LOGIN結婚して五年。橘川柚香(きっかわ ゆずか)は、まさか夫から、ほかの女性と夫を「共有する」ようなことを要求されるとは、夢にも思わなかった。 彼は言った。「彼女は俺にとって大事な人なんだ。彼女の存在を受け入れてほしい」 そしてさらに言葉を重ねた。「承知してくれたら、君はずっと俺の妻だ。誰にもその立場は奪わせない」 久瀬遥真(くぜ はるま)と出会ったのは、柚香が人生のどん底にいた頃だった。 彼はそんな彼女と結婚し、甘やかし、惜しみなく愛情を注いでくれた。 だから柚香はずっと、彼が誰よりも自分を愛してくれていると思っていた。 けれど今になって、ようやくわかった。 自分は、滑稽なほどの勘違いをしていただけだ。 …… 遥真は、自分がこれまで手塩にかけて育てた、か弱い小鳥のような妻が、自ら離婚を切り出すなんて思わなかった。だが、彼は止めようとはしなかった。それを一時の気まぐれだと受け流したのだ。外の世界で苦労すれば、どうせ自分のもとに戻ってくると信じていたのだ。 けれど柚香は、名前は柔らかい響きだが、心の芯は強く、頑なだった。 どれだけつらい思いをしても、決して振り返ることはなかった。 彼は思わず問いかけた。「一度くらい、素直になれないのか?」 その後。 柚香は、たしかに一度だけ「素直」になった。 けれどその一度を境に、彼女は遥真の世界から、跡形もなく消えてしまった。 それ以来、恐れというものを知らなかった遥真が、初めて「恐怖」という感情を覚えた。 …… そして時は流れた。 柚香は別の男の腕に手を絡め、遥真の前に姿を現した。 真っ赤な目で彼女を見つめながら、遥真はドアの後ろに彼女を追い詰めた。会いたくて、気が狂いそうだった。 「柚香……君って、ほんとに冷たい女だな」
View More柚香は彼の視線に気づいていたが、特に触れなかった。「じゃあ、書斎に行く?」「うん」二人は前後に並んで歩いていく。書斎に着くと、一緒にソファへ腰を下ろした。遥真は柚香と他愛のない話をしていた。特別な話をしていたわけではない。それでも、この静かで心地よい空気に包まれているだけで、遥真はこのところの疲れがすっと和らいでいくのを感じていた。柚香が自分にとってどれほど大切な存在か、彼自身が誰よりもよく分かっている。彼女と一緒にいるだけで、張り詰めていた心が自然とほどけていくのだ。彼女は、誰にも代えられない存在。すべてを差し出してでも手に入れたいと思える存在だ。「柚香」遥真がふいに彼女を呼んだ。柚香は顔を上げる。「ん?」遥真の黒い瞳に優しい想いが滲む。その視線の先には、彼女しかいなかった。「好きだよ」柚香は目を見開いた。まさか突然そんなことを言われるとは思っていなかった。さっきまでどうでもいい雑談をしていたじゃない。「京原市での暮らしと蒼海市での暮らし、どっちが好き?」遥真は彼女が戸惑う暇を与えないまま、告白した直後に話題を変えた。まるで今の一言が、ごく当たり前の日常会話だったかのように。「どっちも悪くないかな」柚香は何気なく答えた。知らない街を好きになる人なんてそう多くはない。けれど、そのことを遥真には知られたくなかった。京原市には、幼い頃から積み重ねてきた思い出が詰まっている。蒼海市には、今の暮らしと成長の日々がある。どちらの街も彼女にとって特別な意味を持っていたし、蒼海市での生活にもすっかり慣れていた。それでも、もし一生住む場所を選ぶなら、やっぱり京原市を選ぶだろう。コンコン。「社長、もう夜……」ノックの音とともに慎吾がドアを開けながら声をかけた。だが、部屋にいる遥真を見た瞬間、その続きはぴたりと止まる。感情の読めない視線が遥真へ向けられ、どこか問い詰めるような口調になった。「なんでここにいるんですか?」「私と話があって来たの」柚香が答える。「どんな話ですか」「それは……」そこまで言いかけたところで、柚香はふと違和感を覚えた。そして顔を上げると、すぐに考えを切り替えた。「私が社長なの?それとも慎吾が社長なの?」「もちろんお嬢様のほうです」
遥真の瞳がわずかに深くなる。この慎吾というボディーガード、どうも口を出しすぎている気がした。柚香の前でああいうことを言うだけならまだしも、子どもの前でまであんな調子とは。「もしかして、僕のパパ探しを手伝いたくないの?」陽翔は彼の感情の変化に気づき、わざとそう聞いた。「ライバルを片づける話なら聞いたことがあるが、自分でライバルを増やそうとする人間は見たことないな」遥真はゆったりした口調で言った。「父親探しは自分で解決してくれ。悪いが、この遥真おじさんには力になれそうにない」陽翔は大きな瞳で彼を見つめた。「じゃあ、もう一緒に寝ない」遥真「ん?」「僕、一人で寝る」遥真は布団をめくると、あっさり立ち上がった。「いいよ」「?」陽翔はぽかんとした。パパって、いつからこんなにあっさり引き下がるようになったんだろう。「あとでママに聞かれたら、君が俺をママの部屋へ行かせたってちゃんと言うんだぞ」遥真は体を起こしながら、落ち着いた口調で続けた。「勝手に決めたわけじゃないってな」陽翔はますます困惑する。「僕、いつママの部屋に行けなんて言ったの?」「ママは俺の部屋を用意してくれなかったからな。仕方なく君と一緒に寝ることになったんだ」遥真はずいぶん気の毒そうな顔をしながら、当然と言わんばかりに続けた。「でも君が嫌だって言うなら、ママに聞いてみるしかないだろ。俺を泊めてくれるかどうか」陽翔は一瞬で黙り込んだ。さっきの言葉で、年を取ったパパの繊細な心を傷つけてしまったのかと少し心配していた。だから慰めてあげようかとまで思っていたのに。結果は……「おやすみ」遥真はベッドから降りた。陽翔はベッドの上にちょこんと座ったまま、引き留めもしない。「どうぞ行ってね。慎吾おじさんなら絶対に外へ放り出すから」「その瞬間、君も一緒に連れて行く」遥真は服を整えながら、筋道立てて言った。「親子なんだからな。いいことも悪いことも分かち合うんだ」陽翔「……」どうしてこの人は、何を言っても必ず言い返してくるんだろう。遥真は彼の前まで来ると、頭をくしゃっと撫でた。「早く寝ろ。俺のことなんか考えるな」陽翔は忠告する。「ママはあなたのこと好きじゃないよ」遥真はうなずいた。「知ってる」「許可もなくママの部屋に行ったら迷惑行為だよ」
常和はわずかに眉をひそめた。生意気なことを言うものだ、と言い返しかけたが、この数年の遥真のやってきたことを思い出す。もし本気で黒崎家を潰しにかかれば、今の黒崎家ではまず太刀打ちできない。まして、その隙を狙っている神崎家までいるのだ。その夜、誰もがそれぞれに思うところを抱えていた。ただ一人、あちこちの人と遊び回っていた陽翔だけは終始ご機嫌だった。誕生日パーティーが終わろうとしていた頃、陽翔は突然柚香の前へ駆け寄り、服の袖を引っ張った。くりくりした大きな目をぱちぱちさせながら言う。「ママ!もう一つお誕生日のお願いしてもいい?」「もちろん」柚香は陽翔の願いなら、ほとんど何でも叶えてあげていた。「僕ね……」そう言いながら、陽翔は遥真の方をちらりと見る。ちょうどその瞬間、まん丸な瞳が遥真の視線とぶつかる。柚香もその視線を追った。父子の見つめ合いに気づいた彼女は、先に口を開く。「いいよ」すると陽翔はすぐ振り向いた。「まだ何も言ってないよ?」「陽翔の願いなら、ママは全部できる限り叶えてあげる」柚香には何となく彼の考えがわかっていた。このところ陽翔はあまり口にしなかったけれど、心のどこかで遥真を恋しがっているのは見ていてわかっていた。「もちろん、この願いもね」陽翔の目が三日月みたいに細くなり、嬉しそうに笑った。柚香にぎゅっと抱きつき、頬にちゅっとキスをする。「ありがとう、ママ!」柚香は優しく彼の頭を撫でた。十分後――陽翔は片手で柚香の手を、もう片方で遥真の手を握りながら、車に乗って家へ向かった。その後ろを歩いていた昭彦は、その光景がどうにも気に入らなかった。そして安江に向かって遥真の悪口を言い始める。「遥真のやつ、なかなか腹黒いな。まさか子どもを利用するなんて」安江はちらりと彼を見た。「少し邪魔した方がいいんじゃないか?」昭彦は、自分よりも遥真の方が復縁への進展が早いのが気に食わなかった。「このままじゃ、あいつの思惑通りになっちまうぞ」「そんなに陽翔に幸せになってほしくないの?」安江が言った。「え?」昭彦は首をかしげた。「いや、俺はただ、遥真がわざと策を弄して柚香を騙すんじゃないかって心配してるだけで……」「あなたは子育てをしたことがないからわからないのよ。子どもがパパとママを求めるのは
「本当にくるのか?」常和は、念を押すようにもう一度尋ねた。昭彦は以前の件で父にわだかまりを抱いていた。相手が高齢でなければ、話すことすらしたくなかったほどだ。「向こうにいる。自分で聞けばいい」常和は不満そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。あの頃は親子の仲があそこまでこじれていたのだ。今こうして多少なりとも関係が和らいでいるだけでも十分だ。「柚香のほうは?」「俺が話してみる」昭彦は少し考えた末、結局引き受けた。柚香は幼い頃から自分のそばで育ったわけではなく、神崎家とも深く関わっている。もともと両家の関係は決して良好とは言えない。将来、彼女が自分の株式を相続するとなれば、周囲が反対するのは目に見えていた。最終的に全員を納得させることはできるかもしれない。だが、そのために払う代償は決して小さくない。それならいっそ、一度の食事の席で遥真に睨みを利かせてもらったほうが早い。昭彦が向かったとき、柚香たちはちょうど真帆と凛音と一緒に陽翔を連れてゲームを終えたところだった。次のゲームが始まりそうになったその時、昭彦が歩み寄って声をかける。「柚香、少し話せるか?」「?」真帆が彼女に目配せした。「行っておいで。ここは私たちが見てるから」真帆は柚香よりずっと現実的だった。金持ちの父親がいるなら利用しない手はない。二十年以上、金も手もかけずに子どもだけ手に入れたのだから、少しくらい働いてもらわなければ割に合わない。柚香は昭彦について行った。穏やかで優しい表情のまま尋ねる。「何か用なの?」「来週の土曜の夜、黒崎家で家族の食事会がある。親族の年長者たちを紹介したいんだ」昭彦はあえて詳しくは言わなかった。「ただの食事会だ。家族として認めるかどうかは、君が決めればいい」柚香は反射的に行きたくないと思った。だが、承輝はすでに自分を狙っている。神崎家と黒崎家は、知らぬ間に利害や対立が絡み合い始めていた。そして自分自身も、見えない力に背中を押されるように、一歩ずつ前へ進まされている。「安心しろ。俺もいる」昭彦はさらに言った。「誰にも君を傷つけさせない」「来週の予定を確認してみる」柚香はすぐには返事をしなかった。しばらく会社の仕事は落ち着いているとはいえ、急な案件が入る可能性もある。「時間が空いていたら行くよ
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