお願いだとは分かっているんですけど、ここに置いてくれないかと思ったんです。突然変なこと言ってごめんなさい」 「……あなた、未成年よね? 私、犯罪者になりたくないけど」  既に今でも危ない、と波瑠は昨夜の自分を呪いたくなった。 「いいえ。僕、成人しています」 「え? いくつなの?」 「十九歳です。大学一年生です」 「嘘! てっきり高校生だと思ったわ!」 「違いますよ。大学生です。――これ、学生証です」  そういうと彼は学生証を波瑠に見せた。そこには、県内の国公立大学の名前と「羽田千颯」という名前と顔写真が載っていた。 波瑠は顔写真と目の前の人間の顔を見比べた。  うん、確かに同一人物ね。もっとも、現実の方がきれいな顔しているけれど。 「ねえ、えーと、羽田くん。こんな立派な大学に行っている人が、どうして帰る場所がないの?」 「……家にはちょっといられなくなってしまって……」  彼――羽田千颯はそう言うと、目を伏せ、長い睫毛が影を作った。手はきつく握りしめられている。  誰でも知っている国公立大学に行っていて、これほどの美しい容貌で。  羨ましいと思う人間は多いだろう。  だけど、彼は帰る場所がないと言う。  波瑠の脳裏に、自分の家族の姿が過った。  波瑠の両親と妹、弟は、波瑠とは別の場所に住んでいる。波瑠は祖母から譲り受けたこの平
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第4話 炊き立てごはんの塩にぎり

 ……なんか、いいにおいがする。  波瑠は自分のベッドで目を覚ました。  これ、ごはんの炊けるにおいだ。  ……ごはんの炊けるにおいなんて、久しぶり。――あれ?  波瑠はあることに気がついて、がばっと起きて、台所に行った。「波瑠さん」  台所では、千颯がおにぎりを作っているところだった。 「おにぎり……」 「あ、勝手にごめんなさい。……でも、僕お腹が空いて。で、波瑠さんもお腹が空いているかなって思って。台所を見たら、お米があったのでごはん炊いたんです」 「おにぎりは嬉しいよ。お腹空いたから。でも――炊飯器、なかったでしょう?」  波瑠はあるとき、炊飯器を捨ててしまったのだ。 「でも、土鍋があったから」 「土鍋で炊いたの?」 「はい。ネットで調べて」 「……おにぎり、食べていい?」 「どうぞ! 塩にぎりですけど」  千颯は顔を輝かせて、波瑠におにぎりの乗ったお皿を差し出した。  波瑠は少し丸いおにぎりを一つとると、ぱくりと食べた。  おいしい!  ……おばあちゃんのごはんの味がする。 「どうですか?」  波瑠が黙っていると、千颯が恐る恐る訊いた。 「……おいしい」  そう言った波瑠の目から、ぽろりと涙が一粒こぼれた。 「波瑠さん⁉ ど、どうしたんですか?」 「……おいしくて」 心が疲れたときは、おいしいものを食べるのが一番なんだよ。  それから、ぐっすりと眠ること!  ……おばあちゃん……。  千颯が作った塩にぎりは、亡き祖母の言葉を運んで来た。  波瑠は祖母を懐かしく思い出しながら、また一口おにぎりを食べた。おいしい。  最近、忙しくて、ごはんを作って食べることをさぼっていた。……だから、黒岩みたいな男に引っかかってしまうのだ。そして男の真意も見抜けず、嫌な思いをするのだ。「もう一つ、食べていい?」  波瑠は台所にある食卓の椅子に座ると、二個目のおにぎりを食べた。おいしい。土鍋で炊いたごはんのおにぎりって、本当においし
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第5話 朝ごはんはパンケーキ

 千颯との生活はとても静かで、そして快適だった。 「波瑠さん、ごはんですよ」  毎朝、千颯にそう言って起こされる。  襖越しに聞く「ごはんですよ」が嬉しくてたまらない。  毎朝千颯に起こされるのに慣れてしまって、波瑠は目覚ましをかけることをしなくなった。  ごはんですよって起こされるのって、なんて甘美なんだろう……!  波瑠は「ごはんですよ」にうきうきしながら、台所に行く。「今日はパンケーキです。波瑠さん、好きでしょう?」 「パンケーキ! 好き!」  波瑠が席につくと、千颯はパンケーキの乗ったお皿を波瑠の前に置いた。小さなサラダもあり、マグカップにはコーヒーが淹れられた。二枚重ねのパンケーキにはメイプルシロップがかかっている。  完璧だ!  波瑠は拍手したいような気持になりながら、ナイフとフォークを手にした。 「パンケーキはバターで焼いたので、敢えてバターは乗せていません。どうぞ」 「おいしそう! いただきます!」 ぱくりと一口食べると、口の中にバターの味と香りがふわっと広がった。バターの味がちゃんとする! おいしい! 生地はほんのり甘く、食べると口いっぱいに優しい甘味が広がった。メイプルシロップがかかっているところは、濃い甘い味がして、それもまたおいしかった。 「どうですか?」  千颯が心配そうに訊く。 「おいしいよー ふわふわ~」 「ヨーグルト、入れたんですよ」  千颯は嬉しそうに微笑んだ。 波瑠は社会人になってから、朝ごはんはカロリーメイトを食べればいい方で、お菓子を食べるくらいですます日やコーヒーだけの日も多かった。  きちんと坐って食事をとってもいなかった。  祖母が生きていたときは、きちんと食卓について祖母と一緒にごはんを食べていたが、祖母が亡くなって、そういう習慣を次第に忘れていっていたのだ。 私、どうして忘れていられたんだろう? おいしいものを誰かと一緒に食べるのはこんなに幸福なのに。  波瑠は思う。  恋人がいないと生きていけないような渇望もない。  今は毎日が幸せだった。  おいしいもので満たされていた。  どうして黒岩みたいな男とつきあっていたんだろう?  おいしいものを食べていれば、あんな男なんていらないわ。
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第6話 お弁当作ってもいいですか?

 その日、波瑠は会社に来たときから、お昼を楽しみにしていた。  何しろ、今日はお弁当があるのだ!  昨日、千颯が深刻そうな顔で「波瑠さん、お願いがあるのですが」と言ったときは、てっきりこの、波瑠にはパラダイスな生活から抜け出したいのかと思った。ごはんを作るのが嫌になったのかと。  しかし、そうではなかった。「何、千颯くん」 「お弁当作らせてください。……いいですか?」 「お弁当! いいに決まってるじゃない! ていうか、私こそいいの? って思うけど?」 「はい。……あの、僕の分も作っていいですか?」 「いいに決まってるじゃないの!」 千颯が学費やその他必要なお金をどのように工面しているかは、波瑠は知らなかった。ただ、お金がそんなにないことは何となく分かった。たぶん、お昼ごはん代も彼には負担なのだろう。  波瑠はお弁当を作る提案を受けたとき、一瞬、ごはんを作ってもらうお金をあげようかと思った。しかし、千颯が受け取りそうもないなと思って、言うのをやめた。それに、お弁当も、千颯が作りたいときに波瑠の分も作るというものだったので、ありがたく「気まぐれお弁当の日」を受け入れることにした。 そして、お弁当である!  波瑠は、誰かが作ってくれるお弁当なんて、本当に久しぶりだ、と思った。 「どうしたの? 波瑠。今日はなんだか嬉しそうだよ」  同期の瑛万《えま》に言われて、波瑠ははっと顔に手をやった。 「あのね、お弁当があるの!」 「お弁当。……珍しい」 「えへへ」 「……あ、なんかあるな! お昼休みに詳しく教えて!」 「うん!」  お昼休みが待ち遠しい。  ロッカーに入ったお弁当箱を思い浮かべながら、波瑠はにやにやすることが止められなかった。  波瑠はケーブルテレビ局に勤めている。  コンテンツ部に所属して番組制作をしており、忙しいけれど、毎日充実していた。  仕事において、黒岩は非常に頼りになる存在であり、感性あるアドバイスに何度も助けられていた。 「でも、もういいや」
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第7話 早く家に帰りたい

 波瑠は高速で仕事をしていた。 いつもならもう少し休憩を入れながら仕事をするのだけど、とにかく早く家に帰りたかった。 ああ、今日の晩ごはんは何だろう? ふと、ごはんのことを考える。 じわりと甘いものが胸いっぱいに広がる。 メニューは訊いていない。「ただいま!」と帰ったとき、「おかえり、波瑠さん。ごはん、出来ているよ」と言われ、そのにおいでメニューを想像するのが楽しみだからだ。キャンディと一緒に出迎えてくれる千颯の顔を想像すると、なんとも言えず幸福な気持ちになった。 ああ、幸せ! 早く家に帰りたい。 波瑠がそう思ってパソコンの画面に向かったとき、肩を叩かれた。 振り返ると、黒岩が立っていた。「黒岩課長。何かご用ですか?」 波瑠は仕事モードで答えると、黒岩は「ちょっと話があるんだけど」と言った。「今ですか?」 波瑠は仕事を早く片付けてしまいたかったので、そう言うと、「今すぐだ」と黒岩は言い、「ちょっとミーティングルームに来て欲しい」と言った。 波瑠は仕方なく、黒岩の後に続いてミーティングルームに行った。「何でしょうか?」 早く仕事に戻りたかったので、波瑠はそわそわしながらそう言った。「……何でしょうか、じゃないだろう? 連絡出来ないんだけど?」「……ああ」 波瑠の中ではすっかり終わったことになっていたが、そう言えば黒岩とはつきあっていて、そして別れたのである。――一方的に。「ブロックしているのか? なぜ?」「なぜって、課長とはもう終わりましたから」「そんな話は聞いてない」「今、お話しました。もう、終わりにしましょう。別れます」「なぜ?」「……なぜって」 波瑠は眉間に皺を寄せて怖い顔をしている黒岩を見ながら、笑いそうになってしまった。なぜ、とあなたが言うの? 三人目が生まれて、幸せそうな家族を見せつけた、あなたが。「&helli
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第8話 ごはんにお味噌汁、そして生姜焼き

「ただいま!」  がらがらと古い戸を開けると、「おかえりなさい、波瑠さん」と千颯が出迎えてくれた。  ああ、いつ見てもきれいな顔! それにうちに来てから、肌艶がよくなったみたい、と波瑠は思いながら「今日の晩ごはんは何?」と訊いた。  キャンディが波瑠の足元にすり寄ってきていて、それもかわいかった。「キャンディ、ただいま!」  千颯はキャンディを抱き上げると、にこりとして言う。 「今日は生姜焼きにしました。すぐに食べられますよ」 「きゃーん、生姜焼き! すぐ食べる!」 波瑠は自室に行き、スーツを部屋着に着替えると台所に行った。  すると食卓にあたたかそうなごはんが並んでいた。 「ああ、家に帰ってすぐごはん! 幸せ! しかも作りたて! ……よね?」 「波瑠さんが帰宅予定時間を教えてくれるので、それに合わせて作っているんです」  千颯は少し照れながらそう言った。 「嬉しい! いつもありがとう、千颯くん!」 「冷めないうちにどうぞ」 「いただきます!」  波瑠はまず、お味噌汁を飲んだ。  にぼしとかつおぶしの出汁の味がする、白味噌のお味噌汁だった。具は豆腐とわかめ。味噌の濃さもちょうどいい。出汁の味がおいしい。  次に、生姜焼きに箸を伸ばす。  豚の肩ロース肉と玉ねぎ。  生姜の味がよく効いていて、疲れた身体に豚肉のおいしさが染み渡るようだった。「どうですか?」  千颯はいつも、遠慮がちに心配そうに訊く。 「おいしいわ! 千颯くん、お料理上手ね。嬉しい!」 「レシピ見ながら作っているものもあります」  千颯は感情があまり現れないタイプだが、料理を褒めると嬉しそうにする。少しはにかんだようなその顔もいいな、と波瑠は思った。  波瑠はキャベツのサラダを食べた。しゃきしゃきした触感がいい。キャベツそのものの甘さが噛むたびに口の中に広がった。 「おいしいものって、幸せ。キャベツもおいしい」 「それは、ただのキャベツの千切りですよ。少し、味付けしていますけど」 「千颯く
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第9話 優しい手はいつも祖母の手だった

 思えば、波瑠は物心ついたころから母親に嫌われていた。  理由は分からない。  或いは理由なんてないのかもしれない。  もしかして、「嫌われている」というのは気のせいかもしれない。  だけど、波瑠が幼いころ、共働きの両親に代わって面倒をみてくれたのは祖母だったし、波瑠が私立中学への進学が決まったとき、祖母の家からの方が学校に近いからと、家を出されたのも事実だった。 波瑠にとって不思議だったのは、母親は実の母親である点だった。  幼いころ、母親は自分のお母さんではないから、いつか本当の優しいお母さんが迎えに来てくれると夢想していたこともあった。でも、事実はシンプルかつ残酷で、波瑠のことを嫌っている女が波瑠の本当の母親で間違いがなかった。 働いている多くの母親は子どもを保育園に入れる。  でも、波瑠が通ったのは幼稚園だった。幼稚園に行く前は、祖母の家に預けられていた。幼稚園には祖母が送り迎えをしてくれた。  だから、まだ大人と手をつないで歩く年齢であるころ、手をつないでくれていたのは祖母だった。  家に迎えに来た祖母と手をつないで祖母の家に行く。或いは公園に。幼稚園に行くようになってからは幼稚園に。祖母の手は優しく、つないでいるといつも安心した。 家よりも、祖母の家で過ごした時間の方が多い幼年時代だった。  何しろ、両親は共働きで忙しく働いており、ほとんど波瑠と過ごす時間などなかったのだ。祖母の家で晩ごはんを食べ、家に戻る。しかし、だいたい家は暗く静まり返っていて、両親はまだ帰っていなかった。 「お父さんもお母さんもお仕事頑張っているからね」  祖母は優しくそう言い、波瑠の頭を撫でた。  あの祖母の手があったから、波瑠は真っ直ぐ生きてこられたのだと思っている。 「おばあちゃんはね、波瑠がいると元気になれるんだよ」  いつも、そう言ってくれていた。 波瑠の父親である自分の息子が大学を卒業するというときに、事故で急に夫を亡くした祖母。息子が就職して家を出て――その後ずっと一人で暮らしていた祖母。  波瑠がいるから生活に張り合いが出たのは事実だろう。  だけど、波瑠の面倒を見るのは大変だったはずだ。波瑠が生まれたときまだ五十代になったばかりだったとはいえ、小さい波瑠を一生懸命に育ててくれた。「波瑠っていう名前はね、おばあち
last updateآخر تحديث : 2026-06-14
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第10話 年の離れたきょうだい

 そんなあるとき、一つの転機が訪れた。「お母さんね、赤ちゃんが出来たのよ」 「赤ちゃん!」  そのとき波瑠はもう小学三年生になっていた。 「お母さん、ほんとうはずっと、下の子が欲しくて……でも、なかなか出来なくて。ようやく授かることが出来たの」  母はいつになく幸福そうで、波瑠はとても嬉しくなった。  母のお腹の中の赤ちゃんは、女の子だと、分かった。波瑠は妹が出来るのだ、と興奮し、妹が生まれたらたくさんお世話しようと心に決めていた。「ねえ、波瑠。塾に行かない?」 「塾?」 「そう、勉強の。波瑠には私立受験して欲しくて。私立の中高一貫校に行けば、高校受験をしなくてもいいから。波瑠もお姉ちゃんになるし、頑張って欲しいの」 「うん! 私、頑張るよ!」  波瑠はそうして塾に通うことになった。  塾に通い出すと、祖母の家になかなか行けなくなったことが、波瑠にはさみしいことだった。塾の勉強はとても難しく、塾がない日も塾の宿題をしなくてはいけなかったのだ。 波瑠の塾通いが始まって少ししたとき、母が仕事を辞めた。  それは波瑠には青天の霹靂のように感じる出来事だった。  いつも忙しく働き時間に追われていた母が仕事を辞めて家にいると言うのだ。父も「俺の給料も上がって安定したし、しばらくは子育てに専念してもいいんじゃないか?」と賛成したのだ。  波瑠は嬉しかった。  今まで仕事で忙しく、家事をやり慣れない母を手伝って、また妊娠で悪阻のある母に代わって、波瑠はよく家のことをした。勉強をして塾に行って家事をして。  とても大変だったけれど、母が波瑠に優しいのが何より嬉しかった。「波瑠、いつもありがとう。お母さん、たすかるわ」 「お母さん、お腹に赤ちゃんがいるんだもの。私、簡単なごはんなら作れるよ。片付けも出来るから」 「波瑠、いい子に育ったわね」  妹が生まれるまでのその時期、波瑠はもしかして一番幸福な時間を過ごしたのかもしれない。 「お母さん、私、オムライス作ってみたの。……お母さん、悪阻、大丈夫? もし食べられるなら、食
last updateآخر تحديث : 2026-06-15
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