LOGIN都子は胸を突かれたように息を呑み、血の気の引いた唇をきつく結んだ。星歌を食い殺さんばかりの目で睨みつけながらも、かつての記憶がフラッシュバックしていた。そうだ、思い出した。以前から、どれだけ星歌に嫌がらせをし、理不尽な要求を押し付けても、彼女は耐え忍んでいた。口汚く罵られても、黙って聞き流すだけだった。だが、いざ手を上げようとした時だけは、星歌はまるで別人のように豹変し、絶対にそれを許さなかったのだ。都子が長年、この嫁を心の底から忌み嫌っていた理由は、まさにそこにあった。一見すると大人しく従順に見えて、その実、心の奥底には決して飼い慣らせない、鋭い牙を隠し持った獣が棲んでいる。傲慢な都子にとって、自分に反抗する者など言語道断だった。ましてや、それが目下の嫁であればなおさらである。星歌は無造作に都子の手首を振り払うと、ふと視線を横にずらした。そこには、こちらへ向かってこようとしていた飛鳥の姿があった。先ほど都子が星歌に手を上げようとした瞬間、飛鳥は羽交い締めにしてくる使用人たちを蹴り飛ばし、彼女を庇おうと駆け出そうとしていたのだ。しかし、星歌が自ら都子の手首を掴み、あの冷酷な言葉を放ったのを見て、彼はその場でピタリと足を止めていた。星歌はふっと口角を上げ、声に出して冷笑した。「実の息子を引っぱたいた直後に、今度は嫁の顔を叩こうとするなんて。本当に恐ろしいお義母様ね」「……っ!黙りなさい!」都子は怒鳴り声を上げた。星歌は冷たい目のまま続けた。「この数年間、あなたは事あるごとに私に手を上げようとしたわ。でも、私が一度でもあなたに頬を打たせたことがあった?」「……」都子は絶句した。「……」飛鳥もまた、息を呑んだ。星歌の口にした『事あるごとに』という言葉が、飛鳥の胸をギリギリと締め付けた。彼は知らなかった。これまでに都子が、星歌をそこまで執拗に虐げていたことなど、今の今まで全く気づいていなかったのだ。俺が贈ったプレゼントを無理やり奪い取っていただけでも最大の屈辱だろうに、まさか言葉の暴力だけでなく、実際に手を上げようとまでしていたなんて。だから今回、彼女はあれほどまでに頑なに離婚を求めてきたのか……今、飛鳥は唐突に悟った。たとえ高峰啓介という存在がいなかったとしても、星歌は遅かれ早かれ、自
行き交う車の波を縫うように、マイバッハは猛スピードで暴走し、周囲からはクラクションと怒声がひっきりなしに浴びせられた。特に、川に架かる大きな大橋に差し掛かった時など、生きた心地がしなかった。何度かガードレールに擦りそうになり、星歌は「このまま川へ突っ込む気なのでは」と、心臓が口から飛び出しそうなほどの恐怖に襲われた。狂っている。彼は完全に正気を失っている。星歌の「何が何でも離婚する」という断固たる態度が、彼を完全に狂わせてしまったのだ。「いい加減にして!車を止めて!」星歌はこの時になってようやく悟った。彼は自分を騙したのだ。「離婚する」というのは、ただ彼女を隠れ家からおびき出すための罠に過ぎなかったのだと。「俺と別れて啓介とくっつくだと!?夢を見るな、絶対にそんなことはさせないからな!!」飛鳥は血走った目でヒステリックに怒鳴り散らした。彼が啓介の名前を口にするたび、星歌はあまりの理不尽さに呆れ返るしかなかった。「だから、高峰さんとは本当に何もないって言ってるでしょ!」「はっ、今さらどの口が言うんだ!昨夜の電話で俺に何て言ったか忘れたとは言わせないぞ!」「…………」そこを突かれると、星歌は完全に言葉を失った。「暴れ足りないか?言ってみろ、次はどこを燃やしたいんだ?俺が全部燃やしてやるよ!」今の飛鳥の目には、星歌のここ数日の異常な行動すべてが、「離婚を成立させるための嫌がらせ」として映っていた。「……じゃあ、冴島家の本邸を燃やして。あなた、燃やしてきてよ」「……何だと?」「私が暴れ回る手伝いをしてくれるんでしょ?夏蓮さんと陽子さんの息の根を止める度胸がないなら、せめて冴島家の本邸くらい全焼させてきなさいよ!」星歌も売り言葉に買い言葉で、怒りに任せて言い放った。あの冴島家の本邸もまた、彼女にとっては忌まわしい記憶しか残っていない、嫌悪の対象でしかなかったからだ。飛鳥は荒い息を吐きながら、ギラギラとした目で星歌を睨みつけた。「……ああ、わかったよ。燃やしてやる、俺が燃やしてやろうじゃねえか!」「ええ、行きなさいよ。今すぐ行きなさい!」車内での言い争いは、どちらも一歩も引かず、エスカレートしていく一方だった。飛鳥は怒りで全身の血が沸騰するようだった。彼は昔から、自分に歯向かい、
潜伏先の星墨山から区役所までは、少し距離があった。飛鳥が指定した「三十分」には間に合わず、星歌が到着するまでに五十分近くかかってしまった。車を降りると、少し離れた場所に停められたマイバッハに寄りかかる飛鳥の姿がすぐに目に入った。眩しい陽射しに照らされたその顔は、一睡もしていないせいか、ひどく青ざめて憔悴しきっている。姿を現した星歌を見て、飛鳥の胸中には笑い出したいような、怒り狂いたいような、ドロドロとした感情が渦巻いた。一体いつからだろうか。自分たちは「離婚」という餌をぶら下げなければ、顔を合わせることすらできない関係に成り果ててしまったのは。そして――彼女を送り届けてきた運転手の顔を見た瞬間、飛鳥の瞳に鋭い殺意が宿った。以前も星歌の傍で見かけた、あの屈強な外国人の男だ。やはり、啓介の野郎が裏で手配した人間だったか……あいつが星歌を匿っていたんだ!飛鳥の歪んだ思い込みは、限界まで膨れ上がっていた。星歌は小さなハンドバッグを手に、飛鳥の目の前まで歩み寄ると、氷のように冷たい声で言い放った。「行きましょう」その声音には、わずかな躊躇いも、未練の欠片すら滲んでいない。今の彼女にとって、彼との結婚生活など、ただ冷徹に清算すべき過去の汚点でしかなかった。飛鳥はギリッと奥歯を噛み締め、目を細めた。「……そんなに、俺と別れたいか?」星歌は沈黙したまま、無表情に彼を見つめ返した。言葉を発する気すら起きない。彼女にしてみれば、離婚に関して、今さら彼と議論することなど何一つ残っていないのだ。自分の意志がどれほど固いか、ここ数日の容赦ない行動で、すでに十分に思い知らせてきたはずなのだから。星歌が何も答えないのを見て、飛鳥の瞳にはさらに冷たい怒りが宿った。「……薄情な女だ。俺がこれまで、お前を大事にしてこなかったとでも言うのか?」「今さらそんなことを言って、何の意味があるの?」星歌の口調は淡々としていた。確かに、かつては優しかった。だが、結婚生活とはそれだけで成り立つものではない。彼と夏蓮の異常な距離感、そして冴島家全体との泥沼のようなしがらみ。彼一人が少しばかり優しくしてくれたからといって、すべてを「我慢」して彼に添い遂げることなどできるはずがなかった。人の心は自由なのだ。「耐え忍ぶ」ことだけで埋め尽
夏蓮も深く頷いた。「そうよ。本当に高峰さんと結婚したいなら、完璧にやり遂げるのよ!」星歌の反撃によって、状況は最悪のところまでかき回されていた。今や冴島家の全員、そして陽子でさえも、亜季が一刻も早く啓介と結婚することだけを唯一の希望として縋っているのだ。彼らの中では、『啓介が星歌のバックから手を引けば、自分たちが直面している危機はすべて解決する』という都合の良い方程式が出来上がっていた。ついに。都子の厳しい視線に射すくめられ、亜季は腹を括って頷いた。「分かったわ、やってやる!星歌のやつ、後で絶対に泣き見せてやるんだから」高峰さんの力を借りていい気になっているんでしょう?私が高峰さんの妻になった時、あんたが誰に泣きつくのか見物だわ!......飛鳥は昨晩から一睡もせず、血眼になって星歌の行方を捜し続けていた。だが、夜が明けても一向に見つかる気配はない。その上、最悪なタイミングで、夏蓮が星歌の企画案を盗作したというスキャンダルまで世間に暴露されてしまった。今や本港市のネット上やメディアは、夏蓮に対する苛烈なバッシングで溢れ返っている。飛鳥もようやくはっきりと理解した。今の星歌は、持てる力のすべてを振り絞って、自分たち一族を容赦なく潰しにかかっているのだと。そして、夫である自分に対する信頼など、もはや微塵も残っていないということも。「……まだ見つからないのか?」一真が書類を抱えて社長室に入ってくるなり、飛鳥は耐えきれずに問い詰めた。一真は重々しく首を横に振った。「申し訳ありません。いまだ手がかりは……」飛鳥はズキズキと痛む眉間を指で強く揉みほぐした。俺はあいつの夫だぞ……妻がひどく傷つき、身を隠してしまったというのに、自分は彼女の居場所すら突き止められないでいる。「啓介が持っているバイオ企業の方には?あそこにも現れた形跡はないのか?」「はい。そちらも確認しましたが、姿を見せていないようです」星歌が過去に足を運んだことのある場所には、一真の指示ですべて見張りを配置してある。少しでも動きがあれば、即座にこちらへ報告が入る手はずになっていた。にもかかわらず、現在に至るまで、かすかな情報一つすら上がってきていない。飛鳥の呼吸が荒く、重くなった。行方はおろか、電話すら着信拒否で繋
「はあ!?私が、あの女から男を誑かすテクニックを学べって!?」亜季はそれを聞いた途端、顔を真っ赤にして激怒した。「冗談じゃないわ!孤児院上がりで、男の気を引くためならどんな下品な手でも使うような女よ!?あんな底意地の悪い下劣なやり方、誰が真似なんかするもんですか!」星歌の真似をするなど、プライドが許さない。かつて星歌が飛鳥と結婚できたのは、彼女が飛鳥をあの手この手で丸め込み、完全に骨抜きにしたからだと、冴島家の人間は皆そう信じている。親族全員の猛反対を押し切ってまで、飛鳥に彼女を選ばせたのだ。その手腕が相当なものであることは事実だろう。「だとしても、私は絶対にお断りよ。あんな気持ち悪い媚び売りなんか、死んでもごめんだわ!」亜季は嫌悪感を丸出しにして吐き捨てた。「じゃあ、あなたは高峰さんと結婚したくないの?」都子が冷ややかな声で窘めた。今の冴島家にとって、啓介をこちら側へ引き込むことは一刻を争う最重要課題なのだ。啓介が星歌の後ろ盾として立ちはだかっている現状は、冴島家にとってあまりにも危険すぎる。「結婚したいわよ!でも、だからって星歌の真似しろなんて理不尽じゃない!」あのクソ女、本当にどこまで私たちをコケにすれば気が済むのよ……!一昨日は陽子おばさまの豪邸を燃やし、昨日は墨霞邸を丸焼けにして、今日は今日でネットの世論を扇動して夏蓮義姉さんを叩き潰そうとしている。次から次へと休む間もなく仕掛けてくるあの底知れぬ執念は、一体どこから湧いてくるというのか。その上、あんな女の男遊びの真似をしろだなんて、屈辱にもほどがある。飛鳥兄様とまだ離婚すらしていないくせに、裏で高峰さんとコソコソ繋がりやがって。今すぐ星歌を引きずり出して八つ裂きにしてやりたいのに、啓介の影に隠れて出てこないのが、亜季には何よりも腹立たしかった。「嫌だと言ってもやってもらうわよ。いいこと、今日から毎日、高峰さんの会社に手作りのお弁当を届けに行きなさい」都子が有無を言わさぬ口調で命じた。「お母様、いくらなんでも……!」亜季は悲鳴のような声を上げた。確かに啓介のことは好きだが、なぜ自分からそこまで惨めな安売りをしなければならないのか。名家の令嬢である自分には、とても受け入れがたい屈辱だった。「高峰さんの会社だけじゃないわ
「昨日、佐々木夫人が仲人として高峰の本家へ挨拶に行ったそうよ。名家同士の政略結婚となれば、話がまとまるのも早いはず」夏蓮は少しだけ声のトーンを上げて言った。双方の親族が合意にさえ至れば、亜季が高峰家に嫁ぐ日もそう遠くはない。「なら、亜季にもっと発破をかけなさい。高峰さんの女性を見る目は相当厳しいわよ」「ええ、分かってる。亜季も高峰さんのことが大好きみたいだから」惚れているのなら、他人がとやかく言わずとも、自分から必死で彼にすがりつくはずだ。「男っていうのはね、結局のところ従順で優しい女に弱いものよ。以前の星歌の大人しい振る舞いを思い出せばわかるでしょう。亜季に、どうやって高峰さんの機嫌を取るか、星歌のやり方をしっかり真似させなさい」陽子は悪知恵を授けるように言った。彼女自身も、亜季と啓介の縁談が成就することを心から願っていた。陽子から見れば、今の星歌のあの異常なまでの強気な態度は、すべて背後にいる啓介のおかげでしかない。だが、所詮は『人妻』なのだ。しかも、冴島家の嫁である。高峰家の長老たちが正気を失っていない限り、星歌のような札付きの女を身内に受け入れるわけがない。ただ……啓介という男は、飛鳥とは決定的に違う部分がある。飛鳥のように情に流されることがなく、徹底して冷酷なのだ。自分に逆らう者であれば、たとえそれが実の親族であろうと、決して容赦はしない――そんな危険すぎる一面を持っていた。「本当に、星歌のあの従順なやり方をしっかり真似させなさいよ」啓介という男の恐ろしさをよく知っているからこそ、陽子は重ねて夏蓮に念を押した。夏蓮は内心で舌打ちをした。どうして私たちが、あの星歌みたいな女の媚びへつらうやり方を学ばなきゃならないのよ。だが、今の状況では、亜季と啓介の縁談を無事に成立させることが最優先だ。あの女のやり方が下品だろうが何だろうが、背に腹は代えられない。「ええ、分かってるわ」短く答えると、夏蓮は陽子の病室を後にした。自分の病室へ戻るまでの道のり、夏蓮は誰にも顔を見られないように、ストールで顔をぐるぐると厳重に覆い隠していた。……クソッ、星歌のやつ!盗作問題なんて、もうずっと前のことじゃない。それを今になってまた掘り返してくるなんて、どこまで執念深いのよ。この数日、都子も星歌のネ
一方、同じ病院内にある陽子の病室。見舞いに駆けつけた夏蓮は、車椅子の上で震えていた。母が尋常ではない怪我を負ったと聞き、半狂乱になって連れてこさせたのだ。ベッドの上で身動き一つできず、包帯ぐるみの無惨な姿を晒す母親を目の当たりにして、夏蓮の瞳には業火のような憎悪が渦巻いていた。「星歌のクソ女……よくもこんな真似を!それに、どうして高峰啓介が突然あんな女に肩入れしてるのよ!?」母親を半死半生にしたのが啓介の部下だと聞き、夏蓮の顔は夜叉のように歪んだ。ぼろぼろと大粒の涙をこぼす娘を見て、陽子は厳しい眼光を放ち、すかさず怒鳴りつけた。「その涙を引っ込めなさい!」怒号を上げ
忘れ物を取りに戻った江里子は、病室に足を踏み入れた瞬間、目の前の異様な光景に息を呑んだ。咄嗟に星歌の元へ駆け寄ろうとしたが、飛鳥が放った冷徹な視線に射すくめられ、足が止まる。「星歌……!」江里子の声も届かないほど、病室は一触即発の熱気に包まれていた。飛鳥の髪は乱れ、眉間には怒りのあまり青筋が浮き出ている。「星歌!」彼が掴んでいる星歌の手首には、骨が砕けそうなほど強い力が込められていた。「離しなさいよ!」江里子の叫びを無視し、星歌は飛鳥の凍てついた瞳を真っ向から見据えた。「どうしたの?夏蓮さんのために私を殴りたいわけ?」その挑発的な一言に、飛鳥の手の力がさらに
ところが、その一歩を踏み出した直後、足元に重い衝撃が走った。視線を落とすと、そこには先ほどまで泣きじゃくっていた夏蓮が、車椅子から崩れ落ちるように床に倒れ伏していた。彼女は意識を失っている。「夏蓮様!……ああ、血が、血がこんなに……!」周囲の者たちが悲鳴を上げた。星歌へと向かおうとした飛鳥の足が、まるで見えない鉛を流し込まれたかのように、その場に縫い付けられる。駆けつけた医師たちによってストレッチャーに乗せられたとき、星歌の意識は、僅かに、澱のように浮き上がった。霞む視界の端に映ったのは、必死な形相で夏蓮を抱き上げる飛鳥の姿だった。――ああ、やっぱり。その光景を
心血を注ぎ、数ヶ月の夜を捧げた『龍稲峡』のデザイン。それが無惨に奪われていたことを思い出し、星歌の眼差しには、より深い嘲弄が混じり始めた。沈黙が二人の間を支配する。およそ三十秒ほど経っただろうか。飛鳥が、絞り出すような声で再び口を開いた。「……どういう意味だ?」「彼女を、何の罪で訴えるつもりだ」『裁判所』という言葉を聞いた瞬間、飛鳥の心臓が大きく跳ねた。星歌を見つめる彼の瞳からも、一切の温度が消え失せていた。「分からない?」星歌は蔑むように彼を見上げた。「飛鳥。龍稲峡のプロジェクトで私のデザインが落選したって知らせ……それを真っ先に私に伝えてくれたのは、あんただったわよ