All Chapters of もう、あなたを待たない: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

「なにそれ......冗談でしょ」日奈は怒りのあまり笑い出した。「病院まで来て、私に一緒に帰ってくれって頼んだのはあなたでしょう?私の目の前で知夏と離婚届にサインしたのも、私と入籍するって約束したのもあなたよね?!それなのに、『知夏を見つけてから』ですって?あの人と復縁するつもりなの?私を何だと思ってるの?!」怒りに任せて、彼女は思いきり凛久の頬を平手打ちした。「そう言うお前はどうなんだ」凛久は口元の血をぬぐい、暗い眼差しを彼女へ向ける。「母さんの言う通りだった。お前は見た目ほど純粋なんかじゃない。最初から俺が誰なのか知っていたし、結婚していることも知っていた。自分から進んで愛人になったんだ。ずっと俺を騙していたんだな」「私を疑ってるの?」「昨日も嘘をついたよな。お前はもう、何度も書斎に入っていた」凛久はスマホを取り出した。「俺のスマホには、パソコンと同期するアプリが入っている。閲覧履歴は全部こっちに残るんだ。書斎のパソコンは普段ほとんど使わない。でも調べたら、写真フォルダをお前はこの家へ住み始めた日から開いていた。この3年間で20回以上もだ。そのフォルダには、俺と知夏の写真しか入っていない。あれを見ていて、俺たちが結婚していたことを知らなかったなんてあり得ない」彼は一歩ずつ日奈へ近づき、その清楚で無垢に見える顔をまっすぐ見つめた。「松元日奈、お前は最初から目的があって俺に近づいたんだろう?」追い詰められた日奈は壁際まで後退し、それ以上逃げ場を失った。唇を噛み締め、顔はみるみる青ざめていく。「......そうよ。だから何?」彼女はついに認めた。「私、最初に出会った時からあなたに一目惚れだったの。本当に好きだったの。奥さんがいようがいまいが、あなたと一緒にいたかった。愛人になるべきかどうか何度も悩んだ。でもあなたと知夏はずっと遠距離だったし、どうせいつか終わる関係だって思った。だから、このまま突き進もうって決めた......」彼女は凛久の胸へ飛び込み、震えながら強く抱きついた。「ごめんなさい、凛久。ずっと騙して......でも本当のことを言えば、あなたに捨てられるのが怖かったの!ねえ、もう彼女と離婚したんだから、私と結婚しよう?三人で幸せに暮らそうよ。また前みたいに――」「言ったはずだ
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第12話

もし知夏がもうこの街にいないのなら、京城へ戻ったのかもしれない。凛久は深く考えることもなく、そのまま車を走らせて京城へ向かった。道中も何度も知夏へ電話をかけ続ける。今度はつながった。だが次の瞬間、通話は切られ、そのまま着信拒否にされた。LINEも同じだった。知夏は彼を完全にブロックしていた。これまで何年もの間、どれほど大きな喧嘩をしても、彼女が彼をブロックすることは一度もなかった。今回は本気なのだ。5時間後、ようやく凛久は京城にある知夏の家へたどり着いた。この家も、かつて二人で探し回って決めたものだった。知夏が気に入り、彼は迷わず購入した。最初の数年は頻繁に訪れていたが、日奈と付き合うようになってからは、ほとんど足を運ばなくなっていた。車に積んであった鍵を取り出し、玄関を開ける。リビングの中央には、二人の結婚写真が飾られていた。ソファのクッションも、以前彼が知夏へ贈ったもののままだ。冷蔵庫には、ずっと昔に自分が貼ったメモまで、そのまま残っている。訪れることは少なくなっても、この家の至るところに、自分の痕跡が残っていた。この数年間、知夏はきっと、それらを心の支えにして生きてきたのだろう。それなのに、自分は何をした。彼女を裏切り、ほかの女性との間に子どもまで作ってしまった。胸を切り裂かれるような痛みに耐えながら、凛久は部屋という部屋の扉を開けて回る。誰もいない。ここにも、彼女はいなかった。すでに日は暮れていた。翌朝一番で、彼女が勤めている病院へ行くことに決める。その夜は知夏のベッドで眠った。夢に出てきたのは、知夏ばかりだった。高校時代。大学時代。卒業して離れ離れになってからの日々。そして再会するたび、新婚のように互いを求め合った時間――自分は本当に彼女を愛していた。それなのに、なぜ裏切ってしまったのか。翌朝、夜明けとともに病院へ向かい、出勤してくる知夏を待つことにした。だが、どれだけ待っても彼女は現れない。仕方なく院長室を訪ねた。院長は彼を見るなり驚いた。「矢野さん?これは珍しい。どうぞ、お入りください」院長は彼を執務室へ案内し、お茶を一杯差し出した。「院長先生、知夏は今日は出勤していないんですか?」「宮坂先生、
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第13話

日奈は激しく泣きじゃくっていたが、凛久は彼女がまた大げさに騒いでいるだけだと思っていた。「しつこいぞ。俺は今から知夏を迎えに行く。知夏を見つけて戻ってきたら、三人でちゃんと話をしよう」彼が信じてくれないと分かると、日奈は必死に訴えた。「違うの、今度は本当なの!お願い、早く病院に......赤ちゃんが死んじゃうかもしれない......!」「もういい。そろそろ搭乗時間だ。切るぞ」凛久は電話を切り、そのまま電源を落とすと、一度も振り返ることなく飛行機へ乗り込んだ。屋敷では、暗くなったスマホの画面を見つめる日奈の目尻に、涙が張りついたまま固まっていた。「切られた?!子どもの命より知夏を選ぶなんて!ひどい......!」傍らの使用人は気が気ではなかった。「松元さん、早くお子様を病院へお連れしましょう!」「早く......早く病院へ!」日奈は子どもを抱きかかえ、慌ただしく病院へ駆け込んだ。医師が診察すると、子どもはすでに窒息死していた。医師はため息をつき、静かに首を振る。「申し訳ありません。お子さんは......すでにお亡くなりになっています」「そんな......冗談でしょう?」日奈はその現実を受け入れられなかった。腕の中の赤ん坊の柔らかな頬をそっとつまむ。まだ温もりが残っていた。「この子の体はまだ温かいし、こんなに柔らかいの!死ぬはずないよ!」彼女は涙を流しながら医師に向かって叫んだ。使用人が赤ん坊の鼻先へ手を当てる。呼吸は、もうなかった。「松元さん......先生のおっしゃる通りです。この子は......もう......」生まれて間もない命が、こんなにも早く消えてしまった。使用人も涙をこらえきれなかった。それでも日奈は首を振り、子どもを強く抱きしめる。「嘘よ!この子は死んでない!まだパパにも会ってないのよ!死ぬはずないもの!」使用人は思い切って口を開いた。「松元さん、申し上げましたよね、卵を食べさせてはいけないと。この子はもともと牛乳タンパクアレルギーがありましたし、卵も与えてはいけません。まして、あんなに小さいのに......それなのに凛久様の気持ちを取り戻したいからと、無理に食べさせたじゃありませんか。こんなことになってしまって......凛久様がお知
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第14話

ヨーロッパ。ここへ来て3日目。知夏は、研修先とアパートを往復するだけの生活にもすっかり慣れていた。昼は研修を受け、夜は決まった時間にアパートへ戻る。ヨーロッパの空はいつもどんより曇っていて、小雨が降ることも多い。彼女はそんな天気が好きではなく、毎日部屋にこもって本を読んで過ごしていた。時折、凛久のことを思い出すこともある。けれど思い浮かぶのは、幼い頃の思い出ばかりだった。あの頃の凛久と自分が懐かしい。ただ、それだけだ。今の彼に対して残っているのは、憎しみ以外何もなかった。凛久と再会したのは、ヨーロッパへ来て4日目のことだった。彼女は病院の並木道を歩き、講義へ向かっていた。すると少し先の木陰に、一本の傘を差した凛久が立っていた。目は真っ赤に充血し、じっと彼女を見つめている。まさかこんな場所で会うとは思わなかった。だが、知夏は彼に構うつもりなどなかった。そのまま彼を避けて通り過ぎようとすると、凛久が腕を伸ばして行く手を塞ぐ。「知夏」知夏は冷たい表情のまま言った。「どいて」「わざわざ君に会いに来たんだ。少し話をしないか?」「話すことなんてないわ。道を開けてください」彼女が横へ一歩ずれると、凛久も同じように動いて再び前へ立ちはだかった。ついに知夏の堪忍袋の緒が切れる。「もういい加減にして。いったい何がしたいの?」「聞きたいんだ。どうして黙って一人でヨーロッパへ来た?俺と離婚して、日奈と結婚することになったからか?あれは君だって納得してくれたじゃないか。なのに、どうして今さらそんな意地になってるんだ?」ここまで来ても、彼はまだ自分の過ちに気づいていなかった。知夏は首を横に振る。「もう忘れたの?私は自分から離婚したかったわけじゃない。あなたに無理やりサインさせたの。でもまあ、もともと離婚するつもりだったし、もうどうでもいいよ。全部終わったの。あなたが会うべき相手は日奈であって、私じゃない。私は今から授業へ行かなくちゃいけないの。邪魔をしないで」そう言って彼を押しのけ、足早に病院へ向かった。だが急ぎすぎたせいで足を滑らせ、危うく転びそうになる。その瞬間、一人の男性が腕を伸ばして支えてくれた。「お気をつけて、宮坂さん」「ありがとうございます」
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第15話

凛久は、知夏が食事にほとんど手をつけていなかったことに気づいていた。この国の料理が口に合わないことも知っていた彼は、すぐに車を走らせ、和食を買いに行く。間に合わなくなるのが怖くて急いで戻ると、ちょうど知夏が食堂から出てきたところだった。彼は待ちきれずに駆け寄り、手にした料理を差し出す。「知夏、お腹空いてないか?これ、君のために買ってきたんだ」汗だくになりながらも必死な彼の様子を見て、修二は眉を上げた。「お知り合いですか?」「元夫です」知夏は少しも隠そうとせず、落ち着いた口調で答えた。「私たちはもう何の関係もありません。だから正直......彼が現れることで少し困っているんです。あの、早川さん、もしお時間があれば、今日は家まで送っていただけませんか?」「もちろんです」修二は車のドアを開け、彼女を先に乗せようとした。知夏は凛久の横を通り過ぎ、身をかがめて車へ乗ろうとする。その手首を、凛久が掴んだ。「そこまで俺を拒むのか?本当にもう反省してるんだ。ちゃんと座って話そう?もう一度だけチャンスをくれ......」「ごめんなさい。疲れているの」知夏は彼の手を振り払い、車のドアを勢いよく閉めた。修二が運転席へ乗ろうとすると、凛久がドアを押さえつけ、低い声で警告する。「言っておくが、知夏は俺の妻だ。変な気を起こすな。お前が何を考えているかくらいわかる。もし知夏に指一本でも触れたら、ただじゃ済まさないぞ」「元奥様、でしょう。矢野さん、言葉は正確にお願いします」修二は穏やかに返した。「それに、ご心配には及びません。私と宮坂さんは、ただの研修仲間です」そう言ってドアを閉めると、車はあっという間に走り去った。凛久は諦めず、その後を追いかける。やがて車は一軒のアパートの前で止まった。知夏が車を降りると、修二は後ろから凛久がついて来ていることに気づき、心配そうに言った。「宮坂さん、彼がまだ後をつけています。これ、私の連絡先です。何かあればいつでもご連絡ください。近くに住んでいますから、すぐ駆けつけます」「ありがとうございます、早川さん」名刺を受け取った知夏は、少しだけ安心した。その夜、凛久は一歩もその場を離れなかった。車内で一晩中過ごし、夜が明ける頃には、足元には吸い殻が山の
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第16話

優衣はもう一度凛久に電話をかけようとしたが、日奈に止められた。「優衣さん。あの人が帰ってこないなら、もういいわ。息子の葬儀くらい、一人でやれるから」彼女は顔を上げ、扉の向こうへ目を向けた。子どもの訃報は靖子にも伝えていた。それなのに、矢野家からは今になっても誰一人として姿を見せない。手にしたハンカチを強く握り締め、憎しみに満ちた目で呟く。「矢野凛久......今日のことは、一生忘れない。宮坂知夏も......今日こうなったのは全部あの女のせいよ。絶対に許さない」その言葉を聞いた優衣は、背中に冷たい汗が流れた。「日奈、怒らないであげて。矢野さんはあなたが嘘をついていると思ったから帰ってこなかっただけなの。本当に息子が亡くなったと知れば、きっと戻るはずよ。だからお願い、後悔するようなことだけはしないで」日奈は何も答えなかった。――知夏はヨーロッパにいるんでしょう?だったら、自分もすぐにヨーロッパへ行く。もう息子はいない。この先、自分に失うものなどもうない。凛久にここまで追い詰められた以上、このまま大人しく引き下がるつもりはなかった。葬儀が終わり、優衣が彼女を支えて帰ろうとした時だった。日奈は彼女の手を掴み、真っ赤な目で尋ねた。「知夏さんの今の住所を教えてくれない?」「え?知ってどうするの?」優衣は胸騒ぎを覚えた。「日奈、あなたはまだ若いのよ。子どもはこれからまた授かることだって――」「それなら凛久の居場所でもいい」日奈は首を振る。「安心して。馬鹿なことはしない。ただ二人に会って、全部きちんと話したいだけ。このままじゃ、私、おかしくなってしまうから......」優衣がためらっていると、日奈はその場に膝をついた。「お願い、優衣さん。もう頼れるのはあなただけなの......!」「......」優衣は耐えきれず息をついた。「矢野さんならヨーロッパにいるわ。住所をメッセージで送る」優衣から届いたメッセージを見た日奈は、不気味に口元を歪めた。――これでいい。すべてを終わらせる時が来た。今すぐヨーロッパへ行き、知夏と凛久に決着をつける。......ヨーロッパ。朝、知夏は目を覚まし、カーテンを開けた。すると、凛久が今日もマンションの下で待っている姿
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第17話

「私は宮坂さんとは友人です。友人が助けを必要としているなら、力になる。それの何がいけないんですか?」凛久の威圧感は凄まじかったが、修二は終始少しも気圧されることなく、落ち着いた口調で続けた。「それより矢野さん。宮坂さんはもうはっきりお断りしています。あなたも理解できないわけではないでしょう。なのに、なぜまだ付きまとうんですか?みっともないですよ」凛久は歯ぎしりしながら言った。「それはあなたに関係ない」「すみません、まだ用がありますので、失礼します」車は再び走り去っていった。凛久は空気の抜けた風船のように、その場で力なく立ち尽くした。どうすれば彼女を笑顔にできるのか。どうすれば彼女を取り戻せるのか。何一つ分からず、気が狂いそうだった。それから数日間、凛久は知夏と言葉を交わす機会すら得られなかった。あの修二が常に彼女のそばにいて、買い物に行く時まで一緒だった。二人の距離が日に日に縮まっていくのを見ているだけで、凛久は焼けつくような焦りに駆られていた。......ヨーロッパの秋は訪れが早く、急に肌寒くなってきた。知夏も修二も持ってきた服が少なかったため、二人は一緒に服を買いに出かけることにした。車を降りた途端、小雨が降り始める。二人とも傘を持っておらず、修二は自然に上着を脱いで、知夏の頭上にかざした。距離が一気に縮まり、彼の指先が思わず彼女の耳に触れる。その瞬間、知夏の頬は一気に熱くなった。修二は慌てて手を引っ込める。「すみません......その......わざとじゃなくて」彼がここまで動揺する姿を初めて見て、知夏は思わず笑ってしまった。「早川さんは産科医でしょう?今までたくさんの女性患者さんを診てきたはずなのに、そんなに照れやすいんですか?」「あれは患者さんですから。宮坂さんとは違います」その何気ない一言に、知夏の心臓が一気に跳ね上がった。急に気恥ずかしくなり、小さな声で言う。「......早く入りましょう」「はい」二人は小走りでショッピングモールへ入り、修二は婦人服売り場へ案内した。「服が少し濡れています。風邪をひかないよう、新しい服に着替えたほうがいいですよ」「そうですね」知夏はきれいなワンピースを一着選び、鏡の前で体に当ててみた。
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第18話

「早川さん......」知夏は遠慮しようとしたが、修二は穏やかに言った。「ワンピース一着くらいで、大した金額じゃないですから」彼女もそれ以上は固辞せず、微笑んだ。「ありがとうございます。それじゃ、お言葉に甘えます」ふと視界の端に、彼の背中が半分近く濡れているのが映る。知夏は慌てて言った。「早川さんもびしょ濡れですよ。早く何か着替えを探してください」「そうですね」修二は何着か手に取ってみたが、どれも気に入らないのか、眉間にしわを寄せたままだった。確かにこの店の服は、彼の好みとは少し違うようだ。そこで知夏が一着選んで差し出す。「これはどうですか?」彼は彼女の手にあるジャケットを見るなり、さっきまで寄っていた眉がすっとほどけた。「わかりました。試してみます」修二が試着室へ入ると、知夏はすぐ店員を呼び、その服の会計を済ませた。店員は思わずくすっと笑う。「お客様、本当にお似合いですね」知夏は微笑むだけで、もう否定はしなかった。実際、修二がスーツに着替えた姿は驚くほど格好よかった。禁欲的で端正な雰囲気に、その場にいた女性たちは皆、思わず見とれてしまう。知夏の見立てはさすがで、その一着は彼によく似合っていた。「どうですか?」「ええ、悪くありませんね。会計を――」店員が笑いながら口を挟む。「こちらのお客様が、もうお支払い済みですよ」修二は一瞬言葉を失い、複雑な眼差しで知夏を見つめた。彼はもう若くない。三十を過ぎ、結婚して家庭を持っていてもおかしくない年齢だ。親戚から何度も縁談を持ち込まれたが、どの相手にも心を動かされたことはない。彼に近づく女性は、産科医という肩書きか、あるいは彼の財産が目当てだった。けれど、一緒に買い物へ来た初日に、自分のためにお金を使ってくれた女性は、知夏が初めてだった。彼は金に困っているわけでも、女性に奢られるのが好きなわけでもない。それでも、知夏だけは特別な存在に感じられた。「早川さん?」じっと自分を見つめたまま黙っている彼に、知夏は目の前で軽く手を振る。「どうかしましたか?」「いえ」修二は我に返り、視線を逸らした。「ありがとうございます」「いえいえ。お互い様です」二人は顔を見合わせて笑い合う。
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第19話

「......だから言っただろう、子どものことで冗談はやめてくれって!俺が出てきた時、あの子は元気だったじゃないか。急に死ぬはずがない!」凛久は突然激しく取り乱した。「嘘だ......全部嘘だ!日奈が俺を帰らせるためについた嘘なんだろう?!」「こんなことで冗談なんて言わない。本当よ、信じて」優衣はため息をついた。「正直、私も後悔してる。矢野さんが日奈と付き合い始めた時、私は止めるべきだった。こんなことになってしまって、もうどうしたらいいのか分からない。ただ、知夏だけにはこれ以上傷ついてほしくない......私はもう十分、彼女を裏切ってしまったから」そう言って優衣は電話を切った。凛久はしばらくその場で立ち尽くしていた。どうしても、自分の耳にした事実を信じることができなかった。自分と日奈の子どもが、本当に死んだなど信じられなかった。彼はすぐにグループチャットを開き、親しい友人たちへメッセージを送る。ほどなく返信が返ってきた。【そうだよ、凛久さん。今回はさすがにひどいよ。子どもが亡くなったっていう大事なのに、あんたは帰ってこなかった】【あの数日間の日奈は完全に壊れてた。一人で子どもの葬儀を取り仕切るなんて、よく耐えられたと思うよ】【最後の別れさえできなかったのは残念だよ】空気が凍りついたようだった。その瞬間、凛久はようやく現実を受け入れた。その場に立ち尽くし、胸は見えない大きな手で鷲掴みにされたように締めつけられ、息をすることさえ苦しかった。「そんな......嘘だ......そんなはずない!」ついに感情を抑えきれず、彼は拳を振り上げ、すぐそばの壁へ思い切り叩きつけた。「ありえない......どうして俺は......信じてなかったんだ......!」一発、また一発と壁を殴り続ける。あっという間に拳の皮が裂け、血が滲み出した。通行人たちが次々と足を止め、中には止めようとする者もいたが、彼は構わず壁を殴り続ける。騒ぎが大きくなり、人だかりができ始めた頃、ちょうどショッピングモールを出ようとしていた知夏と修二の耳にも、その騒ぎが届いた。「向こうで男の人が急に壁を殴り始めたんだ。何か発作でも起こしたのかな。このままじゃ手が潰れそうだよ」「誰が止めても聞かないんだ。子どもが亡くな
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第20話

「いや、ダメだ。俺は行けない。さっき優衣から電話があって、日奈がもうヨーロッパに来ていると言っていた。たぶん俺たちに復讐しに......この数日は気をつけてくれ」今の彼には恋愛のことなど考える余裕はなかった。ただ知夏が無事でいてくれれば、それだけでよかった。「分かったわ。気をつける」知夏は頷くと、「じゃあ、もう行くね」と言って彼から視線を外し、そのまま踵を返した。修二もすぐに後を追う。「宮坂さん。もし私を少しでも頼ってくれるなら、以前何があったのか話してもらえませんか?」先ほどの男の様子は尋常ではなかった。彼が知夏に危険が及ぶと言う以上、自分は彼女を守らなければならない。知り合ってまだ日が浅い。それでも彼は、彼女を大切な友人だと思っていた。いや、もしかすると、それ以上の存在なのかもしれない。本気で力になりたかったが、知夏には彼を巻き込むつもりはなかった。「それより、もう遅いです、今日はお付き合いありがとうございました。もう帰ります」「なら送ります」「大丈夫です。雨も止みましたし、一人で帰れます」彼女は静かに首を振った。「これは私の問題です。早川さんまで巻き込みたくない。だから、ごめんなさい」そう言って通りかかったタクシーを止めて乗り込んだ。だが、乗った途端、鼻を突くような刺激臭が漂ってきた。窓を開けようとしたが、ロックされていて何度ボタンを押しても開かない。「運転手さん、窓を開けてもらえますか。少し息苦しくて......」運転手はゆっくりとマスクを外し、不気味な笑みを浮かべた。「やっと見つけた」バックミラーに映ったその顔を見た瞬間、知夏は眉をひそめた。「松元さん?」慌ててドアを開けようとしたが、もう遅かった。意識がどんどん遠のき、やがて彼女は完全に気を失った。再び目を覚ますと、自分は大きなベッドに縛りつけられていた。目の前には日奈が立ち、無表情でこちらを見下ろしている。「目が覚めた?」「何をするつもり?早くほどいて!」両手両足は縄で固く縛られ、少し動かすだけで手首も足首も焼けつくように痛んだ。「余計なことはしないで。私を苛立たせたら、この場であなたを殺すかもしれない」日奈は身をかがめ、その狂気を帯びた顔を少しずつ知夏へ近づける。「やめて..
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