LOGIN会場が割れんばかりの拍手に包まれ、ようやく陽菜は我に返った。 気づけば、さっきからずっと一条だけを見つめていて、一度も目を逸らしていなかった。 慌てて周囲に合わせるように拍手を送り、視線を逸らそうとしたその瞬間、一条と目が合った。 かなり離れた場所にいるはずなのに、一条は真っ直ぐ陽菜を見つけ出し、視線が重なった瞬間、嬉しそうにふっと笑った。 陽菜は思わず息を呑み、慌てて俯く。 おそるおそるもう一度顔を上げると、一条はまだこちらを見ていた。 遠く離れているはずなのに、その瞳はまるで光を宿しているようにきらきらと輝いて見える。 発表会は最後まで滞りなく進み、ライブ配信の反応も上々だった。 画面越しのコメントも好意的なものばかりで、データを集計しているスタッフも終始笑顔を浮かべている。 終了が近づいた頃、陽菜は会場の端で最後の確認をしていた。 ふいに背後へ人の気配を感じる。 振り返るより先に、一条が隣へ並んだ。 先ほどまで取引先の関係者と話していたはずなのに、陽菜を見つけると、さりげなくこちらへ歩いてきたらしい。 周囲にはまだ大勢の人がいたため、一条もあからさまな素振りは見せなかった。 ただ、陽菜の横を通り過ぎる瞬間、そっと彼女の手のひらへ何かを握らせる。 陽菜は驚いて顔を上げた。 すると一条は、そのまま歩き続けながら、こちらを振り返ってにっと笑う。 陽菜は一条の姿が遠ざかってから、そっと手のひらを開いた。 そこには、金色の包み紙に包まれた有名メーカーのチョコレートが一粒。 まだ口にしてもいないのに、そのチョコレートを握りしめただけで、胸の奥がほんのり甘く満たされていくような気がした。 その夜は、新ブランドの成功を祝う祝賀パーティーが予定されていた。 パーティーが始まる前、一条はどこか嬉しそうに陽菜をVIP用の更衣室へ案内する。 そこには、一条があらかじめ用意していた一着のドレスが掛けられていた。 祝賀パーティーとはいえ、商談や交流も兼ねた席だ。 業界関係者や名家の人々も数多く招かれているため、普段着で参加するわけにはいかない。「俺からのプレゼント。……気に入ってくれるといいんだけど」 ドレスを見せ終えたあと、一条は照れ隠しのように小さく咳払いをする。 派手すぎないデザインで、どこか陽菜らしい雰囲気があり、好み
一条は、本当はこれらの言葉を発表会で伝えるつもりだった。 香水を陽菜に手渡した瞬間、どうしても堪えきれなくなって、思わず先に口を滑らせてしまった。 言い終えてから我に返ったのか、一条は「ああ……」と小さく声を漏らし、額をハンドルへ預ける。「本当は……明日、ちゃんと告白するつもりだったのに……」 陽菜の頬もほんのりと赤く染まる。 さっきまでただの香水だったその一本が、その意味を知った途端、急にずっしりと重みを持ったように感じられた。 こんな言葉を誰かに向けられたことなんて、一度もない。 昔から自分は存在感の薄い人間だと思っていたし、高校時代も人付き合いが少なく、誰かに告白されるようなこともなかった。 これから先も、きっと鷹宮だけを想い続ける人生なのだと、ずっと思っていた。 だから、自分にとって、鷹宮さん以外の誰かがこんなにも大きな意味を持つようになるなんて、考えたこともなかった。 けれど今は、一条という存在も、一条がくれた言葉も、そのすべてが陽菜の胸を激しく高鳴らせていた。 ――これは、好きという気持ちなのだろうか。 胸が苦しいほど高鳴っている。 その高鳴りは、鷹宮を見つめていた頃とはどこか違っていた。あの時のような、胸を締めつけられる苦しさはない。 だからこそ、自分でも答えが分からず、陽菜は戸惑ってしまう。 一条もまた、陽菜の口から断りの言葉が返ってくることを怖がっていた。一つ深く息を吸うと、陽菜が口を開くより先に慌てて言葉を重ねる。「藤野、今は返事しなくていい。……お願いだから、まだ答えないで」 少しだけ拗ねたような、甘えるような声だった。 その響きに、陽菜の胸はまた小さく痛む。「一条君……私なんかに、そんなふうに言ってもらえるなんて……もったいないです」「何言ってるんだよ。俺は……俺は藤野が素敵な人だって思ってる。それだけで十分なんだから」 本当なら、もっと甘い言葉を伝えて、少しでも陽菜に振り向いてほしかった。 けれど、あまり言い過ぎれば逆効果になってしまう気もして、なかなか言葉が続かない。 こんなにもあれこれ悩む自分は、自分らしくないと、一条自身も苦笑してしまう。「藤野、その……とにかく、あんまり負担に思わなくていいから。明日、また会おう。今日はゆっくり休んで、な?」 陽菜がそっと一条を見ると、耳まで真っ赤
一条と立花は、その後の訴訟の進め方や今後のスケジュールについて話し合っていた。 最初のうちは陽菜も真剣に耳を傾けていたものの、やがて話題は一条の会社のことへ移り、自分には関係のない内容ばかりになる。 このまま聞いていていいものか分からなくなり、陽菜はいつの間にか思考を漂わせていた。 ふと我に返ると、一条がこちらを見ていた。「藤野、来月の新商品発表会、一緒に来てくれないか。俺の隣にいてほしいんだ」「私ですか?」 工場の件も無事に決着し、一条は入院中もリモートで新ブランドの準備を進めていた。 発表会の日程はすでに決まっていて変更はできない。 そのため、一条にはゆっくり静養している時間もなく、限られた期間の中で準備を整えなければならなかった。「発表会の後に祝賀パーティーがあるんだ。その時も一緒にいてほしい。それに……」 そこまで言いかけたところで、一条はふっと言葉を飲み込む。 何かを隠しているように、意味ありげな笑みを浮かべるだけだった。 今回の新ブランドには、陽菜も入社してからずっと関わってきた。一条にそう言われ、断る理由は何もない。「はい、一条君」 発表会までは、あと一か月。 準備期間としては決して余裕があるとは言えなかった。一条も発表会に間に合わせるため予定より早く退院した。 怪我はまだ完治していなかったが、順調には回復していて、もともとの身体の丈夫さもあってか、服を着てしまえば身体中に残る傷跡もほとんど分からないほどになっていた。 会社へ復帰した日も、一条は普段と変わらない様子だった。 社内で事故のことを知っている社員は実はそれほど多くない。 会社が動揺することを避けるため、一条自身が「海外出張へ調査に行っている」と説明していたからだ。 新商品の発表会は、全体を通して順調に準備が進んでいた。 工場の問題が解決してからは、すべてが予定通りに進み、開催が近づく頃には、会場設営も当日の機材チェックも進行確認も滞りなく終わっていた。 一条もようやく胸を撫で下ろす。 そして、発表会前日の夜――。 一条は陽菜を家まで送る車の中で、一本の香水を取り出した。 明日の発表会で披露される、新ブランドの目玉商品だった。「実はこのボトル、何度もデザインを作り直したんだ。どれもしっくりこなくてさ……今のデザインが浮かんだのは、藤野
二週間ほど入院生活を送った頃には、一条もようやく何とかベッドから降りて歩けるようになっていた。 もっとも、今回は腕と脚の骨折が重かったため、長時間歩くことはまだできない。少し歩いただけでも、耐え難い痛みが襲ってくる。 それでも一条は、陽菜を誘って病院の中庭へ日向ぼっこに行こうとせがんだ。 二人は庭園のベンチに並んで腰を下ろす。 柔らかな陽射しが全身を優しく包み込み、隣に座る一条からは、ほのかに消毒薬の匂いが漂ってきた。 陽の光を浴びて、少し茶色がかった髪がきらきらと輝いている。 それを見つめながら、陽菜はそっと手を伸ばし、一条の前髪に触れた。「一条君、髪、少し伸びましたね。目にかかって邪魔じゃないですか?」一条はわざと陽菜の方へ頭を傾けた。その拍子に、陽菜の手は自然と一条の頭へ触れる。 まるで、自分から撫でてもらいにきたようだった。 陽菜は少し驚き、慌てて手を引こうとした。 けれど、一条はその手をそっと掴み、自分の髪の上へ戻してしまう。「このままでいい」 照れる様子もなく俯いて笑う一条を見て、陽菜も自然とその髪を優しく撫でた。 指先に伝わる髪は、とても柔らかい。 しばらくしてようやく、一条は名残惜しそうに陽菜の手を離した。 顔の痣もだいぶ薄くなり、表情も以前よりずっと明るい。 そんな一条が嬉しそうに笑っている姿を見るだけで、陽菜まで嬉しくなってしまう。 傷の具合が気になり、陽菜は一条の顔をじっと見つめていた。 傷がちゃんと治っているか確かめたかっただけなのに、あまりにも長く見つめすぎたのだろう。 一条の耳がみるみる赤く染まっていく。 照れ隠しをするように、小さく咳払いを一つした。「藤野……俺って、結構かっこいい方だよな?」「えっ?」 あまりに突然の質問に、陽菜はきょとんと目を瞬かせる。 その反応を見て、一条はますます恥ずかしくなったらしい。 これまで、自分の見た目をこんなふうに気にしたことはほとんどなかった。 昔から格好いいと言われることは多かったし、自分でも悪くない方だとは思っている。 けれど、陽菜にこんなにもじっと見つめられると、自分の顔は本当に陽菜の好みに合っているのだろうかと、急に自信がなくなってしまった。「その……俺って別に不細工じゃないよな? 藤野はどう思う? 俺のこと、かっこいいって思ったこ
一条の母親の言葉はとても温かく、陽菜は思わず目頭が熱くなった。 母親を見つめる瞳には、感動と感謝の色が滲んでいる。「私……」「藤野さん、勘違いしないでくださいね。別に何かを急かしたいわけじゃないんです。修司はいい子なんですけど、これまでちゃんとした恋人ができたことがなくて……親としては少し心配で、つい余計なことまで話してしまいました」「一条君は……本当に素敵な方です」「そう思っていただけているなら、私はそれだけで十分です」 家に着くまでの間、一条の母親は修司が幼い頃の失敗談や微笑ましい思い出をいくつも聞かせてくれた。 車内には終始穏やかな空気が流れ、陽菜もいつの間にか緊張がほぐれ、気づけば最近の一条の様子を楽しそうに話していた。 もっとも、話題は仕事中の出来事ばかりだったが、一条の母親はそれでも嬉しそうに耳を傾けてくれる。 マンションへ着く頃には、今度一緒に買い物へ行きましょうとまで誘ってくれた。「藤野さんとは、きっと気が合うと思うんです。お時間がある時は、私にも付き合ってくださいね」「ありがとうございます、お母様」 家へ帰ると、入れ違うように一条から電話がかかってきた。 どこか声を潜めながらも、その口調には隠しきれない得意げな響きが混じっている。「藤野、もう家着いた?」「はい。今ちょうど帰ったところです」「当たった。ちゃんと時間計算して電話したんだ」 入院中の一条にはできることがほとんどない。 だから陽菜が帰る時間をずっと計算しながら待っていて、ちょうどその頃を見計らって電話をかけてきたのだった。「ふふ、本当にぴったりですね、一条君」「藤野、少し離れただけでも、もう会いたくなっちゃった。どうしよう」 以前の一条なら、こんなふうに真っ直ぐ気持ちを口にすることはなかった。 一度想いを伝えてくれたあとも、鷹宮の存在を気遣って、それ以上踏み込んでくることはなかったのに。 それがこの二日間は、まるで遠慮がなくなったかのように真っ直ぐ想いを伝えてくるものだから、陽菜はすっかり振り回されてしまった。 受話器を当てた耳まで熱くなり、声まで少し上ずってしまう。「い、一条君……急にどうしたんですか」「俺、本気で藤野を口説いてもいい? もう藤野と凌は……。事故に遭った時さ、真っ先に思ったんだ。もっと藤野と一緒にいたかったって。
一条の言葉に陽菜は思わず目を丸くした。 次の瞬間には頬がみるみる赤く染まり、しどろもどろになってしまって、うまく言葉が出てこない。 しばらくしてようやく、小さな声で口を開いた。「お、お母様……初めまして」 それだけ言うのが精一杯だった。 もっとも、一条がわざわざそんな説明をしなくても、一条の母親はとても穏やかで優しそうな女性だった。「こんにちは。いつも修司がお世話になっています。この子、小さい頃から落ち着きがなくて、あまりしっかりした性格でもないんです。藤野さんにはご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、何か気になることがあったら、遠慮なく叱ってあげてくださいね」 その言葉に、一条はすぐさま不満そうな声を上げた。「母さん、俺そんなに頼りない? 藤野の前なんだから、少しくらい褒めてくれてもいいじゃん」「そのぐるぐる巻きの姿を見て、どこを褒めろっていうの? まるでちまきみたいじゃない」「母さん、俺こんな大怪我してるのに笑う?」 二人のやり取りを見ているだけで、普段からとても仲のいい親子なのだと伝わってくる。 その温かな空気につられて、陽菜も思わず吹き出してしまった。 陽菜が笑ったのを見ると、一条も嬉しそうに笑う。 そんな息子の様子を見て、一条の母親は呆れたように小さく首を振りながらも、優しく口元を緩めた。 面会時間が終わると、一条は名残惜しそうに陽菜へ別れを告げた。 その表情はまるで捨てられた子犬のようにしょんぼりとしていて、陽菜が「明日もまた来ます」と何度も約束してようやく諦めたように口を尖らせる。「……しょうがない。じゃあ、また明日」 病室を出て下へ降りる途中、まだ帰っていなかった一条の母親と鉢合わせた。 手には何枚かの書類を持っていて、おそらく医師から受け取ったものなのだろう。 陽菜に気づくと、一条の母親はにこやかに声をかけてきた。「藤野さん、お帰りですか? よかったら、お送りしましょうか」「いえ……そんな、ご迷惑になりますので」「気にしなくて大丈夫。それに、私も藤野さんともう少しお話ししたいなと思っていたんです」 そう言われてしまい、陽菜は断り切れず、一条の母親と一緒に病院の駐車場へ向かった。 歩きながら、頭の中には鷹宮の母親から向けられた冷たい言葉や、刃物のように鋭かった視線が何度も蘇る。 そのたび
鷹宮は総合企画と戦略コンサルティングを手がける会社を率いている。 企業のブランド再構築や、新規事業・商品企画を中心業務とするその会社は、もともと彼の父親の代によって設立されたものだった。 だが、経営がうまくいかず倒産寸前まで追い込まれた会社を、当時まだ大学生だった鷹宮が引き継ぎ、数年の歳月と心血を注ぎ込むことで、ようやく立て直すことができたのだった。 現在の規模まで会社を育て上げた彼は、代表として自分の時間も体力もすべて仕事に捧げており、私的なことに使う余裕など一切持ち合わせていない。 陽菜が鷹宮と再会した後も、彼には言っていないし、鷹宮自身もまったく覚えていないことがあった。
朝、スマートフォンのアラームが一度鳴っただけで、陽菜はすでに目を覚ましていた。画面に表示された時刻はちょうど六時。窓の外は冬のせいかまだ薄暗く、朝の光が完全には届いていない。 目を半分閉じたまま、昨晩選んでおいた服に素早く着替え、簡単に身支度を整えると、急ぎ足でキッチンへと向かう。今日の朝食の準備を始めるために。 鷹宮の家で迎えた二日目の朝、陽菜は契約書に書かれた勤務時間に合わせて朝食を作ろうと考えていた。だが、九時に台所へ向かった時には、家の中にはすでに誰もおらず、陽菜一人だけが取り残されたように呆然と立っていた。 その夜、遅く帰宅した鷹宮は、まだリビングで待っていた陽菜の姿を見
鷹宮からドライヤーを受け取ったとき、陽菜の手がほんの少し震えた。 幸い、鷹宮はそれに気づかなかった。もし気づかれていたら、自分が余計なことを頼んでしまったと責めてしまったかもしれない。 ドライヤーのスイッチを入れると、その音が部屋の中のすべての音をかき消した。 鷹宮は二人掛けのソファに少しゆったりと腰を下ろし、背をもたせて座っていた。 陽菜はその背後に立ち、数メートル先のテレビ画面に映る反射を通して、目を閉じている鷹宮と、緊張した面持ちの自分の姿をはっきりと見ていた。 ドライヤーの温風は、鷹宮の髪だけでなく、陽菜の手までもじんわりと温めていく。 見た目通り、鷹宮の髪は柔らかくて
二人が車内に乗り込み、密閉された空間に身を置いた途端、それまで穏やかだった鷹宮の眉間に、ゆっくりと皺が寄り始めた。とはいえ陽菜の前だからか、彼はそれを抑え込むようにして、辛さを表に出さないよう努めていた。 陽菜はそっと鷹宮の様子を窺い、彼が助手席に座ったままじっと動かないのを見て、少し遠慮がちに手を伸ばし、シートベルトを締めてあげようとした。 しかし、彼女の意図に気づいた鷹宮がそれを制止した。 「ごめん、忘れてた」 片手で眉間を揉みながら、もう一方の手で自分のシートベルトを慣れた様子で引き下ろし、カチリと留めた。 「お辛そうですね。頭が痛いんですか? 以前もお酒を飲まれた後、頭痛