登入イルミネーションの光が、キヨミの後ろ姿を淡く照らしていた。 テラダの白いコートが遠ざかっていった後、キヨミは一人、新宿サザンテラスの光の海を歩いていた。カップルが手を繋ぎ、笑い合い、写真を撮る。クリスマス・イヴの喧騒が、まるで別世界の出来事のように耳を通り過ぎていく。 キヨミはふと、オスカー・ワイルドの『幸福な王子』を思い出した。 宝石を体に埋め込まれた幸福な王子像。その宝石を一粒ずつ剥がして、貧しい人々に運んでいったツバメ。冬の寒さの中で、王子のために命を落としたツバメ。 (私は、あのツバメなのかもしれない) ミチコ。そしてアズサ。 煌びやかなメッキや装飾を身に着けていた彼女たちから、宝石は一つ一つ剥がされていった。ミチコの明るい笑顔、アズサの完璧な自信、ユキとしての艶やかな魅力——それらを、ひょっとしたらキヨミ自身が知らず知らずのうちに剥がし、別の誰かへ分け与えてしまったのかもしれない。そして彼女たちは、この世を去ってしまった。 本来ならば、私も彼女たちと共に死んで逝かねばならないのかもしれない。 この冬は暖冬だと言われていた。ニュースでは「記録的な暖かさ」と繰り返されていた。けれど今のキヨミには、耐えられないほど寒くて、凍えそうだった。コートの襟を立てても、冷気が骨の髄まで染み込んでくる。 そのとき、ふとキヨミのお腹に異変が走った。 今まで体験したことのない、鈍く重い痛み。下腹部がきゅっと締めつけられるような感覚。そして、何かが股間から漏れたような、温かい湿り気。 キヨミは足を止め、慌てて近くの商業施設のトイレに駆け込もうとしたが、すでに閉まっていた。 仕方なく少し歩き、サザンテラスを出て、西口方面の公衆トイレへ向かう。かなり汚いトイレだったが、お陰で空きが見つかった。 個室のドアを閉め、息を整えながら下着を下ろす。パンツが、真っ赤な血に染まっていた。 「……まさか」 26年間、一度も体験してこなかった生理が、今、起きたのか。 無月経の体。それが風俗嬢としての武器だった。生理の心配がなく、いつでも働ける。けれど普通の恋愛にとっては、決定的な欠点だった。テラダに「子供ができない体」と告白したとき、彼の表情が凍りついたのを、キヨミは今でも鮮明に覚えている。 それが、今、壊れた。 泣いていいの
【2019年12月24日】東京都・新宿区新宿サザンテラスは、クリスマス・イヴのイルミネーションで美しく輝いていた。木々に絡まる無数の光が冬の夜を淡く染め、人々の吐息が白く立ち上る。キヨミは待ち合わせ場所のスターバックスコーヒーの店内で、スマホのテキストエディタで執筆を続けながら待っていた。トールサイズのコーヒーのカップを持ち上げると、すでに空になっていることに気づく。時計を見ると、約束の時間も少し過ぎていた。やがて、息を切らせたテラダマコトが店内に入ってきた。キヨミを見つけて手を振り、まっすぐ席までやってくる。「ごめん……僕の方から誘ったくせに、なかなかバイト上がれなくて……」「いいよ。執筆してたし。時間は有効活用できるから」キヨミは微笑んで答えた。テラダはカウンターへ行き、ショートのコーヒーを頼むと、キヨミとテーブルで向かい合ってしばし話をした。「お店は再開したの?」テラダが恐る恐る尋ねる。キヨミは静かに頷いた。「ええ。でも私はもう籍を置いていないの。アカリとしての仕事はおしまい」「そうか……じゃあ、もうアカリさんじゃないんだ」テラダの声が少し寂しげに沈む。キヨミは彼の目を見て、柔らかく言った。「アカリのままでも良いよ。その方が呼びやすいでしょう」言うと、テラダは少し複雑な表情を見せた。安堵したような、あるいは苦笑とも受け取れるような。一瞬キヨミも不思議に思ったが、後から気づく。きっと今のが本名を打ち明けるタイミングだっただろうと。こういうことは、一度タイミングを逃すときっかけがつかみづらくなる。彼と一緒にいると、どうしてもこんな間が悪いことが度々起こる。あるいはそれも運命かもしれないが。テラダの方は、気を取り直すように近況を話し始めた。彼は相変わらずつばめグリルでバイトを続けているが、転職活動の最中だという。面接まで進んでいる会社も2社ほどあるらしい。「正直、自信が無いよ。またダメだったらどうしようって……」「テラダさんなら大丈夫だよ。大丈夫じゃなくても、また頑張ればいいから。諦めちゃダメ」言いながら、なんて気休めにしかならないようなセリフを吐いているんだろうとも思った。ただキヨミの言葉に、テラダは静かに頷いた。わずかでも自信を取り戻してやれたのなら、気休めでも言ってよかったかもしれない。店を後にし、二人はイルミネーショ
【2019年12月】東京都・港区 港区の小さなオフィスビルの一室。コピー機の音、キーボードの打ち込み音、コーヒーの匂い。そうした日常の喧騒の中で、キヨミは黙々と書類を整理し、メールを返信し、会議の議事録をまとめた。 キヨミは派遣先の会社で事務作業をこなしていた。周囲の正社員たちは「派遣さん」と彼女を呼び、特別な会話を交わすことはほとんどない。それでよかった。余計な人間関係は築かなくていい。いずれ必要になるときもあるかもしれないが、少なくとも今のこの場所ではない。 今はただ、人生に目的が生まれた。その目的のために淡々と日々のタスクをこなすだけだ。 就業間際、ギャルっぽい見た目の正社員の女性が、ふとキヨミに話しかけてきた。 「イチノセさん、良かったら今晩、食事にでも行かない? 先輩が奢ってくれるってヨ」 その傍らにいた男性の先輩社員は、ニヤニヤした笑みを浮かべている。営業チームでトップの売り上げを誇る社員だ。仕事はできるが、女癖は悪いと評判である。 キヨミは愛想よく笑みを浮かべながら、「いいえ、結構です。家に夕飯用意してますから」と軽く断った。二人の社員は、明らかに不満そうな表情だ。 「イチノセさんって、夜は何してンの? いつも定時で帰ってるッショ」と、なおも食い下がるように尋ねてくる女性社員。「もしかして……夜の仕事、だったり?」 キヨミは、だが堂々と答えた。「ええ、夜の仕事をしています」意外な答えに、社員の二人は驚いたような表情を浮かべたが、「小説を――官能小説を書いていますね」とキヨミは続けた。 「か、官能小説? へえ、意外……エッチなのとか興味あるンだ?」 と女性社員。キヨミは「まあ、大抵の方は誰だって興味あると思いますが……」と言いながら、「ただ私は、文学的で普遍的なエロスを求めていますから。一瞬の快楽のようなそれとは、今は距離を置いていますね」と、二人の下賤な社員を静かに、しかし明確に拒絶するような言葉を置いた。 スタスタとオフィスを後にするキヨミ。後に残された男性社員が、ボソッと女性社員に言う。 「俺らも、今夜は止めにするか……?」 「何スか先輩。派遣ちゃんと3Pしたいなんて言い出したの先輩ッショ? 交渉はしてやったんスから、その分は払ってもらうっスよ」 「はぁ? 成功報酬じゃないのかよ」 「何言ってん
キヨミはトモヨを、ゆっくりとカーペットの上に倒した。スカートをまくり上げ、ショーツに指をかけ、優しく脱がせる。トモヨの秘部はすでに湿り気を帯びていた。キヨミは指で優しく撫で、クリトリスを刺激する。「あっ……ん……キヨミ……」トモヨの声が甘く響く。キヨミは自分の服も脱ぎ捨て、トモヨの体に覆い被さった。二人は裸で抱き合い、互いの肌を擦り合わせる。キヨミの指がトモヨの膣内にゆっくりと沈み、優しく掻き回す。「はぁ……っ、あっ……」トモヨの腰が自然に動き、キヨミの指を迎え入れる。キヨミもトモヨの胸を揉みながら、唇を重ねた。二人の吐息が混ざり、部屋に甘い空気が満ちていく。しかし、それは激しい情事ではなかった。キヨミはトモヨを傷つけないよう、優しく、丁寧に触れ続けた。トモヨもキヨミの体を撫で、時折キスを返す。やがてトモヨの体がびくりと震え、小さな絶頂を迎えた。キヨミも彼女を抱きしめ、静かに体を重ねた。「あたしも、挿れていい……?」と、恍惚とした表情を浮かべながら言うトモヨ。頷くキヨミの秘部に、トモヨが恐る恐る指を挿れてくる。ぎこちない動き。だけど、ついさっきまではただの同級生だった者同士が「いけないこと」をしているような感覚で、キヨミも妙な興奮を覚えている。トモヨも、こんなことをするために家に呼んだのではないはずだ。料理を振舞って、キヨミが多少なりとも元気になれば、お開きになっていたかもしれない。何が起きているのか。偶然なのか、必然なのか。ただキヨミの膣内をかき回すトモヨの指は、徐々にキヨミの敏感なところを狙い始める。初めてのはずが、的確になっていく。「あっ……んっ……」キヨミがそんな吐息を漏らす度に、「キヨミがあたしで感じてくれてる……もっと気持ちよくなって」と、トモヨ自身も艶っぽい台詞を口にし始めた。「いく……トモヨ、私……っ」「いいよ……キヨミ、いって……あたしで、いって」トモヨのセリフ。あるいはそれは、何かが憑依しているようにも聞こえた。アズサなのか、それとも……ミチコか。「いく……いく、いくっ……あっ……!」ビクビクと、キヨミは体を震わせる。圧倒的な性の感覚と、生の実感が、キヨミの元に戻ってきた。生きている。生きているのだ、私は。「キヨミ……その顔、とても良いよ……ようやく戻ってきてくれたみたい。お帰り」そう
トモヨの胸に顔を埋めたまま、キヨミは長い間、動けなかった。 アズサの死という深い喪失が、まだ胸の奥で疼いている。トモヨはただ、キヨミの背中を優しく撫で続けていた。言葉はいらなかった。二人は抱き合ったまま、時間が止まったかのように静かに過ごした。 やがてトモヨが小さく息を吐いた。 「キヨミ……話したくなかったら何も言わなくて大丈夫だけど、何か辛いことがあったんだね」 トモヨの声は優しかった。キヨミは彼女の胸に顔を押しつけ、静かに息を吐いた。トモヨの心臓の音が、規則正しく聞こえる。その音に耳を澄ませていると、キヨミの体が自然と熱を帯びてきた。 “何も言わなくて大丈夫”――そう言われても、流石に黙ったままではいられない。むしろ伝えたかった。ちゃんと彼女に、今の自分の気持ちを知って欲しかった。 「実は、高校生の頃に交友のあった大事な人が入院することになって。ずっと病院にお見舞いに行ってたんだけど、その最期を看取ることになっちゃった」 「それって、フカミアズサ先輩でしょ」 トモヨの口からその名が出て、驚く。知っていたのか。 「キヨミ……侮らないでよ。あたしだって覚えてるよ。あたしから大切な親友を奪ったあの人のこと。あたしはすっごく苦手だった。正直、死んじゃえば良いのにって思ったこともある。だけど本当に死んでほしいわけはなかった」 やはりトモヨは恨んでいたのだ。だがその気持ちを分かち合うことも、今の二人にとっては必要な工程であることにも気づいた。 「ニュースになってたのも見てた。ただの同姓同名かとも思ったけど、やっぱり間違いないんだね。きっとキヨミも驚いてるとは思ったけど、そうか……最期を、看取ることができたんだね」 トモヨの言葉は温かかった。“看取ることができた”。そんなニュアンスで伝えられるなら、何だかとても尊いことのようにも思える。 キヨミが風俗で働き始めたりなんかしなければ。ユキとして彼女と再会しなければ、知らないうちに亡くなっていたということだってありえる。哀しい結末になりはしたが、再会できたことで、彼女の最期までの短い時間を共に過ごすことができた。 アズサにとってそれは、幸せな時間だったのではないか。東京に出て、男性からの酷い性暴力に遭い、愛する人の子も産めずに、彼が堕ちていく姿を見ながら、やがて彼自身
東京都・渋谷区 メッセンジャーでトモヨから送られてきた住所に向かう。渋谷の奥まった路地に立つ古びたアパート。築50年は経っていそうなレトロな建物で、外壁の塗装はところどころ剥がれ、鉄製の階段が錆びている。 時刻は夕方の5時。初冬の夕日はとうに落ち、辺りは徐々に夜の暗さと静けさに包まれ始めている。キヨミは指定された番号の部屋の前に立ち、息を整えて玄関のベルを押した。 「はーい」 中から明るい声が聞こえ、扉が開くと、エプロン姿で赤い縁の眼鏡をかけたトモヨが顔をのぞかせた。緩く結んだ短めの髪と、チェックのエプロンが可愛らしい。 「あ、キヨミ。早かったじゃん。いま夕飯作ってるところだったよ。入って入って」 一度目の再会で共に外食はしたが、二度目でいきなり部屋に呼ばれることになるとは思わなかった。キヨミは恐る恐る部屋の中に入る。 「狭いアパートでごめんね」 トモヨは笑いながら言ったが、1DKの間取りは女性一人で暮らすには十分な広さだった。リビングはシンプルで、中央には低くて白いテーブルと座布団が2つ置かれており、隅にある本棚には詩集や小説がぎっしり詰まっている。部屋は程よく暖房が効き、キッチンからは美味しそうな匂いが漂ってきた。 「今、煮込みハンバーグ作ってるの。サラダと味噌汁もつけて、簡単な和洋折衷だけど。キヨミ、お肉は食べれそう?」 座布団を勧めながらトモヨが言う 「うん、食欲はある。ありがとう」 キヨミはぼんやりと答えた。脱いだコートを膝に抱え、生気を失ったような顔でただ座っている。トモヨはそんなキヨミの顔を見、小さく息を吐いた。 「なんて顔してるの。ミチコが見たら哀しむよ」 「ミチコ……うん、そうかも」 交通事故で亡くなった親友。アズサとの交際の中で忘れていた存在だ。トモヨは少し寂しげに微笑む。 「……少しは、思い出してくれた?」 キヨミはうなずく。正直なところ、まだ少しだけ霞がかったような感じはあるが。 トモヨがキッチンに戻り、料理が出来上がるまでの間、キヨミは再び追憶に浸った。 盲腸で入院していたトモヨのお見舞いをきっかけに三人での交友が始まったこと。三人で行ったファミレスで、将来の夢について談義したこと。そしてミチコの葬儀の後、二人が交わした約束のこと。 約束――そう、何か約束をしたはずだ。それが何だったのか
キヨミの目が見開かれる。頭の中が真っ白になる。アズサはゆっくり顔を離し、キヨミの瞳をまっすぐ見つめた。その瞳は宝石のように輝いていた。 「私たち、恋人同士にならない?」映画のストーリー以上にわけのわからない展開に、キヨミは何も答えられない。ただ熱く残る唇の感触を、どう受け止めれば良いのかわからない。アズサは満足げに微笑むと、再びキヨミの肩を引き寄せ、もう一度、深く長いキスをする。アズサの舌が口の中に侵入し、キヨミの舌に絡んでくる。大人のキスだ。経験したことがないわけではない。ただ、その日初めて会話を交わした者同士でやってよい行為なのか。とっさにキヨミはアズサの体を押しのけた。唇が離
【2010年7月】静岡県・三島市 アズサは、キヨミの前に唐突に現れたわけではない。 むしろ一つ年上のその先輩の存在感は、キヨミが高校に入学したときから常にそこにあった、と言った方が正しいだろうか。 2009年、キヨミがこの市立高校に入学した年、アズサは生徒会長を務めていた。弁論大会では県大会を制し、全国大会でも優勝。さらにその年の秋、とある文芸雑誌の新人賞を高校生ながら獲得し、全国的にその名を轟かせた。 校内放送で名前が呼ばれるたび、廊下ですれ違うだけで後輩たちが息をひそめるほどの存在。学校内で彼女を知らない者はいない、と言えるほどの有名人だった。 そんなアズサが、キヨミに初めて声を
大丈夫、書くと言っても、まったくゼロから始めるわけではない。取材はすでに済ませてあり、ライターが書いた一次原稿も上がっている。キヨミの仕事は、それを「読んで気持ちよくなる記事」に整えることだ。他人の文章を直すのは、簡単だった。
【2019年1月】東京都・港区キヨミが自分自身を、おそろしく醜悪な存在であると認め始めたのはいつからだろう。まだ純な乙女であるべき中学時代、とある留学生の男子と情事を重ねてからか。その恋は彼の帰国と共に終わりを迎え、深い喪失を味わった。あるいはそれより前、無垢な童女でいた小学生のころ、友達だと思っていた女の子に、アパートの屋上から突き落とされたときからか。藪に落ちたおかげで、奇跡的に大怪我は免れた。原因そのものは、幼少期にありがちな些細な気持ちのズレだった。物事の始まりを思い返してみてもキリがないことは、キヨミ自身もわかっている。ある宗教でも“人間は生まれながらに罪な存在である”と言っ