「景!」聞き慣れたその名前に、私・夏目澪(なつめ みお)は息を呑んで、勢いよく顔を上げた。少し離れたところで男女が向かい合って立っている。女性はふんわりとした優しい顔立ちで、お腹が少しふくらんでいる。男性は背が高くて、凛とした立ち姿……まぎれもなく、結婚してまだ一ヶ月しか経っていない私の夫、神崎景(かんざき けい)だった。その光景に、頭の中が真っ白になる。とっさに角の陰に身を隠して、ようやく思考が追いついた頃には、もう二人の声は聞こえなくなっていた。彼女、妊娠しているんだ。景の好きな人が、妊娠した。彼が健診に付き添う姿は、あまりにもお似合いで、幸せそうだ。赤ちゃんは、両親に望まれて生まれてくるべきだ。そっと下腹部を撫でて、しばらく立ち尽くした後、別のフロアへと向かった。看護師から中絶手術を受けるには原則として配偶者の同意が必要になると言われた。お腹に手を当てたまま、きっぱりと言った。「必要ありません。自分の体は自分で責任を持ちます。産むかどうかも私が決めることですから」同意書に自分の名前だけサインして、外の椅子で待つことにした。白石結愛(しらいし ゆあ)の声が遠くから近づいてくる。「そんなことないよ。今のところつわりも全然ないし、きっとこの子がすごくいい子なんだね」ふと視線を向けると、景と結愛が並んで歩いている。彼の片手には紙袋が握られていて、たぶん結愛の葉酸だろう。視線が交差する。彼は一瞬足を止めて、驚いたような顔をした。まさかこんな所で私に会うとは思っていなかったのだろう。立ち上がって、ふっと口角を上げてみせた。「奇遇ね」景の表情は、あっという間にいつも通りの冷静なものに戻った。「どうしてここに?」淡々とした問いかけ。低く、どこか上の空のような響きを含んだ声だ。私はただ微笑んだまま、問い返した。「あなたこそ?」「ちょっと用事でな。そっちはもう済んだのか?」「まだ少しかかりそう」「そうか、じゃあ先に行く」それだけ言うと、私の横を通り過ぎていく。結愛はこちらに向かって軽く会釈をして、ふんわりと微笑むと、そのまま彼の後を追っていった。再び腰を下ろした。冷たいプラスチックの椅子がやけに硬く感じる。やがて手術台に仰向けになって、頭上で無影灯が眩しく点灯する。目を閉じると、目
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