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SpringS ーハルタチー のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

29 チャプター

prologue

 濃いグリーンのブレザーを身に纏った少年は、死体を見つけたのかと思った。   * * * 伽羅色の煉瓦が敷き詰められた学園の裏庭を慣れない革靴で、コツコツ、地面を鳴らしながら、歩く。 七月、期末試験を終えたからか、周囲はがらんと静まりかえっている。そういえば、終業式は一週間後だったかなぁと、他人事のように首を傾げ、事務室をあとにして…… 迷った。 きょろきょろ、周囲を見まわす。駅に向かう西門を探していたのに、少年が発見したのは。 うっそうと繁ったヒースの森の中、羽毛のような手入れの行き届いた黄緑の芝生の上で横たわっている少女。 黒いセーラー服、雪のように仄白い透き通った肌、無造作にのばしっぱなしの黒髪。顔色が蒼白いからか、死体のようにも見える。が。 耳をそばだてると、すぅすぅ、小さな寝息が聞こえる。どうやら眠っているらしい。 少女のあどけない寝顔に、なぜか、惹かれる。 かわいい、美しいという言葉よりも先に、綺麗、という言葉が出てくる。例えるなら、天使というには美しすぎて、女神というには幼すぎる。要するに、人並みはずれた顔立ちをしているのだ、彼の前で無防備に眠っている少女は。 まさに、おとぎ話にでてくるような、眠り姫、だ。 魅入っていた少年を我に却らせたのは、その少女の「うーん」という鈴の鳴るようなか細い声。誰かが近くにいる気配に感づいたのか、少女は、ぱちくり、瞳を見開く。「あ」 二人の視線が、絡まる。同時に、思いがけず口を開く。驚きを露見させて。 どちらからともなく互いの頬に、さっ、と朱が走る。 やがて少女は、じっ、と少年を見つめ、一言、歌うように。「編入生、ね」 まるで、そこに彼が来ることを予知していたかのように、呟く。 瞳を見開いた少女に圧倒されて、少年は無言で肯定する。吸い込まれるような、漆黒の瞳は、まるで新月の夜空のよう。 そして、澄んだ空に溶け込むような落ち着いた声色に。起き上がり、俯く仕草に。引き寄せられる。無言でいる少年に対して、少女は再び口を開く。淋しそうに。まるで何かを諦めてしまったかのように。「もう、そんな時期なの……」 哀しそうにひとりごちる少女に、少年はいてもたってもいられなくなる。そのまま、黙り込んだまま、二人は見つめ合う。鼓動が早まる。少女が懇願するような瞳を向ける。 ……どうして、そんな眼
last update最終更新日 : 2026-07-05
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chapter,1 (1)

 恋に堕ちるのに、理由なんかいらない。たとえそれが、呪われた少女だとしても。    * * *  長いといわれていた夏休みが呆気なく終わった次の日の朝。  私立クレーマ学園高等部一年C組に、噂の編入生がやってきた。なぜ、噂になっているかというと、中高一貫教育をしている私立学校に中途半端な時期にやってくる編入生なんて、それなりにワケアリな人間でしかないと、生徒たちは思っていたから。  メイプルシロップのような榛色の双眸を持つロシアからの帰国子女は、新しい級友たちの好奇心旺盛な視線を怯えることなく受け止め、何食わぬ顔で応戦している。担任教師でさえ読み間違えそうな、黒板に漢字で記された名前を彼は読み上げる。慣れきった表情で、平然と。「カミジョウスザクっす」 栗色の髪の毛と榛色の瞳、外人のようにすらりとした鼻梁を持つ背の高い少年は、自分を珍種の動物のように見つめる視線を前に、緊張も見せずに紹介を始める。「ロシアの日本人学校にいました。だから日本語問題ないです。生まれた頃から向こうにいました。まぁ親父の仕事の都合でこっち戻ってきたんですけど。いやぁ日本あったかいですねー」 人懐っこい笑顔が効をなしたのか、級友たちがまばらながらも反応を示し始める。くすりと笑う少女、ロシア? と疑問符を浮かべた表情の少年、エトセトラエトセトラ。「こう見えても俺クォーターなんですよ。死んだばあちゃんがロシア人で。だから少しだけ鼻が高かったり眼の色が薄かったりします、先に質問されそうだったから言っておきますね」 そして、一通りの説明が終わって、質問タイム。こういうとき、男子よりも女子の方が権力を持っているらしく、手を上げるのは女の子ばかり。それは、上城が単に非日常的な存在だからか、人並み以上の魅力を持っているからか、変な名前だからか、結局のところよくわからない。まぁ要するに転校生というのは男子以上に女子にとってみれば大きなイベントなのである。  上城は一つ一つにこやかに応えていく。趣味はピアノを弾くことでドビュッシーが大好きだ、とか、日本の食べ物で一番好きなのはなめこ汁だとか、春咲という名前の由来は春に生まれたからだ、とか、ロシア語はそれなりに話せるとか、当り障りのない質問を。  だが、一つだけ彼を困らせる質問があった。「上城くんはぁ、彼女って
last update最終更新日 : 2026-07-06
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chapter,1 (2)

 上城が座る席の前に、その席はある。ロシアからの帰国子女が編入して二週間、ようやくクラスは平穏さを取り戻し、上城自身も周囲の人間と仲良くなってきたが、彼には未だにわからないことが幾つか存在していた……その一つが、窓側の空席のこと。  品川が編入初日に言っていた、該当者であろう女の子の席、なんだろうか? 不思議に思った上城が、クラスメートに尋ねると、困ったような表情で、あっさり受け流される。「ああ、そこはスズシロさんの席だから」 スズシロさん、という固有名詞を上城は何度聞いたことか。それ以上詳しく聞こうとしても、彼らは何かを怖がっているみたいで、よくわからないと逃げてしまう。 担任に尋ねると、スズシロさんは虚弱体質の持ち主で、夏休みの間に入院して、二学期から戻ってくるはずだったのだが、長引いてしまい、退院するのが遅れているのだ、とのこと。「品川。スズシロさんってどんな子?」 「どんなって聞かれても……正真正銘の美少女だけど、怖いくらい頭がよすぎて、ちょっとついていけないとこがあるなぁ」 聡明そうな少女だった。ロシア語で器用に「騎士は淑女の前に跪き謝意を表するのが慣わしでしょ?」と歌うように口ずさんだ彼女のことを思い出し、上城は苦笑する。まあ、あれは彼が若気の至りで少女にキスをしてしまったから言われたのだろうが。  思い出し笑いをしている上城を不気味そうに見て、品川は呆れる。「そんなに気になるか? 彼女のこと」 「気になるね。俺に挑戦してきたんだから」 「……人違いだったらどうするんだよ。知らねぇぞ」 だが、品川の心配は無用だった。  なぜなら、上城春咲が運命の人だと決めつけた少女が、鈴代泉観、本人だったから。    * * *  十月。  学園内の金木犀が橙色の花をつけはじめる。校内だけでなく、周辺にまで甘い香りが漂う。裏門から入った鈴代は、鼻孔をくすぐる甘い芳香に惑わされることなく、一目散に向かうのは自分の教室。  結局、三ヶ月かかってしまった。消毒薬の匂いが充満していた病院で怠惰な日々を過ごしていた彼女は、感傷を隠すように、校内へずかずか入っていく。そのまま、久々の教室の扉を開けて、いつもの席に腰をおろす。  ふわり。風もないのに黒髪がたなびく。ほんのり、金木犀の甘い香りがまとわりつく。だけど鈴代は金木犀の
last update最終更新日 : 2026-07-06
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chapter,1 (3)

 「あの、人違いじゃないですか?」 あえて鈴代、上城に告げる。自分は眠り姫でもなんでもないと。「つまり、近寄るなってことかい」 「裏面メッセージ上ではそうなりますね」 少年の名前は、上城というらしい。飄々としていて、掴み所のない、風に揺れる麦穂のような性格だ、と鈴代は感じる。だけど、侮れない。  逃げるように立ち上がり、教室を出て行く鈴代を、上城は追いかけようとして、やめる。「振られたかぁ?」 今まで黙って観察していたであろう品川が、あえて茶化すような声で上城に尋ねる。「まだわからん」 上城も、微笑を返す。  ……ようやく逢えた。今日の収穫は、それだけで充分。だから、品川がぼそりと呟いた言葉の意味を、深く考えることはなかった。「あんまり深追いするなよ」 その意味をまだ、彼は知らなかったから。    * * *  上城と鈴代が顔を合わせるようになって、数日。  相変わらず上城は鈴代を口説こうと手を焼いているが、鈴代はどこ吹く風。クラスメートたちは二人を遠くで見守っている……というより、あまり関わりたくなさそうだ。「つれないなぁ」 「つれなくて結構。近寄るなってあれだけ言ってるのに」 「しょうがねぇだろ、俺の前の座席が君の席なんだから」 上城が来てから、鈴代の平穏な日常はガラガラと音を立てて崩れているようだ。常に溜め息をつき、彼からのアプローチに辟易している姿は、今までの鈴代を見ていたクラスメートたちからすれば、新鮮だ。  人形のような冷めた美貌を持つ少女は、感情を外に出すことで、人間らしさを認められていく。それもこれも、彼女の後ろにいる上城の所為だ。自分は眠り姫じゃないし、彼方と会った記憶もないと言い張る鈴代に対して、上城はさらりと言いのける。「それでも君は眠り姫さ。隠し事をしたまま一人、昏々と森で眠りつづける悲劇のヒロイン。あのときのことも、記憶を手放して、なかったことにしようと考えている。そうだろ?」 ビクリ
last update最終更新日 : 2026-07-07
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chapter,1 (4)

  わからない。  悶々と悩むなんて自分らしくないと上城は苦笑する、が、思考回路は一方通行。  脳裡に浮かぶのは淋しそうな鈴代の笑顔。何かを諦めて、このまま消えてしまいそうな儚さを持つ少女のことばかり、上城は考えてしまう。校門を抜けて、信号待ちをしている間も、鈴代の困り果てた表情がちらちら垣間見えて離れない。  近寄るな、と言って、上城を遠ざけようとする鈴代。それでも求めてしまう上城。そして完全に拒まない鈴代。それとも、拒めないのだろうか?「ね。そこのキミ」 信号が変わって、自動的に歩き出す上城の左腕を、見知らぬ少女が掴んでいることすら、彼は気づいていなかった。「……え」 信号を渡る途中で、左手の重みに気づいた上城、渡り終えてから、左側を見ると。「キミだよキミ」 淡いピンク色に近い、灰色のブレザーを着た少女が、上城に目線を合わせ、断言する。  近所の都立高校の制服であることを知らない上城は、突然現れた少女に戸惑い、呆然としている。茶褐色の髪は肩までのセミロング、日本人特有の焦げ茶色の瞳、膝上五センチのスカート丈……上城の前にいる少女は、鈴代とは正反対の、今風の女子高生だ。「俺が、何?」 睨み付けるように、上城を見つめていた少女、畳み掛けるように、問い掛ける。「愚者ね」 グシャ? 上城は首を傾げる。黙って少女を見ていたからか、少女は更に続ける。「噂になってるわよ。人殺しの魔女に恋した愚か者って」 「ああ、フールか」 グシャの意味がわかった上城は、安心して少女が口にした言葉の意味を反芻し……沈黙する。  ……人殺しの魔女に恋した愚者が俺のことだとすると、魔女にあたるのは。  一人しかいない該当者。自分が運命の人と銘打った少女が。「人殺しの、魔女……?」 「あら、知らなかったの? クレーマじゃ有名な話なんだけど……転入生かしら? それじゃあ騙されちゃってもしょうがないわね」 少女は何も言わない上城を嘲笑うように言葉を続ける。それは、上城が知ら
last update最終更新日 : 2026-07-08
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chapter,1 (5)

  金木犀が香る裏庭。芝生の上で寝転ぶ鈴代。甘い花の芳香は、苦い二つの記憶を呼び起こす。早春の出来事と、今朝の騒動。 その日は、沈丁花が満開だった。むせかえすほどの甘い、花の香りに酔いしれた無邪気な少女たちは、ほんの戯れと称して、宙を舞った。空想が生み出した残酷な遊戯。  ……妖精のように空を駈けるの。そして、あのこは死んでしまった。  鮮やかで艶やかな赤黒い血の海が、沈丁花の芳香を一瞬で、かき消す。あの時、わたしは彼女に?  ……重力があるから空なんか飛べるわけないって、十五歳のわたしたちはわかっていたのに。  それでも何かから逃げ出すように、飛び出そうとしたのは、見せつけるように迫られたのは、わたしだと思ったのに。  哀しい事故。そのヒトコトで片付けられた時、それでいいのかと脱力感に陥った。もっと厳しく罰せられるものだとばかり思ったから。罰はなかった。でも。 ――人殺しの魔女! 返してよ! 返して! 人殺しの魔女だと呪われるようになった。氷の礫を投げつけられたような、言いがかりに近い強い憎悪に襲われて、鈴代は認めるしかなかった。自分は、他人を不幸にする人殺しの魔女かもしれない、と。  憎まれて蔑まれて罵られて。病弱な身体はより消耗した。代謝機能が低下している。このまま呪われて死んでしまうのだろうか。それでも仕方ない、自業自得だと、諦めて、夏を迎えた。  自分なんかいつ消えてもいいと、思っていたから。  突然、見知らぬ少年にキスされた時の驚きは今も心の奥底で燻っている。しかも、自分の心に、今まで感じたこともない熱い想いが生まれるなんて。  ごろり、寝返りをうつ。新緑の季節を通過した木々は、赤や黄色に色づき始めている。  時間が経過しても、心に燈された小さな恋の炎は、鈴代が消そうとしても消えなかった。  そして、彼……上城と再会したことで。再び。鈴代は自分の恋心を認めざるおえなくなった。  だけど、今朝、また、鈴代の前で、親しい人が、思いがけないことで、倒れた。まるで本当に呪われているみたいだ、と鈴代は嘲笑する。自分が家に残っていても何もできないことがわかっているから。
last update最終更新日 : 2026-07-09
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chapter,1 (6)

  明治時代、華族として栄えた鈴代財閥は、今なお政界や経済界を牛耳る会社組織として水面下で活躍しているという。「鈴代財閥……」 「わたし、財閥のお嬢様なんだよ」 「どうりで」 鈴代の持つ雰囲気が古風ながら、上品で清楚なわけだ。生まれつきなのだろう。  上城は納得する。「で、親父さんは大丈夫だったの?」 こっくり、鈴代は頷く。「かろうじて、一命を取り留めたみたい。だけど、まだ意識不明で……」 鈴代の話を一通り聞いた上城は、暫く俯いたまま、何かを考える。震える鈴代の身体を抱きとめたまま、彼は、意を決したように呟く。「呪いなんかじゃねえよ。そんなの」 「カミジョ……」 「人殺しの魔女? スズシロ、そんなこと信じてるのか? 魔女なんてこの現代にいるわけねぇよ」 だから、上城は続ける。「スズシロが一人で悩むことはないんだ。呪われてる? なら呪いを解けばいいだけだろ? スズシロを陥れようとしている人間がいるんだ。そいつを探し出して摘発すればいい。それとも、何もしないで一人、眠りの森で眠りつづけたいか?」 ……呪いを解く? 思いがけない言葉に、鈴代は顔をあげる。上城は真剣だ。半年前の出来事、そして今朝の事件、どちらも呪いなんかではない、何者かが仕組んだ計画的な罠だと、彼は鈴代に訴える。一人で諦めるな。闘えと、激しく鈴代を抱きしめる。「呪いって、解けるの?」 「解くんだ」 これ以上見ていられないよと、上城は鈴代の頭を撫でる。一人で仕方ないと、受け入れようとしている鈴代は、あまりに儚く、弱い、と。「でも」 上城を巻き込みたくない。そう言おうとして。「ふぁ……っ」 唇を、塞がれる。  顔を真っ赤にして瞳を閉じた鈴代を、慈しむように上城は見つめ、くちづけを続ける。「――ナルマイナ(だいじょうぶ)」 異国のその一言が、意地を張っていた鈴代を陥落させる。金木犀の香りよりも甘い、甘いキスだった。
last update最終更新日 : 2026-07-10
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chapter,2 (1)

  賢者は呪われた魔女に恋した愚者に告げる。真実は一つ。唯一の恋を誇れ、と。    * * *  銀木犀の花、咲き誇る門前。白銀色の残滓で埋め尽くされた地面を、じぃっと見つめたまま、動かない鈴代。  鈴代の父親が倒れて、三日が経過した。未だに父親の意識は戻らない。警察と医師の話によると、神経性の毒が体内に入っている、とのこと。緘口令が引かれているのか、マスコミの姿はどこにも見当たらない。翌朝の朝刊の社会面で、小さく取り上げられた程度だ。たぶん、死んでいないから、だろう。これが、命に関わる重大事だったら、こうはいかないはずだ。鈴代は思考を巡らせる。「……でか」 鈴代財閥当主のお屋敷なのだから、豪華であるとは予想できたはずなのだが、中央図書館のような赤銅色の煉瓦が組まれた洋館だとは、思いもしなかった上城である。  館を囲むのは学園の金木犀とは異なる銀木犀の花木。建物の暖色に、銀木犀の白がよく映えているが、庭師のデザインにしては少しあかぬけたところがある。エントランスに並べられている寄せ植えも、一つ一つを見れば、プロ並の作品だが、全体で見ると、色彩はちぐはぐだし、どこかアンバランスな印象だ。  庭師を雇って庭を造ったわけじゃなさそうだな、と上城は考える。だけどこの完璧ではない手作り風のデザインは、どこか懐かしくて、親近感さえ感じてしまう。  鈴代は、顔をあげて、呼び鈴を鳴らす。  ディンドォン、重々しい鐘の音。「朝、慌てていたから鍵忘れちゃったの」 慣れきったように、鈴代は門前に立つ。「おかえりなさいませ、お嬢様」 家政婦だろうか、着物の上に割烹着を着た中年の女性が、気品ある態度で、鈴代を迎える。「ただいま、房江さん」 鈴代はローファーを脱ぎ、上城においでおいでをする。ぼうっとしていた上城、慌てて房江に挨拶をする。そして、玄関先でスニーカーを脱ぐ。「お邪魔します」 「ごゆっくりどうぞ」 終始にこやかな房江は、鈴代と上城に一礼をして、去っていく。  スリ
last update最終更新日 : 2026-07-11
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chapter,2 (2)

「君の方が美味しそうだな」  ぺろり。鈴代の頬から口許にかけて、上城の真っ赤な舌が触れる。突然のことに、鈴代、両手に持っていたドーナツを落とし、顔を朱に染める。「こら、カミジョ。暴走しないっ……!」 犬に顔をぺろぺろ舐められるような感覚を思い出し、鈴代はくすくす笑う。だけど、ここにいるのはかわいらしい犬ではなく、猛獣注意な男の子だ。「ごめんごめん。口許の生クリームが気になったからさ」 「……もぉ」 唇を寄せ合って、軽く触れてから、鈴代はふてくされた表情のまま、上城を見つめる。  首を傾げ、上城は鈴代に言う。「それにしても、おかしいな」 「……え?」 「なんか、この家、ピリピリしてるみたいだからさ。まだ全容を見てないからなんとも言えないけど……スズシロ、まだ事件は解決してないんだろ? 警官の姿も見えないし、これだけ大きいのに、家政婦やメイドの姿も見当たらない。少なすぎる。何か事情があるだろ?」 突然真面目な表情になった上城を見て、鈴代は静かに応える。「見ているところは見ているのね。そうよ、今、住み込みで働いているメイドは女中頭含めて三人しかいないわ。警察の方はわたしが学校に行ってる間にいらしたみたい。叔父夫婦が対応してくださったそうだから」 「叔父夫婦?」 「うん。この屋敷で暮らしているの」 鈴代の話によると、自分の家は大きくて、とても家族三人で暮らすには勿体無い状態だという。そのため、当主は叔父夫婦を敷地内に住まわすことで、屋敷を有効利用しているそうだ。「ふーん。なんだか人間関係が把握しずらいな。つまりこの屋敷の登場人物はスズシロを含めて何人なんだ?」 「えっと、お父様とお母様、叔父様と奥様、叔父夫婦の息子さん、それからわたしに、住み込みの女中三人と執事を含めて合計十人。妥当でしょ?」 三つ目のドーナツに手を出しながら、上城は頷く。「十人いたのか……とてもそんなには見えないけど」 「まぁ、お母様が病気で自室にこもったきりだし、叔父夫婦の部屋は中庭の向かいだから。用もないのに顔を合わせ
last update最終更新日 : 2026-07-12
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chapter,2 (3)

  鈴代財閥の重鎮、鈴代夕起久は毎朝、一人で庭の手入れをすることを楽しみにしていた。女中に任せればよいものの、彼は草むしりから土いじりまで全て自分で行っている。まるでそれ自体が人生の楽しみであるかのように。今日は一週間ほど放っておいた雑草を思いっきり刈り取る日だ。  立ち上がり、窓の向こうにある食堂を見やると、一人娘の泉観が高校の制服に着替え、メイドの緑子が作った朝食を食べているところだった。緑子が、貧血気味の娘のためにとほうれん草のソテーを作ってくれたらしい。美味しそうに食べている娘の姿を見て、夕起久は微笑を浮かべる。自分も草むしりが終わったら朝食を食べに行かなくてはと、再び腰を下ろし、雑草を刈り取る作業に没頭する。  朝食を食べ終えたのであろう、泉観がエントランスガーデンに姿を見せる。もう一人の女中、美弦が彼女の通学鞄を片手に、見送り体制に入る。  食堂では女中頭の房江が叔父夫婦のための朝食の準備をしている。執事の話によると、今さっき目覚めたらしい。「いってまいります」 草刈りに夢中になっている父親に、泉観は声をかける。夕起久は顔をあげ、もうこんな時間か、と頷く。「お嬢様!」 緑子が慌てて玄関へやってくる。パタパタとスリッパの音が響く。「どうしたの緑子?」 と、泉観が緑子に向き直る。今日提出のプリント、鞄に入れ忘れていますよ、と、泉観に数学の宿題を手渡す。  ……いけない、忘れてた。  危なかったと頷きながら、泉観は緑子に手渡されたプリントを、美弦が持つ鞄へしまいこむ。「時間は大丈夫か?」 娘と女中たちの終始ゆっくりとしたやりとりを見て、思わず夕起久は立ち上がる。ずっと座りっぱなしだったので身体がふらつく。機転をきかせて緑子と美弦が片腕を出し合いながら、彼の身体をそっと支える。  ただでさえ欠席が多い娘だ、なるべく遅刻はさけたい。そのことを知る泉観は父親に向き直り、大丈夫だよと頷く。  そうか、と夕起久が安堵の表情を見せた、その瞬間。「ア痛ッ……ぐ……ぁ」 「……お父様?」
last update最終更新日 : 2026-07-13
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