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Novels by るるね

愛し続けた彼を、私は手放すことにした

愛し続けた彼を、私は手放すことにした

彼を何年も愛し続けてきた。 一緒にいたくて、結婚したくて、どんな手段も努力も惜しまなかった。 たとえ彼の心に、消えない誰かがいたとしても――愛があれば、すべて乗り越えられると信じていた。 けれど現実は、違った。 この関係にあるのは、たった一人分の愛だけ。 ほんの小さなひびさえ、致命的な痛みへと変わっていく。 だから今日、私は彼を愛することをやめる。 ――離婚まで、あとわずか。
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Chapter: 第124話
 篤司は普段ほとんど笑わないのだろう。 ぎこちなく浮かべられたその笑みは、どこか不自然だった。 紗月には分かった。彼なりに親しみやすく接しようとして笑ってくれたのだと。けれど慣れていないせいか、表情はどこかぎこちなく、少しだけ引きつって見えた。「……ありがとうございます。書き間違えていないといいんですが」 紗月が小さく礼を言うと、篤司は資料を閉じながら静かに答えた。「間違っていても構いません。どうせ最後にもう一度確認しますから」 そう言って一拍置くと、何かを思い出したようにふと尋ねる。「……朝倉さん、今日はどうやって帰るんですか」「えっ?」「必要なら送ります。会社の車がありますから」おそらく現場用の車のことだろう。紗月は一瞬きょとんと目を瞬かせたあと、慌てて両手を振った。「い、いえ! そこまでしていただくのは申し訳ないです」「大したことじゃありません」 篤司はいつもと変わらない淡々とした口調で続ける。「あとで必要になったら、遠慮なく声をかけてください」 それ以上は勧めなかった。 無理に気を遣わせることも、断られた相手との距離を縮めようとすることもない。ただ必要だと思ったから声をかけ、それで終わり――そんな一線の引き方が、いかにも篤司らしかった。「こっちも片付きましたので」 それだけを告げると、篤司は振り返ることなく解体チームの輪へ戻っていく。 戻った途端、仲間たちが何か面白そうに声を掛けていた。 距離があったため、紗月には何を話しているのかまでは聞き取れなかった。 それでも、篤司は最後までいつも通りの無表情で、短く受け答えをするだけだった。からかわれても表情ひとつ変えず、淡々と受け流すその落ち着きぶりは、やはり彼らしかった。 * 立ち上がった瞬間、それまで意識の隅へ追いやっていた足首の痛みが、鋭く存在を主張する。 腫れ上がった右足をかばいながら、紗月は左足へ体重を預け、一歩ずつ引きずるように撮影現場へ戻っていった。 今日の仕事が終わったことを、美咲へ報告するためだ。 しかし、美咲の姿はどこにも見当たらない。 代わりに、ちょうど一つのシーンを撮り終えた由衣が、その場に立っていた。 足を引きずりながら近づいてくる紗月の姿を認めると、由衣は口元をほんのわずかに歪めた。 その笑みは一瞬で消えたものの、目だけはじ
Last Updated: 2026-07-02
Chapter: 第123話
 彼がそこまで率直に尋ねてくるとは思ってもみなかった紗月は、呆然と篤司を見つめた。 唇を開きかけるものの、結局何も言葉にすることができない。 当の篤司はまるで気にした様子もなく、本当に何気なく事実を確かめただけ、とでも言うような淡々とした表情を崩さなかった。 それ以上問い詰められることもなく、紗月は胸の奥でそっと安堵の息をつく。「今日はもう動かないほうがいいでしょう。足首も捻っていますし、かなり腫れています。一度病院で診てもらったほうがいい」 篤司は終始抑揚のない声音でそう告げた。 何事にも動じないような淡々とした雰囲気はどこか近寄りがたく、紗月は少しだけ怖さを覚える。 それでも、そのさりげない気遣いが胸に沁みて、ありがたくてたまらなかった。「ありがとうございます……篤司さん?」 篤司はちらりと紗月を見ただけで、呼び方については何も言わなかった。 ただ小さく頷くと、それ以上言葉を交わすこともなく、そのまま解体チームの作業へ戻っていった。 足が思うように動かせないままでも、紗月は何度か立ち上がって手伝おうとした。 しかし、そのたびにチームの誰かが気づき、慌てて制止する。「大丈夫ですよ、朝倉さん。うちは作業も早いですし、無理に手伝っていただかなくても平気ですから」 そう優しく声を掛けられても、何もせずに見ているだけでは、紗月はどうしても落ち着かなかった。 自分だけ何もせず座っているように思われるのが嫌だった。それでも椅子に座らされたままでは、本当に何もすることがない。 そんなふうに所在なくしていた、その時だった。「朝倉さん。視力はいいですか」 不意に篤司が隣へやって来て、相変わらず無表情のままそう尋ねた。「えっ? 視力……ですか? あ、はい……目はいいほうです」 篤司は小さく一つ頷いた。 何を考えているのか読み取れないまま、彼は近くの机へ向かい、一冊の記録表と一本のボールペンを持って戻ってくる。「篤司さん……?」「これは記録表です。確認した資材や備品を記録しておく人が必要なので、この一覧にある品目ごとに数量を書いてもらえれば十分です」 そう言いながら、午前中に取り外され、整然と並べられた木材や資材を指さした。「多少誤差があっても問題ありません。会社へ運び戻す時に、もう一度正式に数量を確認しますから」 特別な技術も知識
Last Updated: 2026-07-02
Chapter: 第122話
 すべては一瞬の出来事だった。 幸いだったのは、紗月が立っていた場所が足場の縁ではなかったことだ。 とっさに身体をひねったことで、そのまま床へ倒れ込み、間一髪で足場の外へ投げ出されるのは免れた。 しかし、その代償は大きかった。 足首に鈍い痛みが走る。 まだ治りきっていなかった場所を、再び捻ってしまったのだろう。今度は前回とは比べものにならないほど痛みが強かった。激しい痛みに息が詰まりそうになる。 紗月はその場に身体を丸めるように倒れ込んだ。 それでも、両腕だけは無意識にお腹を守るよう抱き締めたまま、決して離そうとはしない。 あと少し。 あとほんの少し位置がずれていたら、そのまま足場から真っ逆さまに落ちていた。 痛みがあまりにも激しく、息をすることさえ苦しい。 額には汗が滲み、全身は強張ったまま一歩も動けなかった。 視界まで歪み、ぐらぐらと揺れている。 それでも、その視界の端には由衣の足元が映っていた。 彼女は安全な場所に立ったまま、一歩も動こうとしない。 ただ静かに、紗月が苦しむ姿を見下ろしていた。 やがて痛みがわずかに和らぎ、紗月はゆっくりと顔を上げる。 その視線の先で、由衣は口元をゆっくりと吊り上げ、不気味な笑みを浮かべていた。 その瞳には、凍りつくような冷たい悪意が宿っていた。 紗月と目が合っても、由衣は視線を逸らそうとはしなかった。 その身には、狂気と冷静さが同居したような、ぞっとする空気が漂っている。 紗月の心は、一気に底へ沈んでいった。 由衣が、はっきりとそう口にしたからだ。「やっぱり、本当に妊娠してたんだ」 その口調には、一片の迷いもなかった。 つまり、たった今の行動は、紗月が本当に妊娠しているのかを確かめるためだけのものだったのだ。* 昼休みが終わると、由衣は何事もなかったかのように撮影現場へ戻っていった。 だが、彼女が去った後も、あの低く不気味な笑い声だけはいつまでも紗月の耳にこびりついて離れない。 全身から血の気が引き、震えはいつまで経っても止まらなかった。 ――もう、ここにはいられない。 紗月は本能的に、お腹の中の子だけは守らなければならないと思った。 そう思った瞬間、紗月ははっと息をのんだ。 妊娠を知ってからというもの、胸の中はずっと複雑な思いでいっぱいだった。どこか現実味
Last Updated: 2026-06-26
Chapter: 第121話
 休みが終わり、再び撮影現場へ出勤すると、紗月は由衣の周囲の空気がどこかおかしいことに気づいた。 これまでも由衣の機嫌がいいことはなかった。 だが今日は、紗月が現場に来た時から、由衣が何とも言えない視線でじっと彼女を観察していた。 その視線に、紗月はなんとなく背筋が寒くなる。 幸い、今日は由衣の撮影スケジュールがかなり詰まっていた。 ほとんどの時間をスタジオでの撮影に費やしており、紗月と顔を合わせる機会もあまりない。 それに、紗月は少しだけ安堵する。  今日は美咲から、セットの解体作業を手伝うよう指示されていたからだった。 本来であれば、この作業は専門の大道具会社の担当であり、解体スタッフの配置もすでに決まっていた。 そのため、紗月が来たところでかえって邪魔になるだけで、スタッフたちも困ったような顔をしていた。 結局、運搬などの簡単な作業だけを任されることになった。 それでも、美咲や由衣の傍にいるよりは、こちらの方がずっと居心地がよかった。 解体チームの雰囲気はとても良い。 四人しかいないからか、全員仲が良く、仕事中も笑い声が絶えない。 紗月が一人で黙々と作業をしていると、退屈しているのではないかと気を遣い、わざわざ会話に巻き込んでくれることもあった。 こんな職場の空気は、紗月にとってほとんど初めてのものだった。 朝倉サポートソリューションズでの日々は、毎日が息苦しく、張り詰めた空気の中で過ごすばかり。 由衣の傍も同じだった。 だからこそ、解体スタッフたちの楽しそうな会話を聞きながら、紗月も時折つられるように微笑み、小さな笑い声を漏らしていた。* 昼休み。 紗月は近くの椅子に腰を下ろし、ぼんやりと時間が過ぎるのを待っていた。 何気なく顔を上げた時、別の方向から由衣がこちらへ歩いてくるのが見えた。 迷いのない足取り。 その視線もずっと紗月へ向けられている。 明らかに、自分を目当てにしているのだと分かった。 紗月の前まで来ると、由衣はゆっくり顔を上げ、目の前にある解体途中の背景セットへ視線を向けた。 それは数日前の撮影で使われていたセットだった。 二階建てほどの高さがある、マンションのバルコニーを模したセット。 高層階のベランダを演出するために作られたものだ。 今は、もともと取り付けられていた透かし彫りの装
Last Updated: 2026-06-24
Chapter: 第120話
 不安な数日を過ごした後、紗月は休みの日に病院を訪れ、改めて検査を受けた。 そして結果を告げられた瞬間、彼女は全身から力が抜け、そのまま診察室の椅子へ崩れ落ちる。 そんな紗月の反応を見て、医師もすぐには言葉を続けなかった。 少し間を置き、言葉を選ぶようにしてから、穏やかな声で口を開いた。「現在は妊娠四週前後ですね。二週間後にもう一度来院していただいて、胎嚢の位置を確認しましょう。その後、今後の検査予定なども一緒に決めていきますが……朝倉さん、それでよろしいですか?」 紗月の思考は止まったままで、視線もずっと宙の一点を見つめたまま動かなかった。 医師の言葉は耳に入っていた。けれど、それを理解するまでには少し時間が必要だった。 しばらくしてからようやく、何を告げられたのかをゆっくり理解し始める。「あ……はい……」「では、今日のうちに次回の予約もできますが……」 医師は手元の予定表を確認しながら日付を口にした。 それでも紗月の反応が遅いからといって急かすことはなく、ただ辛抱強く返事を待ってくれる。 こうして突然妊娠を告げられ、頭が真っ白になってしまう患者は珍しくないのだろう。 医師の落ち着いた態度からは、そんな慣れた優しさが感じられた。 彼女は意識してゆっくりとした口調で話し、紗月から再び返事を聞くと、安心させるように穏やかな声で続けた。「朝倉さん、まだ赤ちゃんは小さいですから、どんな決断も遅くはありません。もし迷いや不安があるようでしたら、ご相談をお受けする専門の窓口もございますので、ご希望でしたら予約をお取りできます。また、必要であれば産科への紹介状をお作りすることもできますよ」「あ……」 一瞬、紗月の心が揺れた。 ぼんやりと医師を見つめた後、気づけば無意識のうちに小腹へ手を添え、少し迷うように首を横に振った。「いえ……大丈夫です。二週間後にまた来ます」 医師は頷き、ゆっくり立ち上がる紗月を見ながら、最後に一言付け加えた。「朝倉さん、できれば診察にはご主人も一緒に来られるといいですね。妊娠中の注意点は、ご家族にも知っておいていただいた方がいいですから」「……はい」 婦人科を出ると、外は気持ちがいいほどの晴天だった。 人で賑わう街の中に立ちながら、紗月は自分がどこへ向かえばいいのか分からなくなっていた。 足が重い。 
Last Updated: 2026-06-23
Chapter: 第119話
 飯野は普段から口が軽く、思ったことをそのまま口にするタイプだった。今の言葉も、ただ下品な冗談のつもりで口にしただけだ。 まさか紗月が一瞬で顔色を変えるとは思っていなかった。 目を大きく見開き、何かに怯えるような表情を浮かべる。 その反応はあまりにも異様で、飯野も思わず呆気に取られた。 さらに冗談を続けようとしていた口も止まる。「まさか……当たったの? 本当に妊娠してるとか? ちょっと待ってよ、怖いんだけど! 俺、妊婦とどうこうする趣味はないからね」「あ……違います……違う、そんな……」 紗月は慌てて否定しようとする。 あまりにも動揺していて、飯野の言葉がどれほど失礼かを考える余裕すらなかった。 ただ、胸の奥には奇妙な恐怖がじわじわと広がっていく。 ――もし、本当に当たっていたら。 こんなひどい生活の中で、もし本当に慎一との子供ができていたら……。 そう考えただけで、紗月の顔からさっと血の気が引いた。 あれほど自分を嫌っている慎一が、その子を歓迎してくれるはずがない。 気づけば、紗月の手は無意識のうちにお腹へ伸びていた。 まだ何の実感もない。 けれど、ここ数日は確かに疲れやすく、食欲もなかった。 ずっと仕事の疲れだと思っていた。 しかし今、この止まらない吐き気が、紗月に別の可能性を疑わせる。 そう考えた瞬間、顔色はみるみる失われ、頭の中は真っ白になった。 そんな紗月に、飯野が再び手を伸ばそうとしたことで、彼女はようやく我に返る。「すみません……」 小さくそう言い残すと、紗月は逃げるようにその場を後にした。 バッグを取りに戻る余裕すらなかった。 紗月はスマートフォンで検索し、一番近いドラッグストアへ向かうと、そのまま妊娠検査薬を購入した。 こういうものを買うのは初めてだった。 結婚してから夫婦生活はあったが、慎一は毎回きちんと避妊をしていて、その可能性を徹底的に排除していた。 ただ、最近の数回だけは確かに……。 検査薬の箱を握りしめながら、紗月はこれまでのことを思い返していた。 慎一でさえ余裕を失うほど激しかった時もあり、何度かは完全に避妊できていなかったこともあったのかもしれない。 その頃の紗月は、意識を失うほど疲れ切っていて、目を覚ました時にはいつも慎一がすべてを片付け終えていた。 だからこそ、これま
Last Updated: 2026-06-21
二度目の人生、捨てたはずの彼が今さら愛を乞う

二度目の人生、捨てたはずの彼が今さら愛を乞う

結婚して三年。 紗那はようやく、夫・裕司がずっと“理想の夫”を演じていただけだったと知る。 彼が本当に愛していたのは、紗那ではなく妹の千織だった。 すべてを奪われ、最後は二人に仕組まれた事故で命を落とした――はずが、次に目を覚ますと結婚式当日に戻っていた。 二度目の人生で彼女が決めたことはただ一つ。 裕司と千織、そして自分を地獄へ突き落としたすべてを捨てること。 だが離れようとするほど、裕司は以前とは違う執着を見せ始める。 外面完璧な夫。 誰も信じてくれない真実。 それでも紗那は、もう二度と彼に人生を奪わせない。
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Chapter: 第5話
 痛みに顔を歪め、必死に裕司の手から逃れようとする紗那の姿も、両親の目には、子どもを失ったことによる取り乱し方にしか映っていなかった。 泣くことも、叫ぶこともできる。 なのに、自分が受けた仕打ちだけは、どうしても言葉にならない。 大きな事故や強い精神的衝撃を受けた人間が、一時的に言葉を失うことがある――そんな話を、紗那はどこかで聞いたことがあった。 けれど、自分がまさにその状態なのだとは理解できない。 伝えたいのに伝わらない。 焦れば焦るほど、紗那は錯乱した狂人のように見えていった。 裕司が沈痛な顔を作る。「紗那、大丈夫だ。落ち着け。子どものことは……君のせいじゃない。俺たち、きっとまた子どもを授かれる。だから、まずはちゃんと元気になろう」「ぁああああっ……!! ああっ……!」 涙を流しながら、紗那は腕を振り回して裕司を叩こうとした。 だが、弱り切った体ではほとんど力が入らない。指先がかすかに触れる程度だった。 裕司は傷ついたように目を伏せ、そのまま背を向ける。 正則から見えない位置で、彼の口元がわずかに吊り上がった。 同時に、紗那の手を握る力がさらに強くなる。 針の刺さった箇所を押し潰すように圧迫され、滲んだ血がじわりと広がっていく。その赤さは、裕司の掌の中へ巧妙に隠されていた。 紗那は声にならない。 だから叫ぶしかない。 怒りも、苦しみも、絶望も。 すべてを、獣のような悲鳴に変えるしかなかった。 何より耐え難かったのは、子どもを殺した張本人――その父親である裕司が、平然と父の前に立ち、“子どもを失った可哀想な夫”を演じていることだった。 正則でさえ、裕司へ向ける目には歉意と同情を滲ませている。 やがて千代子が看護師を連れて戻ってきた。 紗那の絶叫と取り乱した様子を見た看護師は顔色を変え、すぐに病室を出て医師を呼びに行く。 ほどなくして白衣の医師が二人の看護師を伴って現れた。 医師は紗那の状態を確認すると、看護師に片腕を押さえさせ、そのまま素早く上腕へ鎮静剤を打ち込む。 薬液が体内へ流れ込んでいく。 しばらくすると、全身が深い水の底へ沈んでいくようだった。 手足が重い。 持ち上がらない。 頭の中には濃い霧がかかったように意識がぼやけ、ベッドに横たわっているだけなのに激しい眩暈がした。 世界がぐるぐると
Last Updated: 2026-05-14
Chapter: 第4話
 痛みがあまりにも激しく、紗那は何が起きたのか理解する前に、意識が突然電源を落とされたテレビのようにぷつりと途切れた。 次に目を覚ましたとき、そこは病院だった。 全身が殴られた後のように重く、少しも動かせない。 右手は固定され、点滴の針が刺さっている。透明な薬液が一滴、また一滴と規則正しく落ちて、彼女の体内へ流れ込んでいた。 紗那は真っ先に、自分の腹へ手を伸ばした。 言葉にできない痛み。 空虚。 絶望。 すべてが一瞬で押し寄せてくる。確かめなくても、体の中で何が変わってしまったのか、紗那にははっきりとわかった。 口を大きく開けた。 泣きたいのに、なぜか声が出ない。 結局、彼女はただ真っ白な病院の天井を見つめたまま、涙だけをぼろぼろとこぼし続けた。涙はこめかみを伝い、髪の中へ、枕へと落ちていく。 一生分の涙を、ここで流し尽くしてしまうかのようだった。 それでも涙は、少しも枯れなかった。 どれほど時間が経ったのか。 病室の外から物音がした。涙に濡れた視界の中で、紗那は両親が慌ただしく入ってくるのを見た。 知らせを受けてすぐ駆けつけたのだろう。涙を流す紗那と目が合った瞬間、母の|千代子《ちよこ》の目にも悲しみが移ったように涙が浮かび、彼女はベッドのそばへ駆け寄るなり、点滴の刺さっていないほうの手を握った。「ああ……かわいそうな子……。裕司さんから聞いたわ。階段から落ちたんですって? どうしてそんなに不注意だったの……」 千代子は涙ぐみながら、紗那の手を痛いほど強く握りしめた。「かわいそうに……赤ちゃんまで……。裕司さんも、子どもは駄目だったって……あなたが思い詰めないよう、ちゃんと支えてあげてほしいって言っていたのよ」 千代子は、昔から裕司の言葉ばかりを信じていた。 裕司が、紗那は自分で階段から落ちたのだと言えば、疑いもしない。 紗那を見る目には深い痛ましさがあった。けれど同時に、どうしてそんなに不注意だったのかという責める色も混じっていた。「まだ小さな命だったのにね……私たちは、その子がいたことさえ知らないまま、お別れすることになってしまったなんて……」 紗那が流産した子どものことを、千代子はひどく惜しんでいた。 紗那が結婚して三年になる。千代子はずっと、娘が母親になる日を待ち続けていた。 ようやく授かった最初の子が
Last Updated: 2026-05-11
Chapter: 第3話
 妊娠がわかったのは、ほんの数日前のことだった。 ここ最近ずっと体調に違和感があった。生理もなかなか来ず、もしかして……と、うっすら予感はしていた。 そして検査薬を使った結果、本当に妊娠していると知った。 あの瞬間、紗那は心から嬉しかった。 結婚後も、裕司は彼女に仕事を辞めろと言ったことはない。自由を制限したこともなかった。 結婚式の日、彼は紗那にこう誓ったのだ。 ――結婚しても、君の人生を縛ったりはしない。 紗那には、紗那自身の人生と自由がある。 その言葉に、紗那は感動して泣いた。 裕司は、紗那が仕事を好きなことも、キャリアを手放すつもりがないことも理解していたのだと思う。 だから三年間、夫婦として身体を重ねることは少なくなかったが、彼は徹底して避妊をしていた。 避妊薬は身体に負担がかかるからと、紗那には飲ませなかった。いつも自分で避妊具を使い、万が一を避けるよう慎重にしていた。 それでも紗那は、もし子どもができたとしても構わないと思っていた。 愛する人との子どもなら、産みたいと願っていた。 妊娠を知ってから、紗那は一人で何度もお腹に触れた。 嬉しくて、幸せでたまらなかった。 すぐには裕司へ伝えなかったのは、もっと特別なタイミングで驚かせたかったからだ。 まさかその前に、こんな地獄を見せられるとは思わなかった。「子ども……っ、う……痛……っ……」 床の上で苦しそうに身を縮める紗那を見ても、裕司はまるで動じなかった。 同情も、憐れみも、欠片すら浮かばない。 まるで彼女が、三年間連れ添った妻ではなく、赤の他人であるかのように。「子ども?……何を馬鹿なこと言ってる」 下半身から血を流している紗那を見ても、男は眉ひとつ動かさない。 千織が不安そうに裕司の袖を引いた。「裕司……紗那お姉さん、すごく血が……もしかして……」「見るな。目が汚れる」 吐き捨てるように言ってから、裕司は冷たく嗤った。「……それに、仮にこの女が妊娠してたとしても、俺の子なわけがないだろ。俺の子を産みたい? こいつが? 笑わせるな。身の程を知れ」 紗那の呼吸が止まる。 あまりにも非情な言葉だった。 全身の血が凍りつくような感覚に襲われ、紗那は目を見開いたまま動けなくなる。 目の前にいるのは、本当に自分の夫なのか。 それとも、人の皮を被っ
Last Updated: 2026-05-10
Chapter: 第2話
 紗那が裕司を愛していた分だけ、今の彼女は壊れそうなほど泣いていた。 結婚してからの三年間、裕司は一度たりとも、彼女をこんな絶望に突き落としたことはなかった。 彼の演技が上手すぎたと言うべきなのだろうか。この三年間、紗那は彼を愛し、そして心の底から、裕司もまた自分を愛しているのだと信じていた。 たとえ裕司が口数の少ない人でも。 あまり笑わない人でも。 それでも、自分を見る彼の眼差しには確かに愛情が宿っていた。 今朝だってそうだ。 出勤前、まだ寝ぼけていた紗那に、裕司はベッドの上で軽くキスをしてくれた。あの口づけはあまりにも優しくて、今でもはっきり思い出せる。 なのに、どうして。 ほんの数時間で、こんなことになってしまったのだろう。 どうして裕司は、まるで別人のようになってしまったのだろう。 紗那にはわからなかった。「裕司……!どうして……どうして他の女と……!しかも、妹同然の女と……!あなた、自分の妹と寝てるの!?気持ち悪くないの!?」 涙で声を震わせながらも、紗那は必死に問い詰める。 その取り乱した叫びに、裕司は不快そうに眉を寄せた。 顔色は険しく、向けられた声音は、紗那がこれまで一度も聞いたことのないほど冷たい。「紗那。言葉には気をつけろ」「裕司……紗那お姉さん、そんなふうに私たちのこと言うなんて……ひどい……」 千織もまた、絶妙なタイミングで裕司へ甘えるように身を寄せる。 その声を聞いた瞬間、紗那は吐き気を覚えた。 以前の彼女は、千織を本当に妹のように思っていた。可愛くて、才能もあって、どこか放っておけない子だと。 まさかその女が、自分の夫にまで手を伸ばしていたなんて。「最低……っ、この女……!」 煮えたぎる憎悪のまま、紗那は千織へ向かって駆け出した。 だが、その手が千織に届くことはなかった。「きゃっ……!」 千織の悲鳴が響いた直後、腹部に強烈な衝撃が叩き込まれる。 次の瞬間、紗那の身体は軽々と吹き飛ばされ、そのまま床へ激しく叩きつけられた。 下腹部から全身へ、焼けるような激痛が駆け巡る。 声も出せないまま、紗那は呆然と目の前の男を見上げた。 ――今、自分を蹴ったのは裕司だった。 愛する女を庇うために。 その腕の中の女を守るために。 彼は、自分の妻へ向かって一切の躊躇なく蹴りを入れたのだ。 
Last Updated: 2026-05-10
Chapter: 第1話
 三年前、|紗那《さな》は最も愛する人と結婚した。 表向きは家同士の政略結婚。 少なくとも彼女自身は、それが愛による結婚だと信じていた。家の利益のためではなく、自分は愛されているのだと。 |白府裕司《しらふゆうじ》。 彼は結婚式で、彼女に永遠の幸福を約束した。 生涯を共にすると誓った。 あのときの誓いの言葉は、あまりにも誠実で、愛に満ちていた。だからこそ三年後、裕司が別の女性とホテルにいると知った今でも、紗那はあの日彼が口にした一言一句を思い出してしまう。 ホテルの柔らかな絨毯の上を歩きながら、紗那の心もまた足元と同じようにふわふわと沈み、どこにも着地できずにいた。 裕司が浮気をしている兆しは、今日に限ったことではない。それでも、こうして現実として突きつけられたのは、今日が初めてだった。 見知らぬ相手から送られてきた写真――裕司のベッドでの姿を目にした、その瞬間から。 写真の中で、裕司は優しく微笑んでいた。まるで春風のような穏やかな笑み。それが、紗那には吐き気を催すほどに嫌悪感を抱かせた。 これまでずっと、紗那は裕司のことを、無口で感情を表に出さない、どこか冷たい人間だと思っていた。 結婚式でもあまり笑わず、ただ誓いの言葉を読むときだけ、目元を潤ませ、声をわずかに震わせていた。 あのとき、彼も感動しているのだと、紗那は信じていた。 だが今になって思う。 あの誓いは、本当に自分に向けられたものだったのだろうか。 紗那の中で、その確信が崩れていく。「あなたの夫、本当にあなたのことを想っていたと思う?」 今朝、突然そんなメールが届いた。 画像が表示された瞬間、紗那は眠りから叩き起こされたかのように目を見開いた。 写真は何枚もあった。場所も服装も違う。つまり、異なる時期に撮られたものだ。 ただ一つ共通しているのは、そこに映っている女性が常に同じ人物であること。 そして、裕司が彼女に向ける視線も、笑みも、紗那が一度も向けられたことのないものだった。 その女性の顔に、紗那は見覚えがあった。 |白府千織《しらふちおり》――裕司の名目上の妹。白府家の養女であり、血の繋がりはない。 祖父の旧友が亡くなり、その遺された子どもを不憫に思って引き取った――そんな話を聞いたことがある。 千織が白府家に来たのはすでに小学生の頃だったため、養
Last Updated: 2026-05-03
一夜の再会から始まる、雇われない恋

一夜の再会から始まる、雇われない恋

居場所を失った藤野陽菜は、住み込みの家政婦として、ある屋敷で働くことになる。 雇い主は若くして事業を成功させた実業家・鷹宮凌。穏やかで礼儀正しい彼との距離は、最初こそよそよそしかったが、共に暮らすうちに少しずつ心が通い始める。 けれど、陽菜は気づいてしまった。 彼の視線の奥に、もういない「誰か」の影があることを。
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Chapter: 第158話
 会場が割れんばかりの拍手に包まれ、ようやく陽菜は我に返った。 気づけば、さっきからずっと一条だけを見つめていて、一度も目を逸らしていなかった。 慌てて周囲に合わせるように拍手を送り、視線を逸らそうとしたその瞬間、一条と目が合った。 かなり離れた場所にいるはずなのに、一条は真っ直ぐ陽菜を見つけ出し、視線が重なった瞬間、嬉しそうにふっと笑った。 陽菜は思わず息を呑み、慌てて俯く。 おそるおそるもう一度顔を上げると、一条はまだこちらを見ていた。 遠く離れているはずなのに、その瞳はまるで光を宿しているようにきらきらと輝いて見える。 発表会は最後まで滞りなく進み、ライブ配信の反応も上々だった。 画面越しのコメントも好意的なものばかりで、データを集計しているスタッフも終始笑顔を浮かべている。 終了が近づいた頃、陽菜は会場の端で最後の確認をしていた。 ふいに背後へ人の気配を感じる。 振り返るより先に、一条が隣へ並んだ。 先ほどまで取引先の関係者と話していたはずなのに、陽菜を見つけると、さりげなくこちらへ歩いてきたらしい。 周囲にはまだ大勢の人がいたため、一条もあからさまな素振りは見せなかった。 ただ、陽菜の横を通り過ぎる瞬間、そっと彼女の手のひらへ何かを握らせる。 陽菜は驚いて顔を上げた。 すると一条は、そのまま歩き続けながら、こちらを振り返ってにっと笑う。 陽菜は一条の姿が遠ざかってから、そっと手のひらを開いた。 そこには、金色の包み紙に包まれた有名メーカーのチョコレートが一粒。 まだ口にしてもいないのに、そのチョコレートを握りしめただけで、胸の奥がほんのり甘く満たされていくような気がした。  その夜は、新ブランドの成功を祝う祝賀パーティーが予定されていた。 パーティーが始まる前、一条はどこか嬉しそうに陽菜をVIP用の更衣室へ案内する。 そこには、一条があらかじめ用意していた一着のドレスが掛けられていた。 祝賀パーティーとはいえ、商談や交流も兼ねた席だ。 業界関係者や名家の人々も数多く招かれているため、普段着で参加するわけにはいかない。「俺からのプレゼント。……気に入ってくれるといいんだけど」 ドレスを見せ終えたあと、一条は照れ隠しのように小さく咳払いをする。 派手すぎないデザインで、どこか陽菜らしい雰囲気があり、好み
Last Updated: 2026-06-30
Chapter: 第157話
 一条は、本当はこれらの言葉を発表会で伝えるつもりだった。 香水を陽菜に手渡した瞬間、どうしても堪えきれなくなって、思わず先に口を滑らせてしまった。 言い終えてから我に返ったのか、一条は「ああ……」と小さく声を漏らし、額をハンドルへ預ける。「本当は……明日、ちゃんと告白するつもりだったのに……」 陽菜の頬もほんのりと赤く染まる。 さっきまでただの香水だったその一本が、その意味を知った途端、急にずっしりと重みを持ったように感じられた。 こんな言葉を誰かに向けられたことなんて、一度もない。 昔から自分は存在感の薄い人間だと思っていたし、高校時代も人付き合いが少なく、誰かに告白されるようなこともなかった。 これから先も、きっと鷹宮だけを想い続ける人生なのだと、ずっと思っていた。 だから、自分にとって、鷹宮さん以外の誰かがこんなにも大きな意味を持つようになるなんて、考えたこともなかった。 けれど今は、一条という存在も、一条がくれた言葉も、そのすべてが陽菜の胸を激しく高鳴らせていた。 ――これは、好きという気持ちなのだろうか。 胸が苦しいほど高鳴っている。 その高鳴りは、鷹宮を見つめていた頃とはどこか違っていた。あの時のような、胸を締めつけられる苦しさはない。 だからこそ、自分でも答えが分からず、陽菜は戸惑ってしまう。 一条もまた、陽菜の口から断りの言葉が返ってくることを怖がっていた。一つ深く息を吸うと、陽菜が口を開くより先に慌てて言葉を重ねる。「藤野、今は返事しなくていい。……お願いだから、まだ答えないで」 少しだけ拗ねたような、甘えるような声だった。 その響きに、陽菜の胸はまた小さく痛む。「一条君……私なんかに、そんなふうに言ってもらえるなんて……もったいないです」「何言ってるんだよ。俺は……俺は藤野が素敵な人だって思ってる。それだけで十分なんだから」 本当なら、もっと甘い言葉を伝えて、少しでも陽菜に振り向いてほしかった。 けれど、あまり言い過ぎれば逆効果になってしまう気もして、なかなか言葉が続かない。 こんなにもあれこれ悩む自分は、自分らしくないと、一条自身も苦笑してしまう。「藤野、その……とにかく、あんまり負担に思わなくていいから。明日、また会おう。今日はゆっくり休んで、な?」 陽菜がそっと一条を見ると、耳まで真っ赤
Last Updated: 2026-06-29
Chapter: 第156話
 一条と立花は、その後の訴訟の進め方や今後のスケジュールについて話し合っていた。 最初のうちは陽菜も真剣に耳を傾けていたものの、やがて話題は一条の会社のことへ移り、自分には関係のない内容ばかりになる。 このまま聞いていていいものか分からなくなり、陽菜はいつの間にか思考を漂わせていた。 ふと我に返ると、一条がこちらを見ていた。「藤野、来月の新商品発表会、一緒に来てくれないか。俺の隣にいてほしいんだ」「私ですか?」 工場の件も無事に決着し、一条は入院中もリモートで新ブランドの準備を進めていた。 発表会の日程はすでに決まっていて変更はできない。 そのため、一条にはゆっくり静養している時間もなく、限られた期間の中で準備を整えなければならなかった。「発表会の後に祝賀パーティーがあるんだ。その時も一緒にいてほしい。それに……」 そこまで言いかけたところで、一条はふっと言葉を飲み込む。 何かを隠しているように、意味ありげな笑みを浮かべるだけだった。 今回の新ブランドには、陽菜も入社してからずっと関わってきた。一条にそう言われ、断る理由は何もない。「はい、一条君」  発表会までは、あと一か月。 準備期間としては決して余裕があるとは言えなかった。一条も発表会に間に合わせるため予定より早く退院した。 怪我はまだ完治していなかったが、順調には回復していて、もともとの身体の丈夫さもあってか、服を着てしまえば身体中に残る傷跡もほとんど分からないほどになっていた。 会社へ復帰した日も、一条は普段と変わらない様子だった。 社内で事故のことを知っている社員は実はそれほど多くない。 会社が動揺することを避けるため、一条自身が「海外出張へ調査に行っている」と説明していたからだ。 新商品の発表会は、全体を通して順調に準備が進んでいた。 工場の問題が解決してからは、すべてが予定通りに進み、開催が近づく頃には、会場設営も当日の機材チェックも進行確認も滞りなく終わっていた。 一条もようやく胸を撫で下ろす。 そして、発表会前日の夜――。 一条は陽菜を家まで送る車の中で、一本の香水を取り出した。 明日の発表会で披露される、新ブランドの目玉商品だった。「実はこのボトル、何度もデザインを作り直したんだ。どれもしっくりこなくてさ……今のデザインが浮かんだのは、藤野
Last Updated: 2026-06-29
Chapter: 第155話
 二週間ほど入院生活を送った頃には、一条もようやく何とかベッドから降りて歩けるようになっていた。 もっとも、今回は腕と脚の骨折が重かったため、長時間歩くことはまだできない。少し歩いただけでも、耐え難い痛みが襲ってくる。 それでも一条は、陽菜を誘って病院の中庭へ日向ぼっこに行こうとせがんだ。 二人は庭園のベンチに並んで腰を下ろす。 柔らかな陽射しが全身を優しく包み込み、隣に座る一条からは、ほのかに消毒薬の匂いが漂ってきた。 陽の光を浴びて、少し茶色がかった髪がきらきらと輝いている。 それを見つめながら、陽菜はそっと手を伸ばし、一条の前髪に触れた。「一条君、髪、少し伸びましたね。目にかかって邪魔じゃないですか?」一条はわざと陽菜の方へ頭を傾けた。その拍子に、陽菜の手は自然と一条の頭へ触れる。 まるで、自分から撫でてもらいにきたようだった。 陽菜は少し驚き、慌てて手を引こうとした。 けれど、一条はその手をそっと掴み、自分の髪の上へ戻してしまう。「このままでいい」 照れる様子もなく俯いて笑う一条を見て、陽菜も自然とその髪を優しく撫でた。 指先に伝わる髪は、とても柔らかい。 しばらくしてようやく、一条は名残惜しそうに陽菜の手を離した。 顔の痣もだいぶ薄くなり、表情も以前よりずっと明るい。 そんな一条が嬉しそうに笑っている姿を見るだけで、陽菜まで嬉しくなってしまう。 傷の具合が気になり、陽菜は一条の顔をじっと見つめていた。 傷がちゃんと治っているか確かめたかっただけなのに、あまりにも長く見つめすぎたのだろう。 一条の耳がみるみる赤く染まっていく。 照れ隠しをするように、小さく咳払いを一つした。「藤野……俺って、結構かっこいい方だよな?」「えっ?」 あまりに突然の質問に、陽菜はきょとんと目を瞬かせる。 その反応を見て、一条はますます恥ずかしくなったらしい。 これまで、自分の見た目をこんなふうに気にしたことはほとんどなかった。 昔から格好いいと言われることは多かったし、自分でも悪くない方だとは思っている。 けれど、陽菜にこんなにもじっと見つめられると、自分の顔は本当に陽菜の好みに合っているのだろうかと、急に自信がなくなってしまった。「その……俺って別に不細工じゃないよな? 藤野はどう思う? 俺のこと、かっこいいって思ったこ
Last Updated: 2026-06-28
Chapter: 第154話
 一条の母親の言葉はとても温かく、陽菜は思わず目頭が熱くなった。 母親を見つめる瞳には、感動と感謝の色が滲んでいる。「私……」「藤野さん、勘違いしないでくださいね。別に何かを急かしたいわけじゃないんです。修司はいい子なんですけど、これまでちゃんとした恋人ができたことがなくて……親としては少し心配で、つい余計なことまで話してしまいました」「一条君は……本当に素敵な方です」「そう思っていただけているなら、私はそれだけで十分です」 家に着くまでの間、一条の母親は修司が幼い頃の失敗談や微笑ましい思い出をいくつも聞かせてくれた。 車内には終始穏やかな空気が流れ、陽菜もいつの間にか緊張がほぐれ、気づけば最近の一条の様子を楽しそうに話していた。 もっとも、話題は仕事中の出来事ばかりだったが、一条の母親はそれでも嬉しそうに耳を傾けてくれる。 マンションへ着く頃には、今度一緒に買い物へ行きましょうとまで誘ってくれた。「藤野さんとは、きっと気が合うと思うんです。お時間がある時は、私にも付き合ってくださいね」「ありがとうございます、お母様」  家へ帰ると、入れ違うように一条から電話がかかってきた。 どこか声を潜めながらも、その口調には隠しきれない得意げな響きが混じっている。「藤野、もう家着いた?」「はい。今ちょうど帰ったところです」「当たった。ちゃんと時間計算して電話したんだ」 入院中の一条にはできることがほとんどない。 だから陽菜が帰る時間をずっと計算しながら待っていて、ちょうどその頃を見計らって電話をかけてきたのだった。「ふふ、本当にぴったりですね、一条君」「藤野、少し離れただけでも、もう会いたくなっちゃった。どうしよう」 以前の一条なら、こんなふうに真っ直ぐ気持ちを口にすることはなかった。 一度想いを伝えてくれたあとも、鷹宮の存在を気遣って、それ以上踏み込んでくることはなかったのに。 それがこの二日間は、まるで遠慮がなくなったかのように真っ直ぐ想いを伝えてくるものだから、陽菜はすっかり振り回されてしまった。 受話器を当てた耳まで熱くなり、声まで少し上ずってしまう。「い、一条君……急にどうしたんですか」「俺、本気で藤野を口説いてもいい? もう藤野と凌は……。事故に遭った時さ、真っ先に思ったんだ。もっと藤野と一緒にいたかったって。
Last Updated: 2026-06-26
Chapter: 第153話
 一条の言葉に陽菜は思わず目を丸くした。 次の瞬間には頬がみるみる赤く染まり、しどろもどろになってしまって、うまく言葉が出てこない。 しばらくしてようやく、小さな声で口を開いた。「お、お母様……初めまして」 それだけ言うのが精一杯だった。 もっとも、一条がわざわざそんな説明をしなくても、一条の母親はとても穏やかで優しそうな女性だった。「こんにちは。いつも修司がお世話になっています。この子、小さい頃から落ち着きがなくて、あまりしっかりした性格でもないんです。藤野さんにはご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、何か気になることがあったら、遠慮なく叱ってあげてくださいね」 その言葉に、一条はすぐさま不満そうな声を上げた。「母さん、俺そんなに頼りない? 藤野の前なんだから、少しくらい褒めてくれてもいいじゃん」「そのぐるぐる巻きの姿を見て、どこを褒めろっていうの? まるでちまきみたいじゃない」「母さん、俺こんな大怪我してるのに笑う?」 二人のやり取りを見ているだけで、普段からとても仲のいい親子なのだと伝わってくる。 その温かな空気につられて、陽菜も思わず吹き出してしまった。 陽菜が笑ったのを見ると、一条も嬉しそうに笑う。 そんな息子の様子を見て、一条の母親は呆れたように小さく首を振りながらも、優しく口元を緩めた。 面会時間が終わると、一条は名残惜しそうに陽菜へ別れを告げた。 その表情はまるで捨てられた子犬のようにしょんぼりとしていて、陽菜が「明日もまた来ます」と何度も約束してようやく諦めたように口を尖らせる。「……しょうがない。じゃあ、また明日」 病室を出て下へ降りる途中、まだ帰っていなかった一条の母親と鉢合わせた。 手には何枚かの書類を持っていて、おそらく医師から受け取ったものなのだろう。 陽菜に気づくと、一条の母親はにこやかに声をかけてきた。「藤野さん、お帰りですか? よかったら、お送りしましょうか」「いえ……そんな、ご迷惑になりますので」「気にしなくて大丈夫。それに、私も藤野さんともう少しお話ししたいなと思っていたんです」 そう言われてしまい、陽菜は断り切れず、一条の母親と一緒に病院の駐車場へ向かった。 歩きながら、頭の中には鷹宮の母親から向けられた冷たい言葉や、刃物のように鋭かった視線が何度も蘇る。 そのたび
Last Updated: 2026-06-26
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