森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します

森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します

By:  霧乃吟Ongoing
Language: Japanese
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朝比奈澪(あさひな みお)の結婚には、二つだけ秘密があった。 一つ目は、森宮家が彼女を嫁として認めていないこと。そして家族ぐるみで、森宮征司(もりみや せいじ)に黙っていたまま、結婚前に離婚協議書に署名させていたこと。 この結婚は最初から七年しか続かない運命だった。 二つ目は…… 澪が征司に黙って娘を産んだこと。 結婚して七年。征司は、自分に五歳の娘がいることさえ知らなかった。 七年もそばにいて、ひたむきに尽くしていれば、いつか征司も心を開いてくれるはずだと思っていた。 けれど、離婚まであと三か月に迫った頃、澪は思いもよらない事実を知ってしまう。 ーー征司がずっと忘れられない相手は、従弟の婚約者だ。 七年も尽くしてきた自分がたまらなく惨めで、馬鹿みたいだと思えた。 澪の心は、完全に冷え切った。 もう、二人の間に子供がいることを打ち明けるつもりはない。 離婚して、征司とはきっぱり縁を切り、娘と二人で生きていく。 彼は父親なんかじゃない。ただDNAを残しただけだ。 ところが、世間からただの専業主婦と見下されていた澪は、やがて表舞台へ返り咲き、史上最年少で医学賞を受賞した。 かつて彼女を冷たくあしらい続けた征司は、そこで初めて思い知った。 澪はとっくに離婚を決めていて、もう自分なんて必要としていなかった。 そして、娘の存在までもが世間に知られることになる。 いつも冷淡で、何にも執着しないはずの征司が、大勢の前で澪を追い詰め、歯を食いしばって言った。 「離婚だって?俺を捨てて子供だけ連れていくだと?澪、お前は俺を殺す気か?」 澪は娘の手を引いたまま、静かに笑った。 「森宮社長、言っとくけど、この子は穂積(ほづみ)の子よ。森宮家の子じゃない」

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Chapter 1

第1話

結婚して七年。

朝比奈澪(あさひな みお)は夫の森宮征司(もりみや せいじ)に知られずに、ひそかに娘を産み育ててきた。

娘の穂積玲衣(ほづみ れい)は今年五歳になるが、征司はその存在さえ知らない。父親になる機会を、澪が最初から与えなかったからだ。

夜勤の休憩に入ると、澪は隣のS県でひっそり育てている娘から届いたボイスメッセージを再生した。

「ねえママ、私、なんでパパに会ったことないの?私のパパって、もう死んじゃったの?」

まだ舌足らずな、甘えた声が流れてくる。

澪は一瞬、本気で考えた。生きてはいる。でも、父親としては死んだも同然だった。

最近、玲衣は少しずつ自分なりの考えを持つようになってきた。

小さな頭の中に、ひとつ悩みができたらしい。

自分は実の父親に一度も会ったことがない、ということ。

その疑問は、日ごとに大きくなっている。

そのせいで澪は、征司に打ち明けるべきかどうか、真剣に迷い始めている。

実は五歳になる娘がいるのだと。育児で一番手のかかる時期はもう過ぎている。今さら苦労もなく父親になれるなんて、ずいぶん都合のいい話ではないか。

玲衣とのトーク画面を閉じて、澪はふと日付を確かめた。

気づけば、征司との結婚生活はもう残り三か月ほどだ。

少し迷った末、澪は征司とのLINEを開いた。ほとんどやり取りのないトーク画面に、ゆっくりと文字を打ち込んだ。

【もし、私たちに子供がいたとしたら、あなたは……】

送信する前に、診察室のドアが慌ただしく開いた。

若い看護師が顔をのぞかせ、早口で澪を呼んだ。

「澪さん、急患です!妊娠初期の患者さんで、性行為のあと強い腹痛が出たそうです。かなり無理があったようで、黄体嚢胞が破裂する疑いがあります!」

澪はすぐにスマホの画面を消して、立ち上がると、眉を寄せたまま看護師の後について急ぎ足で外へ出た。

「もう、何を考えてるの。妊娠初期にそんな無茶をするなんて……少しは我慢できないの?」

看護師がカーテンを開けた瞬間、澪はそこで言葉を止めた。

ベッドに横たわっているのは、見覚えのある女だった。

二秒ほど遅れて、澪は驚きを隠せないまま相手の名を呼んだ。

「紗耶さん?」

白石紗耶(しらいし さや)は、征司の従弟の婚約者だ。

紗耶も澪を見た瞬間、ほんのわずかに動きを止めたが、返事はしなかった。

澪は反射的に彼女の状態を確認した。

紗耶の婚約者である征司の従弟は、五か月前に会社の帳簿をめぐる不正で懲役一年六か月の実刑判決を受け、今も服役中だ。

紗耶のお腹はまだ目立っておらず、見ただけでは妊娠しているとは分からない。仮に妊娠しているとしても、まだ初期のはずだ。

だとすれば、時期が合わない。

だが、今はそんなことを考えている場合ではない。澪は余計な詮索の念を胸の奥に押し込み、医療用手袋を手に取った。

「横になってください。診察しますから」

ところが紗耶は、急に身を起こした。澪が現れたことが不快でたまらない、という顔で言った。

「結構です。転院しますので」

若い看護師が困ったように澪を見る。

澪は静かに言った。

「転院するにしても、その前に状態だけは確認させてください。放っておくと危ないかもしれません」

紗耶は眉をひそめた。

澪の、どこか隙のない凛とした態度が気に入らない。

澪はそれ以上言い合わなかった。今は感情を挟んでいる場合ではない。

「少しお腹を見るだけですから」

そう告げて身をかがめ、紗耶の服の裾に手をかけた。

その瞬間、紗耶が冷たく唇を歪め、澪の手を払いのけた。

ぱん、と乾いた音が響いた。

思ったより強い力で払われ、手の甲に鋭い痛みが走った。

目を落とすと、そこはすでに赤くなっている。

澪が反応するより早く、紗耶は急に声色を変え、澪の背後へ甘えるように呼びかけた。

「征司……」

その名に、澪は手の痛みも忘れて振り向いた。

男は落ち着いた足取りで近づいてくる。

コートを腕にかけ、すらりとした長身がそこにいるだけで人目を引いた。品のある佇まいに、誰もが目を奪われてしまう。

征司は一瞬だけ澪と目を合わせた。けれど、すぐに何事もなかったように視線を外した。

彼は足を止めることもなく、冷ややかに目をそらして、赤の他人のように澪の横を通り過ぎ、ベッドの反対側へ回った。

低く澄んだ声には、わずかな心配がにじんでいる。

「具合は?」

澪はその場で息をのんだ。

紗耶の付き添いとして駆けつけてきたのが、よりにもよって征司だとは。

七年間、夫婦であることを周囲に伏せてきた、自分の夫だ。

征司の意識がすべて紗耶に向けられている。

それを見た瞬間、澪はふと思いついた。

彼は、さっき紗耶が自分の手を強く叩いたところを見ていたのだろうか。

征司に気遣われ、紗耶は固まったままの澪をちらりと見て、ほんの一瞬、勝ち誇ったような色をその目に浮かべた。

それから征司を見上げ、甘えるような声で言った。

「知ってるでしょ。お腹が痛くて、病院に来たの」

その一言で、周りの看護師は察してしまった。

つまり、例の「激しい性行為」の相手は、目の前の男だということだ。

征司は否定もせず、説明することもなかった。

澪はただその光景を見つめ、反応することすら忘れていた。

夫は目の前で、従弟の婚約者を当然のように気遣っている。

征司はもともと感情を表に出さない男だ。

けれど、二人の間に流れる空気がただならないことくらい、澪にも分かった。

まして紗耶が救急に運ばれた理由を、夫は知っている。

その事実に気づいた澪の体に悪寒が走った。

これまで澪は、征司はもともと誰に対しても淡泊な人なのだと思っていた。

愛し方を知らない人なのだと。

けれど、違う。

彼は人を愛することができないわけではない。ただ、その相手が自分ではないだけだ。

この局面とその相手があまりにも滑稽すぎて、彼女は思わず笑い出しそうになった。

例の「激しい性行為」の相手が誰なのか。そんなことは誰が見ても分かる。

澪がその場に立ち尽くしていると、征司がようやくこちらを見た。その冷ややかな一瞥に、澪ははっと我に返った。

手袋をはめ、診察しようとする手がかすかに震える。

さっき叩かれた手の痛みが、今になってじわじわと広がってきて、頭の中が真っ白になった。

ここまで来れば、答えはもう出ている。わざわざ確かめて、これ以上惨めになる必要などない。

征司が澪に何も言わないのを見て、紗耶はすべてを察したように、唇の端をわずかに上げた。

彼女は澪に聞かせるように、わざと甘えた声で言った。

「征司、私、転院したい。ちゃんと診てくれる病院に連れてって」

「分かった」

征司は迷わなかった。

紗耶が何を望んでも、彼は当然のように叶えるのだろう。

二人の間には、他人が入り込めないほどの親密さがある。

長年、目の前の男を深く愛してきた妻として、澪にそれが分からないはずがない。

その光景は見ているだけで、胸の奥が少しずつ裂けていくようだった。

紗耶の「もっとちゃんと診てくれる病院」という含みのある言い方に、澪はすぐ気づいた。

転院したいというのは、ただの口実だ。彼女が本当に言いたいのは、澪には診てもらいたくない、澪なんか信用できない、ということだった。

征司は慣れた様子で転院の手配を進め、その間も澪に声をかけることはなかった。まるで彼女がそこにいないかのように、最後まで一度も振り返らなかった。

二人が診察室を出て行ったあとも、澪はしばらく、その衝撃から抜け出せなかった。

一部始終を見ていた同僚たちは、すぐに熱のこもった噂話を始めた。

「うわ、最近の若者ってほんとすごいね」

若い看護師は目を輝かせている。

「でも、あの男、ずば抜けてかっこいいわ。あっちのほうも凄そうだよね!」

澪はうつむいたまま、どこか上の空で、手につけた医療用手袋をゆっくり外していく。

「そう」

看護師は澪の反応の薄さにも気づかず、ふいに声を落として聞いてきた。

「そういえば澪さんも、結婚してけっこう経ちますよね?お子さんはいないんですか?」

澪は手袋をゴミ箱に捨てた。

「うちの夫、EDで、治療を受けてるところなの」

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第1話
結婚して七年。朝比奈澪(あさひな みお)は夫の森宮征司(もりみや せいじ)に知られずに、ひそかに娘を産み育ててきた。娘の穂積玲衣(ほづみ れい)は今年五歳になるが、征司はその存在さえ知らない。父親になる機会を、澪が最初から与えなかったからだ。夜勤の休憩に入ると、澪は隣のS県でひっそり育てている娘から届いたボイスメッセージを再生した。「ねえママ、私、なんでパパに会ったことないの?私のパパって、もう死んじゃったの?」まだ舌足らずな、甘えた声が流れてくる。澪は一瞬、本気で考えた。生きてはいる。でも、父親としては死んだも同然だった。最近、玲衣は少しずつ自分なりの考えを持つようになってきた。小さな頭の中に、ひとつ悩みができたらしい。自分は実の父親に一度も会ったことがない、ということ。その疑問は、日ごとに大きくなっている。そのせいで澪は、征司に打ち明けるべきかどうか、真剣に迷い始めている。実は五歳になる娘がいるのだと。育児で一番手のかかる時期はもう過ぎている。今さら苦労もなく父親になれるなんて、ずいぶん都合のいい話ではないか。玲衣とのトーク画面を閉じて、澪はふと日付を確かめた。気づけば、征司との結婚生活はもう残り三か月ほどだ。少し迷った末、澪は征司とのLINEを開いた。ほとんどやり取りのないトーク画面に、ゆっくりと文字を打ち込んだ。【もし、私たちに子供がいたとしたら、あなたは……】送信する前に、診察室のドアが慌ただしく開いた。若い看護師が顔をのぞかせ、早口で澪を呼んだ。「澪さん、急患です!妊娠初期の患者さんで、性行為のあと強い腹痛が出たそうです。かなり無理があったようで、黄体嚢胞が破裂する疑いがあります!」澪はすぐにスマホの画面を消して、立ち上がると、眉を寄せたまま看護師の後について急ぎ足で外へ出た。「もう、何を考えてるの。妊娠初期にそんな無茶をするなんて……少しは我慢できないの?」看護師がカーテンを開けた瞬間、澪はそこで言葉を止めた。ベッドに横たわっているのは、見覚えのある女だった。二秒ほど遅れて、澪は驚きを隠せないまま相手の名を呼んだ。「紗耶さん?」白石紗耶(しらいし さや)は、征司の従弟の婚約者だ。紗耶も澪を見た瞬間、ほんのわずかに動きを止めたが、返事はしなかった。
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第2話
若い看護師ははっと口をつぐみ、気まずそうな顔をした。まさか澪が、夫の弱みをあんなに平然と口にするとは思わなかったのだ。けれど同時に、それは本当なのだろうとも思った。そうでなければ、結婚して七年も経つのに子供がいないなんて、どう考えてもおかしい。そのせいで、彼女の澪を見る目にはさらに同情が増した。澪は、本当の理由までは口にしなかった。征司は最初から澪との間に子供を持つつもりなどない。結婚した最初の夜、彼は氷のように冷めた声で、澪にこう告げた。「仕事が忙しい。子供のことまで考える余裕はないし、持つつもりもない。だから、期待するな。相談しようとしても無駄だ」あの頃の澪は、征司の言葉を疑わなかった。本当に仕事が忙しく、子供どころではないのだと思っていた。けれど今なら分かる。征司が子供を望まなかったのは、忙しかったからではない。子供ができれば、大切な女が傷つくかもしれない。彼はきっとそう考えているのだろう。ついさっきまで、征司に娘の存在を打ち明けようとしていた自分が馬鹿みたいだ。足音が再び近づいてきて、澪が顔を上げると、征司の底の知れない目と正面からぶつかった。征司は会計を済ませたばかりらしく、手には病院の書類を持っている。澪を見るその目は、赤の他人に向けるものよりも冷たい。さっきの「ED」という発言を、征司は聞いていたのだろうか。一瞬そんな考えがよぎったが、すぐにどうでもよくなった。彼にどう思われても、もう気にする理由がない。征司はすぐに視線を外し、何事もないように背を向けて去っていった。澪は驚かなかった。征司はいつもそうだ。澪に苛立っていることも、関心がないことも、彼女に向き合うつもりがないことも、隠そうともしない。喧嘩をしたいと思っても、そもそも喧嘩にすらならない。言いたくても言えなかった言葉だけが、毎日少しずつ彼女の胸の奥に溜まっていく。夫はいても、頼れる相手はいなく、心を預けられる場所もない。だからこそ澪は、あのとき娘を産むことを決めた。征司には何も知らせず、自分ひとりで育てると。澪は重い足取りで診察室へ戻ると、机の引き出しを開けた。奥には、二組の書類がひっそりと眠っている。征司と婚姻届を出す前に、森宮家の前会長が澪に二つの協議書を差し出した。一つは婚
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第3話
澪と征司の結婚生活は、最初からうまくいかなかった。征司はほとんど家に帰らなかった。夫婦の営みも、月に二度あれば多いほうで、普段の会話などなおさらない。結婚して一年が過ぎる頃、征司はA国の支社へ赴任することになった。森宮家の実権を少しずつ握るための重要な基盤となるものだそうだ。征司がA国へ出発する前の日の夜、接待で酔った彼は、初めてその晩だけ避妊しなかった。あの夜の征司は、まるで別人のようだった。彼はひどく酔っていて、相手が誰かも分からなかった。普段のように自分を律する余裕もない様子で、歯止めが利かないほど激しかった。征司が出国して二か月ほど経った頃、澪は自分が妊娠していることに気づいた。医師である澪は、自分の体の変化にすぐ気づいたが、それでも最初は信じられなかった。今思えば、あの頃の自分はまだあまりにも甘かった。子供ができない体質だと思い込んでいる彼に、この子の存在を知らせれば、少しは自分と向き合ってくれるかもしれないと思っていたのだ。だから澪は、まず征司の反応を確かめようと、すぐN市へ飛んだ。胸いっぱいの喜びと期待を抱えたまま征司の会社へ向かい、凍えるような風の中で二時間待った末、ようやく彼と顔を合わせた。征司は、突然現れた澪に明らかに驚いた。けれど、彼女を妻として周囲に紹介することはなく、ただ秘書に指示して、澪を滞在先へ送らせた。それでもその頃の澪は、まだ征司への思いだけで動いていた。彼が人前で澪を妻として扱おうとしないことにも、その冷たさにも気づかなかった。夜になって戻ってきた征司は、シャワーを浴びるなり澪に近づいた。長旅で疲れていないかなど、気遣う言葉は一つもなく、ただ当然のように身を寄せて、彼女の耳元に唇を落とした。けれど、その仕草に甘さはなく、義務のように淡々とした触れ方だった。まるで澪が、彼に抱かれたくてここまで来たとでも思っているかのようだ。澪は胸の奥に広がる違和感に耐えきれず、征司をそっと押し返した。澪は動揺を押し殺し、緊張でこわばる声で尋ねた。「もし、私に子供ができたら、私たち……少しは変われるかな」その一言で、征司は一気に興を失ったらしい。彼はあっさり澪から身を離すと、そのまま目を閉じた。同じベッドにいながら、二人の間には埋めようのない溝
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第4話
征司は紗耶のものをこの家へ運び込むことを許した。それは、森宮家の妻である澪がどれほど惨めに敗れたのかを、家中の者に見せつけるのと同じだ。離婚するつもりでいるとはいえ、澪はまだ征司の妻だった。征司がどれほど急いで紗耶を表に出したがっていようと、離婚も成立していないうちから、自分がここまで踏みにじられる筋合いはない。澪は作業員たちを静かに見渡し、運び込まれた家具を一つずつ指さして言った。「どれも高いものですよね。全部譲りますよ。中古で売っても、いい値段になると思いますから。お手数ですが、外へ運び出してください」作業員たちは、ただ雇われて来ただけの人間だ。そんなうまい話を聞かされて、断る理由などない。彼らは顔を見合わせると、すぐに笑顔でうなずいた。悠真は止める暇もなく、顔を真っ赤にして澪を指さした。「お前、何様だよ!これは母さんが紗耶さんに贈ったものなんだぞ!勝手に決めていいと思ってんのか?兄さんが絶対にお前を追い出すからな!」その一言で、澪はようやく分かった。紗耶の家具をこの家に運び込ませたのは征司だけではなく、彼の母・森宮香澄(もりみや かすみ)も最初から承知しているのだ。澪は悠真を見下ろし、はっきりと言った。「そう。じゃあ明日、あなたの学校に行って、みんなに話してあげるわ。悠真は、お兄さんと従兄の婚約者の女をくっつけるって。森宮家って、そういうことを平気で許す家なんだって。そんなに紗耶さんの味方をしたいなら、学校中に広めてあげる。……悠真は有名人になりたい?」澪の言葉は、十二、三歳の子どもに向けるには、あまりにも容赦がなかった。彼女はこれまで、悠真にこんな言い方をしたことが一度もなかった。いつもなだめ、機嫌を取り、子どもだからと許してきた。だからこそ悠真は、信じられないものを見るように目を見開いた。やがて顔をさらに赤くし、声を震わせて怒鳴った。「やっぱりお前、最低だ!そんなこと、できるわけないだろ!」澪は肩をすくめた。ほら、ちゃんと分かっているじゃない。子どもだから何も知らないわけではない。子どもの言うことだから許される、などということもない。刃が自分に向けられた途端、人はちゃんと痛みを覚える。子どもだから大目に見ろ、なんて誰が決めたのだろう。騒ぎを聞きつ
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第5話
そばにいる征司の友人、佐伯蓮(さえき れん)も笑いながら口を挟んだ。「ほんとだ。何、その顔。ずいぶん機嫌悪そうじゃん」彰人は席に着くと、向かいに座る紗耶をちらりと見た。紗耶はいつも通り落ち着いていて、彼らとの距離の取り方も心得ている。振る舞いにも隙がなく、人としても申し分ない。それなのに、澪は陰であんなふうに彼女を悪く言っているのだ。「さっき下で誰を見たと思う?澪だ」それを聞いても、征司の表情は少しも変わらなかった。冷ややかに整った顔に感情はなく、テーブルに置いた指先で、気のないように軽く卓を叩いている。妻である澪のことなど、まるで興味がないようだ。紗耶は彰人にお茶を注ぎ、静かに差し出した。「何かあったの?彼女のことで腹を立てても仕方ないわ。気にしないで」紗耶がこんなふうに澪をかばうような言い方をしたことで、彰人はますます二人の差を感じた。彼は椅子の背にもたれ、肩をすくめて冷たく笑った。「あいつが紗耶のことを何て言ったと思う?聞くに堪えないよ。女の嫉妬って、ここまで醜くなるのかと思った」彰人はさっき聞いた話をそのまま口にした。それまで澪の話題に興味を示していなかった征司の目が冷たく変わり、眉間にしわが寄った。「それ、澪が言ったのか」征司は彰人を見た。その声からは怒っているのかどうかさえ分からない。紗耶の表情もそこで少し曇った。「彰人さんが聞いたのなら、間違いないでしょう」彼女は唇を軽く引き結び、彰人の代わりにそう答えた。蓮がすぐに声を荒げた。「それって、紗耶に下劣な噂を立ててるってことだろ?澪も女のくせに最低だな。七年も一方的に尽くして愛されなかった腹いせに、紗耶を引きずり下ろそうとしてるのか?女の嫉妬って、本当に見苦しいな」少し考えたあと、蓮はすぐに言った。「何の落ち度もないのにそんなことを言われたなら、きっちり謝らせないとな」蓮がそう言うと、紗耶は一度深く息を吸い、問いかけるように黙って征司を見た。征司は何も言わず、ただスマホを手に取り、電話に出るために席を立った。関わるつもりはないが、止めるつもりもない。蓮と彰人は顔を見合わせた。それだけで、征司の態度は十分伝わった。征司が澪に少しも関心を向けていないことに、紗耶は目を伏せ、満足そうに唇の
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第6話
征司の表情にはっきりとした変化はない。ただ、澪を見る目だけが少し冷たくなった。彰人も蓮も、一瞬言葉を失った。今の澪の言い方は、さすがにきつすぎるのではないか。征司の気を引くために、今度は強く出ることにしたのか。しかも、公開で謝るって。それでは謝罪どころか、わざと紗耶を貶めるつもりとしか思えない。紗耶は顔をこわばらせ、まるで自分こそが傷つけられた被害者であるかのように唇を歪めた。「澪さん、もう気は済んだ?」紗耶のその言い方に、澪はむしろ感心した。よくもそんな顔で、自分が被害者だと言わんばかりに振る舞えるものだ。一度そう思い込んだ相手に対して、澪はもう説明も弁解もする気になれなかった。自分が悪くないことを証明するために、これ以上言葉を尽くす気にはなれない。この結婚は、もう終わる。今さら彼らに分かってもらおうとしても、余計に傷つくだけだ。澪はそれ以上何も言わず、その場を離れようとした。征司のそばを通り過ぎようとしたとき、冷めた視線が彼女を捉えた。征司は逃がす気がないように澪を見据え、唇を歪めた。「今度はそういう手か」澪は一瞬、何を言われたのか分からなかった。「何のこと?」征司は目を伏せるようにして、薄く笑った。「さっきまであれだけ強く出たのに、今度はどうして言い返さないんだ?」澪はようやく、征司の言いたいことを理解した。悔しさと怒りが、一気に込み上げてきて、目の奥が熱くなった。自分がどんな感情を見せても、征司にはすべて計算に見えるのだろう。取り乱しても、崩れ落ちそうになっても、絶望して身を引こうとしても、彼の目には全部、気を引くための手段にしか映らない。怒りで胸が張り裂けそうても、結局は「演技」と呼ばれるだけだ。この場には、紗耶をかばう人間ばかりで、自分の言葉に耳を傾ける者などいない。ここで言い争ったところで、自分がさらに傷つくだけだ。それに、征司はきっと、自分がまた駄々をこねているだけだと思っている。何を言っても、どう振る舞っても、彼が自分の言葉をまともに受け止めることはない。ならば、これ以上言葉を尽くす意味などない。澪は少しずつ落ち着きを取り戻した。争う気力も失せ、彼に合わせるように小さくうなずいた。「分かった。じゃあ、どうぞお幸せに。これで
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第7話
その笑い声は、澪の胸を鋭く刺した。紗耶は、千佳子に頬を打たれた自分の惨めな姿を見ていた。そして、征司が自分をかばおうとしなかったことまで、画面越しにはっきり見ていたはずだ。澪は自嘲気味に笑った。もう、征司に期待などしていない。それでも、自身の家庭を壊した不倫女にこんな惨めな姿を見られたことはどうしようもない屈辱だ。征司は冷ややかな目で千佳子を一瞥すると、紗耶に「あとでかける」と告げて通話を切った。それから、澪の赤くなった頬に一瞬だけ目をやった。しかし何かを言うことはなく、すぐに千佳子へ視線を移した。「叔母さん、どういうつもりですか」征司の声は低く、冷たかった。しかし、その冷たさは澪を思ってのものではない。澪も期待していなかった。彼が気にかけてくれないことなど、この七年で嫌というほど分かっている。だから今さら、彼に優しさを求めることもない。征司の視線を受け、千佳子は思わず肩を震わせた。澪はまだ、形式上は征司の妻だ。たとえ征司が彼女を大切にしていなくても、その妻に手を上げたとなれば話は別だ。そう考えた千佳子は、すぐに澪を指さした。「悪いのはこの人でしょう?征司さんが紗耶さんを病院へ連れていったことが、ネットに流れているのですよ。その病院は澪が勤めている病院じゃありませんか。誰がやったかなんて、考えるまでもないでしょう!その投稿には揉め事を煽るような生々しいことが、あれこれ書いてあったんですよ。紗耶さんがあなたの子を身ごもっているだとか、あなたたちが……」その先は、さすがに千佳子も口にできなかった。ただ怒りを抑えきれないまま澪を睨みつけた。紗耶はまだ千佳子の息子の婚約者という立場にある。婚約を正式に解消するかどうかも、まだ話し合いは済んでいない。しかし、そんな噂が広まれば、千佳子の面目は丸つぶれになる。この先、どれほど陰口を叩かれることか。そう思えば思うほど、千佳子は澪への憎しみを募らせていった。七年も征司の妻でいながら、夫の心ひとつつなぎ止められないうえに、ほかの女へ向いた夫を引き戻すこともできず、挙げ句の果てには、息子の縁談まで壊そうとしている。澪は内心、少し意外に思った。たしかに、公の場で紗耶に謝罪するとは言ったが、本当にそんなことをした覚えはない。とはい
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第8話
本を手に部屋を出たところで、澪はその光景を目にした。征司が、七年前に署名まで済ませた離婚協議書の入った封筒を見下ろしている。彼は今になってようやく、澪が残したものに気づいたらしい。離婚するにしても、澪のほうが聞き分けのいい妻みたいに何もかも用意して、彼がほんの少し時間を割いてくれるのを待つしかない。征司がその協議書に気づいた。それだけ確認できれば、澪にはもう十分だ。彼女はそれ以上何も言わず、寝室を出ていった。征司は黙って部屋を出ていく澪の後ろ姿を見送り、わずかに眉をひそめた。何か引っかかるものを覚えながら、封筒を手に取った。この家で、こんなものを彼の目につく場所に置く人間は、澪以外に考えられない。封筒に指をかけた瞬間、スマホがまた鳴った。画面に浮かんだ紗耶の名前を見た征司は、封筒から意識を引き剥がした。彼は封筒をもとの位置に戻すと、そのまま足早に部屋を出ていった。部屋に入ってきた房江が、開けられた形跡もなくドレッサーに置かれている封筒に気づき、征司に声をかけた。「旦那様、ご覧にならないのですか?奥様から、必ず確認するようにとお伝えするよう頼まれましたが」征司はスマホから目を離さなかった。紗耶の電話に出ようとしながら、低い声でそっけなく言った。「しまっておけ。彼女のことなら、あとでいい」ーー澪が車に乗り込もうとしたところで、背後から慌ただしい足音が近づいてきた。振り返ると、電話をしながらこちらへ来る征司の姿が見えた。彼はもう離婚協議書を確認したのだろう。納得できないところがあるかだけ確かめておこう、と彼女は思った。七年前に署名した時点では、それが離婚協議書だとは征司は知らなかった。もちろん協議書の内容など、当然何一つ把握していない。「離婚協議書、見た……」澪が言い終えるより早く、征司は彼女に目もくれず、そのまま車のほうへ向かった。「風邪なら無理しないで。今から行く」その声には、澪が一度も向けられたことのない優しさがある。誰に対しても冷たい征司が、あそこまで気遣う相手など、澪には一人しか思い当たらない。ベントレーはエンジンの音だけを残して、澪の目の前から走り去った。吹きつける冬の風に頬が冷えきって、澪はそこへそっと手を当てた。痛いのは風のせいだけではない。
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第9話
写真に写った手を見た瞬間、澪はそれが征司の手だと確信した。そのすぐそばには、女の華奢な手が見える。触れそうなほど近く、いかにも親密そうだ。写真の雰囲気からして、彼らは朝方まで同じ席で飲んでいたのだろう。澪は無意識に頬へ手をやった。昨日、自分が千佳子に頬を打たれたとき、征司はここまで大げさに動かなかった。それなのに紗耶が少し体調を崩しただけで、征司は夜中に飛んでまで、二千万円もする薬を買ってあげた。誰を大切に思うかは、一緒に過ごした時間の長さで決まるものではない。征司の澪に対する態度が、何よりの証拠だった。伊織は呆れ果てたように息を吐いた。「征司って、ちゃんと人を甘やかせるんだね。あの女とはもう、ほとんど……」澪は一度画面を見ただけで、すぐ自分のスープに視線を戻し、さらりと言った。「ゲスな不倫男と泥棒猫」彼女はまるで他人事のような顔で、とんでもなく容赦ない言葉を口にした。伊織は思わずむせかけ、驚いたように澪を見た。「澪、今度こそ本気なんだね?今度こそ、本当に腹くくった?」いつもの澪なら、どれほど腹が立ってもこんな言い方はしない。伊織にまで念を押されて、澪は一瞬言葉に詰まった。どうやら自分は、それほどまでに征司から離れられない女に見えていたらしい。「本気なの」それを聞いて、伊織はそれでようやく安心したらしく、ほっと息をつくと、澪の頬を軽くつまんだ。伊織が澪と出会ってから、もうすぐ十年になる。あの頃、澪が征司と結婚し、誰もが羨む森宮家の奥様になると聞いたとき、伊織は心から喜んだ。国内で最も話題になる名家の御曹司といえば、間違いなく征司だ。森宮家が後継者となる男。経営の表舞台に立つやいなや、医療、不動産、AI、エネルギーと幅広い分野で成果を上げた。新しく手がけた事業も投資案件も、外したことがないと言われている。そんな征司は、同世代の御曹司たちの中でも別格の存在として扱われている。外見だけ見ても、征司は目を引く男だ。整った顔立ちに、育ちのよさがにじむ立ち居振る舞い。性格は氷のように冷たいと知っていても、惹かれずにはいられない人間は少なくない。そんな男と、澪は若くして結婚した。あの頃の伊織は、澪はとんでもない幸運をつかんだのだと思っていた。けれど今思えば、まるで逆であ
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第10話
征司に振り回されている場合ではない。今考えるべきことは、自分の力で立ち、玲衣に少しでも不自由のない毎日を送らせることだ。ちょうどこの日、知之は近くで医療AIのトークイベントに出ていた。澪はついでに顔を出してみようと思い、近くまで来たところで、知之にメッセージを送った。しばらくすると、ビルの入口あたりが急に騒がしくなった。澪が騒ぎのほうへ目を向けると、ちょうど紗耶が大勢の人に囲まれてロビーから出てくるところだった。紗耶の周りには一斉に記者が集まり、入口前はすぐに人で埋まった。その光景だけ見れば、彼女こそ今日の主役のように見えた。紗耶は慣れた様子で微笑み、記者たちに向かって穏やかに声をかけた。「皆さん、あまり押さないでください。順番にお答えしますので」そばを行き交う人々の声が、嫌でも耳に入ってくる。「あの紗耶さん、かなりすごい人らしいよ。まだ二十七なのに、慢性疾患の治療薬開発に関わってるんだって。西洋医学にも漢方にも詳しいなんて、将来どこまで行くんだろうね」「テレビの取材も年明けまで埋まってるらしいよ。配信に出たときも、きれいだって結構バズってたし、ファンもけっこういるんだって」「しかもさ」一人が急に声を潜め、いかにも内緒話をするように続けた。「紗耶さん、森宮家の奥様らしいよ。相手が誰なのかまでは分からないけど、仕事も見た目も結婚相手も完璧なんて、本当の意味での人生勝ち組だよね?」その言葉に、周囲からまた感嘆の声が上がった。澪は思わず笑いたくなった。人の家庭を壊した女が、何も知らない人たちから羨望のまなざしを向けられている。なんとも皮肉なものだ。人だかりはどんどん膨らみ、澪も押し流されるように後ずさった。その拍子に誰かに押され、よろめいたところを、横から伸びてきた手に手首をつかまれた。顔を上げると、征司の深い目とぶつかった。いつもの冷ややかなその目が、真正面から澪を見下ろしている。つかまれた手首から、征司の体温がはっきりと伝わってきた。その感触に、澪は一瞬だけ動きを止めた。我に返るより早く、少し離れたところから紗耶の声がした。「征司?」澪は声のした方へ視線を向けた。紗耶は微笑んだまま、二人のほうを見ている。紗耶は澪を一瞥すると、すぐ征司に視線を戻し、余
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