All Chapters of 八時間のフライトで恋は終わった: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

私、月島莉都(つきしま りと)が瀬尾晃成(せお こうせい)と別れて、五年目のことだった。国際空港で、私は晃成と再会した。彼は海外にいる妻、瀬尾依澄(せお いずみ)に会いに行くところで、私は仕事で海外出張へ向かうところだった。しばらく言葉が出なかった。先に口を開いたのは、晃成だった。彼は少し気まずそうに、私へ軽く会釈した。「ここ数年……元気にしてた?」私も静かに答えた。「ええ。元気よ」それぞれの搭乗口へ向かう途中、晃成がふいに振り返った。「莉都、あのとき……お前が会いに来てくれたとき、実は……」その先の言葉は、空港のアナウンスにかき消された。私は聞き返さなかった。そのまま背を向けて、歩き出した。あの年、私は遥か遠く離れた彼に会うため、飛行機に乗った。機内での丸八時間、一切の連絡が途絶えていた。けれど到着後、私の元に届いたのは意外なメッセージ。晃成はそのメッセージで私にすべてを打ち明けた。彼には、ずっと別の女性がいたのだ。一万キロの距離を越えて会いに行った先で、私はようやく気づいた。あの恋は、私が思っていたよりずっと前に終わっていたのだ。……飛行機に乗り込み、席に着いた直後、私のSNSに数件のDM通知が届いた。送り主は、数年前、恋愛相談の配信で話を聞いてもらったことのある配信者だった。【月島さん、こんにちは。あれから五年になりますね。フォロワーの方からも、今どうされているのか気にする声が届いています。あの件は、もうお気持ちの整理がついていますか?】彼女のアカウントを開いた。私が出たあの動画は、今でもいちばん「いいね」が多く、ページの上にピン留めされたままだった。再生すると、動画の中で五年前の私は、声を震わせながら泣きじゃくっていた。「彼、ずっと付き合ってる彼女がいたんです。その人とは五年も付き合っていて、もうお互いの親にも会っていて、卒業したら婚約するつもりだったって……それに、その人の実家はすごく裕福なんだって言われました。でも……私の家だって、それなりに恵まれているのに……」当時、その言葉に引っかかった人は多かった。【怒るのも問い詰めるのもわかるけど、この子はお金のことで張り合いたかったんじゃなくて、そんな理由で自分が軽く扱われたのが悔しかったんだと思
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第2話

「これから何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってください。俺にできることなら、力になります」それきり、私から晃成に連絡することはなかった。それでも晃成は、ときどき贈り物をくれた。放課後になると迎えに来て、遊園地へ連れていってくれる日もあった。十月の終わり、晃成は母親と一緒に海外へ移った。けれど、連絡が途切れることはなかった。会えなくなったぶん、メッセージを交わす時間は前より増えた。晃成は向こうの街並みや、少し変わった日常の写真を送ってくれた。そのたびに、私の生活の中で彼の存在は少しずつ大きくなっていった。年末、私は家族と揉めて、一人で家を出て、一人暮らしを始めた。ちょうどその頃、感染症をこじらせ、入院することになった。冷えた病室のベッドの上で体を丸め、窓の外の街明かりをぼんやり眺めながら、テレビから流れる年越し番組のカウントダウンを聞いていた。スマホの画面には、晃成からのメッセージがいくつも残っていた。気づけば、私は彼に一言だけ送っていた。【晃成がここにいてくれたらな】送ったところで、私は眠りに落ちた。目が覚めても、晃成からの返信は来ていなかった。寂しくなかったと言えば嘘になる。それでも、一万キロも離れた場所にいる彼が、突然目の前に現れるはずがないことくらい分かっていた。それからしばらく、晃成からの返信は間が空くようになった。その不安に押し潰されそうになっていたころ、病室のドアが開いた。息を切らした晃成が、淡いピンクのカーネーションの花束を抱えて立っていた。彼は私の頬を両手で包み、笑った。「莉都、会いに来た。退院するまで、そばにいるから」胸の奥でずっと張りつめていたものが、その瞬間、ぷつりと切れた。私は晃成に抱きつき、子どもみたいに泣いた。その日から、私たちは恋人になった。そして、五年にわたる遠距離恋愛が始まった。その五年間、晃成は月に一度、必ず私に会いに来てくれた。国をまたいだ、一万キロの距離。無理しなくていいと私が言うたび、晃成は決まって「俺が莉都に会いたいんだ」と言った。会いたいのも、一緒にいろいろなことをしたいのも、離れているのがつらいのも、自分のほうだと。「俺と母さんの前に立って、警察を呼んでくれたときのこと、覚えてる?
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第3話

結局、私は晃成に会えなかった。彼の友人たちに別れを告げようとした、そのときだった。晃成から電話がかかってきた。「なんで来たんだよ!」電話越しの声は、いつもの晃成とはまるで違っていた。焦りと苛立ちを、そのままぶつけてくるような声だった。私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。胸いっぱいに抱えてきた喜びも期待も、急に行き場をなくした。喉の奥が痛い。「……会いたかったの」電話の向こうで、晃成が黙った。しばらくして、さっきの剣幕が嘘みたいに声を落とした。「莉都、悪い。俺、今そっちにいないんだ。先に帰ってくれ。落ち着いたら、俺から会いに行くから。頼む。今は言うこと聞いて」なぜだろう。胸が苦しくなった。どうして最初に怒鳴ったのか、私は聞けなかった。ただ、涙をこらえながら言った。「晃成、今どこにいるの?私が行くから。お願い、会わせて。今すぐ」返事が途切れた。長い沈黙のあと、晃成は低く言った。「……本気か」私がうなずくように答えると、晃成は結局、航空券を手配してくれた。「着いたら連絡して。空港まで行く」そこで通話は切れた。スマホを握ったまま画面を見ると、晃成とのメッセージ画面が開いたままだった。直近のやり取りは一週間前。午前三時過ぎに、晃成から届いたものだった。【今終わった。疲れた……莉都に会いたい。抱きしめてキスしたい……】自分がどうやって飛行機に乗ったのか、よく覚えていない。ここから晃成のいる街までは、飛行機で八時間かかる。その八時間、空の上にいた私は何も知らなかった。機内では確認できなかったメッセージ画面に、晃成からの長い文章が残っていた。そこには、ずっと私を騙していたこと、自分には前から付き合っている彼女がいることが書かれていた。相手の家も裕福で、双方の親への挨拶も済ませている。卒業したら、その人と婚約する約束になっているのだという。彼は何度も謝っていた。自分は最低な男だと。私を傷つけ、裏切ったのだと。そして最後に、こう続いていた。【お前も、彼女も悪くない。全部俺のせいだ。傷つけて、本当にごめん】【だから頼む。俺の彼女には会いに行かないでくれ。このことも言わないでほしい。彼女を傷つけたくない】空港の人波の中
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第4話

晃成の顔が、一瞬こわばった。それから、信じられないというように笑った。次の瞬間、彼はテーブルの上のものを乱暴に払いのけた。私をにらみつけ、怒鳴った。「ああ、そうだよ。俺は最低だよ。あの時、見捨てられてりゃよかったんだろ。でもお前はどうなんだよ。今のお前だって、人の彼氏に手を出した女じゃねえか!自分だけ正しいみたいな顔すんなよ!」そう言って席を立ち、晃成は店を出ていった。私はその場に取り残された。周りの視線も、押し殺したような話し声も、全部こちらに向いている気がした。体だけが、ずっと震えていた。その夜、私たちが言い争っている動画がネットに上がった。動画はすぐに広まり、コメント欄は荒れた。怒りに任せて、私は晃成とのチャット履歴や、その他の証拠のスクリーンショットを公開した。彼が私を裏切っていた証拠になるものを、全部。あの時の私は、黙って引き下がることなんて考えられなかった。傷つけられたまま、何も言わずに二人の前から消えるなんて、どうしてもできなかった。私が証拠を出したことで、騒ぎはさらに大きくなった。ネットでは、晃成を責める声が一気に増えた。大学にも話が届いたらしく、晃成は呼び出されたと聞いた。けれど、しばらくしてから、晃成のアカウントにも一本の動画が上がった。映っていたのは、晃成が言っていた恋人だった。彼女はどこか弱々しく、病み上がりのような顔色でカメラの前に座っていた。動画の中で彼女は、自分と晃成こそ被害者なのだと話した。彼女の話では、二人の関係に割り込んできたのは私のほうだった。私は晃成を一方的に追いかけ回し、二人の仲を壊そうとしていたことになっていた。最後には涙ぐみながら、彼をこれ以上責めないでほしいと訴えた。「お時間を取ってしまってすみません。でも、彼だけが悪者みたいに言われているのを、もう見ていられませんでした。今日は、私たちに何があったのかを、ちゃんとお話ししたくて動画を撮りました。本当に責められるべき人には、自分のしたことを分かってほしいです」その動画をきっかけに、ネットの流れは一気に変わった。それまで晃成を責めていた声が、今度は私に向き始めた。どこを見ても、私を責める言葉ばかりだった。「最低」「人の彼氏に手を出すな」「消えろ」
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第5話

彼の姿を見つけた瞬間、意外だとは思った。けれど、それ以上の感情は湧かなかった。私は軽く笑った。「偶然ね。あなたもこっちに来てたんだ」晃成は少し言葉に詰まったあと、低い声で言った。「いや……違うんだ、偶然ではない」そんなこと、今の私にはどうでもよかった。「ごめんなさい。今、忙しいの」せっかく来たので、見たい場所もある。食べてみたいものもある。五年前みたいに、もう価値のない相手のために時間を使うつもりはなかった。私はそのまま歩き出した。背後から、追ってくる足音はしなかった。たぶん彼は、まだその場に立っていたのだろう。けれど、それももう私には関係なかった。ホテルのロビーでは、取引先の担当者であるジェイソンが待っていた。四十代くらいの男性で、この街には長いらしく、折り目正しいスーツ姿がよく似合っていた。「月島様、本日はまずゴールデンゲートブリッジをご覧いただいて、そのあとフィッシャーマンズワーフで昼食はいかがでしょうか。午後はロンバード・ストリートとパレス・オブ・ファインアーツへご案内する予定です」私は「お願いします」と答え、車に乗り込んだ。窓の外に広がるサンフランシスコは、陽射しが明るく、どこかゆったりとして見えた。車がフィッシャーマンズワーフの近くで角を曲がると、ジェイソンが言った。「この辺りは眺めがいいんですよ。観光客は少し多いですが」私は小さく相槌を打ち、窓の外へ目を向けた。そのとき、二階建ての建物が目に留まった。淡いクリーム色の外壁に、二階の広いテラス。木製のテーブルと椅子がいくつか並んでいる。見覚えがあった。五年前、晃成と言い争ったレストランだった。あのとき彼は、私を指さして、人の男に手を出した女だと言い放った。店内にはほかにも客がいて、みんなが一斉にこちらを振り返った。好奇と同情、そして軽蔑の混じった視線に、全身をさらされているようだった。その中で、隣のテーブルから英語の囁き声が聞こえてきた。要するに、自業自得だ、と。晃成が店を出ていっても、私はその場から動けないままだった。いっそ消えてしまいたいほど、惨めだった。そのときの店の雰囲気も、運ばれてきた料理も、店主が選んだらしい音楽も、私には何一つ入ってこなかった。頭の中は真っ白
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第6話

私は答えなかった。「なんで……ここにいるんだ」思わず笑いそうになった。今さら、そんなことを聞くなんて。追いかけてきたのは、そっちのほうなのに。観光しているあいだ、何度か後ろに見えたあの車も、きっと彼だったのだろう。「食事に来ただけよ」私はそのまま庭へ入ろうとした。「待ってくれ――」彼は私を引き止めようとした。けれど、伸ばしかけた手は、私に触れる前に止まった。「莉都、少しだけでいい。話を聞いてほしい」私は足を止め、彼を見た。少し痩せたようだった。顎にはうっすら無精ひげが浮かび、目の下には薄い隈がある。昔のような余裕はなく、ずいぶん疲れて見えた。「話すことなんてないわ」「そんなことない」晃成は焦ったように言った。「本当は、ずっと連絡しようと思ってた。去年から、何度も……」「連絡して、どうするつもりだったの?」「俺は……ただ……」言いかけては黙り、また口を開く。それを何度か繰り返したあと、彼はようやく言った。「ごめんって、言いたかった」ごめん。私は、その言葉を五年待っていた。眠れない夜も、泣きながら目を覚ました朝も、あのときどうして何もできなかったのかと自分を責めたときも。ずっと、その言葉を待っていた。けれど、今さら聞かされても何も変わらなかった。「うん。分かった」私はうなずいた。「もう行っていい?」晃成は一瞬、何も言えないようだった。私が泣くと思ったのかもしれない。怒って、責めて、昔みたいに感情をぶつけると思っていたのかもしれない。でも今の私には、もう彼にぶつけたい言葉も感情もなかった。「莉都、あのときは……本当に悪かった。あんなふうに責めるべきじゃなかった。動画のことだって、もっと早く俺が止めるべきだった」彼の言葉を聞いているうちに、だんだんうんざりしてきた。だから、そこで遮った。「もういいの、晃成。私は今、ちゃんと自分の生活を送ってる。昔のことは、もう昔のことよ」私は背を向け、その場を離れようとした。その瞬間、晃成が急に私の腕をつかんだ。「俺は、そんなふうに割り切れない。莉都……忘れられないんだ」私は振り返り、冷たく笑った。「忘れられない?じゃあ、奥さんは?こんなところでそんなこと言うなん
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第7話

「五年前もそうだったわよね。わざわざここまで来て、結局泣いて帰ることになったんでしょう?今回も、また同じことになるんじゃない?」「ねえ」私は静かに口を開いた。「何?」彼女がこちらを見た瞬間、私はその頬を打った。乾いた音がして、依澄の顔が横を向いた。「相変わらず、そうやって人を踏みにじるのが好きなのね」依澄はしばらく動かなかった。やがて、信じられないというように私を見た。「……よくも叩いたわね?」私は薄く笑った。「叩いたけど。それが何?」依澄の顔が怒りで強ばった。「晃成、黙って見てるつもり?私、この女に叩かれたのよ!」晃成は複雑そうな顔をしていた。少し黙ったあと、ためらうように言った。「今のは……お前の言い方が悪かった。謝れ」依澄は目を見開いた。「何それ。私に、この女へ謝れっていうの?晃成、どうかしてるんじゃない?私はあなたの――」「もういい!」晃成が突然、声を荒げた。依澄はびくりとして、言葉を呑んだ。「いい加減にしろよ」晃成は依澄を見据えたまま、荒い息をしていた。「ここでそんなことを言い合って、何になるんだよ。もうやめろ」「私……」依澄は明らかに、この展開を予想していなかった。彼女にとって晃成は、いつだって自分の味方でいるはずの人だったのだろう。何があっても、正しいかどうかに関係なく、最後には自分の側に立ってくれる人。「この女の肩を持つの?」依澄の声が震え始めた。怒りなのか、それとも別の感情なのかは分からない。「晃成、今さらこの女をかばうわけ?」「誰をかばうとか、そういう話じゃない。ただ、そこまで言う必要はないだろ――」「必要ない?」依澄が彼の言葉を遮った。「それをあなたが言うの?あのとき、しつこく付きまとわれて困ってるって言ったのは誰?向こうから勝手に来たんだって言ったのは誰?それなのに今さら、いい人ぶるつもり?晃成、あなた本当にどうかしてる」依澄の声はどんどん大きくなり、近くにいた人たちの視線まで集め始めた。私はその場に立ったまま、二人のやり取りを見ていた。依澄はさらに声を荒げた。「ねえ、晃成。あのとき私が許さなかったら、あなた、今ごろどうなってたと思ってるの?昔の女とのことであれだけ揉め
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第8話

「月島様?お食事はよろしいんですか?」「やめておきます。先にホテルまで送っていただけますか」私はそう言って車に乗り込み、ドアを閉めた。運転手は私を見て、庭のほうから漏れてくる言い争いにちらりと目をやった。けれど、何も聞かなかった。ただうなずいて、運転席に戻る。「分かりました。ホテルへ戻りましょう」車はゆっくりと走り出し、細い道を抜けていった。バックミラーの中で、あの白い建物が少しずつ遠ざかっていく。二人の言い争う声も、やがて聞こえなくなった。私はシートに体を預け、目を閉じた。……翌朝、私は早めに目が覚めた。鏡を見ると、顔色は思ったより悪くなかった。昨夜はよく眠れたらしい。打ち合わせは、取引先の本社で行われる予定だった。ホテルのロビーへ下りると、ジェイソンが資料を持って待っていた。「月島様、先方のプロダクト責任者のスミス様は、今回の提携にかなり前向きでいらっしゃいます。ニューヨークからわざわざお越しになったそうです」私はうなずき、資料を受け取ってもう一度目を通した。内容はすでに頭に入っている。それでも、慎重でいるに越したことはない。打ち合わせは三時間近くに及んだ。私は最初から最後まで母語で説明し、ジェイソンが隣で通訳を務めてくれた。終わると、スミスは自ら席を立ち、にこやかに手を差し出した。「月島様、今後の提携を楽しみにしています」私はその手を握った。「ありがとうございます。ご期待にお応えできるよう努めます」そばにいた数人の担当者も立ち上がり、次々と私と握手を交わした。ジェイソンがそっと声を落とした。「月島様、スミス様がここまで早く前向きなお返事をされるのは、かなり珍しいですよ」私は軽く笑った。商談のあと、スミスの秘書が一階まで送ってくれた。私たちはロビーを抜け、駐車場へ向かう。建物を出たところで、視界の端に人影が映った。反射的にそちらを見た。晃成だった。彼は通りの向こう側の木陰に立ち、こちらを見ていた。距離があって、表情までは分からなかった。けれど、左の頬が不自然に腫れているのは見えた。赤く熱を持ったような頬に、うっすらと指の跡が残っている。誰かに叩かれたのだろう。私はそれ以上見なかった。そのまま前を向いて歩き
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第9話

【許してほしいとは言わない】【ただ、何かあったときに、少しでも助けになれたらと思ってる】【この先、二度と俺の顔を見たくないとしても】【一生、許してもらえないとしても】【前に教えてもらった口座に、少し振り込ませてもらった】【これで償いになるなんて思ってない。それでも、今の俺にできることはこれくらいしかなかった】【使っても、放っておいても、返してもいい。お前の好きにしてくれ】【押しつけがましいのは分かってる】【それでも、何もしないままではいられなかった】続けて、銀行アプリから通知が入った。【振込入金のお知らせ】【入金額:2,000,000円】【振込依頼人:セオ コウセイ】表示された金額を見て、思わず手が止まった。二百万円。笑って流せるほど少なくはない。かといって、人生が変わるほどの額でもない。返すかどうか迷わせるには、ちょうどよすぎる金額だった。彼も少しは考えるようになったらしい。私は返金しなかった。もらえるものは、もらっておく。この五年で受けたものが、二百万円で帳消しになるはずがない。それでも、ないよりはずっといい。それから数日間、私は好きに過ごした。提携は無事にまとまり、帰国後、上司に「少し休んだら」と言われたので、有給を一週間まとめて取った。毎日、自然に目が覚めるまで眠り、起きてから近所へ食べに出た。駅前に新しくできたラーメン屋が思いのほか当たりで、三日続けて通った。午後はソファに寝転がってドラマを見た。見ようと思ったまま放っておいたドラマや番組を、ようやくまとめて見終えた。夜は友人と少し高い寿司を食べに行き、遠慮せずに好きなものを頼んだ。スマホには、晃成からのメッセージがまだぽつぽつ届いていた。けれど、返事はしなかった。お金を受け取ったからといって、許したわけではない。ただ、返す気にもならなかっただけだ。五日目の午後、私はソファに寝転がって、よく冷えたスイカを食べながら、テレビのバラエティ番組を見ていた。久しぶりに、声を出して笑った。そのとき、突然スマホが鳴った。同僚の小林綾乃(こばやし あやの)からだった。「莉都、今スマホ見られる?早く!」綾乃の声は、いつになく慌てていた。「何、火事でも起きた?」「
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第10話

「怖かったんです。あのまま騒ぎが広がれば、仕事も生活もめちゃくちゃになると思いました。本当に悪いのは自分だと、知られるのが怖かった。だから黙っていました。卑怯だったと思います。責められて当然です」動画を最後まで見ても、私は何も感じなかった。遅すぎる後悔は、結局、自分を楽にするためのものにしか見えない。今さら何を言われても、あの頃の私には届かない。コメント欄は、すでに騒然としていた。特に多くの共感を集めていたのは、このコメントだった。【じゃあ、当時叩かれていた女の子は、何も悪くないのに三か月も責められてたってこと?なんで今さら?もっと早く言えたはずでしょ】その後、動画は一気に広まった。いくつもの拡散アカウントに取り上げられ、晃成の名前はトレンドにも上がった。最初に並んでいたのは、驚きの声だった。けれどそれは、すぐに怒りへ変わった。そしてその怒りは、画面の中だけでは収まらなくなっていった。誰かが晃成の勤務先を調べ上げ、会社に苦情の電話を入れたらしい。自宅の場所まで晒され、家の周りには落書きまでされたという。街で彼を見かけた人が、罵声を浴びせたという話も流れてきた。かつて私に向けられていた悪意が、今度は晃成に向かっていた。私はソファに座ったまま、流れてくる投稿をぼんやり眺めていた。胸がすくわけでもない。かといって、かわいそうだとも思わない。ただ、ずいぶん遠くの出来事を見ているようだった。依澄も、ただでは済まなかった。彼女のSNSにも、五年前にわざと私を悪者にしたのではないか、騒ぎを大きくしたのではないか、というコメントが相次いだ。依澄は何も答えなかった。否定もしないまま、アカウントを消した。そのあと、依澄が弁護士を立て、晃成との離婚に向けて動いているらしいという話が出回った。財産分与や慰謝料をめぐって、かなり揉めているらしい。でも、もう私には関係なかった。さらに数日が過ぎたころ、綾乃からまた電話がかかってきた。「莉都、ニュース見た?」「何のニュース?」「瀬尾、事故に遭ったって」私は何も言わなかった。「運転中も、スマホがずっと鳴っていたらしいの。知らない番号から、彼を責める電話が何本もかかってきてたって。それで一瞬よそ見して、そ
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