로그인一冊、二冊と本棚に増えていくアルバムたち。デジタルが主流になった今では、それらは電子情報として記憶媒体にバックアップされている。それなのに敢えて出力し、本という形で手元に置くことを選んだのは単純に、時の経過と共に味わいを深める紙ならではの良さを感じたいと考えているからである。
「いつの間にかこんなにも増えたんだな」
収められた写真が撮影された年月日。その数字を収録されている印画紙の期間で表記した背表紙は、左から右へと徐々に新しいものに変化していく。
「この数字もあっという間に、三年目のものになりましたしね」
それらの記録を愛おしそうに撫でながら、海亜は今までの事を振り返る。
「私、今でも私が、あなたの妻であることが信じられないんです」
結婚した当初、想像もしていなかった状況に、毎日夢では無いことを確かめ夢であることを疑っていた。未だに敬語で話す癖は抜けないが、『兄様』と呼ぶことは改善し、伴侶である昴のことを名前呼ぶことが出来る様になったのは、ここ数ヶ月の話だ。それほどにまで婚姻という状態を受け入れるには時間がかかっている。それでも、疑り深い海亜に呆れること無く、昴は毎日彼女のことを甘やかしてくれる。時々、子供の頃み見せた妹に対して取るような対応をすることはあるが、それはお互い様な部分もあるのだから仕方が無い。
「僕は、ずっと君のことは妻だと思っているけどね」
背後から伸びる長い腕が、自分よりも一回りほど小さな愛おしい存在を抱き締める。
「アルバムが増える度に、君との大切な思い出が増えていくことが嬉しくて仕方ないよ」
そう言って互いに顔を見せ合い笑い合う。適当に抜き取った白い冊子は、ソファに腰掛けた海亜の膝の上で小さく音を立ててページが捲られていく。昴も彼女の隣に腰を下ろし、白くしなやかな指が記憶と共に閉じ込めた時間をなぞるのを見て、楽しげに目を細めて見せる。
「ここはとても綺麗だったね」
開かれたページにあるのは、数年前日程を調整して訪れた海外旅行での写真である。
「この時は海亜が場所を選んだんだっけ」
「ええ。どうしても一度、行ってみたかったんです」
この時の旅程はそれほど日数を確保出来なかった。そのため、できるだけ移動の負担が掛からないように観光スポットを控えめにし、その代わり現地の雰囲気を楽しめるようフリープランを選択している。
「この建物アラベスク模様がとても印象的だったなぁ」
「ええ」
「宮殿なんて建物はこっちじゃ見られないものだから、見ていて面白かったよ」
海亜の白い手を包み込むようにして昴の手が重なると、彼女と同じように印刷された過去の記憶を懐かしむように軽く撫でていく。
「日本のお城だと、外観も雰囲気もかなり違いますしね」
「まぁ、こっちの城も好きだけどね、僕は」
「知っています」
随分厚みを持った紙が、小さな音を立てて次のページへ送られる。
「ここも凄かったなぁ!」
次に現れたのは緑が美しい庭園の写真だ。
「それほど大きい訳では無かったけれど、植物と建物のコントラストが中々見られない感じで、独特の雰囲気があったんだよね」
「あの時の昴さん、夢中でシャッターを切っていたので、ちょっと恥ずかしかったです」
「え? そうなの?」
「はい」
少しずつ夫婦という時間を積み重ねると分かってくる相手の事。
「でも、昴さんは本当に、建築物が好きなんだなと思いました」
同じ場所に居て、同じものを見ていたとしても、それに対して思うことは人それぞれである。印画紙にある一枚の絵の場所を二人で歩いていた時、海亜と昴とでは感動に多少の温度差があった。海亜にとってこの場所は『綺麗』だと感じるものでそれ以上の盛り上がりは感じられなかったのだが、あの時の昴は海亜の隣で、覚えている知識や気になる場所を事細かく彼女に説明してくれたのだ。そんな彼の様子は宝物を目にした子供のように純粋で、普段見ている落ち着いて紳士的な態度の彼とのギャップを知れたことに海亜は純粋に喜びを感じていた。
「そんなにはしゃいでいた?」
「ええ」
あの時に教えられた昴の知識は、海亜には半分も飲み込めて居なかった。ただ、それを理解したいと思ったことは事実だし、彼の好きなものを共有したいと願ったことも本当の事である。
「次にまたあの場所に行くことができたら、その時はもう一度、いろんな事を教えてくださいね」
その願いが叶う時には、過去に共に歩いた時のたどたどしい反応ではなく、同じ情報を同じ目線で共有し、理解しあえる仲間となっていたい。そんな風に伝えると、昴は驚いた後、嬉しそうに海亜を抱き締め喜んだ。
「勿論だとも! 君が嫌だと言わない限り、何度だって教えてあげるよ!」
◇
それから暫くは、二人でアルバムを眺めることを楽しんでいた。
「あ」
傾けた白いティーポット。
「どうしたの? 海亜」
装飾の無いシンプルなカップの中に注がれる筈だった赤褐色の液体は、残念ながら注ぎ口から流れ出ることが無いようで。
「お茶が……」
蓋を開け中を見ると、いつの間にかポットの中を満たしていた液体が一滴も残さず消えていた事に気が付く。
「それほど大きなポットじゃないからね」
皿の中のショートブレッドも半分以上に減ってしまっている。
「お茶のお代わりは要りますか?」
「そうだなぁ……」
余り食べ過ぎてもこの後控えている夕飯に影響が出てしまう。だからといって、残ったショートブレッドを飲みものが無い状態で消費するには少し潤いが足りない。
「じゃあ、もう一杯だけってことでどうかな?」
「そうですね」
二つのカップにそれぞれ一杯ずつ。ショートブレッドは昴が多めに食べると言うことでまとまると、海亜は静かに立ち上がりキッチンへと向かう。
「夕飯は久しぶりに外食しようか」
相変わらず昴はアルバムに視線を落としたまま、旅行の思い出を眺めている。
「昴さんが気になるお店があるのでしたら、そこに行きましょうか」
家で料理をしないで外食を選んだと言うことは、旅行の記憶が食欲を刺激したからだろうか。
「特にどこに行きたいってのがあるわけじゃ無いんだけれども」
そうは言ったものの、昴の手は先程から同じページの上で止まり動いていない。
「久しぶりにバルの雰囲気を味わいたくなっちゃってさ」
「なるほど」
どうやら手が止まっているページにあるのは料理の写真らしい。
「それじゃあ、日が落ちたら出かける準備をしましょうか」
「そうだね。そうしようか」
言いながら手を動かし用意した電気ケトル。沸かすお湯の量は必要最低限より少し多めになる程度。電熱ヒーターに流れた電力が起こす熱伝導で、乗せられた小さな機械の中の水が踊り、注ぎ口から零れ出る蒸気。その勢いは温まれば温まるほど勢いを増し、やがて大きな音を立てて液体が沸騰したことを知らせる。
少し多めに沸かしたお湯を注ぎポットを温めると、先に注いだ分をシンクへ流し新しいお湯を入れる。茶葉は先程使ったものを再利用しているため、味の出方はゆっくりだし色も薄い。でも、もう暫くすると出かけるのだから、気にしても仕方が無いだろう。
「お酒は飲みますか?」
「そうだね。どうしようかなぁ」
昴の元に戻ると、彼はアルバムから視線を離さず答える。
「車を出すなら飲まない方が良いけど、せっかくだし飲みたいなぁ」
「それなら、私が運転しますよ」
「え? それはつまらないよ」
彼の隣に戻り空っぽのカップの中に紅茶を注ぐ。
「一緒に行くんだから、海亜と飲みたいんだけど」
カップ一面に広がる上品な赤褐色。ふわりと広がる湯気が、まだこの液体に十分な熱が残っている事を知らせている。
「でも、それだと足が確保出来ないんじゃ」
「うーん」
無意識に伸ばした手がカップを摑むと、昴は気にすること無く口を縁に付けそれを傾ける。
「…………熱っ!?」
その反応は当然のものだろう。全く冷めていない飲み物は昴の口の中を焼き、溢れた滴たちは彼の掌に赤い痕を着けた。
「昴さん!」
その様子を見ていた海亜はカップをテーブルに戻すと、慌てて席を立ちバスルームへと姿を消す。数十秒後に戻ってきた彼女の手には真っ白なタオルと洗面器が一つ。
「手を出してください」
白い洗面器の中でゆらゆらと泳ぐのは、四角い形の冷たい塊。
「注意力散漫になるから、こうなるんですよ」
少しだけ呆れた口調でそう言うと、冷水に浸したタオルを軽く絞って、昴の赤くなった幹部へと静かに当てる。
「ごめん」
「いいえ」
傷口を刺激しないように冷やしながら具合を尋ねると、昴は素直に怪我の状態を報告してきた。
「赤くはなっていますけど、大量に掛かったわけでは無いって感じですね」
幹部に当てていた白いタオル。それを昴に手渡し海亜は続ける。
「このままキッチンまで行ってください。流水で幹部を冷やしてる間に、ここは片付けておきますから」
「分かった。了解」
海亜の指示に素直に従った昴の姿が視界から消える。
「罰として、今日は昴さんはお酒を遠慮してもらおうかしら」
そうは言いながらも、海亜の表情は非常に穏やかで、口元には笑みが浮かんでいる。テーブルの上に零れてしまった赤褐色。それは白いタオルを緩やかに染め上げ、跡形も無く姿を消してしまう。
「海亜ー」
「はーい」
キッチンから聞こえてきた情けない声に、彼女にしては珍しく気の抜けた返事を返し振り返る。水気を吸って重くなったタオルを一度水を張った洗面台の中へ移動し、救急箱を持って昴の元へ移動すると、流れる水の中に手を突っ込んだ昴が情けない顔でこちらを見ていた。
「水が当たるところが痒いんだけど」
傷口を刺激すれば当然、その刺激は何らかの形で返ってくる。今回の場合、痛みよりも痒さの方が勝っているらしい。
「引っ掻いたりしないでくださいね」
蛇口を捻り水の流れを止めると、海亜は乾いたタオルで昴の手に付いた水滴を拭き取る。
「痛みが酷くなるようでしたら、受診することも視野に入れますから」
救急箱の中から姿を現したのは殺菌消毒液で。それを幹部に満遍なく塗布すると、十数秒置いた後に真新しいガーゼで拭き取る。使用していない残ったガーゼには軟膏をたっぷりと塗り、それを赤くなった皮膚へ乗せると包帯でずれないように固定すれば治療は終了。
「濡らさないように気を付けてくださいね」
そう言って軽く小突くと、昴は反省していますと小さく肩を上げ眉を下げた。
気持ちが変わると世界の見え方が変わるとは、よく言ったものだ。 賑やかな鳥の声が耳に届く。白い障子に透ける穏やかな光。空に広がる濃紺が少しずつ薄れ曙へと変化すると、緩やかに時が動き出す。 もう少し惰眠を貪りたい。 そんな風に起きるという行動を躊躇うのは、人の本能がそうさせるからなのだろうか。柔らかな布団の感触に思わず摑んだ厚み。それを手放したくないと強く握り込んだが、意識の覚醒が促されたことで少しずつ働き始めるのが脳の機能である。(いま……なん……じ……だっ……け……?) 静かに辿るのは意識を失う直前までの記憶だ。(……えっと……ここ……は……?) 酷く重い瞼。それが光を感知したことで軽く痙攣を起こし、その違和感から薄らと視界が開けていく。「……ぅ……」 突然襲われた光の洪水。視界を閉ざしていた幕が無くなったことで、遮られていた刺激が一気に瞳の中へと飛び込んでくる。それが僅かな痛みを引き起こし感じたのは軽い頭痛。眼の奥が痛い。そのせいで無意識に呻き声が零れてしまった。「……あ……さ……?」 怠さを訴える身体は非常に重く、起き上がることすら億劫だ。それでも脳が覚醒してしまった以上、これ以上の惰眠を貪ることは躊躇ってしまう。仕方なく上体を起こし柔らかな布団の上に座る。「…………」 始めに感じたのは見慣れない空間に対する違和感だった。「……あ」 しかしそれは、直ぐに昨日の記憶と結びつくことで解決する問題である。「すばるさんの実家……に……来た……んだった……わね」 寝起きのせいで舌の動きも鈍い。そのため吐き出される言葉の速度は非常に遅いのだが、耳が音を捕らえる度身体がゆっくりと動き始める。手元に視線を落とすと目にとまるのは白い指先。握ったり開いたりを繰り返しながら徐々に動かすという行為に意識を向け、改めて部屋の中を見渡す。「和室……」 普段生活している空間には存在しない内装。機会に恵まれない限り味わうことの無い空気がどうにも馴染まない。決してこの雰囲気が嫌いと言うわけでは無いのだが、違和感を感じる度に気持ちを切り替えるまでに時間が掛かってしまう。「はぁ」 溜息を一つ。無意識に視界を閉ざし深く息を吸い込むことで気持ちを落ち着かせる。再び眼を開けると改めて見える非日常な光景。耳が捕らえた音に視線を向ければ、隣で丸くなって寝息を立てる
「そんなことは無いと思うけれど」「いいえ! 絶対にそうだと思います」◆ そこから暫くは、女同士。他愛ない話で盛り上がった。 家のことに始まり、学校のこと、地域の交流、会社の事や噂話まで。会話というものがこんなにも楽しいものなのかと驚きたくなるほど、沢山の言葉が次々に出てくる。 まるで、ぎこちなかった時間を埋め合わせるように、少しずつ知っていく互いの形。今まではどう距離をとれば良かったのかが分からなかった境界。それを基準に勝手に線引きを行いう向き合うことから逃げていたのだが、今日という日を境に様々なことが変化していくのだろう。元々、義妹の海亜に対する反応は非常に好意的なものだったのは間違い無い。より親密な関係の構築を望んでいること。それを改めて再確認出来た事も喜ばしいし、それと同じくらい義母の想いを知れた事大きな収穫の一つだろう。「それでね、海亜ちゃんってば、慈乃さんにね……」 他人から見た《私と母》という存在。その話題に関してだけは恥ずかしい部分も曝け出すことにも繋がったのわけだが、不思議とこの二人に知られる事に対し不快だとは感じていない。「えー! 海亜さんって、ちっちゃい頃はそんな感じだったの!?」 様々な話で盛り上がる度に見せられる星奈の大げさなリアクションも、実に可愛らしくて、強固に絡まり他者を寄せ付けることを拒んでいた海亜の心を解していく。「そうよ。ものすっごく可愛かったんだから」 こうやって、忘れていた記憶を取り戻しながらも、新たな関係を築けることが何よりも嬉しくて仕方が無い。海亜は漸く自分が居ても良い居場所を得られたことに、心から喜び笑みを浮かべる事ができた。 ここに来るまで、こんなにも楽しい時間が訪れるのは想像していなかったと、海亜はふと思う。「あっ! じゃあさぁ……」 今日でさらに距離が縮まった義姉に対し、嬉しさを隠すこと無く星奈は話かけ続けている。「今度、お母さんと海亜お姉ちゃんと私の三人で、ショッピングに行かない?」 『お姉ちゃん』。その言葉に感じるのは未だ慣れることの無い小さなむず痒さだ。『さん』で呼ぶのは距離を感じて嫌だからと、先程強制的に変えられてしまったのだから、馴染まないのは無理も無いだろう。ただ、そうやって躊躇うこと無く距離を縮めてくれる優しさは純粋に心地好いと思ってしまう。「そ
「お酒を楽しむのは構わないわよ。でも、酔った勢いで行動するのは良くない場合もあるわ」 水琴の言葉通り、酒の楽しみ方にも限度はあるのだと言うことは、星奈自身分かってはいる。それでも彼女は成人したばかりでまだまだ未熟。付き合いも気の合う仲間同士のものが多いため、酒の席で失敗したという経験自体が乏しい。「でも、お母さん以外には迷惑掛けてないんだし、反省してるからいいじゃない」 反省しているというのは言葉だけなのだろうか。胸の前で両手を合わせてそう訴えた星奈の態度から薄れるしおらしさ。一見すると、謝ればこの場を逃れられると軽く考えている様に見え、それが益々水琴を不機嫌にさせる。「あなたねぇ」 小さく舌を出して許して欲しいと訴える彼女に、どう叱って良いのかと悩む水琴は、海亜の目にはしっかりとした母親の姿として映る。水琴自身はというと言っても聞こうとしない娘に対し、次の言葉を探しながら眉間を押さえ瞼を伏せる。「まさか……普段から外で、そんな風にしてるんじゃないでしょうね?」 ふと過ぎったのは良くない考え。迷惑を掛けるような子に育てたつもりはないのだが、子育てについては正解なんてものは無い。何人産み育てたとしても、子供自体は一人一人性格が違い、接し方も異なってくる。だからこそ常に手探りで、出来なかったことも多いと自覚しているからこそ、考えすぎた最悪に不安を強く感じてしまう。 それなりに我が子がまっとうな人間になるよう努力してきた。 それでも、娘は自分とは異なる人間なのだ。 だからこそ、予想しなかった言葉を吐き、行動を起こしてしまうこともしばしばある。 羽目を外しすぎなければ多めに見るつもりではあったが、自分の預かり知らぬところで娘が大きな失敗をするかもしれない。そんな思いから聞いた質問は、娘を疑うような一言で。「そんなんだったらお母さん、どうしたら良いのか……」 星奈が本当の意味で親の手を離れるまではもう少し時間が掛かる以上、親の責任は非常に重く水琴の肩にのしかかる。「そ、そんなわけ無いじゃん!」
情けない。みっともない。 でも、それ以上に嬉しくて仕方ない。 強い力を込めれば直ぐにでも折れてしまいそうなほど細い腕なのに、とても強く大きく感じる安心感。忘れていた温もりに縋るように身を預ければ、水琴がそれに応えるようにして海亜の頬を撫でた。「大丈夫よ。あなたのことは、私が守ってあげるわ」 意識しなければ聞こえない程の小さな音。それは海亜の耳に届くこと無く、空気に混ざり静かに消えていった。◆ どれくらいの時間が経ったのだろうか。「…………あれぇ?」 間の抜けたような声が耳に届いたことで引き戻された現実。慌てて身を起こし水琴と距離を取ると、直ぐ隣に座る星奈が不思議そうに首を傾げながらこちらを見ている事に気が付き驚いてしまう。「海亜さん、泣いてる?」「え? いや、その……」 泣いていない。と、言うには群れた頬を誤魔化す事が難しい状況。見られたくないと顔を逸らすのに、お酒が入り酔っている星奈は遠慮を知らず、感じた疑問を追求しようと距離を詰めてくる。「もしかして、お母さんに泣かされちゃった?」 自らの言葉に勝手に納得をしてしまったのだろうか。見当違いの正義感で己の意見を正当かさせようと動く星奈は、鋭い視線で母親である水琴の事を睨み付ける。「な、何を言ってるの! 星奈!」 当然、その言葉を真っ向から否定するのは水琴だ。「私が海亜ちゃんを泣かせたなんて誤解よ!」 そんな事実は存在しない。相必死に訴えるのだが、いまいち噛み合わない会話は平行線を辿るばかり。「でも、お母さん。海亜さんは泣いてるじゃない。誤解って言っても説得力なんて無いわよ」 何があったのかの経緯を知らない星奈からしてみれば、今ある結果だけが全てである。星奈の言葉通り、海亜の目は赤く腫れ、ずっと潤んだ状態のまま。時折啜る鼻の音も手伝い、全ての要素が彼女が泣いていることを指し示しているのだから、勘違いするなというのが無理な話である。 このままでは、水琴の立場は益々悪くなってしまうだろう。それだけは何としても回避したいと。水琴の名誉の為に動いた海亜が慌てて口に出だす言葉。「私が泣いてしまったのは、水琴さんから私のお母さんの話を聞いたからなのよ!」一瞬だけ固まった空気。何とも言えない気不味さが場を満たす。「どういう……こと……?」何を言われたか分からず面食らった星奈が見せ
「考えてみれば、あの頃からあなたは昴のことを好きで居てくれたのよね」 改めてそう言われると、恥ずかしくてむず痒いと感じ真っ赤に染まる海亜の顔。 水琴が言うとおり、海亜の初恋は昴だ。それは彼女自身もしっかり自覚している。 仕事の付き合いで一条家の人間と初めて顔を合わせた時、海亜が真っ先に興味を持ったのが歳が近い幼馴染みの存在だった。 あの頃の一条に居た子供は二人の息子のみだったのだが、上の昇はと言うと既に学校に通っており歳が離れていることもあって、少しばかり距離を感じる事が多かった。そのため、彼に対しては兄のような存在以上の印象を持ったことがない。 逆に、昴に対してはというと、友達よりも少しだけ近い距離。初対面の相手に人見知りをしてしまう海亜に対しても始めからフランクに話しかけ、彼女の手を取り率先して行動を起こす。紳士的な態度と少年特有の活発さはとても輝いて見え、無意識に抱くのは強い憧れで。それが大きくなるにつれ、昴に対して少しずつ別の感情を覚え始める。そうやって幾度となく互いの時間を共有していくと、段々、兄以上の存在として意識をすることも多くなった。始めは気が付かなかった小さな小さな感情の芽。いつしかそれは、淡い恋心へと緩やかに育っていく。「海亜ちゃんはよく、慈乃さんにこう言っていたのよ。大きくなったら絶対に、昴と結婚するのって」「え!?」「昴も満更でもなかったみたいでね。いつの間にか二人とも、左手の薬指にお花で作ったお揃いの指輪をはめていたりしてね」「あっ……」「それどうしたの? って聞いたら昴ったら、海亜ちゃんに作って貰ったのって嬉しそうにはしゃいじゃって。海亜ちゃんのは僕が作ったんだってほっぺたにキスなんかしちゃって。二人ともとっても可愛かったわ」 小さなカップルが見せたのは将来のヴィジョン。それが今、確かに現実のものとなった。それを喜んでいるのは自分だけだと思い込んでいたのは海亜の勘違いで、どうやら水琴も海亜と家族になれたことを嬉しいと感じてくれていたらしい。「それを見たときに思ったわ。将来、絶対に海亜ちゃんを昴のお嫁さんに欲しいって。だから慈乃さんにお願いしたのよ。大人になったら海亜ちゃんを私の娘として迎えてもいいかしらってね」 水琴はすっかり過去の記憶を辿ることに夢中になってしまっている。ただ、海亜にしてみたら自分の
その言葉から分かる事とは、水琴も一条の家にとっては他人に近い立ち位置にあると言うこと。「結局の所、嫁に来た人間というものは、血の繋がった家族にはなり得ないのよね」「お義母さん……?」「だって、育ってきた環境が異なるでしょう? 価値観や常識というものは、周りの環境で変わっていくものよ。よく見てご覧なさい」 息子や孫たちから持ち上げられて上機嫌となった喜代子は、すっかり自分の話に夢中なようだ。先程までの不機嫌は何処へやら。上機嫌に語る自分語りは実に饒舌で、今までの苦労や人生観を事細かく言葉にし相手に伝えることで悦に浸る。それを冷ややかに見ている者が居ることなど彼女はきっと気が付かないだろう。「一条の家の人間には、喜代子さんという君主の言葉が絶対なの。勿論、それが悪いと言うことでは無いわ。でも、私たちのように外部から来た人間にとって喜代子さんの考え方は、全てが素直に受け入れられるようなものではないのよ」「……それは……何となく理解出来る気がします」「ええ」 この場に居る人間のうち、酒で気分が高揚しているのは亨や昇、昴といった男性陣と星奈の四人。彼等は耳障りの良い言葉に酔い、場の空気に流されるように喜代子の言葉に耳を傾けている。そこに冷静さは皆無で、まるで精神を支配されているかのように絶対的君主の言葉を信じて疑わない。「子供……ああ……。お祖母さんの場合は曾孫になるんだったわね。あの人があなたたちの子供を早く抱きたいと思うのは、実に自然なことだとは思うわ。海亜さんには悪いんだけれど、私だって、あなたたちの子供を楽しみにしている一人には違いないの。でもね、子供を作る事を催促したって、それが思った通りの結果に繋がる訳ではない事も理解しているつもりよ。私だって、昇を妊娠するまで色々と苦労はしたし、お婆さまに結構言われて、悔しくて泣いたことも多いの」 隣に座る義母の顔に浮かぶ疲れに、彼女の言葉が決して嘘ではないと感じ取る。海亜が引きこもるようになってから薄れてしまった付き合いのせいで、一度真っ新になった関係性。今は姑と嫁の立場になったのだが、この三年間、彼女とどう向き合えば良いのかが分からず考えがまとまることは無かった。それでもこの姑は不甲斐ない嫁に寄り添おうと手を差し伸べてくれる。きっかけはあまり気分の良い話では無かったが、こうやって理解してくれる人が居る







